風吹く豆腐屋

内容はいろいろ。不定期更新中。

幸せになるための努力

2024-07-13 22:43:05 | Weblog

 

10代の多感な時、耳にした言葉が妙に記憶に残ることありませんか?

僕は高校の時の数学の先生がふと言っていた言葉が今でも鮮明に記憶に残っています。

ちょっと変わっている人で高校の先生の中でもちょっと浮ていたと思います。

うちの学校では長期休暇の課題として学校のオリジナル問題集が用意されるんですが、
漫画「ジョジョ」のイラストを表紙に印刷して配るような独自路線を行く先生でした。
(今思えば版権の問題とか大丈夫だったんかな)


今も昔も何かにつけて批判される政治家のあれやこれ。

最近だと献金の報告漏れがどうのこうのと…まあたくさん報道されますよね。

昔からあったそういう政治家とお金がらみの報道を受けて、その先生が言っていた言葉


「僕は政治家のそういう不正って別に構わないと思うんだよね。

だってあの人たち政治家になるために若いころに必死に勉強してようやくその地位を勝ち取ったんだよ。

その見返りとして少々そういうことがあってもいいんじゃないって」

 

失礼な言い方ですが、おそらくそれほど高収入ではなかった先生がそういう見方をする。
(実際たくさんの先生が薄給について愚痴をこぼしていました)

自分の給料はこんなに少ないのに政治家ばっかりいい思いしてずるい。
そんな妬みの感情にまみれた報道が多い中、その先生の意見に感心したのを覚えています。

不正を許すというよりも、努力とそれによって得られたものにもっと敬意が払われてしかるべきだという考え方。

20歳年を取った僕もある程度その考えを支持します。

 

努力の結果が人にねたまれるような形になるのは決してよいことではないでしょう。

だけど、幸せになるための努力は絶対に必要なものだし、
それをしなかった人にとやかく言われたくないという思いもあります。

子供にそれを伝えるのは難しいです。
言葉で言ったところで分かってもらえないでしょうね。

だから、僕は今も勉強している姿を子供に見せようと思うんです。
たいしたことではないけれど、毎日英語のラジオ講座を聞いて、専門資格のテキストを持ち帰って家で勉強する。

ただの自己満足かもしれないけれど、僕にできることってそのくらいかなと思います。


「あたしこのパイ嫌いなのよね」

2024-03-25 00:40:22 | Weblog
先日も金曜ロードショーで魔女の宅急便を放送していたので見ました。

金曜ロードショーで放送されるジブリは最初の方をちゃん見てないことが多いので、今回は最初から。

通して見た上で、放送される度に話題になる「あたしこのパイ嫌いなのよね」についてあらためて考えました

確かにあの孫娘の言葉には悪意があります。
ただ、要らないと言っているものを度々送りつけてくる祖母への鬱陶しさは想像に難くありません。
嫌いな訳では無いけれど相手の厚意を煩わしく思うこと、ありますよね。

そして自分と同世代の子供が劣悪な環境で働いているのを見たら、小遣い欲しさにこんなことまでするのかと蔑む気持ちも湧いたんじゃないでしょうか。
「マウントを取る」のはある意味では自然な防衛機制だとも思います。
主人公からすれば、それは意地悪に写るでしょうけど。

配達員されてる方はそのくらいの対応珍しくもないと思うかもしれません。
他の仕事でも感謝を想定していた行為が一蹴されることは少なくないですよね。
がっかりするし、凹みます。

そもそも13の子供が一人家を出て生計を立てていくということ自体が、現代の感覚からするとあまりに過酷。
魔女の通過儀礼といっても今の世なら虐待に等しいと思います。
そりゃきつい思いもたくさんするでしょう。

改めて見て、主人公のメンタル安定しないなとは感じたものの、当然ですね。むしろよくやっていると褒めてあげたいくらいです。

この映画のメッセージは、そういうところに込められているのかもしれません。
社会的に弱く不安定な主人公に視聴者が自らを重ね、それを労い鼓舞することを促す。
それでいい、頑張ろう。そんなふうに思えるように。

