54のパラレルワールド

Photon's parallel world~光子の世界はパラレルだ。

「脳のなかの幽霊」V.S.ラマチャンドラン/サンドラ・ブライクスリー

2006年01月31日 | 読書感想文
この本は佐藤君が参考文献として挙げていたし、養老孟司さんの本でも紹介されていたので読んでみました。

脳のなかの幽霊V.S.ラマチャンドラン,サンドラ・ブレイクスリー

幻肢、自己身体否認(この腕は私の腕ではありません、兄の腕です。)、カプグラ・シンドローム(あの人は父にそっくりですが偽者です。)などなどの症例が脳のどのようなはたらきで生じるのか、そしてそこから一般の脳のはたらきを考えていくというような。
また、「笑い死にした女」「足をペニスと間違えた男」「なぜ男性はブロンドを好むのか?」といったおもしろい話もある。笑いのメカニズムについても書かれていたり、非常におもしろい本である。

さてその中から「幻肢」を取り上げる。幻肢とは、自己や手術で失った後、いつまでも患者の心から消えない腕や脚である。患者は腕があることをありありと感じるし、幻肢を自由に動かすこともできるし、また強烈な痛みを感じることもある。

ふと思ったのだが、幻髪というのはあるだろうか。
はげて頭髪を失った人がふさふさの髪をありありと感じる、、

幻肢についておもしろい話がある。
幻肢を体験したネルソン提督は、「失った腕にこうした幽霊のような感覚があるのだから、全身が消滅したとしても幽霊のような感覚が残るのではないか。つまり、幻肢は魂が存在するという証拠だ。」と主張した。
なんと幽霊の存在を証明してしまった!

しかしラマチャンドランは「バーチャルリアリティ・ボックス」なるもので患者の幻肢を「切断」してしまった。本当は「麻痺した」幻肢を動かせるようにするための実験だったのだが、脳の否認によって幻肢が消えてしまったのだ。
幽霊も幻と消えてしまった。これを成仏というなら別だが。
するとラマチャンドランは神経学者ではなく霊媒師である。成仏できずにあなたに居座る右腕の幽霊をみごと天国へ送ってみせましょう、、

3本目の腕をありありと。。

「トーテムのっぽ鯨井先生」

2006年01月30日 | クリエイティブな思考への挑戦
私が中学生の美術の先生は「トーテムのっぽ鯨井先生」だった。ジャスト2mという長身は私のようなチビには大きな脅威を与えていた。

最初の授業のとき、背中を折って教室に入ってきたのが印象的だった。ドアより高い人間がいるなんて!黒板の前の蛍光灯に頭が当たりそうなくらいの長身に、クラスの人気者浜田が「トーテムのっぽだ!」と言ったのがきっかけだった。
一番前の席にいた私はトーテムのっぽ鯨井先生を見上げるのに首が痛かった。そして礼のとき。「起立っ、きょうつけぇ、礼!」でトーテムのっぽ鯨井先生の頭が私の頭の上にガーンってなった。目から陽が出たし、足が若干床にめり込んだみたいだった。トーテムのっぽ鯨井先生を見上げてて礼が遅れたのだ。
それ以来私は誰よりも早く礼をするようになった。「きょうつけぇ」の「ぇ~」が終わるか終わらないかぐらいには頭を下げていた。それで一回、私が礼から頭を上げたときにトーテムのっぽ鯨井先生の振り下ろされた礼に思いっきりぶつかったことがあって、そのときトーテムのっぽ鯨井先生があごを押さえてあえいでいるのを見て、仕返ししてやったぜと思った。でもそれ以来私は誰よりも長く礼をするようになった。

中学校で有名だった、私が誰よりも早くそして誰よりも長く礼をするというのはそれが原因だったのだ。。

「さわやか少年先生」

「ハル」瀬名秀明

2006年01月29日 | 読書感想文
/*ここ数日木村カエラの「YOU」が頭の中で蛇回し(ヘビーローテーション)。「なんてつらいんだ~」大好きです。*/

ロボットに魂はあるか?アイボもアシモもロボットに見える。どことなく愛嬌を感じるかもしれないが、「生きている」とは思えない。しかしロボットがさらに進化したら?より犬らしい、人間らしいロボットが出てきたらどうだろう。人間はロボットに魂を見出すことはあるだろうか。魂を感じたとしたら、それは人間の主観によるものなのか、それとも本当にそのロボットは生きているのだろうか。そもそも魂とは何なのか。そんなことを考えさせられる作品でした。

