介護の日々

あのとき このとき ・・・

自分への疑問、経管栄養は延命か?

2012-10-10 10:51:46 | 在宅介護

 食物を口にしなくなった時、それは生命の終りの開始なのでしょうか?

そもそも誕生は生命の終焉に向かう旅の開始でもあります。そう考える命の線引きがますます難しくなってしまいます・・・ 

自分から食べ物を口に運ぶことのできない乳幼児期、人間は食べさせてもらいます。これを疑問に思う人はいないでしょう。では、老いて口に食べ物を運べなくなった時、まわりが介助したり食べさせてあげること。これもごく自然の、そして必要な行為であることを疑う人はいないでしょう。(文化によっては、自分で口に運ぶことができなく立った時、周りが介助することはないということもあるそうですが。)

 では、嚥下障害で飲み込みが難しくなった時、直接胃に食物を流し込む行為はどうなのでしょう・・・ 回復の見込みがあり一時的処置として行う場合は別ですが、そうでない場合、やはりこれは延命措置にあたると、今は思います。

 

老いつつある親を前にした時、家族としては、一日も長く傍にいてほしい、生きていてほしいと願います。様々な負担は当然のこととして引き受け、相手の体調や顔色に細心の注意を払って介護にもあたります。 

食事は飲み込みやすいようにとろみをつけ、刻み食からミキサー食へ変えました。それでも食べこぼしが多く、食事に長い時間がかかるようになる中、十分な栄誉がとれないためでしょう、体重減少も認められました。仕事をしながらでしたので、ショートステイも利用させていただきましたが、滞在先でのトラブルは多く、誤嚥性肺炎を何度か経験しました。様態の異なる入所者一人ひとりへの細かな対応を、家庭でと同じよう施設に期待するのは無理なのでしょう。90年代初めのことです。 

入院先では、管での栄養補給ができること、胃ろうの方が経鼻より患者に負担が少なく安全であるなど、医療措置の1つとしてごく当たり前というような簡単な説明でした。経管栄養がどのような意味を持つかの説明はなく、自分から質問する知識もその当時は持ち合わせていませんでした。やはりショートステイ先での高熱発症を期に、母は経鼻栄養になりました。 

それから8年ほどの経管栄養生活。私の体力の問題から、ポータブルトイレでの排泄を続けられたのはそれから4-5年でしょうか。晩年は、ベッドを離れるのは週1回のシャワー浴時、調子がよい時の月一度ほどのショートステイ時、そしてたまにの車いすに移乗しての居間への移動時になっていきました。 

他の時間、重力の作用以外は自ら姿勢を変えることなく、寝かされた時のままの姿勢で母はベッド生活を送りました。目を動かしたり反射的な手足の動きはありましたが、意思を持ってのものではなかったように思います。帯状疱疹で入院した時、医師からは「痛みは感じていません」と言われました。

呼びかけに応じるような声を出し、お見舞いの叔母たちが「わかっているのよ!」と喜んでくれましたが、このエピソードは今も不思議の一つです。この間、褥創など大きな皮膚のトラブルもなく生活してくれたのは幸いでした。 

そして残された疑問。介護をされながらの自分の生活を母はどう思っていたのでしょう?

 当時も、そして今も、その答えを得る術はありません。でも戦争を経験し、強く逞しくそしてしなやかに生きてきた大正生まれの母は、その時代の多くの方がそうかと思いますが、「自分のことは自分で・人には迷惑をかけない」が信念だったようい思います。 

今のように、「リビング・ウィル」の考え方が広く紹介されていたら、好奇心旺盛な母のこと、新聞などから情報を得、自分の人生の終え方を文字で残していたのでは・・・ そこには、私がしてきたようなことは書いていなかったのではないか。母が亡くなって2年半、今やっと、そんなことを思うようになりました。

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