サラリーマン、単身赴任で寺社めぐり。

単身赴任に彩りを。。
寺社に行き尽くして素敵な仏像たちと出会いつつ、食・酒を堪能する旅に出てみました。

【冬】 奈良・高畑 「静寂と憤怒の中に」②完

2017年03月25日 | 
新薬師寺から南下して歩くこと約十五分、真言律宗高円山・白毫寺(びゃくごうじ)に到着する。
ただ、到着したのは寺のふもとの入口で、ここから、かなりの数の石段を登っていかなければならない。
石段の脇には、この寺の代名詞、萩や椿が見事な花をつける、ということであるが、今日は二月、なにもない。
まことに寂しいかぎりであるが、この「侘しさ感」が、逆にたまらなくよい。




この寺の創建は古く、霊亀元年(七一五)、天智天皇の第七子、志貴皇子の離宮跡を寺にしたのが始まりという。

境内に足を踏み入れる。
そこには、静寂の空間が広がっている。
誰ひとりいない。寺内を独り占めというのは、本当に
「至福の時」
である。

<境内と本堂>



この寺の本尊は
〔阿弥陀如来坐像〕(平安~鎌倉・重文)
であるが、やはり見どころは
〔閻魔大王坐像〕(鎌倉・重文)
であろう。
像高は一一八・五センチ。慶派仏師の手によるもの。
眼と口を大きく「カッと…」開き、憤怒の形相で、観る者を威圧する。まさに冥界の王の威厳である。

さて、ここで「死出の旅路」について、簡単に触れておきたい。
人は亡くなると、まず七日間、ひたすら「死出の山」を歩き続けなければならない。いわゆる「冥土の旅」の始まりである。
そしてこれから、十回にわたる裁判を受けることとなる。
まず一回目、七日目に書類審査である。
その後、三途の川を渡り、十四日目に二回目の裁判、以降、七日ごとに裁判を受け、四十九日目に結審となる。六道(天道・人道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)のいずれに進むのかが決まるわけだが、それぞれの裁判の中で、一番大きな影響力を持つのが五回目、閻魔大王の行う裁判なのである(ちなみに結審から三周忌までの間に三回の再審請求ができる)。

閻魔大王を拝しつつ、
(ぜひ、天道へお願いします…)
と、つぶやくわたしは、間違いなく、天道に行けないこと間違いない…。

仏像拝観を終え、外へ。白毫寺は、かなりの高台に立地しているので、ここから奈良市街を大きく眺めることができるのである。
寒いながらも気持ちのよい景色を見つめつつ、
(ところで、いつまで単身赴任は続くのだろう…)
などと考えている自分がいた。

<奈良市街を望む>


御朱印は、本尊の〔阿弥陀如来〕



ありがたく頂戴する。

白毫寺から近鉄奈良駅までは、歩いて約四十分、かなりの道のりであったが、なんとか駅までたどり着き、単身赴任宅へ。
今日の晩酌は
「ほうれん草鍋」



水一リットルに、粉末かつおだし一スティック(八グラム)を溶き、しょう油大さじ二杯と酒大さじ一杯、塩小さじ一杯を入れる。
具材は、ほうれん草のほかに、絹ごし豆腐とブタコマである。
とてもやさしい味に仕上がり、体に染み入る。
乾杯!


【冬】 奈良・高畑 「静寂と憤怒の中に」②完




【冬】 奈良・高畑 「静寂と憤怒の中に」①

2017年03月19日 | 
近鉄奈良駅周辺は、言うまでもなく、寺社巡りのメッカである。
興福寺、東大寺、元興寺、氷室神社、春日大社といったメジャー級の寺社が立ち並び、国内特級品の仏教美術品を収容する奈良国立博物館が構え、奈良名物、鹿と奈良公園が存在する。