さて、ロボットに魂が宿ったとして、ロボットは自立的に生きてゆけるだろうか?動力源は電気なので発電さえできれば問題ないだろう。睡眠は不要だ。もっとも長時間稼動し続けると熱が問題になってくるので冷却のために休憩は必要かもしれない。生殖は?ロボットは生殖できない。繁殖するにはロボットを製造するしかない。まあそれでも繁殖は可能か。
ロボットは死なないのでロボットは増殖し続けるだろう。すると電力不足が問題になってくるかもしれない。飢餓に苦しむロボットがでてくるかも。ロボットの増殖はある程度で止まるだろう。いや、ロボットは死なないのか?テレビもパソコンも寿命がある。ロボットにも寿命はあるだろう。錆びや埃や熱や水などによっていずれ故障し修復不能になるだろう。それがロボットの死。

ロボットはやはり人間よりも生存能力が低いだろう。ロボットは不死身という印象があるかもしれないが、大洪水が起こればロボットは全滅だろう。雨の日に外にいただけで死んでしまうかもしれない。ロボットは精密だが単純だ。人間のほうがはるかに複雑である。
人間は生きているのだ。細胞は常に新しくなる。新陳代謝がある。ロボットには新陳代謝がない。ロボットは死んでいるのだ。また、生物は水から生まれ、水とともに生きているが、ロボットにとって水は大敵である。これは致命的である。地球の70%が水なのだから。

ロボットに生きる未来があるとすればバイオロボットだろう。新陳代謝のできるロボット。あるいは実体を持たない純粋精神、スカイネットのような。あるいは脳に寄生して人間を操るナノマシン。

しかし間違っても地球が「ロボットの惑星」になることはないだろう。スカイネットは自動車をはじめとする機械を自由にあやつり、ターミネーターという強力なロボットを造り出して人類を危機に追いやったが、現実にスカイネットが暴走したとしたらコンセントを抜いたら終わりではないかと思う。バイオロボットもナノマシンも強力な電磁波でやられるだろう。

ロボットは人間の奴隷にしかなり得ないのだ。しかし本当にロボットに魂が生まれたとしたら、そのときは最低限の人権は尊重しなければならないと思う。

//レポートで忙しいはずのこの時期に、SF小説なんか読んでこんな文章を書いてしまう私は現実逃避なんだろうなと思う。そしてそれに気づいているのにどうしょうもできない私。成長しないねぇ、

空の旅2「神が描く直線」

2006年01月27日 | パラレル
12月某日、私は北海道へ向かう飛行機の中にいた。

隣に座ったおばちゃんが「あなたはどこへ行くの?」と聞いてきた。無論「千歳空港です」と答えた。おばちゃんは「あら私もなのよ。」と笑う。この飛行機に乗ってるやつはみんなそうだよ、と心の中で思いながら私も笑った。

さて。空から見る景色はいつも色を変える。

冬は空気が澄んでいるのだろう。上昇する機体からは地上がはっきり見えた。海があり船があった。海というキャンバスに船が描く軌跡が美しかった。いったいどんな絵が描けるだろう。イメージが膨らんだ。
海に浮かぶ人工島。建物が敷き詰められている。空から見る町はミニチュアタウンのようであり、高層ビルも小さく見えた。そしてどこかコンピュータの基盤をイメージさせた。道路という回路、ビルというチップ、そこでは電子ではなく人間が動き回る。

いつの間にか雲が曇っていた。もくもくとしたわたがしのような雲ではなく、さらさらとした薄く流れる雲。「白い砂漠」というフレーズが頭に浮かんだ。空に広がる白い砂漠。私はその中をさまよってみたいと思った。
遠く向こう、空と雲の境界線。水平線ならぬ「雲平線」とでも言おうか。ライトブルーに光る線はさえぎるものなくどこまでもつながっている。ぐるりと円を描く雲平線は地球が丸いということを実感させた。
ライトブルーに輝く雲平線をみつめた。何かが見える気がした。吸い込まれるようだった。雲平線の向こうには何があるのだろう、、宇宙だ。雲平線の向こうに宇宙がみえるかもしれない。しかしみえなかった。地球は地球だった。空は宇宙を完全に覆い隠していた。それでも雲平線には強くひきつけるものがあった。輝くライトブルーは神が描いた直線(正確には曲線)に思えた。

