妄想日記

妄想・考察・スロット

フィギュアに陶然

2007年03月29日 | コラム

 先日開催された世界フィギュアスケート選手権大会、ご覧になっただろうか。
 
 ミキティこと安藤美姫がショートプログラム2位から逆転優勝し、日本人として4人目のゴールドメダリストとなった。
 また、
 ショートプログラム5位から順位を上げた浅田真央が、銀メダルを獲得している。
 
 以下、雑感。
 
 
 
■番宣に唖然
 
 世界フィギュア開幕の何週間も前から、とにかく視聴者の興味を煽ろうと躍起になっていたフジTV。
 すぽるとの中に「すぽると・オン・アイス」と題したコーナーを設け、荒川静香を起用。今大会の見所などを、オリンピック金メダリストならではの語り口(棒読み)で紹介させていた。
 
 …が、これはまだ序の口。
 
 いよいよ開幕の段になると、スポーツとは関係のない番組である「ジャポニカロゴス」や、「ベストハウス」にまでフィギュア関連のネタを盛り込んできたのである。(ちなみにジャポニカロゴスは、出場選手の国名を漢字表記して読み方を答えさせるという内容、ベストハウスは、荒川が選ぶフィギュア名演技ベスト3という内容だった)
 もちろん目にしていない番組もあるだろうから、どこでどんな番宣が行われていたものやら、分かったものではない。(食わず嫌い王選手権やビストロスマップ、はねとびのおしゃれ魔女あたりに荒川が出ていたとしても、なんら不思議はない。へたしたら、ごきげんようでサイコロトークとかもやったんじゃないのか、静香のやつ。「リンクの上は滑っても、トークは滑っちゃだめですよ~」などと小堺が口を滑らせるけだるい午後の光景が、見てきたかのようにまぶたに浮かぶ)
 
 
 
 
 
■ネスレに呆然
 
 真央の愛犬の名前が、ネスレの販売する菓子「エアロ」に由来しているというのは有名な話だ。
 これに、この機を逃すものか~とばかり食らいついたネスレ。
 CMに真央を起用し、彼女自身の口からエアロの命名理由を語らせたばかりか、愛犬エアロのぬいぐるみまで製造する始末…。
 
 ま、
 フジ的には、労せずしてネスレというスポンサーを獲得できたわけで、願ったり叶ったりだったろう。
 
 しかし、番組提供のナレーションで、わざわざ「浅田真央選手を応援するネスレ・エアロ」とまで言わせるのはどうか。
 
 この、「棚から落ちてきたボタモチを、誰かにとられる前に急いで食ってしまおうとノドにつまらせながら口に押し込んでいる感」、どこかで…と思ったら、マンガ「YAWARA!」で、主人公・柔が就職した鶴亀トラベルの舞い上がりっぷりとそっくり。
 
 キムを逆転して真央がトップに立ったときの、ネスレ社長のはしゃぎよう、
 そして、喜びもつかの間、ライバル会社ロッテのCMに出演したミキティが優勝をかっさらっていったときの、ネスレ社長の憤怒の表情…などが、容易に想像できてしまう。(もっとも、想像している顔は鶴亀トラベル社長の顔なわけだが)
 
 
 
 
 
■真央びいきに愕然
 
 確かに、優勝する可能性が最も高いと思われていた日本人選手が真央だったのは事実だ。フジがその路線で盛り上げたかった気持ちも分かる。
 
 しかし、その路線があまりにも定着してしまったため、フジ及び視聴者は、「ミキティ・金、真央・銀」という結果を、諸手をあげて喜べなかったのではないか。
 ミキティ優勝が決まってからしばらく、そんな微妙な祝賀ムードが漂ったように思う。
「感動をありがとう!」と涙する側としても、ショートプログラム2位からの逆転(ミキティ)よりも、5位から逆転(真央)のほうが、より感動できたんだろうし。
 
 その、「5位から大逆転というせっかく整った感動のお膳立てを、台無しにされた感」が、ミキティが優勝を決めたあの瞬間には確実に存在した。
 
 それもこれも、真央優勝を煽りすぎたフジの責任だ。
 
 なにしろ、
 フジが中野につけたキャッチフレーズは「シンデレラガール」。(未だに、おととしのNHK杯優勝の話題…)
 ミキティはといえば、ひたすら、トリノでの惨敗&全日本での脱臼を乗り越えて…という、お涙頂戴的な部分ばかりクローズアップ。4回転という武器があり、練習での成功も伝えながら、優勝できるかどうかに関しては可能性として言及する程度で、ろくにとりあわなかったのである。
 
 その一方で、真央につけたキャッチコピーは、「真・女王伝説」!!
 
