ごとしんの日思月綴

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「ちはやふる」完結!

2022-08-08 21:37:55 | 日記
“BELOVE” 2022年9月号で「ちはやふる」が完結しました。
連載開始からもう15年も経っていたのですね。
当初は、競技かるたとはマイナーな題材を扱うなんてと思いましたが、キャラクターの設定と話のテンポの良さが絶妙で、すぐにストーリーに引き込まれました。
15年間飽きることなく読み続けられたのは、作者の末次由紀氏が相当にかるたを勉強され、ストーリーも練りに練って考えられていたからだと思っています。

小学6年だった綾瀬千早は、同級生・綿谷新の影響を受け、かるたを始めました。
容姿端麗・頭脳明晰・スポーツ万能の真島太一は、かるたに拘る新を軽んじるものの、2人の熱意に引き込まれ?かるたを始めることになります。
そして3人は、小学校卒業時にチーム「ちはやふる」を結成して団体戦に挑み、敗北したものの、かるたを通じて3人には強い絆が生じた、というのが序盤の展開でした。

千早は「将来はクイーン」を目指していたので、連載初期から千早がクイーンになったところで話は終わるのだろうな、と予想していました。

実際、高校3年生になった千早がクイーンになったところで連載が終了しました。
しかし、ただのサクセスストーリーではなく、最終話には珠玉の名言が散りばめられていたことに感動しました。

まずは、千早の高校のかるた部顧問で、「女帝」こと宮内先生の言葉。

当初、千早が進路志望調査で「クイーン」と書いてきたことに呆れたものの、やがて教員になり高校競技かるた部顧問を目指すと決めた千早を応援していた宮内先生。
そしてクイーンになった千早に対し、卒業式で放った一言。

> 「部活の顧問やりたいから」なんて気持ちで戻ってくるんじゃないですよ
> 教育現場の肝は学びを導く力よ
> 人を教える怖さと 人と向き合う楽しさに 取り憑かれたら戻ってきなさい

私は教員ではありませんが、広い意味での教育には関わっています。
深く考えたことはありませんでしたが、教育の現場ではまさに「人を教える怖さ」と「人と向き合う楽しさ」が同居していることに気付かされました。
私はまだ取り憑かれていないので教員レベルには達していませんが、このように言葉で示されると、末次由紀氏はどれだけの現場を観察してきたのだろうかと驚かされます。

次に、千早の姉で、売れっ子モデルの綾瀬千歳。
千歳は小さいときからモデルとして活躍しており、かるたを始める前の千早の夢は、大好きな姉の千歳が日本一のモデルになることでした。
千歳からは、取り柄のない妹と言われ、姉には少なからずコンプレックスを抱いていたと思われる描写がこれまで時折ありました。
そんな姉から、「千早すごい、すごいじゃん。私の妹、クイーンじゃん。がんばったじゃん、世界一」と感泣しながら抱き合う(であろう)シーンでのナレーション。

> この人に認めてもらえないと意味がない 核になる人がいる

SNSに投稿するのは承認欲求を満たしたいからだ、とよく言われますが、その核になる人に認められたら欲求は昇華される、ということを看破しています。
核がなければ欲求はどんどんエスカレートし、やがて犯罪的行為につながるのではないかと思います。
ここでも末次由紀氏の観察眼の鋭さを感じました。

そして、千早の高校の同級生で、かるた部員でもある駒野勉。
成績優秀な太一が東大を受けるものだと信じていた千早が、太一は東大を受けなかったことを知り、駒野に問いただした際に、

> 真島らしいってだけじゃん
> なんでもかんでも話さないし 志望校だって自分で決めるよ
> 綾瀬だってただの友達なんだから

と突き放す。
一緒にいた友達から「そんなにキツイこと言わなくても」と諭されても、「あれくらい言わないとわからないんだよ」と言う駒野。

> ただの友達じゃないから言うんだよ

「ただの友達」じゃないから、千早には「ただの友達」と言って太一を慮る。
そう言わないと暴走してしまう千早をも慮っている。
千早と太一に対する駒野の強い友情が感じられるシーンです。

ハイスペックなイケメン男子、太一のさりげない優しさも、随所に描写されています。

女子に取り巻かれていた太一は、卒業記念フォトフレームを渡そうとするかるた部の後輩、筑波と花野に気が付くと、取り巻きを掻き分けて、花野(女子)には卒業生のブーケを渡し、筑波(男子)には自分のネクタイを外して首にかけて、

> 部長とキャプテン かるた部をよろしくな

と一言。(2人感涙)

