ごとしんの日思月綴

思いつくままに、気ままに更新してます

日本の縮図

2014-12-17 02:15:18 | 日記
不可解な解散総選挙が終わりました。
争点はアベノミクスの是非だそうですが、下々の民にとってはアベノミクスの恩恵と言われてもピンと来ず、是非の決めようがないというのが本音でしょうか。

結局は、自公大勝で、共産を除く野党は伸びず。
前々回選挙で民主党が政権をとったときのような反自民の勢いは、今回もありませんでした。
民主党をはじめとした野党がふがいないからだ、と言うのは簡単ですが、なぜそうなったのでしょうか。

理由は簡単だと思います。
目的が「政権をとる」ことだけだったからです。
政権をとった後のビジョンが欠けていたため、とても任せられないと思われたのでしょう。

民主党は「脱官僚」「政治主導」と言いつつ、上から指図する椅子が欲しかっただけであり、官僚と対決し封じ込めることばかりを考え、何を民に施すかを考えて実践することはほとんどありませんでした。
この構図は、維新や旧みんな、次世代の党の各代表の言動から察するに、民主党と変わらないでしょう。

「政権をとる」ことは、主導的な立場で政治を行うスタートラインに過ぎません。
とりあえず、簡単な(精査していない楽観的な)政策だけは立てておいて、詳細は政権をとってから考えよう──そんな風に見える人(政党)が多いのですが、それではゴールが見えません。
ゴールが見えない以上、それを支持することはできないのです。

しかし、この入口ばかり重視して出口を考えないという構図は、今の日本に蔓延しているといっていいでしょう。

・有名な高校や大学に入ってしまえば、バラ色の学園生活が待っているだろう
・一流企業に就職できれば、安定した生活が確保されるだろう
・結婚できれば、幸せな毎日を送ることができるだろう

入学、就職、結婚は、その後の新しい人生を踏み出す入口に過ぎませんが、より狭い入口(難関)を通ることで賞賛されるのが日本の社会ですので、この入口へ到達するために、多大な労力を費やしています。
つまり、入口が目的になってしまっており、その後のことまで考えが及ばないのでしょう。

入口の関所はとても厳しい一方で、出口はかなり緩やかです。
たとえば、
・入試に比べて単位取得が容易な大学
・年功序列で上がり続ける大企業の賃金
・予算獲得に血眼になる一方で決算がルーズな役所や議員
など、枚挙にいとまがありません。

さすがに近年はそんな甘い世の中ではなくなってきていますが、入口ではなく出口、つまり入った後にどんな成果を出したのか、またそのプロセスはどうなのか、といったことに評価がなされないと、入口時に能力最大で、以後は劣化する一方ということになります。

入口の敷居を低くして、その後何をするか、どんな成果を出しうるビジョンを具体的にもっているか、といったことが問われるべきです。
賞賛されるべきは、入口ではなく、出口でなければなりません。

安部さんは、「強い日本を取り戻す」という明確なビジョンをもって政権をとり、(是非はともかく)それを実行している点が、これまでの政権と異なっており、支持されている理由だと思います。
つまり、「政権をとる」ことは手段であり、ビジョンを具体的に実現させることを目的としている点が、これまでと異なると感じられるのです。

民主党はかつて、シャドーキャビネット(影の内閣)を設けて自公政権に対抗していました。
それが国民に政権を任せてみようという気にさせたのかもしれませんが、ただのまねごとに過ぎなかったことが露呈して、一度きりの政権となってしまいました。
前回選挙での大敗後はすっかり影を潜めてしまいましたね。
他の政党はワンマン色が強く、とても内閣という組織を整えることが想像できません。

アベノミクスの雲行きが怪しくなってきているようで、別の新しいビジョンが示されるべきですが、どこから出てくるでしょうか。

古いマンガは奥が深い(2)

2014-12-14 07:01:24 | 日記
久々久々の更新です。
もともと筆無精な質ですが、ブログなら続くかなぁと思っていたものの、指無精でもあったのかと反省してます。
気まぐれ過ぎと怒られそうですね。
これから少しずつ記事を増やしていこうと思います。

さて、私のお気に入りマンガ「銀河鉄道999」について。

作者の松本零士氏は人間観察力に長けていると思っていますが、マンガの中で、これは人間の本質を物語っているなと感じた話が3つありました。

1つは前回紹介した「自分以外全部バカ学博士」。

2つ目は「霧の葬送惑星」。

葬儀を娯楽とし、それを愉しむために、誰かを殺し続ける星の話。
旅行者が狙われやすいようで、鉄郎とメーテルも襲われたが、鉄郎に撃たれて気絶した星の住民たちを死人扱いしてたくさんの葬儀がはじまり、鉄郎たちは無事にこの星を出て行くことができた。

葬儀ができれば、悲しみの気分に浸れれば、誰だっていい。
他人の不幸が自分の喜びなのだ。

この話の主旨はそのように思えたが、程度の差こそあれ、誰でもそう思うことはあるのではないだろうか。

殺人や事故など凄惨な事件が起こると、マスコミはこぞって被害者詣でをし、その凄惨さを大々的に報道し、加害者の異常さや落ち度以上に、いかに被害者がかわいそうかと同情するふりをして、好奇の目で被害者を追い詰める。
一般人も同じ目線でその報道を視聴する。
そういう報道があるのは、そういう需要があるからだ。

私がいつも気になるのは、海外でそれが起こったとき、報道の結語はきまって「被害者に日本人はいませんでした」ということだ。
その言葉には、「ああ、日本(人)でなくてよかった」という空気を感じてしまう。

邦人被害者がいた場合は、現地の報道ではなく、国内の被害者周辺が報道され、事件の本質ではなく、被害者が報道対象の中心となる。

自分(とその周辺)が事件と関係なければ、「自分(たち)でなくてよかった」と、安心して報道に接することができる。

他人の不幸によって、自分の幸が確認できるのだ。

「霧の葬送惑星」では、それを積極的に表しているのではないかと感じました。