 まさか荒川のことを「偽・女王伝説」とか「暫定・女王伝説」とか言いたかったわけでもなかろうが(真央の「真」と掛けたかっただけだろう)、それにしてもすごいキャッチである。
 まだ一度も女王になっていないうちから、伝説となることを宿命づけられた真央。
 宿命づけたのはフジTV。なんの権限があってのことか。
 
 さらに、女子フリーに際しては、フジは井上真央とかいうタレント?(誰?)を応援と称して呼んでいた。
 どこの馬の骨か知らないが、名前が同じというだけで呼んでこられてもなあ。(どうせなら元祖ミキティの藤本美貴も呼んでやれよ、ヒマにしてんだろうし…)
 
 しかもこの井上真央。
 浅田の演技が終わり、次はミキティの演技…というとき、「何かひとこと」と言われ、
 
「浅田選手が素晴らしい演技をしたので、安藤選手にも頑張ってもらいたいです」
 
 くらいのことしか言えない有様。
 そんなコメント、誰だって言えるだろ。
 
 いっそ、
 
「私は名前つながりで浅田選手を応援してるんで、安藤とかいう人には全然興味ありません。むしろ4回転失敗して、脱臼とか人間関係とかを悪化させたうえで、元祖ミキティと同じく表舞台から消え去ったらいいとすら思います」
 
 とか言えば、呼ばれた意味もあったろうに。
 
 
 
 
 
■ミキティの衣装に騒然
 
 そのミキティ。
 フリーの衣装は、なんと70万円もするシロモノだったらしい。
 しかも、フィギュアの衣装としては世界初?となるTバック仕様…
 
 なぜそこまで!?
 …と思ったのだが、
 おそらく、
 嫌がらせのように繰り返し放映されるトリノでの転倒シーン、そしてそのとき着ていたワダエミ作の悪趣味な衣装(世界中から酷評…)のイメージを払拭するためには、これくらいやらねばならなかったのだろう。
 
 しかし、いくらカネをかけたTバックとはいえ、ワインレッドは地味すぎでは?
 国民の脳裏にはまだ、トリノのヤバ系衣装&メイクのイメージがこびりついているはずだ。
 
 もはやワダエミの呪いを解くためには、DJ・OZMAから裸ボディスーツを借りるしかないのかも。(それはそれで強力な呪いだが…)
 
 
 
 
 
■実況に慄然
 
 スポーツ選手に対し、やたらキャッチコピーをつけたがるフジ。
 フィギュアの実況アナも、各選手の演技開始にかぶせるように何らかのフレーズを挿入していた。(歌謡番組で、司会者が次の歌を紹介するような感じ)
 
 例えば、真央の場合はコレ↓
 
「行こう、逆襲のチャルダッシュ!」
 
 このフレーズ、意外と評判がいいらしい。
 その原因はおそらく、「逆襲」と「チャルダッシュ」が韻を踏んでいることや、「ダッシュ」というのがなんかスピード感があっていいとか、実のところなんだかよく分からないチャルダッシュというカッコイイ名前のものが、とにかく逆襲するらしいというワクワク感によるものだろう。
 
 しかし、いくら評判が良くても、聞けば聞くほど不快。
 なぜお前に、「行こう」などと促されねばならないのか。貴様の立ち位置はどこなんだ。「行ってください」だろ。すんごい不快。
 
 しかし今大会でもっとも気に障ったフレーズは、これではない。
 前・世界女王、キミー・マイズナーが演技に入るときのものだ。

 これ↓

「キミの本当の名は、キンバリー・マイズナー……」

 …は?

