サラリーマン、単身赴任で寺社めぐり。

単身赴任に彩りを。。
寺社に行き尽くして素敵な仏像たちと出会いつつ、食・酒を堪能する旅に出てみました。

【秋】 京都・洛西 「紅色に染まる仁和寺を歩く」④完

2017年01月22日 | 
さて、先述の通り、仁和寺は、応仁の乱の戦火によって、焼失してしまったのであるが、これを逃れ、当時の姿を残すものが、霊宝館に安置されている。
〔阿弥陀三尊像〕(平安・国宝)
である。
中尊の阿弥陀如来坐像は、像高約九十センチ、脇侍の勢至菩薩立像、観音菩薩立像は像高約一二〇センチ、いずれも、やや小ぶりではあるが、目線よりも高いところに置かれているため、やや大きめに見える。
丸みを帯びた「ふくよかな」顔立ちは、とても柔和で、観る者を穏やかに惹きつける。
阿弥陀如来というのは、人々を極楽浄土に導く仏。
鎌倉時代に入り、法然が浄土宗を開いて以降、
「特別な修行をぜずとも、南無阿弥陀仏(帰依します、阿弥陀仏に)と唱えることで、極楽浄土に行ける」
という思想が広がりを見せ、この仏が、広く人々に浸透していったことから、数多くの阿弥陀如来が国内各地に作像されたのであるが、仁和寺のこの像は、それ以前の古きもの。定印(左右親指を合わせ、その他の指で輪を描く印相)を結ぶ阿弥陀如来としては、最古のものなのである。
特別な信心など持ち合わせていない、わたしのような者であっても、
「日本最古…」
と聞くと、
(やはり、なかなかの像だ…)
などと思い
(うんうん…)
と、頷いたりしているのが、自分でも少しばかり、気恥ずかしかったりする。
御朱印は〔阿弥陀如来〕



ありがたく頂戴する。

紅葉と国宝仏、存分に堪能させてもらったが、仁和寺内、もうひとつだけ紹介しておきたい。
御殿と言われる場所だ。
明治二十年(一八八七)以降に建てられ、新しいものではあるが、まさに、この場所に、宇多法皇の御所があったらしい。
白書院、宸殿、黒書院、霊明殿といった建屋が渡り廊下でつながれ、宸殿を中心とした南側、北側に、ふたつの趣を異にする庭がある。
南庭のほうは、白砂と松・杉を基調とした簡素なものであるが、その隅に一本の紅葉が、存在を誇示するがごとく、真紅の色づきを放っている。




そして、北庭のほうは、池泉式の風雅なもので、庭越しに見る五重塔も、まこと、見事と言わなければならない。



この二景、カメラ片手に寺社巡りをするにあたっては、絶対に外せないポイントと言えよう。

単身赴任社宅に帰り着いたのは、午後三時。
撮影した画像の保存やら、巡った地の書きとめ作業やら、こまごま行ってから、入浴の時間である。
なにしろ、風呂というもの、まことによい。
わたしの場合、平日の仕事帰りなど、外での飲み会で帰宅が少し遅くなるときを除き、必ず風呂に湯を張ることとしている。
ワンルームの狭い部屋、バスルームも、まったく狭いものではあるが、それでもよい。
シャワーだけだと
(つまらない…)
のである。
さて、本日の晩酌メニューは
「きのこ鍋」



深まりゆく秋、まさに、きのこ類が美味しくなってくる季節到来なのである。
水一リットルに、昆布で出汁をとり、醤油大さじ三杯、料理酒大さじ六杯、みりん大さじ二杯、鶏ガラ出汁大さじ一杯を加えて、スープは完成。
これに、しめじ、舞茸、鶏モモ肉、絹ごし豆腐を具材として投入して食す。
なお、きのこ類は、鍋が水のうちから投入しておくのがポイント。きのこの香りが、つゆにしみ込んでいくので、とてもよい。
晩酌は、二時間ほどかけて、ゆっくり楽しみ、最後は、残ったつゆにて仕立てた雑炊で締める予定だ。

今日も美味しくいただくことにしよう。
(乾杯…!)