また、そのフォトフレームを太一が部室で独り見ているところに現れた千早が、「その写真でみな爆笑しているのは私のお腹が鳴ったからだよね」と言ったのに対し、太一は「本当は花野さんのお腹が鳴ったのにね」と気遣っていた2人。

この後、千早は太一に「好きだよ」と告白するのですが、千早は新のことが好きだとずっと思っていたので、この展開は意外でした。

しかし、太一が千早に寄せる想いを知っていた大江奏(かるた部員の同級生)は、偶然その場を見ており、陰でガッツポーズ。

最後は、大学生になってから(と思われる)開催される、かるたの全日本選手権の会場で、千早と太一が付き合っていることを知ってショックを受ける新。
新も千早を好いていましたが、3人の関係を壊したくなかった新と太一は、互いに千早をめぐって出し抜くようなことはしなかったのです。

この三角関係は、あだち充氏のマンガ「タッチ」の、和也が生きていた頃と似ている気がします。

しかし、すぐに気を取り直し、新は太一に向かって、

> まあ俺は18より 28でとなりにいるの目指すわ
> 東京にいるし ときどきしか会えんつらさを思い知りね
(太一は京都の大学へ進学していた)

と宣戦布告。
(この言葉の意味を、千早は理解していない)
ようやく千早をめぐる三角関係に動きが出てきたところで連載終了とは、読者に想像を掻き立ててますね。

さまざまな動きがあった最終話でしたが、このブログを読んでもよく分からないかと思いますので、「ちはやふる」をぜひ最初から読んでみてください。

私が感じた「ちはやふる」のテーマは、「友情」「絆」ですね。
千早、新、太一の3人だけが特別ではなくて、3人を取り巻く仲間たちとも強い「絆」、いろんなパターンの「絆」が描かれています。

軽薄で淡白な人間関係が多くなった現代に、心に響く言葉や描写が、「ちはやふる」には随所に、しかもさりげなく描かれています。
読んでいる内に、人間関係の機微が学べるマンガである、と言っては言い過ぎでしょうか。

なお、「ちはやふる」の最終話で素晴らしいと思ったことのもう一つは、福井、京都、長崎の方言がほぼ完璧に書かれていたことです。
私はこれらの土地に関わりがありますが、読んで全く違和感をおぼえませんでした。
スタッフに各地の出身者がいらっしゃったのでしょうか。
90ページ弱もボリュームのある最終話でしたが、とても丁寧に仕上げられた印象を受けました。

末次由紀氏の次作に期待しています。

大阪がなくなる日

2020-10-29 00:55:21 | 日記
11月1日に、5年ぶりに「大阪都構想」の賛否を問う住民投票が実施されます。
今度は可決されそうな勢いですね。

「大阪都構想」は東京都になぞられていますが、決定的な違いがあります。
それは、東京市は戦時中のどさくさに紛れて専制的に(国家の強制により)廃止されて東京都が成立しましたが、「大阪都構想」では民主的に(市民が主体となって)大阪市が廃止されるという点です。

戦前・戦時中の都道府県知事は官選つまり内務省を中心とした中央官庁から派遣された人物が就任していました。
一方、市町村は民選つまり住民による選挙で首長が選ばれていました。
東京都は、戦時中に首都の行政機能を強化するため、つまり住民の権限を奪って中央政府の統制を強くするために、東京府と東京市を廃止して両者を統合する形で東京都が設置されました。

戦後は都道府県知事も民選になりましたが、住民と直接向かい合って仕事をする市町村と異なり、都道府県では国と市町村の連絡調整を行ったり、市町村の区域を越える広域の事務を行ったりするのが仕事です。
したがって、大阪市を廃止して特別区を設置することは、大阪府の権限が強化される、つまり地域住民(大阪市民)のための仕事(予算)を減らして、別の地域(大阪市外)のための仕事(予算)を増やすことを意味します。

特別区が市町村と同じになるのだから、住民のための仕事も予算も変わらないではないか、と思われるかもしれませんが、特別区には市町村以下の権限しかありません。
また、大阪市は政令指定都市ですが、政令指定都市は都道府県からかなりの権限が委譲されており、一般市町村よりも強い権限をもっています。
政令指定都市から特別区に転換するということは、天国から地獄へ落ちると言うと言い過ぎかもしれませんが、それに近い状態になることは多くの人が述べています。(調べれば、たくさん見つかります)