 なにそれ。

 「キミ」と「キミー」を掛けて、何か上手いことを言ったつもりなんだろうか。
 でも結局言っていることは、キャッチフレーズでもなければ、「逆襲の~」のように見所を端的に説明したものでも、応援するものでもない。
 「キミー」っていうのは愛称なんだよ~という、演技には関係のない豆知識。言ってみれば、メジャーリーグで、「さあ、ここで一発打って欲しい。イチロー、君のフルネームは鈴木一朗、しかし次男だー!」と実況するようなものである。だからどうしたという話だ。
 
 それをなぜわざわざもったいつけるように演技にかぶせ、しかも、あんなキザな言い回しで、余韻まで残して言わなければならなかったのか…。
 考えに考えて決めたフレーズだと思われるだけに、ほんと不快。
 
 もしこれが柔道の実況で、「YAWARAちゃん、君の本当の種族は、人間……」とでも言ったのなら、味わい深い実況にもなったのだろうが。
 
 
 
 
 
■伊藤みどりは依然…
 
 ネコの手も借りて…というか、フィギュアに無関係なタレントや番組までもが駆り出され、フジが必死になって盛り上げようとするなか、やはり…というべきか、今大会においても、伊藤みどりの姿を見ることはなかった。
 
 唯一その姿を見ることができたのは、前述のベストハウスにおいてである。
 …といっても、VTRだが。(荒川が挙げた名演技ベスト3の第三位として、アルベールビルのみどりが選ばれていた)
 
 なぜ、伊藤みどりはここぞという晴れ舞台でテレビに出してもらえないのだろう。
 
 確かに、気の利いたコメントはできないかもしれない。
 
 しかし、
 
 日本人初の世界女王として、
 あるいは、
 浅田真央以前のトリプルアクセル第一人者として、
 あるいは、
 ミキティ以前のヤバ系メイク第一人者として、
 あるいは、
 渡邊絵美以降の激太り→ダイエット→リバウンドの第一人者として、いくらでも取り上げ方はあるはず。
 なのに、どうして…。
 
 ここで思い出されるのは、今年の正月特番として放送された「ニューイヤーフィギュア2007ジャパン スーパーチャレンジ」である。
 
 一応は競技会だが、世界選手権の代表選考に絡むようなものではなく、フィギュア人気にあやかろうとしたフジが企画した、多分にショー的な要素の強い競技会だった。
 
 そして、その審査委員を務めたのが、みどりだったのだ。
 
 年末の全日本選手権では、出番を与えてもらえなかったみどり。久々の出番である。
 正月特番というぬるい空気の中でなら、みどりのはしゃぎようも大目に見てもらえるかも…というフジの慈悲あふれる計らいだったのだろうか。
 まあ、扱い的には、正月にしか目にすることのないスキマ芸人と一緒なのだが。
 
 しかし、それでもみどりは頑張るしかなかった。
 何しろ、非公式大会とはいえ、まがりなりにもフィギュアスケート競技会の審査委員という地位を与えられたのである。
 しかも独自の採点方法とくれば、みどりにとっても好都合。なにしろ、新採点方式などみどりは知らないのだから(たぶん)。ここで元女王ならではの着眼によるジャッジを披露できれば、スケート界における存在感も増そうというものである。
 
 …しかし、そのみどり。
 久々に得たポストが現役選手の審査委員という栄えあるポジションだったためか、案の定、大はしゃぎ…。
 しまいには、
 番組終了時にコメントを求められ、
 
「最初はちゃんと点数をつけてたんですけどー、最後のほうはもう(興奮しちゃって)なにがなんだか分からなくなっちゃいました~」
 
 などと言いだす始末…。

 フジの意向で真央の優勝が既定路線であったとはいえ、せめてもうちょっと審査委員としての格好をつけられなかったものか。
 興奮してはしゃぐだけなら、TOKIOや井上真央にだって務まるのだ。
 
 …ということを思い返してみるにつけ、今回の世界フィギュアにみどりの姿がなくても、そりゃまあそうだわな…という気になってしまった。残念だが。
 
 果たして今後、みどりの晴れ姿をみることはできるだろうか。
 
 そして今、彼女の収入源がいったい何なのか(というか、あるのか)…気になってしょうがないのである。
 
 
 
※そういえば昔、オレはわざわざ横浜まで出かけ、みどりのアイスショーを見たのだった。そのときみどりのテレフォンカードを買い(みどりの収入に貢献!)、しばらく大事に持っていたわけだが…しかし、それが今どこにいってしまったものやら、さっぱり分からない。
 というか、今さらテレフォンカードが出てきたところで使い道もない…という状況は、みどりの現在を暗示するかのようである。