自分の年を考えると、主人公に自分自身を投影しているようでは幼すぎるのかもしれません。
上の子供は今年8歳なので、5年後には主人公と同い年。
もちろん今よりも成長しているでしょうが、たった5年後に独り立ちを促すことなんてできそうにありません。
子供がそういう無自覚な悪意ですり減らないように強く育ててやらないといけないということでしょうか。

「あたしこのパイ嫌いなのよね」
そう言われたときにどう返せるか。

タフに生きていかなければいけません。

うどんが好きというよりも釜玉が好き

2024-03-13 23:08:08 | Weblog

今の職場の道の反対側にうどんの製麺所があります。

一人で手早く食事を済ませたいときによく行きます。

その店で圧倒的に人気なのはかけうどん、ぶっかけうどんです。

でも僕はもっぱら釜玉ばかり注文しています。

タイミングの問題で釜玉は数分間かかると言われることも多いんですが、急いでいないときは必ず待ちます。笑。

あまり意識してきませんでしたが、僕はうどんが好きというよりも釜玉が好きみたいです。

釜玉だけ僕の中で特別好きなんですよね。

熱いコシのあるうどんって自宅じゃ意外と用意するの難しくありませんか?

熱くするために加熱しすぎると、のびてすぐにちぎれてしまいます。

最近のタピオカ混ぜた冷凍めんとかは違うのかもしれないけど。

 

釜玉が好きなのには多分思い出補正もあります。

高校の時、一度友達と出かけたときに食べたのがはなまるうどんの釜玉で、それがすごく印象に残っているんですよね。

それが20年以上前のことだと思うとなんだか泣けてくるな。

 

思い返してみれば、他にも似たようなことがあります。

例えば僕は温泉がすきというよりも露天風呂が好きです。

露天風呂がないなら行かなくてもいいかなと思うくらい僕にとって露天風呂の重要度は高いです。

銭湯か温泉かということも別にどうでもよくて、気持ちの良い露天風呂があればそれでいいんです。笑。

 

こういう偏愛って変わり者に多そうな気がします。

釜玉食べられないならうどん食べない、露天風呂内ならお風呂に行かない、

・・・確実に変人ですよね。


漫画「推しの子」とチャイコフスキーのバイオリン協奏曲の共通項

2023-12-25 19:59:03 | Weblog

こんなこと考える人、あんまりいないだろうなあと思いつつ。

 

ヤンジャンで連載されている漫画「推しの子」にはまっています。

そもそもアイドルに興味がない僕がアイドル漫画に興味を持つこともありませんでした。

ただ、今年YOASOBIの「アイドル」が相当流行りましたよね。

カラオケ(で楽器弾くとき)の持ちネタになるかなと思って聞いてみました。

 

最初はピンときませんでした。

こんなもんかと思っていたら・・結局この曲の中毒性にあてられて、気づいたらループ再生していました。

今では子供らまで毎日のように口ずさむようになってしまいました・・笑。

 

YOASOBIは原作を踏まえた歌詞を書くということで、これをきっかけに漫画のほうに興味を持ちました。

短期間で最初から最新話まで一気に読んでしまいました。笑

アイドルの話ではあるけど、ミステリーというかファンタジーというか、ちょっと特殊なジャンルで面白いです。

 

この漫画で描かれる「アイドル」は、周囲に求められる像を徹底して演じ、本心は近しい人間すら読めないという特徴があります。

そういう傾向はおそらく現実世界でもそうなんだろうと想像されます。

でもそれって、アイドルに限った話ではありませんよね。

本音と建て前を使い分けること。

組織における自分の立ち位置、需要を理解した上でそれを供給すること。

それは職業に限らず、集団生活を送るときには常に必要とされる行為です。

それをアイドルという分かりやすい構造で提示しているところが、人気の一因ではないかと思いました。

 

そして、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲。

長調の曲だけど、昔から悲しい曲だなと思うんです。

娘に、1楽章にどんな印象受ける?って聞いたら楽しそうと答えました。

まあ、それが普通ですよね。

 