<興福寺>

<東大寺>

<元興寺>

<氷室神社>

<春日大社>

<奈良国立博物館>

<奈良の鹿>


当然ながら、このエリア、常に観光客で満杯状態にある。
ところが、そんな中、メジャー級であるにもかかわらず、趣を異にする場所がある。
近鉄奈良駅から徒歩約三十分、または、市内循環バスを使って約十分。
駅から微妙に遠いところにあるからだろうか、細い路地の先にあって、大型観光バスの駐車する場所がないからだろうか、あるいは、わたしが訪れた時間が、拝観時間開始直後の九時過ぎだったからだろうか、団体客はもとより、ほとんど人の姿がない。


華厳宗日輪山・新薬師寺。
創建は天平十九年(七四七)、光明皇后が夫である聖武天皇の病気平癒を願って創建した、または、聖武天皇が光明皇后の眼病平癒を願って創建した(ちなみに、光明皇后は、強烈な権力欲と奥深い慈愛の両面を持つ人、別の機会に詳しく触れたい)とされる。
当時は七体の薬師如来像を安置する金堂や、東西塔、壇院、寺園などを持つ壮大な寺院だったらしいが、落雷による焼失や台風による倒壊で堂宇を失っていった。
今は、そんな歴史のうねりを乗り越え残った建物や像たちが、静かに、訪れる者を迎えてくれるのである。




小さな山門(南門)(鎌倉・重文)を潜って中に入ると、すぐ正面に本堂(奈良・国宝)が構える。本堂は創建当時のものであるが、前述のとおり金堂が失われたため、他の建屋として使用されていたのを本堂に転用したとのことである。

<山門(南門)>


<本堂>


<地蔵堂:鎌倉・重文>

<鐘楼:鎌倉・重文>


左手の出入口から本堂内に入ると、そこには静寂と憤怒の空間が広がっていた。
まずは、
〔薬師如来坐像〕(平安・国宝)
像高一九一センチと大きなものであるが、カヤの一木造だ。
目はギョロリと大きく、鼻筋は通り、彫りも深い。日本の仏像ではあまり見かけない、異国情緒漂う顔立ちである。正面に立つと、大きく見開かれた目に、仏の
「病気を治す決意」
のようなものが伝わってきて、ただ頭を垂れるばかりである。
ちなみに、この仏の目が大きいのは、寺の創建
「聖武天皇が光明皇后の眼病平癒を願った」
証しであるとの説もある。

そして次に、なんといっても、あまりにも有名、
〔十二神将立像〕(奈良・一体除き国宝)
である。
像高一六〇センチ前後、日本最古最大の像たちが、中央に坐す薬師如来を円形に囲み守護している。
これは薬師如来が十二の願いをかなえるべく修行を重ねる中、これを妨害する悪鬼を退散させる役割を意味し、十二の方角を守護することから、十二支があてはめられるものである。
悪鬼を撃退すべく、憤怒の表情で立つ。静寂なる空間に、強烈な「動」のエネルギーが発せられている。
子:毘羯羅(びぎゃら)大将
丑:招杜羅(しょうとら)大将
寅:真達羅(しんだら)大将
卯:摩虎羅(まこら)大将
辰:波夷羅(はいら)大将
巳:因達羅(いんだら)大将
午:珊底羅(さんてら)大将
未:頞儞羅(あにら)大将
申:安底羅(あんてら)大将
酉:迷企羅(めいきら)大将
戌:伐折羅(ばさら)大将
亥:宮毘羅(くびら)大将
難解な漢字のオンパレードで、記憶することなど、まず無理であるが、
(自分の干支の神将くらい覚えておこう…)
と、辰の場所へと進む。
ところが、辰の波夷羅(はいら)大将のみ、江戸時代末の地震により倒壊、補作されていて国宝指定外、ちょっとガッカリである。
なお、これらの像、当時は鮮やかな極彩色が施されていたということだ(庫裡のほうで、この極彩色をCG再現したNKHの番組が放映されていた)。
まあ、極彩色にして怒髪衝天の十二神将、悪鬼も縮み上がったこと間違いない。