   (おわり)



小説 「春とカレー」

2007年03月22日 | シナリオ系
 


小説 「春とカレー」





 この部屋に、カネ目のものなんてほとんどない。
 そこそこ高価なものといえば、昼間に佳孝が買ってきて鴨居にぶらさげていたスーツくらいなもので、それはいま、オレが七へん催促してようやく、うやうやしげに主に袖を通されているところだ。

「どうかな」

 鏡に向かい、嬉しげに何度もネクタイを結び直す佳孝へ「全っ然似合わねぇよ」と応えたオレの笑い声は、ちょっとわざとらしかっただろうか。
 実際、一日がかりで選んだというだけあってそのスーツはよく似合っていたし、そもそも、もうずいぶん前から腰回りがヤバイと言われ続けているオレとは違い、佳孝の体つきは最近のタイトなスーツと相性がいいのだ。

「もう脱げよ。飯にしようぜ」

「浩ちゃんが着ろって言ったくせに」

 テレビのほうに向き直りながらも、オレの目は、窓ガラスに映る佳孝がネクタイをゆるめる姿を追っていた。

「なあ」

「なに」

「こっち来いよ」

「なんで」

「いいから」

「待ってよ、いま着替えるから」

「いいって」

 腰を上げるまでもなく、ちょっと体をひねりさえすれば、すぐ後ろには鏡に向かう佳孝のスネがある。六畳一間にごちゃごちゃと物が置かれたこの部屋では、たいていのものは手を伸ばせば届くところにあった。

「な、なに」

 強引にオレの膝の上に引き倒された佳孝は、ゆるめかけたネクタイをほどいてしまうべきか締め直すべきか迷うように手の動きを止め、オレは、佳孝の両脇から腹に回した手を、その手に重ねた。

「ご飯、作んないと」

「いいよ。まだ」

 佳孝の背中に鼻っつらを押し当てると、真新しいスーツの匂いがする。

「放してよー」

 甘えるように嫌がる佳孝の手からネクタイを奪い去り、そのままシャツの中に滑り込ませようとしたオレの手は、とたんに佳孝の手に押しとどめられた。

「なんだよ」

「スーツ脱いでから」

「なんで」

「シワになるし」

「いいじゃん」

 そのままぐるりと体を反転させ、仰向けに押し倒すと、あっけないほど簡単に佳孝の抵抗は終わった。下から伸びてきた両腕が、オレの頭を引き寄せる。

「シワになるよ?」

 逆に言ってやると、佳孝は仰向けのまま器用にオレのシャツを脱がせながら、「しょうがないよ」と笑った。





 佳孝の部屋に寄るのは、たいてい仕事帰りだ。
 だから、くたびれてヨレヨレのスーツを着たオレの姿は、この部屋の風景にすっかり馴染んでしまっていることだろう。
 しかし今夜は、いつもは安っぽいパーカーを羽織っている佳孝が、真新しいスーツに身を包んでいる…それだけのことなのに、不思議といつもとは違う空気が部屋に満ちているのだった。
 その空気に混じるものは、見知らぬ男と肌を重ねる背徳感にも似ていたし、あるいは、買ったばかりのスーツにシワを作る愚行感みたいなものだったかもしれない。それとも、この先どれだけプレミアがつくか分からないワインを、出荷する前に味見するような贅沢感だったろうか。
 そしてそういったささやかな、しかしぞくぞくするような罪悪感をはらんだ空気は、いつも以上にオレを興奮させ、理由は少しばかり異なっていたかもしれないが、佳孝をも興奮させたのに違いなかった。
 



   ***

 


「あと十日かあ」

 途中まで見ていたテレビ番組のエンディングとタイミングを合わせたかのように事が済み、しばらくすると、佳孝が用意した夕飯はカレーだった。
 昨日もおとといも同じ激辛カレーで、いったい今まで、オレたちは何度この部屋でこうして汗を拭きながらカレーを食べたろうか…と考えても、ちょっと見当がつかない。

「二年なんて、あっという間だったな」

「そうだね」

 あっという間に二杯目に取りかかっている佳孝にとって、この二年間はどんな重さを持っているのだろう…。たぶんその答えは、佳孝自身にも、今ここで出せるものではないのだと思う。