飛行機は高度を下げ、上にも雲、下にも雲、はさまれる形になった。雲の上に雲、雲の下に雲、その下にも雲という光景を見て、空の世界は何層にも分かれているのだと知った。地上もその層のひとつであり、海も何層にも分かれているのだろう。地球は階層に分かれた世界がいくつもあるのだ。
いろんな形の雲。雲を見るのはあきない。わたがしみたいな雲。ふんわりやわらかそうなもしゃもしゃした雲。抱きしめてバフッてしたい。雲の世界に行ってバフッバフッてして回りたい。スカイダイビングはさぞかし気持ちいいだろう。もしゃもしゃ雲にバフッて飛び込みたい。

雲ひとつない海が見えてきた。波が止まって見えた。魚のうろこのようだった。海の色が変わる境界がはっきり見えた。海から湯気が上がっているのが見えた。海からの蒸発。青い海肌のあちこちで白い蒸気が上がっている様子はなんだか霜降り肉のようだった。

積もった雪と葉のない森を見て北海道に来たと思った。あっという間の空の旅だった。早朝のフライトも悪くない。冬の空は綺麗だった。やっぱり航空券の1万ウン千円はこの景色を見るために払っているのだと思う。

白い砂漠、ライトブルーの雲平線。そして霜降り海。
また新しい空が見えた気がした。

>>「光のアート」

「さわやか少年先生」

2006年01月27日 | クリエイティブな思考への挑戦
私が小学2年生のときの担任は”さわやか少年先生”と呼ばれていた。さわやか少年先生は新米教師で若くて、しかも童顔で身長も低かったから子どもみたいだった。休み時間に無邪気に生徒と遊んでいる姿はまさに”さわやか少年先生”だった。教えるのは決して上手とはいえなかったが、真面目で誠実で心に一点の曇りもない純白の先生だった。

ある日私は肝試しをしようと放課後ずっと学校に残っていた。生徒はみんな帰り、夕日で赤く染まった教室はし~んと静まり返っていた。すると誰かが歩いてくる足音が聞こえてきた。私はとっさに掃除用具ロッカーの中に隠れた。ガラガラッとドアを開けて入ってきたのはさわやか少年先生だった。私は息を潜めながらロッカーの隙間から様子を見ていた。さわやか少年先生は窓側後ろから2番目の席に座った。そして窓の外を静かに眺めていた。実は窓側後ろから2番目の席は私の席で、私もよく窓の外を眺めていた。それでなんとなく、さわやか少年先生と私とが重なって見えた。

どれだけ時間が経っただろうか。窓の外を眺める先生を眺める私、それは永遠のようだったが教室はずっと赤いままだった。さわやか少年先生がふと「あっ、流れ星だ」と言った。

私はいつの間にか眠ってしまっていた。教室はもう真っ暗だった。さわやか少年先生はいなくなっていた。

今思い出してみると、さわやか少年先生が「あっ、流れ星だ」と言った瞬間に夜になった気がする。そんなわけあるはずないけど、だとするとさわやか少年先生が入ってきたところからすでに夢だったのかもしれない。あの日の出来事すべてが夢だったのかもしれない。

それが気になって私は先日母校を訪ねた。「さわやか少年先生はいますか?」残念ながらさわやか少年先生の本名は覚えていない。先生たちもそれではわからないという風だった。それで先生全員に会って探してみたのだが、さわやか少年先生らしい先生はみつからなかった。いるのはみんな”疲れた大人先生”だった。

あなたの学校に”さわやか少年先生”はいますか?

精神の起源

2006年01月25日 | 心の探求
ふと思ったこと。頭の中は言葉でいっぱいだ。考えている脳の中にあるのは絶えず生み出される言葉だ。私は言葉から逃げたくなった。部屋を見回すと、本の表紙やCDジャケット、テレビやビデオなどあらゆるところに文字がある。さらに、テーブルを見ると私の頭の中にはテーブルという言葉が浮かんでくる。意識しないようにすると今度は、木とか茶色とか別の言葉が浮かんでくる。言葉を排除して世界を見ることはできないのだろうか。言葉を知らない犬や猫は世界をどのように見ているのだろうか。想像できない。どうしても言葉が出てきてしまう。いつからこのようになってしまったのだろう。赤ちゃんのころは世界をどうみていたのだろう。いつから言葉に支配されてしまったのだろう。何も考えないことはできない。無になろうとしても絶対になにかしら言葉が生まれてしまう。言葉から逃げることができない。

