人間は生まれた瞬間から死ぬまであらゆることが運命付けられているのだろうか?自分が今までしてきたことは初めから運命付けられていたのか、将来自分がすることはもうすでに決まっているのだろうか?運命なんてものは存在するのだろうか?
そんなことを小学生のときはよく考えたものだ。そしていつも、運命はあるのだろうか?では今こうして運命について考えていることも運命付けられていたのだろうか?、と考えることも運命なのだろうか?、と考えることも、、?というループに陥ってしまう。
さて、運命はあるだろうか?自分の意思で未来を変えることはできないのだろうか。たいていは運命なんてないと考えるが、今回は運命はあるという話。
ニュートンの物理学は初期値が与えられれば未来は完全に予測できるというものだった。初速と角度さえわかれば、投げたボールがどこに落ちるかは計算できる。これは単純な計算だが、水に落とした墨汁がどのように広がるかという複雑な運動も流体力学の方程式で予測できる。
天気は短期間なら予測可能だが、長期的な予測は不可能であるといわれている。天気にはあまりに多くの要因が関わっていて、そのささいな変化によって長期的な結果に大きな変化を与えるからだ。これはカオス理論ではバタフライ効果と呼ばれる。東京で蝶が羽ばたくとフロリダでハリケーンが起こるというもの。これは蝶の羽ばたきがハリケーンを起こしたということではなく、ハリケーンの発生と蝶の羽ばたきとはまったく無関係というわけではないということである。だから天気の予測には蝶の羽ばたきさえも観測しなければならないということである。そしてそれは不可能である。
天気に予測不可能性があるからといって、運命は存在しないというのではない。天気は予測できないのであって、運命でないとはいえないのである。あらゆる物質が物理的法則に従って動くとすれば、あらゆる物質は初期値さえ定まれば予測可能である。天気では初期値の範囲が広すぎて定められないから予測できないのであって、初期値をすべて知ることのできる神様は天気を予測できるのである。
さて、あらゆる物質が物理的法則に従うとすれば、(それはまだ解明されていない法則をも含むが、)ビックバン以降すべての粒子はその法則にしたがって動いていることになる。自然界には4つの力があり、それは重力、電磁気力、弱い力、強い力と呼ばれ、この4つの力も最終的にはひとつの力に統一できるといわれているのだが、ビックバン以降すべての粒子はその力のみによって動いている。そのほかにはなんら意図的な力は働かないので、粒子の運動はビックバンの時点で決定付けられる。神様は計算をすれば未来のあらゆる瞬間の宇宙を予測できるだろう。
したがって、運命というものは存在する。あらゆる物の動きははじめから決まっている。あらゆる物というのは、私を構成する粒子の一粒一粒すべてである。私が何を考えるかは神経回路や神経伝達物質やホルモンなどによって決まってくるが、それらすべての物質の動きも運命付けられているのである。
私がこうしてブログを書いているのも、物理法則による粒子の相互作用が生み出す神経系やホルモンの相互作用が生み出す意識によっているのであって、根本的には物理法則によって運命付けられたものである。
いかんともしがたいこの運命。運命に逆らおうとしても、その意識は神経回路によるのであって、その神経回路は粒子によっていて、粒子は物理法則に従っていると考えると、運命からは逃れられないのである。
私が小学生のころ陥った「運命はあるのだろうか?では今こうして運命について考えていることも運命付けられていたのだろうか?、と考えることも運命なのだろうか?、と考えることも、、?」というループは運命なのである。運命なんてないと思っても運命である。
人生が運命によって定められているというのはなかなかやなもんである。では運命論を否定するにはどうすればよいか。物質が物理法則に従わないことを証明できればいい。つまり、ニュートンやアインシュタインを否定しなければならない。さて、そんなことができるだろうか、偉大なる物理学者を否定するだなんて!