大阪府と大阪市が二重行政と言われていますが、政令指定都市のある都道府県では必ず二重行政が生じると思います。
なぜなら、都道府県は政令指定都市に権限を委譲しなければなりませんが、それをしない場合には当然二重に物事が存在するからです。
公共施設にしても、例えば大相撲春場所が開催される大阪府立体育館は大阪市内にありますが、大阪市立体育館も存在するので合わせて2つある、二重行政にあたるから市立体育館は不要だ、というのは乱暴です。
府立なので、大阪市外に建っていれば何の問題もなかったはずです。
しかし、大阪市外の大阪府民が利用しやすいように、交通の便のよい大阪市内に建てたのであれば、二重行政とは言えません。
二重行政と言われていることのほとんどは、大阪府の仕事内容を勘違いしているか、大阪府が余計なこと(大阪市に委譲すべきこと)をしたかのどちらかであり、大阪市に非はないでしょう。

それなのに、大阪市が悪いとばかり叩くのは、住民自治を弱めて大阪府の統制を強くしたい、という戦前の地方政治制度へ回帰することにほかなりません。
また、特別区が設置されると、豊臣秀吉が築いて以来、400年以上存続し発展してきた大阪の街を、分割し縮小することになります。

そのような大阪市をなくすと宣言した首長を3代続いて当選させた大阪市民は、よほど大阪市(大阪の街)が嫌いなのでしょう。
だから、積極的に投票で(民主的に)廃止することができるのです。
もはやこの段階で大阪がなくなっているようなものですから、11月1日に正式になくなることが宣言されるということですね。
大阪府に「大阪」が受け継がれるのではなく、これまでの「大阪」と全く異なる、新しい「オーサカ」が晴れて誕生するのです。
そして、二度と「大阪」へ戻すことはできませんが、市民はそれを分かっているのでしょうか。

かつて「大阪学」という本(大谷晃一・帝塚山学院大学名誉教授(故人)著)を読んだことがあります。
それにはこう書かれています。

大坂とは、秀吉からも徳川幕府からも商業特権を与えられた商人の世界であり、武士でも公家でも農民でもない、町人の町であった。
それゆえ大阪人は、競争、損得、本音の社会を生き抜いてきており、建前が嫌いで、秩序より自由を求め、個人的な合理主義を重んじる。

この本が上梓されたのは1990年代。
損得勘定なしに上面だけで決める、自由よりも統制を望むとは、四半世紀が経って、大阪人気質が変わったのでしょうか。

公明党代表など、中央(東京)から要人が「大阪都構想」の援護射撃をしに来阪しているようです。
世論調査で反対派が伸びてきたのは、大阪に関係ない人たちがあれこれ言い出したことに、大阪人気質が甦ってきたからでしょうか。

はたして、11月1日には「オーサカ」ができるのか、「大阪」が残るのか。
後腐れのないように、高い投票率で決定してもらいたいものです。

TO-YとPSY・S

2020-10-06 17:40:55 | 日記
TO-Y(トーイ)とは、1980年代後半に週刊少年サンデーに掲載された、上條淳士さんの漫画です。
先日、カー用品店へ行ってある部品の取り付けを依頼した際の待合場所に、TO-Yの全巻がそろっているのを見つけ、懐かしい!と思ってむさぼり読みました。

主人公のトーイこと「藤井冬威」はパンク・ロックバンド“GASP”のボーカルだったが、そのルックスやキャラクターが敏腕マネージャーの目に留まり、ソロメジャーデビューするものの、話題性やルックスばかりが注目されて音楽性は否定され、ビッグスターの「哀川陽司」を巻き込んで芸能界をかき回す、といったあらすじになるでしょうか。

どう見ても、哀川陽司は吉川晃司、GASPのリーダー「桃ちゃん」はサンプラザ中野、高校の番長はデーモン小暮など、当時から随所に芸能人の容姿をパクっているのはアリか?と思っていましたが、それがかえって芸能マンガの世界へ入りやすかったのかもしれません。

漫画作品としての「TO-Y」の最大の特徴は、歌唱や演奏のシーンには文字が入っておらず、キャラクターの表情や動き、画面効果のみで表現していることです。
哀川陽司の場合は、吉川晃司風に歌ったり踊ったりするのだろうな、と思える(そのように読んでしまう)し、作品中のスーパーアイドル「森が丘園子」の場合は当時のアイドル、松田聖子や中森明菜のような歌い方を想像できます。
しかし、主人公のトーイには全く想像ができません。
声が高いのか低いのか、クリアなのかハスキーなのか、またどんな音楽なのかについての判断を、完全に読者に委ねています。