精神の正体は言葉なのかもしれない。頭の中にあるのは言葉だ。精神は言葉で自分を感じている。言葉なしに思考はできない。精神は言葉でできている。そう考えると人間にしか精神はないということが説明できる。言葉を知らない植物も虫も動物もみんな精神を持たない。細木数子がよくいう、「三つ子の魂百まで」というのは三歳になって初めて魂が宿るという意味なんだ、というのも説明できる。言葉をある程度覚えて初めて精神と呼べるものが生まれるのである。

精神の起源は人間が言葉を発明したときだろう。言葉を覚えて初めて人間は精神を与えられたのだ。

しかし私が今思うのは、この精神から解放されて、つまり言葉の支配から逃げ出して、自然と一体になりたいということだ。自然を自然に感じたい。それは「悟り」なのかもしれないし、「幽体離脱」なのかもしれない。しかし幽体離脱は魂が身体から抜け出るということだが、私が言っているのは言葉とともに精神が消えてなくなることである。「幽体離脱」ではなく「幽体消滅」である。

しかしながら言葉の支配はあまりにも強そうである。

世界のはじまり

2006年01月23日 | パラレル
世界を認識するものがいなかったら、それは世界が存在しているといえるだろうか。
世界を認識できる「精神」が生まれて初めて世界は存在できるのではないだろうか。
つまり、人間が生まれた瞬間に世界は始まったのだ。

ではどの段階の人間だろうか。アウストラロピテクスは世界を認識できたのであろうか。クロマニョン人になったら世界を認識できただろうか。それともサルでも世界を認識しているのだろうか。あるいは微生物も湿度などを認識しているので、それを世界を認識しているとみてもいいのだろうか。

そもそも「世界」とは何か。人間が見ている世界と犬が見ている世界は違うはずだ。人間の世界はカラフルだけど犬の世界は白黒だ。魚の世界、植物の世界、ウイルスの世界となるとまるっきり違うものになるだろう。人間の世界だって固定されたものではない。地球が平面だった世界もあるし、地球の周りを太陽が回ってる世界もあった。ビックバン宇宙という世界はつい最近現れたものだ。
そう考えてみると、世界は海の中に有機体が生まれた瞬間に存在したといえるし、本当の世界は未だ存在していないともいえる。

私の世界は私が生まれた瞬間に始まり、その世界は拡大していきながら、いつかは消滅してしまう。人それぞれの頭の中にそれぞれの世界があり、犬には犬の、たんぽぽにはたんぽぽの、エイズウイルスにはエイズウイルスの世界がある。その世界はその個体が生まれた瞬間にはじまり、個体の成長とともに世界も拡大していき、その個体の死とともにその世界も消滅する。世界は無数に存在し、新たに生まれては消滅してゆく。これぞ本当の「多世界解釈」ではなかろうか。
客観的な世界というものは存在しない。真実の世界なんてものはない。主観が世界を見ているのだから、すべては主観的な世界である。あるいは「神様的視点からみた世界」という表現をするかもしれないが、神様なんてものは存在しないのだからやはりそのような完全に客観的な世界は存在しない。仮に神様が存在しているにしても、その世界はやはり神様の主観的な世界に過ぎない。

世界とは、主観的な多世界が集まった集合体である。そして誰も自分以外の世界に入りこむことはできないのである。
私は私の世界を生きるのみである。

2006年01月23日 | ハコ
朝起きると雪が降っていてね、横浜で雪を見るのは久しぶりだなと思った。薄く降り積もった雪の上を歩いていると北海道の11月のような気分になった。雪はやっぱりいいですよ、真っ白になれる。でも近所の知らないガキに雪玉を思いっきりぶつけられまして、顔面ですよ、それでカチンときて逆に泣かしたったわ。北の人間をなめるなよ