【秋】 京都・洛西 「紅色に染まる仁和寺を歩く」④完



【秋】 京都・洛西 「紅色に染まる仁和寺を歩く」③

2017年01月21日 | 
バス停の前にそびえ立つ二王門(江戸・重文)をくぐる。高さ十八・七メートル、入母屋造、本瓦葺の壮大さが、身を竦ませる威圧感を放つ。

<二王門>


続いて、伽藍中心部に向かう入口とも言える中門(江戸・重文)をくぐると、いよいよ、
「強烈に、鮮やかに…」
赤に染まる紅葉の参道が、幕を開ける。
(ああ…京都にいるんだなぁ…)
まさに、感じさせられる光景だ。

<中門>



正面に構える金堂(江戸・国宝)に続く参道に萌える紅葉はもちろんのこと、参道右脇に建つ五重塔(江戸・重文)を取り囲むように映える紅葉も、抜群に美しい。歩みを止め、しばし佇まないではいられない。

<金堂・五重塔>



まあ、不思議である。同じ
「寺院と紅葉の組み合わせ」
であっても、
「京都…」
という響きが加わると、特異な空気を感じてしまう。そして、心の中は、空っぽになり、なんとも
「しっとりとした…」
気持ちとなっていくのである。

時間の移ろいも忘れつつ、ようやく金堂の前に立つ。



この堂は、もともと、慶長十八年(一六一三)に、御所に造営された紫宸殿(儀式が行われる正殿)を寛永年間(一六二四~一六四四)に移築したもの、屋根を桧皮葺から本瓦葺に、内部を内陣・外陣に区切って仏堂様式に、改造したものの、基本的な構造は、当時のまま。現存最古の紫宸殿ということで、国宝指定された。
錺(かざり)金具をふんだんに用いた蔀戸(しとみど)(跳ね上げタイプの戸)などに、いわゆる宮殿様式の風雅さが漂っており、まことによい。
そして、この金堂の、向かって左側に
(仁和寺最高の…)
紅葉がある。
「枝垂れ紅葉」
とも言うべきか。
密集した赤い葉が、強烈な彩りを放っており、
「紅葉側から写す金堂」
の姿は、必ずや仁和寺のベスト・ショットとなること、間違いない。




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【秋】 京都・洛西 「紅色に染まる仁和寺を歩く」②

2017年01月21日 | 
時は室町の世、八代将軍、足利義政には世継ぎがいなかった。
義政、厭世の傾向がはなはだ強く、二十九歳にして、すでに出家していた弟の義視に次期将軍の座を譲ろうとするが、義視は、義政にまだ後継誕生の可能性もあることから、これをあくまでも固辞する。
これに対し、義政は、
「今後、自分に子が生まれても、決して跡継ぎにすることはない」
と、文書までしたため、義視を説得する。
義視は、
「そこまで言うのであれば…」
と、義政の禅譲の意を受け入れたのであるが、その翌年、義政とその妻、日野富子の間に男子(義尚)が生まれる。
まさに、世継ぎ争いが発生する「典型的パターン」と言うべき話であるが、ここから先も、お決まりの展開。
当時、室町幕府のブレーンであった細川勝元一派(東軍)が義視を、山名宗全一派(西軍)が義尚を、次期将軍の座に推し、対立が深まり、ついには、戦乱を引き起こす。
そして、この争い、実に十年間続き、京都の街々を焼け野原にしてしまうのである。
まったくもって苦々しい思いだ。なぜ、こんなお粗末な諍いで、京都の寺社たちが、失われなければならなったのか…。

滅茶苦茶になってしまった仁和寺、室町から戦国の世へと時が移る中、織田や豊臣の手により、復興が行われるも、成果としては現れず。本格的なものは、江戸時代、徳川三代将軍、家光による、寛永十一年(一六三四)以降の復興まで待たなければならなかった。
実に、約百六十年もの時間がかかってしまった、ということになる。


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【秋】 京都・洛西 「紅色に染まる仁和寺を歩く」①

2017年01月20日 | 
冷え込んだ小雨の朝、JR京都駅から市バスに乗車する。
「すっきり晴れ渡った青空」
というのが、間違いなくベストなのであるが、天気に文句を言っても仕方がない。
これから続くであろう寺社巡りの旅、常に
「その天気の中で、いかに楽しむか…」
のスタンスで臨むことに決めている。

京都という街、とにかく、バス網がすごい。あらゆるところにバスで行けそうな勢いだ。  
郊外地を除くと、乗車料金は均一で二百三十円。一日乗車券も五百円で販売されているので、三回以上バスに乗るのであれば、一日乗車券を購入したほうが得ということになる。
したがって、旅程考案の際に、何回バスに乗車するか試算し、一日乗車券を購入するかどうか、事前に決定しておく必要がある。