「どうせ付き合うなら、もっと早く出会っときゃよかったよ」

「二年が四年でも、やっぱりあっという間だったって言ってるね、絶対」

「そりゃそうだけどさ」

「おかわりは?」

「いる」

 腹は一杯だったが、食べなければもったいないような気がした。昨日もおとといも食べた、いつもと同じカレーなのだが。
 ただ、同じではあったが、こないだまであんなにゴロゴロ入っていた具はいつの間にか溶けてしまって、見当たらない。そしてその分、コクが増しているように感じる。





「こっちで就職すればよかったのに」

 辛さで口が麻痺していたせいかもしれない。ずっと言わずにいて、言うつもりもなかった言葉が、グラスのお茶を飲み干した拍子に飛び出してしまった。――どうして、東京なんかに帰るんだよ。
 声にしてしまった言葉をとりつくろう言葉が見つからず、思わず、普段は手をつけない福神漬けに箸をのばしてしまう。佳孝は、「しょうがないよ」と淋しげに笑いながら、三杯目の自分の皿に、オレがもてあますであろう福神漬けを入れるスペースを空ける。


 なんとなく気まずくなって視線をさまよわせると、鴨居にさがるスーツが目に入った。真新しいスーツには、さっきつけられたばかりのシワが、くっきり残っている。

「スーツってさ」

 視線の先を辿った佳孝が、二年の節目に横たわった小さなぬかるみに足をとられまいとするかのように、そっと呟く。

「今は似合わなくても、毎日着てればみんなも見慣れてくれるよね、きっと」

「そうだな」
 

 応えるオレは、なんとなく分かってしまっている。
 

 たぶん自分には、佳孝のスーツ姿を見慣れる日は来ないのだろう、ということが。
 そして、いまスーツに残るシワもいつか消え、その後には、オレの知らない新しいシワが出来るのだろう、ということが。
 

「ゴールデンウィークにはまた、こっちに来るから」

「ああ」

「浩ちゃんも、東京出張とかあるでしょ?」

「そうだな」

「おかわりは?」

「もういい」

「…離ればなれになるけど、でも、これでお別れじゃないんだから」

 佳孝が泣いている気がしたが、顔を見る勇気はない。
 黙って肩を引き寄せようとすると、佳孝は「待って」と言って部屋の隅に足を伸ばし、ティッシュケースを引き寄せた。

「カレーがついてる」

 オレの口を拭ってから、佳孝はオレの肩に頭をのせた。





 あと十日したら、佳孝は新しい生活をスタートさせる。
 東京で。
 

 新しくスタートさせるものがないオレは、どうしたらいいのだろう。
 手を伸ばしてみたところで、何かを掴めるとは思えない。何にでも手が届いたこの部屋は、もう、なくなってしまうのだ。
 

「毎日電話するね」

「ああ」

「モーニングコールも、ちゃんと続けるから」

「お前こそ起きれんのか?」

「だーいじょーぶだって」

「夜遊びばっかりすんなよ」

「しないよ、夜遊びなんて」

「まあ、たまにはいいけどさ」

「うん」

「…来月、様子を見に行こうかな」

「じゃあ、初任給で御飯おごってあげる。美味しい店探しとくから」

「いいよ、店なんて」

「どうして」

「お前のカレー食うから」

「そんなんでいいの」

「それが食いたいんだよ」
 

 いろんな言葉や約束を、カレー鍋の中に投げ込んでいるようだった。今はこんなに確かなオレたちの言葉も、いつか溶けて、どれだけ探しても見えなくなってしまうのだろうか。
 

 たぶん、そうなんだと思う。
 

 それでも今はただ、鍋が冷えぬよう、煮立たぬよう、じっくりと弱火で煮込むときなのだ、きっと。いつか、何ひとつ具が見えなくなったときに、コクのあるカレーができあがっているように。
 

「荷造り、始めないとな」
 

 何から片付けたらいいのだろう。
 山のように転がる大切なガラクタを運び去った後の、がらんとした部屋を想像してみる。
 

 何故か、ちょっとシワになったスーツだけは、いつまでも鴨居にぶら下がっているような気がした。





   (おわり)