土塊も襤褸も空へ昇り行く:北村虻曳

随想・定型短詩(短歌・俳句・川柳)・写真
2013/11/11開設

寡読録III 「サルなりに思い出すことなど」

2014-10-12 | 随想
B.M.Sapolsky著、大沢章子訳 「サルなりに思い出すことなど」
みすず書房 2014年5月発行 3400円+税 原題:A Primate's Memoir


著者サポルスキーは大学院生の時から一つのヒヒの群に近づき、ストレスが行動や疾病に及ぼす影響の研究を長期間行ってきた人物である。不器用なヒヒの母親が子供を樹上から取り落とした瞬間、彼とヒヒたちは一斉に固唾をのみ、見守り、無事を知ると同時に安堵のつぶやきを漏らす。脳神経系がそっくりだからヒトとヒヒの反応はシンクロしているのである。彼はそんなところに感銘を受ける。

「アブサロムはヒヒには珍しく愛想がよく、驚くほど多くの時間を、仲間に向かって眉を上げてみせたり、顔をしかめてみせることに費やしていた。・・・彼の挨拶は無視されるのがふつうだった。あるとき、なんとも思い切ったことに私に向かって顔をしかめてみせた。こちらも同じようにして返すと私がヒヒ流の挨拶に精通していることを知ったアブサロムは明らかに驚いていた。彼がもう一度顔をしかめたので、わたしもお返しをし、それからはほぼ毎日、異種間の儀礼的なやりとりが行われるようになった。」

吹き矢で睡眠薬を打ち込んでヒヒを眠らせ、採血して血圧、コレステロール、ストレスホルモンなどを分析し精神との関係を探るのが彼の主な研究業務である。
と言ってもヒヒはむろん生易しい動物ではない。しょっちゅう争いを起こし、ヒトから見れば並外れた筋力と牙と反射神経で互いに深手を与え合っている。しばしば致命傷となる。私はニホンザルでさえ、目にも留まらぬ早業で爪を振るい、友人の耳たぶを貫通する穴を開けるのを見たことがある。

彼の採血技術は思わぬところで役立ったこともある。友達のハイエナ研究者が、意地の悪いマサイの男から牛の大軍とともに始終キャンプ地に入り込むという嫌がらせを受けたことがある。二人はマサイの子供の前でヒヒの血を飲むふりをして、「美味い。ヒトの血と同じだ」という芝居をうった。牛の生の血を常食とするマサイの風習の上手を行ったのである。子どもたちが後退りして逃げ帰った。マサイの村に二人に対する警戒のうわさが広まって、恐れでキャンプ地への侵入は行われなくなった。

とんでもない狼藉を働き非常に危険な象がテントのまわりにやって来たとき、彼の腹に猛烈な便意が起こる。「気づいたときにはわたしはテントの前で素っ裸になり酸っぱい臭いのする液状の便を排出していたが、何よりも屈辱的だったのは、六頭のゾウが、静かに、いぶかわしく、礼儀正しく、ひそひそとつぶやきながら、気遣うようにと言ってもいい様子でまわりを取り囲み、鼻をブラブラさせながら、わたしの一挙手一投足を、苦しげにうめく様子を見守っていることだった。」

動物の個体に名前をつけて群を観察する方法は今西錦司をリーダーとする動物社会観察グループが考案したと聞くが、サポルスキーは命名に旧約聖書に現れる名前を活用している。偉い人の名を気軽に呼ぶのだ。彼自身はユダヤ社会出身であるが無神論者である。
名前の付けられたヒヒの村のドラマを読むうちに、一人ひとりが同僚、友人、家族の誰かを想起させる。粗暴、陰険、無欲、引きこもり風、平和主義者、男気を見せるやつなど、多種のつよい個性を見出している。いろいろなエピソードがすべて痛快な諧謔を通して語られる。

彼の観察眼は近隣の国で出会うアフリカ人やヨーロッパ・オリジンの人間に対しても変わるところがない。彼の熱くて辛辣な観察は、現代のアフリカのきびしい民族・宗教対立、観光化による破壊などの実相を衝いている。また西欧諸国の露骨な植民地支配は終わったが、今も形を変えた搾取が行われている、善意に発することさえ結果としてそうなることがある、と言う。彼はヒヒに対するのと同様に、怒ったり歯がゆく思ったりしている。

研究対象のヒヒに対する感情移入は深まるが、私は彼がどこで線を引くかに興味を覚えた。病死したヒヒの死体の解剖を楽しむ一方で、やはり、瀕死のメスのヒヒの涙を拭いてやり、超老人の物静かなヒヒとは並んで座って雲を眺めていたりするのだ。
諧謔冒険譚ながら、苦くペーソスさえも漂う報告としてとても面白い。


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1 コメント

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もう一つの書評 ()
2014-10-24 21:45:06
書いたあとで気がついたのですが、この本については、多くの書評があります。原著者の専門に近いと思われる進化心理学関係のブログなど。
http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20140728
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