でも、ひねくれている僕はそうは思いません。

一言でいえば、強がりの音楽に思えるんです。

僕はこんなに楽しいんだ、幸せなんだと朗々と歌いながら、次々と浮上してくるそうでない面を必死に押し殺し表面を繕う。

自分は幸福だと自己暗示をかけるように同じテーマを繰り返し主張する。不安や恐怖から目を背けるように。

 

なんか「アイドル」と似てるなとふと思ったんです。

陰鬱な本音を包み隠して美しい外見を取り繕う感じ。

文字に起こしてしまうとひどく陳腐な話ですが、普遍的なモチーフだろうと思います。


一人称単数を読んで

2023-11-16 23:30:26 | Weblog
小学生の読書感想文のようなタイトルですが、内容もそんなものです。

ふと出張の電車内で読む本を欲して本屋に行ったら村上春樹の新刊を見つけました。
ハードカバーで出てるのは知っていたんだけど、場所を取るからいつも文庫でしか買わないんですよね。

まだ読みかけですがいつもの春樹節という印象です。受け付けない人は受け付けないと思います。

読んでいてなぜか物寂しい感覚になります。
たぶん、それは筆者が若かりし頃を思い出して書いてある文章だから。
年を取るのは必ずしも悪いことばかりではないけれど、やっぱり若かった頃のキラキラした感覚はいつまでも大切で他に代えがたい記憶だと思うんです。
もう二度と経験できない身勝手で傷つきやすかったあの時代を思い起こすと、今でもキュンとします。

人生の本当の知恵は「どのように相手に勝つか」よりはむしろ、「どのようにうまく負けるか」というところから育っていく。


一人称単数 文庫版141ページより


こういう言葉が沁みるようになったのも老いた証だなと感じるわけです。


あの頃は良かったなんて言いながらグチグチ言うつもりはありません。

良くも悪くもあの頃にはなかった色々なものを今は手に入れてしまっています。


言うまでもないことだけど、ネガティブに生きていくよりは、ポジティブに生きていくほうが絶対いいですよね。


出張のついでに通い詰めた行きつけのバーに行きました。

美味しいお酒を飲みながら好きな話を思う存分できる空間って他にはない唯一無二のものです。

気持ちよく酔って好きな本を読む。

これってなかなか幸せなことじゃありませんか


そういうことで心を潤していくのは大切なことだと改めて思いました。



山月記を思い出して

2023-10-03 19:58:09 | Weblog

 

自分が欠いているものはたくさんあります。

なんて不完全な生き物なんだろうかと嘆きたくなります。

そんなこと改めて言葉にするまでもない自明のこと。

でも、どこかでそれを認めたくない自分がいます。

 

昔読んだ斎藤学のニーチェの解説本に

「「でも」も「だって」もなく、とにかく一歩前に踏み出した人を称えて拍手を送るべき」というような一節がありました。

とても素晴らしい姿勢だと思うんですよね。

 

出る杭を打って何になる?

人の批判をしているだけなんてなんてかっこ悪いんだろう。

僕はそうなるまい。

人に叩かれようとも積極的に踏み出す人間になろう。

 

そんな風に思っていました。

 

今の自分は完全に停滞しています。

前に踏み出すことを阻む最大の障壁はなにか。

それは結局のところ、自分の能力の低さ。

なりたい自分と実際の自分との間にはっきり存在する大きなギャップがあります。

何が足りないのか。

熱意?努力?