円形の土壇を何周しただろうか…。
静動混淆の堂をあとにするに、わたしの邪気も、キレイに消えてくれたようである。


御朱印は〔薬師如来〕



ありがたく頂戴する。

【冬】 奈良・高畑 「静寂と憤怒の中に」②へ続く







【冬】 兵庫・加古川 「太子ゆかりの地へ」

2017年03月12日 | 
大阪駅からJR東海道線(神戸線)に乗り込む。
この線、西は最大「播州赤穂」まで、東は最大「敦賀」まで直通で行ける壮大な路線である。

本日の目的地は、大阪から約五十分の加古川駅にて下車、そこから徒歩約二十五分のところ。
駅から歩きごたえのある距離であるが、晴天にして気温も高め、なかなか気持ちがいい。


天台宗刀田山(とたさん)・鶴林寺。
崇徳天皇二年(五八九)、当時の廃仏派、物部氏の弾圧を怖れ、播磨の地に身を隠していた恵便(えべん)法師のために、聖徳太子が建立した(当初の名は四天王寺聖霊院)とされるが、これは伝承で、詳細は不明とのこと。
ただ、すでに山門の空気から漂う風格からしても、
「重量級の…」
寺院であることは間違いない。


<山門と仁王像>




入山料五百円を支払い、中に足を踏み入れると、見事な伽藍が広がっている。
入ってすぐ左手に見えてくる三重塔(室町、江戸時代に大改修・県指定文化財)は、比較的新しめのものであるが、真正面に構える本堂(室町・国宝)は巨大にして、入母屋造の屋根は、鳥の翼のごとく両端が反り返った形をしている。
この建屋、和様と禅宗様を組み合わせた折衷様建築の代表作ということであるが、そのような知識を持ち合わせていないわたしが見ても、一目でその美しさは理解できる。


<三重塔>

<本堂>



そして、三重塔手前の行者堂(室町・重文)、本堂左手の常行堂(平安・重文)、右手の鐘楼(室町・重文)など、そうそうたるものであるが、秀逸なのは太子堂(平安・国宝)だ。宝形造(四角錘形)ヒノキ皮葺屋の屋根は浅い傾斜を描き、観る者を惹きつけてやまない。

<行者堂>


<常行堂>

<鐘楼>

<太子堂>





また、新薬師堂(江戸)については、出入り自由、本堂の薬師如来が秘仏(六十年に一度の開帳、次回は平成六十九年!!)のため、拝観自由の像を安置したとのこと。

<新薬師堂>



以上、建屋をじっくり観るだけでも、かなりの時間を要するが、この辺で打ち止めとし、宝物館へ移る。
この館の主人公は、なんといっても
〔聖観音立像〕(飛鳥後期=白鳳・重文)
であろう。
像高は八十三センチ、やや細身で腰を少し左にひねった、流れるような立ち姿、優雅な冠をかぶり、まことに美しい。
法隆寺の夢違観音立像になんとなく似ている。
この像、その昔、盗人が溶かして銅を得ようとしたが、像が「アイタタ」と叫んだため、驚き改心して像を返したとの逸話を持ち、よって「アイタタ観音」と呼ばれているそうな。
そして、そんな逸話がピッタリくる
「愛らしい…」
観音像なのである。

兵庫県と言えば神戸、神戸と言えば洒落街という短絡的なイメージしかなかったが、ちょっと足を延ばしただけで、これだけ重厚感のある寺院と出会うことができる。
寺社巡りの選択エリアが増え、嬉しい悲鳴をあげるばかりである。

御朱印は〔醫王殿〕
(醫王とは「医師が病人を救うがごとく、仏法により人々の悩みを癒す」仏・菩薩のこと)



ありがたく頂戴する。

【冬】 兵庫・加古川 「太子ゆかりの地へ」完







【冬】 奈良・斑鳩 「小さな名刹を訪ねる」②完

2017年03月11日 | 
法輪寺をあとにして、東の方向に十分ほど歩く。
聖徳宗岡本山・法起(ほうき)寺に到着だ。

<山門>



聖徳太子が推古十四年(六〇六)に法華経を講じた場所(岡本宮)に、息子の山背大兄王が太子の遺言により寺院を建立した。当初は岡本寺と言われていたが、これが法起寺に改名されたという。
そして、この法起寺は、聖徳太子建立七寺
一.奈良・法起寺
一.奈良・法隆寺
一.奈良・中宮寺
一.奈良・橘寺
一.奈良・葛木寺
一.京都・広隆寺
一.大阪・四天王寺
のひとつとされ、また、世界遺産に登録されている
「凄い…」
寺なのである。
が、まったくのどかな風景の中、田んぼの一角に立つ小さなこの寺に、そのような圧力満載の空気は、いっさい漂ってこない。