作品中には、「トーイの色は真っ白なんだよ」といった表現があちこちに見られますが、読者に対しても真っ白に見せている展開と描写が見事です。

さて、マンガが話題になれば、アニメ化や映画化という流れになりますが、「TO-Y」はオリジナル・ビデオ・アニメーション化されました。
そうなれば、主題歌やサウンドトラックが出るものですが、「トーイ達に歌をうたわせない」ことが作者の条件だったらしく、制作されたのは『TO-Y オリジナル・イメージ・アルバム』でした。
その音楽監督を務めたのが、PSY・S(サイズ)の松浦雅也さんでした。

PSY・Sは松浦雅也さんと“CHAKA”こと安則まみさんのユニットで、シンセサイザーを多用していることから私はジャンル的にはテクノ・ポップだと思っていたので、「TO-Y」の舞台であるパンク・ロックの世界とは私にはイメージが合いませんでした。

PSY・Sの「Lemonの勇気」がアニメ「TO-Y」のイメージソングということになっていますが、パンク・バンド“GASP”のイメージとはどうもしっくりきません。
ただし、ヒロイン(?)であるトーイの追っかけ・山田ニヤのイメージなら分かるし、実はそうだったのかもしれません。

唯一、ZELDAの「時計仕掛けのせつな」がマンガに出てくる“カシミイル”というガールズバンドにかぶるくらいでしょうか。
なお、この「時計仕掛けのせつな」が入っているZELDAのアルバム『C-ROCK WORK』は絶品です!
ヘタウマ(?)なボーカルと独特のリズムがクセになり、今なお聴いても飽きません。

さて、PSY・Sの「Lemonの勇気」ですが、「TO-Y」と切り離して考えてみると、私がこれまで聴いたことのある日本のポップスの中で、5本の指に入るくらい推したい名曲です。
シンセサイザー、ギター、ベース、パーカッションと、アップテンポの中でいろんな音が次から次へと出てきて絡まり合い、それをCHAKAのハイトーンなボーカルがうまくまとめるという感じでしょうか。
初めて聴いたときは、このPSY・Sの世界に鳥肌が立ちました。

『TO-Y オリジナル・イメージ・アルバム』の最後の曲「Cubic Lovers」もPSY・Sの曲ですが、これは「Lemonの勇気」のサビの旋律から始まるリプライズになっています。
曲調は全く異なるバラードになっていますが、これも佳曲ですね。

「Lemonの勇気」も「Cubic Lovers」も、アルバム『Mint-Electric』に収録されています。
このアルバムがまた素晴らしい!
PSY・Sのアルバムとしては、その次の『NON-FICTION』の方が有名な(売れた)のではないかと思いますが、私は断然『Mint-Electric』を推します。

イントロとしての「Simulation」、アップテンポな「電気とミント」、ちょっと切ない「青空は天気雨」、浮遊感の漂う「TOYHOLIC」、完成度の高い「Lemonの勇気」、行進曲っぽい「Sweet Tragedy」、ゆったりした「Long Distance」、そしてバラード「Cubic Lovers」で余韻を残しつつ、最後に「ガラスの明日」でガンガン攻めてくる。
アルバムを通して音とリズムのデパートのようで、松浦雅也さんのアレンジ能力の高さが感じられます。

今世紀に入ってからのJ-POPは売ることばかりが考えられ、ちょっと売れた曲のパクリのような曲が多く、似たような曲ばかり並んでいるような気がします。
PSY・Sが活躍した1980年代の音楽は、つくづく自由だったのだなあと思います。

大相撲春場所~まれに見るドラマ

2019-03-25 00:14:35 | 日記
平成最後の大相撲が終わりました。
白鵬が15戦全勝で優勝しましたが,今場所の話題は何と言っても貴景勝が大関昇進なるか?というところでしょう。

先場所までの直前3場所の勝ち星が33勝あり,大関昇進の目安はクリアしていましたが,新関脇から新大関への昇進は前例がないということで,もう一場所様子を見ることになったようです。
そして今場所,10勝して3場所で34勝ですから,文句なしですね!