 

そういうことを言ってくる人とは根本的に分かり合えません。

何をしようと補うことのできない絶対的な才能の不足があります。

努力でどうにかなりそうな才能を持っている人には分かりません。

そして自分が実際以上にできると勘違いし続けることもまた罪深いです。

 

僕だって自分だってやればなんとかなるんじゃないかとも思いたいし、努力だってそれなりに積んできました。

でもいつまでたっても劣等感は払しょくできず、事実自分の能力は低いままです。

もっと能力の高い人に道を譲るべきだと考えてしまいます。

外科医である以上、自分の能力が人の生き死にや人生に直結します。

患者なら上手な外科医に手術を受けたいと思うのが当然だし、そうあるべきだと思います。

 

今まで自分がやれていたのは田舎だったから。

一流の外科医でなくてもいい。地元で治療を受けて、その後の治療も地元で完結させたい。

そういう患者も田舎には居るんです。

その需要があるなら、たとえ街の外科医より質の劣る手術だとしても全力で提供したい。

そう思ってやってきました。

 

ただ、田舎でも病院を選べば今やロボット手術が受けられるし、

技術認定医というお墨付きの医者に手術が受けられる時代になりました。

手術の多い病院と少ない病院は明らかな格差が付き、少ない病院では当然経験も積めない。

手術をしたい若手は手術件数の集中する病院に集まり、患者もそういう病院に集まる。

症例の少ない病院に勤務する医者は手術をする機会がめっきり減る。

 

じゃあどうすればいい?

手術をしたいならそういう症例の多い病院へ行けばいい。

だけどもはや若手ではなく経験も才能もない僕は、いまさらそういう病院に修行に行くには分が悪すぎる。

ぐちぐち言いながらそういうストレスからは逃げる臆病者です。

そもそも、そういう熱意があるならもっと若い時期にいくべきだった。

もう手遅れです。

 

手術がないなら他に何ができるのか。

思い当たるものは何もないんですよね。

探せば医師免許を生かした他の仕事もあるかもしれません。

これまでの経験を生かせないから、ゼロからのスタートということになるけれど。

 

なんとなく選択しながら生きてきました。

別に努力をしなかったわけではないんです。

いつこんな袋小路に迷いこんでしまったのか。

 

ぜいたくな悩み?

犯罪を犯して免許をはく奪されない限りはたぶん生きてはいけます。

多分、食っていくのに困ることもないとは思います。

 

自分はもうちょっとできるはずだ。

ずっと自分を実際以上に大きく見積もってきたつけがまわってきたんでしょうね。

 

仕事のモチベーションが枯渇しています。

今後の見通しも立ちません。

どうしたいのかも分からないし、どうすればいいのかもわからない。

 

臆病な自尊心というやつですね。

「お前、年の割に何もできないじゃないか」

そう言われることが一番怖いんです。

そして、それが事実であるということがとてもつらい。

それを認めて細々と生きていくしかないのかもしれません。


「ここは地獄ではないんだよ 優しい人になりたいよね」

2023-06-13 21:47:53 | Weblog

スピッツの新しいアルバムが出ました。

微妙な体調不良が続いていることもあってどうも元気が出ません。

梅雨時だからかな。


タイトルは「跳べ」という曲のワンフレーズ。

「ここは地獄ではないんだよ 優しい人になりたいよね」

どういう文脈の言葉なのかは分かりません。

でもそうだよな、とは思います。


アルバムの曲を何度も流しているうちに、子どもがこの個所を口ずさむようになりました。

「ここは地獄ではないんだよ~ 優しい人になりたいんだよね~」と微妙に間違えて。


よく分からない歌詞ながら、なぜか勇気づけられます。

そうね、確かにここは地獄ではない。

派手さはないけど、やっぱりスピッツはいいなと思います。

興味があったら聞いてみてくださいね。


ごろ寝湯のよろこび

2023-04-02 20:55:54 | Weblog

 

露天風呂が好きです。

一人の夜、わざわざ1時間かけてお気に入りのスーパー銭湯に行きました。

松山のはずれにある「そらともり」という宿泊もできる施設です。

 

一般的にスーパー銭湯含めて温泉施設は高齢者をターゲットとしているところが多いと思います。

でも、そこはどちらかというとやや若者層をターゲットとしている印象です。

夜は暗いし、深いし、正直高齢者だとちょっと危ない気がします。

というかまだ高齢者でないつもりの僕も、浴槽の中の段差を見誤って膝打ちました…。

 

