晴山雨読ときどき映画

“人生は森の中の一日”
山へ登ったり、本を読んだり映画を観るのは知らない世界を旅しているのと同じよ。
       

「じゃあ、どうすればいいの!」

2009年09月09日 | 
と読み終えた後、天に向かって叫びたくなった飯嶋和一作「出星前夜」でした。



新聞評には「島原の乱は天草四郎を中心としたキリシタンたちの蜂起で宗教的な戦いとされているが、彼らが立ちあがった真の理由は当時の支配者松倉家の苛政にあったということを史実に基づいて書かれた秀作」と紹介されていました。
35回大佛次郎を受賞しています。
私の知識ではどこまでが史実でそうでないのか分かりませんが、2章は合戦記さながらでやっと読了。舞台が地元の長崎島原でなかったらとうに投げ出していたかも・・・。

一章は確かに読み応えがありました。
元武士、鬼塚監物(甚右衛門)が煩悶しながらもキリスト教を早々と棄教し南目を救おうと名主となり、松倉家の圧政にも我慢して年貢を納めるよう村人を支えている姿は胸を打ちます。彼の胸中を理解する者は誰も居ない。村人や若者を率いる寿安には日和ったとしか写らないが、彼はもと水軍でならした武将で争いが無益であることを充分承知している指導者でした。争って解決できるはずがない、それより田畑の収穫があがる方法を研究し、開発した籾殻を与え近隣の村人達にも農法を教えて何とか重税を賄い、代官らとの緩衝帯となってい人物です。ところが不作となった年に傷寒がはびこり寿安率いる若者グループが番所を襲った。
この寿安こそが天草四郎なのか?と途中まで思えます。
しかし彼は、味方の南目村キリシタンらが勝ちに乗じ、予期しない方向に暴走し始めると愕然とするのです。圧政を強いている松倉と何だ変わらないではないか・・・と

この騒擾(そうじょう)は同じ年の秋に対岸の天草半島に飛び火します、天草は隠れキリシタンが多く「集会の儀」が盛んな土地。ここで突出してくるのが天草大矢野島の若者ジェロニモ四郎です。後の天草の乱の首謀者「天草四郎」を最後まで脇役とさせたのが良い。

二章はさながら合戦記。
この乱を治めるために「出世のため」「幕府に対する忠誠心を示す好機」だとしか考えていなかった多くの諸大名。ましてや蜂起するのはカソリック信者だからという名目でプロテスタントであるオランダの大砲が持ち出され炸裂します。これを押したのは長崎代官末次平左衛門。彼は貿易家でもあり長崎市民を守るという気概に溢れている役人ではあるが私には解せません。

後に寿安の師となった医師恵舟ら数多くの登場人物の中で、私が感情移入できたのは最終的に医師を目指した寿安ではなく、一章に登場した甚右衛門でした。人間らしい苦悶を抱えた人物に描かれていたように思えます。年を重ねてこういう人物に惹かれるようになってきている自分を感じます。

彼が重税に耐え田んぼに水を張り思ったことは印象に残りました。彼から生きる哲学を学んだ気がします。

    「思い通りにならないことは世の常であり、最善を尽くしても惨憺たる結果を招くこともある。最善を尽くすことと、その結果とはまた別な次元のことである。しかし最善を尽くさなくては、素晴らしい一日をもたらすことはない。たとえ収穫が通年の半分に満たなくとも、刈り上げた日の喜びと充足は訪れる。その結果として得られる収穫の量とは別な次元のことであり、何より最善を尽くしたという充実感こそが不安を埋める唯一のものである」

そんな彼が再びクリスチャンとなり武器を取らざる得なかったのは、彼自身の置かれた立場だったのか、それとも・・・
原城に立てこもった3万5千余りの信者は殺害され島原の乱は終結、島原城主松倉勝家は改易後断罪。天草領主寺沢は天草の所領を没収されました。あまりにも多くの犠牲が払われました。

島原城を築いたのは、島原に圧政を強いた松倉だったと知った今、果たして今までと同じようにあの城を眺められるでしょうか。
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