でも雪はやっぱり不便ですね。自転車こいでたらガタンガタンってなって、雪が溶けたのがまた凍って硬くなってるんですよ、ガタガタ道になっててガタンガタンなったからせっかく買った卵が全部割れてしまいましたよ。びちゃびちゃですよ。なんの卵ってイクラですよ。イクラが全部割れてびちゃびちゃですよ。「バブー!」ってイクラちゃんのよだれがびちゃびちゃですよ。かごの中でサケが暴れてびちゃびちゃですよ。卵が割れてサケが出てきて、雪道でガタンガタンなってるよりむしろサケに揺さぶられてましたよ。東京大地震にさきがけて私のとこだけ震度7でしたよ。でも自転車が耐震偽造でなくてよかったです。姉歯設計の自転車だったらどうなっていたことか。ガタンガタンからバランバランなって大変ですよ。北の人間をなめるなよ
テポドン。。

ラマルク進化論

2006年01月20日 | パラソル
エルヴィン・シュレーディンガーの「生命とは何か」に続いて「精神と物質」を読んでいて、ラマルク進化論について考えるものがあったのでそれについて。

ラマルク進化論とは、「個体がその生存期間に、特殊な環境や活動によって獲得した新しい形質は、のちに生まれてくる子孫に伝えることができるし、通常そうなっているのであって、完全な遺伝でなくともその痕跡は伝えられるという仮定」である。つまり「肉体的にもまた精神的にも、自らの能力を増進させようとする努力は、生物学的な意味で失われるものではなく、むしろその種がより高度に完成されたものに向かって努力するための、小さいながら統合的な役割を担っている」のだ。(斜線部は「精神と物質」から引用)
しかしシュレーディンガーも述べているとおり、獲得された形質は遺伝するという仮定は間違いである。進化は偶発的な突然変異によって起こるのであって、個人の生涯の営みとは無関係なのである。つまりダーウィン進化論の方が正しいのである。

さて、ラマルク進化論が誤りでダーウィン進化論が正しいとすれば、私が一生懸命勉強してもその知識は私の子供に遺伝するわけではなく、子供は一から学ばなければならない。それでは私の努力はまったくの無駄ではないだろうか。しかしながら実際子供は歩き方から学ばなければならない。
だが本当にそうだろうか。人間が学習したことは本当に子孫に伝わらないのだろうか。そうではないだろう。人間が学んできたことが後世に伝えられてきたからこそ人間は今日のような高度な文明を築きあげることができたのだ。
しかしながら、知識を伝えてきたのは遺伝子ではなく、言語である。言葉であり文字である。(あるいはそれをミームと呼ぶかもしれない)。遺伝ではないからラマルク進化論はやはり間違いなのだけど、人間は言語によって、生涯獲得した知識を子孫に伝えることができるのである。だから、人間においてはある意味でラマルク進化論は成り立つのである。

つまり私が一生懸命勉強することは決して無駄になりはしないのだ!進化は突然変異によってしか起こらないというダーウィン進化論は夢のないものであるが、言語という「第2の遺伝子」をもつ人間は進化しようという努力によって自らの意志で進化することができるのである。


 ←よかったらクリックお願いします。

 ←よかったらクリックお願いします。。

私はどこにいるのだろうか??

2006年01月19日 | パラレル
私はどこにいるのだろうか?パソコンの前にいるのが私か。その脳みその中にいるのが私か。

私の身体から脳みそを取り出したら私は身体と脳のどちらにいるだろうか。脳みその方だろうと思う。ではその脳みそを切り分けていったらどうなるだろう。
たとえば右脳と左脳を2つにわけてしまったら私はどちらにいるだろうか。どちらかというと芸術家タイプの私は右脳にいるだろうか。それとも言語をつかさどる左脳の方にこそに私はいるだろうか。いや、2つに分けたら最後私という意識は消えてなくなるかもしれない。あるいは右脳と左脳どちらにも私がいるかもしれない。芸術家タイプの私と論理的な私という性格の異なる私が。
右脳と左脳どちらにも私がいると仮定しよう。ではさらに細かく切り分けるとどうなるだろうか。右脳をさらに2つに分けるとまた2つの私になるだろうか。私はどこまで増えていくだろうか。細胞1個になってもまだ私だろうか。私という精神はどこまで小さくなれるのだろうか。

一方私の身体はどうなるだろうか。脳みそを抜き取られた時点で脳が行っていた生命維持活動が停止して死んでしまうだろうか。血管がちゃんとつながっていたら心臓は動き続けるだろうか。だとしたら脳みそのない心臓だけが動いているその身体は生きているといえるだろうか。それを生命と言ってもよいものか。そしてそれは私か。