家族で銭湯に行くのもいいのです。

でも、一人であれば気が済むまで長湯できるのがいいです。

ほぼ全部露天風呂なのが僕としては嬉しいのですが、なかでもごろ寝湯というのが気に入りました。

色んなスーパー銭湯に行きましたが総じて少ないですし、あっても満足できるものにはなかなか出会えません。

文字から想像できる通り、浅くお湯を流している上にあおむけに寝そべるもの。

4月だと程よく寒くて火照った体をゆっくりクールダウンしてくれました。

幸い空いていたので、他の客を気にせず楽しめたのもよかった。

 

最近も一人で銭湯に行くことは何度かあったのですが、

気に入った銭湯だとストレス解消の度合いが段違いだということに気が付きました。

チャンスがあればまた行こう。

 

写真はついでに食べてきた松山のラーメン屋。

たまには昔ながらの中華そばもいいものです。


子に負けるということ

2023-01-30 19:20:10 | Weblog


▲寒い日のカンムリカイツブリ


自分ができないことを子ができるようになると、嬉しいとともに寂しさも感じると聞きます。
実際そうなってみるとなんともむずがゆい不思議な気持ちになりました。

3歳6ヶ月の息子はその年にしてすでに僕ができないことを容易にやってのけます。


夕食を一口食べると、「ママのごはんはいつもすごくおいしい」

この服どうと僕に尋ねた妻をみて、横からすかさず、「似合ってるよ」

‥うーん、すごい。

さらりと言うところがスマート。

幼稚園でも息子は周りのお友達に気に入られていつも輪の中心にいるみたいです。
外でお友達と会うと、「○○くんは幼稚園で人気者なんだよ」と教えてくれることが何度かありました。

確かにいつもニコニコして楽しそうにしているので、周りにも好印象を与えているのだろうと思います。

愛想がない僕や上の子とは大違いです。

3歳にしてその天賦の才を発揮させている息子がやや末恐ろしいところもありますが、良好な人間関係を築けるのは一生役に立つ素晴らしいスキルです。

僕も見習わないとなあ。

約束

2022-10-30 22:38:19 | Weblog

 

正しく生きることができるなら、それはとても素晴らしいことなのだろうと思う。

ただ、現実問題としてそれはとても難しい。

 

嘘をつかない生き方はどうだろう。

それはそれでやはりとても難しいと思うし、嘘も方便という状況は珍しくない。

嘘をつかないことが必ずしもいいことだとは限らない。

 

妥協案…というか実現可能な目標として、僕は約束を守る生き方をしようと思う。

易きに流れるのを律することにもなるし、相手を尊重することにもなる。

それはあくまでも僕個人のルールであってそれを人に強要することはあってはならない。

ただ、子供例外だ。

僕が考えているのと同じように、約束を守る人間になってほしいと思う。

 

決して崇高な人間ではないけれど、少なくとも約束を守る人間ではあるという矜持を持ちたい。

子どもにもそういう気持ちを継いでもらいたい。

 

だけど、子供は安易に約束しすぐにそれを反故にする。

子供だからと言ってそれを許すべきではないと思う。

約束という行為の重みを知って欲しい。

何度言っても分かってくれないけれど。

 

時に境界が分からなくなる。

子どものための指導なのか、単なる八つ当たりなのか。

僕は腹が立っても他人に厳しいことはほぼ言わない。

何か言うことで相手に不快感こそ与えても相手の行動を変えることなんてできないから。

そんな相手には最初から期待しない。

 

でも子ども相手ではそうはいかない。

簡単に変えられなくても変えていかなければいけない。

少なくとも僕が尊重していることに関しては子どもにも大切にしてほしい。

 

ただそれが精神的な虐待にならないように常に気をつけておかないといけない。

傷つけるだけ傷つけてそれに見合うものが得られないなら、そんなことは断じてすべきではない。

同じ理由で僕は体罰はしない。

子供に手を上げないのは僕の中のもう一つのルールでもある。

でも声を荒らげることと体罰の違いはなにかと考え始めるとこれもまた難しい。

 

何にせよ、まずは自分自身が器の大きい人間になりたいものです。