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民主主義という支配の思想その2

2010-10-18 16:24:05 | 現代日本および世界
こんにちは、テツせんです。
近くの銀杏並木がすっかり黄葉し、空に映えてまばゆいほどですが、
みなさんは、いかがお過ごしでしょうか?

さて前回に、
日本の現政権が「法と正義」を自分たちの都合で恣意的に振りまわしてよいのならば、
ナチス以下の「法と正義」の国がのこされるだけである。と、お話しました。・・・

ごぞんじのようにナチスも、民主制選挙に勝利して、国会での主導権を握ったわけです。
ただそのあとの、ドイツ「国家」を思うあまりの「法と正義」の恣意的な濫用が、
全体主義に収斂していったということであり、 その点において
クリーンを看板に書いた党派が、政権掌握後に魔女狩りを煽動する絵図は、
ナチスの国家主義とはちがい、自己権力維持に汲々とする貧弱な志向ではあるが、
ともに民主主義と権力の「欺瞞的な相対関係」を如実にしめしています。

- その「議会制民主主義」という近代思想が制度化されて久しい。

欧米をはじめ先進諸国では、いわゆる全体主義独裁国家に対抗する意味で、
デモクラシーだとかシビライゼイションという概念をかかげて、ようやく、
それでなにか「清潔」で、「正義」でありうるかのように幻想するひとたちの旗じるしとなっている。

だがそれは国家ナショナリズムに根ざした、ナルシズム以上のものではないのが、世界の現況といってよい。
だからナショナリズムという点でみれば、
全体主義独裁国家と同様の志向を潜在的にいだいているとみなしてよい。

- 世界の民主主義の歴史はけっしてバラ色ではなかった。

さきにお話したように、
過去にドイツのナチスが、圧倒的な大衆の支持のもとに時代の表舞台におどりでてきたことは、
見方を変えれば、
政治運動が、
議会制民主主義という制度をのみ込むエネルギーを潜在的にもっていることをしめしています。
誤解をおそれずにいえば、おそらくそのことだけが、
議会制民主主義という制度の「欺瞞性」を 国民大衆が正しくさしつらぬいた歴史といってよい。

ナチスが全体主義と名指しされるのは選挙によってえらばれて権力を握ったあとのことである。--

- 「法と正義」が、ときの権力によって
恣意的で欺瞞に満ちた相対性の懐でもてあそばれようとするとき、
わたしたちはいったい何を本質的な規範にすることができるのか?・・・

それは、わたしたち「個々の尊厳と生きていく自由」に照らすことであり、
「生き難さからの解放」を根底にすえた「反グローバリズム・反プラグマティズム」の
ものの考え方かどうかを問うことにほかならない。

もうすこし端的に言えば、
どちらがより「代替不可能な(かけ替えのない)」個の生存の社会的な価値をみとめ、
直接市民社会にしめしうるのか? である。

それは、すなわち
民主的議会制において多数が絶対であるというとき、
いつでもあらゆる議会や議員を無記名投票で市民側がリコールできること。
また、法令の異議申し立てが直接できうること。
さらに世界史的な視点からいえば、
政権にたいする市民の異議申し立てを「弾圧」するような、法律はもとより、
軍や警察や公共メディアはもたないことなどのすべてが
前提でなければならない。・・・


- それにしても、映画「悪人」が描く地方にすむ若者が、
「この国には、ひとつも希望がない!」とかんじている状況に、
こたえうる人間が いないのが哀しい。・・・

ただもう「出会い系サイトしかない」時代が、心の闇が無限に拡大する時代が、
日本に根をおろそうとしていることに、
政治家たちはあまりにも無自覚で、無力なことを露呈している。・・・


ほんとうにそういう意味で、選挙で代議員を選ぶことの「疎外感」はどうしようもない。
選挙に出てくる被選挙人というものの大概が、
市民大衆からあまりにも乖離した「異質で異様な」存在であることを自覚していないのだ。・・・

- 無能な政治家たちのせいで、
この国家のすみずみまで、あらゆる議会と行政を官僚主導と官僚主義で裁量してきたことが、
今日の日本特有の「衰退と依存症」をまねいたといえる。

官僚主義に浸かった行政はもとから、本心では市民の顔など見ないままに、
ただ手続きと整合性だけに意味を認めるという、カフカ的な「無意味性」をもとめる世界だ。

ただ今どきは、米国流のプラグマティズムに毒されて、
やたら費用対効果をおしつければ政治主導だと、あるいは正義だと取りちがえて
失笑される大阪府知事のような人もあらわれて、これはこれでこまったものです。
政府の事業仕分け人などというものも同類でしょう。・・・


- 時の政権は、
「法と正義」の民主主義の看板を盾にして、ひたすら
国家権力にすり寄るものと結託して、
本質的に市民をないがしろにし、敵対し、
永遠に官僚依存・支配のためのシステム護持に余念がない。

そしてそうした彼らを市民が養っていることが、どうにも不条理なことではないだろうか!

「法と正義」の民主主義の看板が
はなから欺瞞に満ちていることを市民の側が見抜けなければ、
たとえば、
名古屋市長の市議会とのたたかいの本質をも見抜けないために、
マスメディアが叩くように、ただの「独裁、独善的」行動にしかみえない。

また阿久根市市長の市議会とのたたかいもまたおなじように、むしろ
「民主主義の危機」であるかのように叫ぶ御用メディアの都合のいい正義にふりまわされるだけである。・・・

(次回につづきます。)


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