私はどこにいるのだろうか。本当は私はたくさんいて、その中で一番強い私が今の私を主張しているのかもしれない。その一番強い私が欠落してしまったら今度は別の私が私を主張しだすのかもしれない。
前頭葉前野を損傷したフィネアス・ゲージは一命を取り留めたがその後性格が一変してしまったという。これは一番強く私を主張していた前頭葉前野が損傷したために別の私が私を主張しはじめたからかもしれない。
脳の中では細胞の1つ1つが「私が私だ」と主張しあっているのかもしれない。私という主導権をつかむために絶えず戦いあっているのかもしれない。多重人格というのは私を主張する脳細胞の激しい戦争の結果なのかもしれない。
もしかするとそれとは気づかないだけで、今日の私と昨日の私は別の脳細胞が主張する私なのかもしれない。


これは神経科学の本を読んでいるうちに私が考えた想像であって科学的な話だとは思っていない。しかしながら科学は思いもよらない妄想をさせてくれる。それはとても面白いファンタジーである。だから私は理系なことが好きな文系なのだと思う。

私の脳では文系好きな右脳と理系好きな左脳が絶えずせめぎあっているように思える。本当の私はどっちなのだろうか。どちらも私なのである。。

2006年、戌年

2006年01月16日 | ハコ
今回のテーマは「2006年、戌年」です。

ちなみに私は丑年です。私の頭にネズミが乗っていてゴール手前でぴょんとやられて2番目になってしまった牛です。だからネズミが憎い。ミッキマウスを見るとイライラしてしまいます。しかしながら本当にネズミを憎んでいるのは猫です。京君が可哀想です。

「フルーツバスケット」の話はこの辺にして2006年です。今年はサッカーのワールドカップがあります。どこでしたっけ?フランス?ブラジル?そうドイツ!土井津仁くんの家は貧乏です。あかねちゃん家の財産の100分の1、いや1000分の1でいいから仁くんの家に分けてあげたい。しかしながらね、ドイツはそれでも先進国です。恵まれているんです。本当に援助しなきゃいけない国は他にたくさんあるだろう!ちょっと話が反れましたが、日本代表には優勝目指してがんばってもらいたいものです。がんばれミキティ!スケートのことじゃありません、モー娘のミキティです。

2006年は戌年ということで、犬が大人気になるだろうと言われています。どうするアイフルで有名になったチワワに続けとばかりに我こそはと名乗りを上げる犬が大殺到しているそうです。その中には犬神サーカス団も混じっているとかいないとか。それに乗じて安田大サーカスが、またそれに乗じて保田圭が、、とお笑いブームになんとかすがりつこうとみな必死です。日本はアメリカの犬と呼ばれて久しいですが、日本も負けじとがんばってもらいたいものです。

さて、2006年は戌年ですので「ワン」ダフルな年になってほしいですね。。

情報化によって巨大化する人類の脳

2006年01月13日 | 心の探求
あけましておめでとう、、はまだ有効だろうか。北海道では39℃の熱で大変でしたとさ。葉物野菜の高騰で白菜食べなかったからかな。

人間が高度な文明を築くことができたのは脳が巨大化したからであるといわれる。しかしながら脳の巨大化を取り違えていないだろうか。確かにサルに比べれば脳は大きくなった。しかし象や鯨の脳のほうが巨大ではないか。恐竜の脳だって巨大だったはずだから、恐竜が文明を築いてたっておかしくないんじゃないか。
ということで、人間の脳の巨大化はそういう意味ではないということだ。人間の特性は言語を操り意思疎通を図ることである。そしてこのことこそ脳の巨大化なのである。つまり言語によって他人の脳とつながることができる。つながった脳は巨大であろう。その巨大な脳が文明を築いたのだ。一人の人間では文明は作れないだろう。
今は情報化社会である。インターネットで世界中がひとつながりになっている。世界中の脳がつながることによって脳はさらに巨大化している。科学技術の進歩が高速化しているのは情報技術の発達と無関係ではない。情報化によってより多くの脳をつなげることができるようになった。だから科学技術の進歩が高速化したのだ。

人類の進化は脳の巨大化である。それは容積が大きくなるということではなく、言葉や文字、印刷技術や通信技術によって別個の脳をつなげることによる巨大化である。
このように考えてみると地球がでっかい脳みそに見えてくる。