小さな山門から境内に入ると、正面に高さ約二十四メートルの三重塔(飛鳥・国宝)だ。法隆寺の五重塔を参考にしながら建てられたということ、日本最古の三重塔である。

<三重塔>


塔について、たいした知見を持ち合わせているわけではないが、
「日本最古」
「世界遺産」
「国宝」
と聞けば、
(確かに素晴らしい…)
と思えてしまうのが正直なところ。
ただ、塔の立ち姿の凛々しさは大きく伝わってくるもので、さすがに、しばし立ち止まり、見入ってしまう。





次に講堂脇の収蔵庫のほうに向かう。

<講堂:この左奥に収蔵庫がある>


収蔵庫には、本尊の〔十一面観音菩薩立像〕(平安・重文)が安置されている。
高さ約三五〇センチ、堂々たる像ではあるが、残念ながら、前面ガラス張りの蔵であるため、反射して非常に見づらい…。
というか、ほとんど見えない…。
気持ちが盛り上がってきた中で、これか…。
なにか消化不良気味ではあるが、ここで「スッと」気持ちを入れ替える。
寺社を巡るにあたっては、思い通りにいかないことがあっても、それを素直に受け容れることがあたり前なのだ。
そんな中、フッと
(仕事もそんな精神でやっていくことができたら、ストレスもたまらないのに…)
などと、つまらないことを考えている自分がいて、その薄っぺらさを自戒する。
日々、修行である。

御朱印は〔十一面観音〕



ありがたく頂戴する。

ところで最後、触れておきたいのは、法起寺周りのこと。
この一帯、秋口(十月頃)にはコスモスの花が咲き乱れ、実に見事であるらしい。
奈良の「ウォーキング開催案内ポスター」などに、いつも使用されている風景である。
わたしがこの地を訪問したのは冬の時期だったため、「実物」を観ることは叶わなかったが、機会のある方は、ぜひその時期(秋口)に訪問することをお勧めしたい。


帰宅後の晩酌、本日は、おでんにした。
冷え切った身体を風呂で温め、ゆっくりとつつくおでんは最高だ。
つゆに関して。以前は市販の「おでんの素」を使用していたが、今は自分で作り込むことにしている。この試行錯誤も楽しい。
ただ、作り込むといっても、非常に単純で、スティック状のだしをブレンドして入れるだけのこと。
こちらも、以前は、かつおだし、昆布だしと醤油をベースに作っていたが、だんだん醤油の割合が少なくなり、その代わり、あごだしを加えるようにした。
現在形としては、水一リットルに対し、あごだし十六グラム(スティック二本)、昆布だしとかつおだし各々八グラム(スティック一本)と、これだけで抜群のおでんつゆが完成する。
具材は、まさにお好みで可。わたしの場合は、大根、ゆで卵、しらたき、木綿豆腐、平天、竹輪、ブタコマ肉、ウィンナー、手羽元、ブタひき肉の団子、トウモロコシ、えのき、がんも、厚揚げ、水菜、たこ、ジャガイモ、車麩(くるまふ)といったものの中から六~七品目をチョイス、投入して食している。




今宵も素敵な寺社との出会いを思い返しながら、晩酌を楽しむことにしたい。
乾杯!!