バスに揺られること約四十分、御室仁和寺バス停にて下車する。
バス停の真ん前に、京都を代表する名刹、仁和寺が立っていた。
(ここが、あの仁和寺か…)
若かりし高校生の頃、「徒然草」を読み、第五十二段「仁和寺にある法師」に、思わず吹き出した記憶がある。以来、ずっと頭に残っていた寺名だ。
有名な話であるが、内容について、一応触れておきたい。

仁和寺に勤める僧が、年老いるまで石清水八幡宮(京都府八幡市)(ちなみに石清水八幡宮内十棟が、平成二八年(二〇一六)国宝指定された)を参拝したことがなかったことについて、
「情けない…」
と思い、一念発起して、単身、参拝に出かけた。
この僧、石清水八幡宮が所在する山の麓の極楽寺や高良神社を参拝し、これですべてと思いこみ、帰ってきてしまった。
寺に戻って後、この僧、同僚の僧に
「長年の思いを果たしました。しっかり石清水八幡宮を参拝してきましたよ。ところで、他の参拝者は山頂を目指して歩みを進めていっていたが、なにかがあったのだろうか?わたしも行こうかと思ったが、そんな物見遊山ではないので、やめておきました」
と語った(実は、山頂にこそ、石清水八幡宮の本社は所在していたのだが…)。
なにかをしようとするとき、案内者がいたほうがよいものなのである。

世界文化遺産、真言宗大内山・仁和寺。
光孝天皇勅願により、仁和二年(八八六)から建設着工の運びとなったが、中途にて光孝天皇は逝去、引き継いだ宇多天皇の手によって、仁和四年(八八八)落成した。
宇多天皇が譲位・出家後、この寺の西南に僧坊を建て、庇護したことから、御室(皇室の住居)仁和寺、いわゆる門跡(もんぜき)寺院(皇室が住職を務める寺)として、発展していく。
ところが、応仁元年(一四六七)に勃発した応仁の乱により、堂宇悉く焼失の憂き目に遭うのである。


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【秋】 奈良・斑鳩 「はじまりは、やはりここから」⑦完

2017年01月19日 | 
帰路、JR法隆寺駅から電車に乗り込むと、心地よい疲れがわたしを包み、ウトウトと眠りに入る。
車中、わずかながらの時間ではあるが、
「うたた寝…」
なんとも、たまらない。
ぜいたくな限りである。
  
単身赴任の社宅に戻る。
ワンルームの質素な部屋が、わたしの城、さっそく晩酌の準備にとりかかる。
独身時代は、なにかと言うと、誰かと呑みに行ったし、そうでないときも、居酒屋の片隅で、独り呑みをしたものだが、結婚してからは、当然ながら、自宅での食事が増え、また、
「小遣い制」
となったこともあって、特に単身赴任してからは、自身の財政破綻を防止するためにも、家呑みへと転換を図った。
ただ、これはこれで面白い。
スーパーで、野菜ひとつ買うにしても、旬のものは安いし、美味い。
また、スーパーによって、加工品に強みを持つ店、生鮮品に強みを持つ店、等々、違いがある。
なんと言おうか、人生、自分が捉える視点次第で、いくらでも「学び」の観点があることに、今さながら気付かされる。
ということで、わたしの
「自慢の…」
献立も、この機会に、恥ずかしながら、披露していきたい。
ちなみに、本日の晩酌メニューは
「大根鍋」


秋から冬にかけ、甘みが増していく大根、鍋の主役である。
作り方は、いたって簡単、水一リットルに、昆布で出汁をとって沸騰させ、これに大根と豚肉、そして油揚げを投入、すりおろし生姜を合わせたポン酢食す。
大根には消化促進作用があるからだろうか、どんどんお腹の中に入っていく。

楽しく過ごせた、今日一日に感謝…。
家呑みの際、酒は、缶ビール(五百缶)二本に、焼酎お湯割り二杯と決めているのだが、今日は記念すべき
「寺社巡りの第一歩」
酒はぐいぐい、わたしの喉に入っていく。
(乾杯…!)


【秋】 奈良・斑鳩 「はじまりは、やはりここから」⑦完