運命を打ち破るにはニュートンやアインシュタインの亡霊を断ち切らなければならない。そしてそんなこと誰にもできやしないから結局運命には逆らえないのだろう。
なんだか最後は尻切れトンボみたいになってしまいましたが、力不足ですな。おもしろいんですけどね、運命論。長々となってしまいしかもつまらないという、、、文字ではなく内容が伝わればよいのだけど。
それも運命。。
そんなことを小学生のときはよく考えたものだ。そしていつも、運命はあるのだろうか?では今こうして運命について考えていることも運命付けられていたのだろうか?、と考えることも運命なのだろうか?、と考えることも、、?というループに陥ってしまう。
さて、運命はあるだろうか?自分の意思で未来を変えることはできないのだろうか。たいていは運命なんてないと考えるが、今回は運命はあるという話。
ニュートンの物理学は初期値が与えられれば未来は完全に予測できるというものだった。初速と角度さえわかれば、投げたボールがどこに落ちるかは計算できる。これは単純な計算だが、水に落とした墨汁がどのように広がるかという複雑な運動も流体力学の方程式で予測できる。
天気は短期間なら予測可能だが、長期的な予測は不可能であるといわれている。天気にはあまりに多くの要因が関わっていて、そのささいな変化によって長期的な結果に大きな変化を与えるからだ。これはカオス理論ではバタフライ効果と呼ばれる。東京で蝶が羽ばたくとフロリダでハリケーンが起こるというもの。これは蝶の羽ばたきがハリケーンを起こしたということではなく、ハリケーンの発生と蝶の羽ばたきとはまったく無関係というわけではないということである。だから天気の予測には蝶の羽ばたきさえも観測しなければならないということである。そしてそれは不可能である。
天気に予測不可能性があるからといって、運命は存在しないというのではない。天気は予測できないのであって、運命でないとはいえないのである。あらゆる物質が物理的法則に従って動くとすれば、あらゆる物質は初期値さえ定まれば予測可能である。天気では初期値の範囲が広すぎて定められないから予測できないのであって、初期値をすべて知ることのできる神様は天気を予測できるのである。
さて、あらゆる物質が物理的法則に従うとすれば、(それはまだ解明されていない法則をも含むが、)ビックバン以降すべての粒子はその法則にしたがって動いていることになる。自然界には4つの力があり、それは重力、電磁気力、弱い力、強い力と呼ばれ、この4つの力も最終的にはひとつの力に統一できるといわれているのだが、ビックバン以降すべての粒子はその力のみによって動いている。そのほかにはなんら意図的な力は働かないので、粒子の運動はビックバンの時点で決定付けられる。神様は計算をすれば未来のあらゆる瞬間の宇宙を予測できるだろう。
したがって、運命というものは存在する。あらゆる物の動きははじめから決まっている。あらゆる物というのは、私を構成する粒子の一粒一粒すべてである。私が何を考えるかは神経回路や神経伝達物質やホルモンなどによって決まってくるが、それらすべての物質の動きも運命付けられているのである。
私がこうしてブログを書いているのも、物理法則による粒子の相互作用が生み出す神経系やホルモンの相互作用が生み出す意識によっているのであって、根本的には物理法則によって運命付けられたものである。
いかんともしがたいこの運命。運命に逆らおうとしても、その意識は神経回路によるのであって、その神経回路は粒子によっていて、粒子は物理法則に従っていると考えると、運命からは逃れられないのである。
私が小学生のころ陥った「運命はあるのだろうか?では今こうして運命について考えていることも運命付けられていたのだろうか?、と考えることも運命なのだろうか?、と考えることも、、?」というループは運命なのである。運命なんてないと思っても運命である。
人生が運命によって定められているというのはなかなかやなもんである。では運命論を否定するにはどうすればよいか。物質が物理法則に従わないことを証明できればいい。つまり、ニュートンやアインシュタインを否定しなければならない。さて、そんなことができるだろうか、偉大なる物理学者を否定するだなんて!
運命を打ち破るにはニュートンやアインシュタインの亡霊を断ち切らなければならない。そしてそんなこと誰にもできやしないから結局運命には逆らえないのだろう。
なんだか最後は尻切れトンボみたいになってしまいましたが、力不足ですな。おもしろいんですけどね、運命論。長々となってしまいしかもつまらないという、、、文字ではなく内容が伝わればよいのだけど。
それも運命。。
自分の一生が決まっていると考えるのは憂鬱ですね。決まっていると思いますが、分らない。だからどうなるのか知りたい。だから、生きるというのも折り合いの付け方かと思っているのですが・・・
ありがとうございました。
『運命論』、興味深く読ませていただきました。
私もこのテーマについて考えたことがあったのですが、何せ根っからの文系の私は54notallさんのように物理学的なことはサッパリ??だったので、なんだかある意味解答をもらったような気がしました。
私は個人的には「運命はある」と思ってるんですが、どうなんでしょうね?
長々とすみません。お邪魔しました☆
運命が決まっているというのは憂鬱なことだろうか。最低な未来が待ってるなら憂鬱かもしれないが、最高な未来が待ってると信じることができれば。運命を前向きに捕らえることもできるはず。
運命はあるか。宇宙がある法則に完全に従って動いているならあるのだろう。しかし神が創るものはすべて完全なものだろうか。不完全なことはないだろうか。
それに、運命の中にいる我々はどうあがいたとしても運命を知ることができないのだから、人間にとって運命なんてないといえるかもしれない。
それと真剣に生きてれば 成りたい自分になれる
ように思います。 いやでも成るべきに遭遇すると
大変 変換 変換 大変換 でした。 必至
投げ出さなければ 人生はたのしい!!
過ぎて思う 不運の時に運命の出会い 真剣
それと 陰と陽は 匠の技 共時性 等など
40過ぎるあたりから トラブルの先が楽しみに
対峙 対峙 の連続です。
ご自分の人生楽しみに ∞
運命も未来も変えられる!
トラブルはチャンスだからあきらめずにですね。。
運命から逃れようとしても
それさえも運命なんですね
もっとぐちゃぐちゃにして楽しむために、私は物理以外に世界に影響を与えるエネルギーの可能性やら、生物の意識は実は高次元にあるのではないかやらと、ぶっ飛んだ論を楽しんでいます。
的を射た文章が読めてうれしかったです。
まーでも決まっていようがいまいが計算できるものじゃないのだから、人生の楽しさには影響しない。
むしろこれを考えることで楽しいことが増えてるかな。
あの頃は学術的に自由だったというか、ありあまる時間を勉強したい事に費やすことができていた。
今は仕事があり、残業があり、自由に使える時間はほとんどなく、休みの日も仕事につながるための勉強をしたりと、、物理学だの脳科学だの、仕事につながらない勉強はまったくしていない。
それも運命か。
いや、こうして昔の文章に出会って心が動いたことが運命だから、好きなことを勉強する時間を絶対につくろう。。