【冬】 奈良・斑鳩 「小さな名刹を訪ねる」②完




【冬】 奈良・斑鳩 「小さな名刹を訪ねる」①

2017年03月04日 | 
JR法隆寺駅からの道のり。
以前訪れた法隆寺や中宮寺を左手に見ながら歩くこと四十分、今日の目的地に向かう。

<法隆寺の土塀>


なんと言っても、のどかな道を歩く。
国内、寺社巡りの双璧といえば、京都と奈良。
しかしながら、この二箇所、大いに趣を異にする。
全てが「そうだ」ということではないのだが、端的に言うと、
「みやびの京都、野辺の奈良」
「京都は、ちょっと着飾って、奈良は、トレッキングスタイルで」
なのである。
としたとき、まさに今、この道、この風景こそ「奈良」の風景だ。時の流れが、ゆったりとしているのも格別だと言えよう。
たどり着いたのは、聖徳宗妙見山・法輪寺。

<山門と三重塔>


創建については二説あり、ひとつは、推古三十年(六二二)、聖徳太子病床に際し、息子である山背大兄王が、太子の治癒を願い建立したというもの、もうひとつは、天智天皇九年(六七〇)の法隆寺焼失後、百済開法師、圓明法師、下氷新物という三人(ちなみに、この三人、詳細は不明とのこと)が合力し、建立したというものである。
現在は小さく佇むのみであるが、創建当時は、法隆寺の三分の二の規模を有していた古刹だ。
山門から中に入ると、右手に金堂、左手に三重塔、そして正面に講堂(収蔵庫)が出迎えてくれる。

<金堂>

<三重塔>

<講堂>


各々建屋は新しい。自然災害に遭い、その後、再建されたものだからだ。
三重塔に至っては、もとは、斑鳩三塔(法隆寺、法起寺、法輪寺)と言われる国宝の名塔だったのだが、昭和十九年(一九四四)、落雷による火災で焼失、なんとも惜しまれる限りなのである。

講堂へと足を踏み入れると、誠に見事な空間が広がっている。十一体ほどの仏像が安置されているのだが、中でも、飛鳥時代後期、つまり、白鳳期(大化の改新以降、平城京遷都までの約七十年弱の間)の仏像二体が異彩を放つ。
先ずは、
〔薬師如来坐像〕(白鳳・重文)
像高一一〇・六センチ、クスノキの一木造、薬壷を持たない古式の薬師如来である。
細身・面長の顔立ちは、飛鳥仏の空気を彷彿とさせているが、口元からはアルカイック・スマイルが消え、衣紋も左右非対称、時代の移り変わりを感じさせてくれる。
そして、
〔虚空蔵菩薩立像〕(白鳳・重文)
聞き慣れない名前であるが、「虚空」とは、宇宙のことで、つまり、宇宙のような無限の知恵や慈悲が収まる「蔵」を持つ菩薩だということだそうな。
像高一七五・四センチ、こちらもクスノキ一木造であるが、狭い肩幅、大きな頭部に胴長短足という「童形仏」で、この時期に数多く製作された「小金銅仏」と共通する、可愛らしい体型を持つ。
いずれも、なんとまあ、素朴な像であろうか。見つめるにつれ、心が十分に満たされていく。
そしてもう一体。
堂の中央に立つ
〔十一面観音菩薩立像〕(平安・重文)
である。
平安時代の像ということで、前述の二体と明らかに趣を異にする。
像高三六〇センチの大きなもので、杉材一木造。目鼻立ちはしっかりとし、アゴをグッと前に引いて見つめる。薄っぺらいわたしなどは、ひとたまりもなく見透かされてしまうのである。

まるっきり郊外の小さな寺に、こんなに素敵な仏像が何気なく安置されている。これぞ奈良、なんとも懐の深い場所なのである。



御朱印は〔薬師如来〕



ありがたく頂戴する。

ところで余談、今日はちょっとした失態も演じてしまった。
講堂の奥に置かれてあった「鴟尾(しび):瓦葺屋根の大棟の両端につけられた魚型の飾り」残欠(飛鳥・重文)を間近に観ようと近づきすぎたため、盗難センサーが反応して非常ベルが鳴ってしまったのである。
たいへん失礼いたしました…。

【冬】 奈良・斑鳩 「小さな名刹を訪ねる」② へ続く