しかし,横綱鶴竜と大関豪栄道を破ったとはいえ,14日目を終えた時点で9勝5敗。
9勝と10勝では全く印象が違いますので,千秋楽は星を落とせません。
千秋楽の相手は大関栃ノ心,こちらは14日目を終えた時点で7勝7敗。
先場所は途中休場したので,今場所がカド番,負け越したら大関陥落です。
言わば,大関の入れ替わり戦というべき取組が,千秋楽に組まれました。

相撲は,貴景勝の押し勝ちで,栃ノ心が土俵から飛ばされました。
そして,貴景勝の大関への昇進と栃ノ心の関脇への陥落が,この一瞬で決まったと言っていいでしょう。

貴景勝への賞賛の声が続いていますが,私にはこの一番では栃ノ心を賞賛したいですね。

負け越したら大関から落ちるので,絶対に落ちたくない,何としてでも勝ってやろう,と思っていたはずです。
当然,「変化する」ことも一つの技ですから,やっても構いません。
私は見ていて,変化することもあるかもな,でも今場所の貴景勝なら変化に対応できるだろう,などと思いながら,貴景勝を応援していました。
しかし,栃ノ心は正面からぶつかり,あの筋骨隆々とした上体で貴景勝を受け止めるも,貴景勝の押しが勝り,押し出されて土俵を割りました。
鶴竜や(調子が悪いときの)白鵬なら変化するのではと思えるような局面で,栃ノ心は正々堂々と自分の相撲をとり,そして敗れました。

何と清々しいのでしょう。
大関在位はわずか5場所,29勝28敗(18休)と芳しくない成績ではありましたが,その取り口は大関として相応しいものだったと思います。

来場所10勝すれば,大関に復帰できます。
新元号最初の場所では,栃ノ心に主役になってもらいたいものです。

ところで,今場所は終盤までもつれて面白い取組が多かったのは,休場力士がほとんどいなかったからでしょう。
力士のみなさんが体調管理に気をつけるのはもちろんですが,相撲協会も力士に負担をかけないよう,行事を減らして休息を十分にとれるようにしてもらいたいものです。
本場所の取組が面白くなれば,相撲人気もまた向上することと思います。

森高千里はアーティスト!?

2019-02-24 12:09:43 | 日記
森高千里さんが21年ぶりに全国ツアーを行っていることを先日知りました。
最近はかつてのアイドル(?)が50歳前後で復帰あるいは再ブレイクするのをよく目にしますが,同世代としては懐かしくも嬉しくも思います。
森高千里さんもその一人でしょうか。

森高千里さんは1980-90年代に活躍した歌手ですが,「歌手」という言い方が適切かどうか分かりません。
顔立ちは整っているし,脚はすらっときれいで長い。
写真はいつもミニスカで,容姿はアイドル然としていましたが,キャラ的には全くそのようなそぶりは見せていませんでした。

強烈な印象を持ったのは,アルバム「非実力派宣言」のジャケットを見たとき。
フリフリのスカートを履いて変身戦隊もののようなポーズをとっている。
そのタイトルもさながら,このコスチュームやポーズにどんな意味があるのだろう?
とにかく,「何だこれは!?」とぶっとんでしまいました。
次のアルバム「古今東西」でもそのセンス(?)に磨きがかかってる。

いつ頃からか,ドラムを叩きながら歌うのを目にするようになりました。
ドラマーがメインボーカルをとるなんて,当時はジェネシスのフィル・コリンズか,C-C-Bの笠浩二くらいしか知らなかったので,とても新鮮でした。

歌は特段上手いとは思いませんでしたが,歌詞が面白い。
タイトルやコスチュームにはいつもいい意味で裏切られましたが,「渡良瀬橋」のようにしっとりと歌い上げることもできる,つかみどころのない「歌手」というのが私の印象でした。

そんな森高さんの代表作は,「私がオバさんになっても」でしょうか。
人気絶頂期の若い女性が,朽ちていく将来のことを爽やかに(?)歌っていました。
ボディコン・ハイヒールの女性たちが肩をいからせて闊歩していた時代に,とても自然な詩と歌い方が印象的でした。

そして今,オバさん(?)になった森高さんが,ツアー開始!
「ミニスカでツアーやるんだ!?」と旦那さんである江口洋介さんが唖然としている記事を見ましたが,全くオバさん然としていません。
「美魔女」と言うと,無理して若づくりしている印象を抱いてしまいますが,森高さんの容姿は自然で「魔」がありません。

ミニスカートはムリじゃない。
(ピチピチ感は負けているかもしれないが,着こなしは)若い子に負けていない。

30年近く前の詩を自己否定している。
今を見越して過去にあの詩を書いたのか,それとも予想を裏切る素敵なオバさんになって登場するためにこの四半世紀を努力し続けて(容姿を維持して)いたのか分かりませんが,体を張って自己表現している森高さんの姿は,「アーティスト」にほかなりません。

これから先,森高さんはどんな「おばあさん」になるのだろう?
おばあさんになってもミニスカ?
全く予想できないところが,「森高千里」である所以なのでしょうか。

70になっても80になっても,アーティスト「森高千里」が健在であることを願っています!