祈りへの巡礼

敬虔な祈りへの旅へ。

演劇

2018年09月28日 | 日記

9.28.2018(v) 晴れ

雨の中、久しぶりに下北沢の小劇場に足を向けた。ロシアのチェチェン共和国で実際に起きたテロ

事件を題材にした芝居と、男女の不条理な絡み合いをネタにした演劇、各々一時間の出し物を観た。

いつも思うのだが芝居は日常ではあり得ない場面と向き合わなければならない。今回も極限状態に

追い込まれた人間がどのようにたやすく狂気になるのかという問いかけを私たちに突き付けて来る。

正直、疲れる。出来れば目を背けたい場面もある。演劇を観るということは自分の中に異物が侵入

してきて自分の存在をコテンパーに打ちのめすということだ。5千円もだしてどうしてそんなもの

観るの?しかし、観終わっていつも感じる。ああ、自分がどんなにか平々凡々たる日常の網の中に

絡み取られているのか!人間としてもっともっと奥深い可能性を持ち得ているのに、自分はそれの

百分の一も出しきっていないではないか。

 

芝居とは自分を映し、叱咤激励してくれる鏡である。だから演劇は永遠に見続けなければならない。

 


後悔の念

2018年09月25日 | 日記

9.25.2018(Ⅿ) 曇りのち雨

昨日、ようやくピアノの発表会が終わった。やれやれである。たかだか3分の曲にさんざん悩ま

され続けて来たが、あっという間に演奏は終わってしまった。案の定、緊張感で通常の精神状態

ではなかった。滑り出しから焦ってしまって、ペースも早くミスタッチもある調子でとても満足

いく出来ではなかった。そのため、終わってなにか弾き足りない自分のもどかしさを感じてた。

ああ、もう一度演奏の場が与えられたならこんどこそもっといい演奏ができるのに…

そういえば前の演奏の部で、会場から出て来た上手な高校生の女の子が突然壁に顔をうつぶせに

したまま無言で慟哭していたな。そのときは一体どうしたんだろうと思ったが、そうか、あんなに

うまい子でも自分が思い描いたような演奏が出来なくて悔し涙を流すんだ。もう一度演奏の場が

与えられればという下手は下手なりのオレの悔しい感情は人間としてまともなほうなんだ、と妙

に感心してしまった。悔しいなあ!来年こそは…

努力に勝る天才なし。さあ、また明日から練習だあ!

 


お彼岸の墓参り

2018年09月23日 | 日記

9.23.2018(Ð) 晴れ

今日はお彼岸、墓参りに行って来たが日差しが強く暑い一日だった。もともと、古来の日本では

春分の時節に豊作祈願し、秋分の頃に刈り入れを祝う自然信仰があった。そのため本来は山の神

である祖霊を春分時に山から里に迎え、秋分以降山へお帰り頂くのが一般的だった。しかし仏教

興隆流れに伴っていつの間にか秋分の日は秋のお彼岸として祖先を供養することになったらしい。

まあ、そんなことはどうでもいいが、1年に一度か二度くらいしかやらない祖先の供養をすまして

いまほっとしている。お墓に向かって手を合わせると、こころがスッキリする。なにも御利益を

期待する訳ではないが、なにかいいことが起こりそうな気がしてくるから不思議なものである。

毎朝の祈りの儀式と瞑想でもそうだが、論理を超えるなにかがありそうなことは確かなことだ。

明日のPiano発表会、なにかいいことあるかな。

 


宗像神社のみあれ祭

2018年09月20日 | 日記

9.20.2018(J) 曇り

10月1日に宗像神社のみあれ祭が催される。古事記や日本書紀にも登場してくる天照大神と

スサノウ大神の誓約(うけい)の場面、とくに宗像三姉妹誕生の『天眞名井』でも有名だ。

解説書には『みあれ祭は辺津宮に祀られている市杵島姫神(いちきしまひめ) が姉にあたる沖津島の

田心姫神(たごりひめ)と中津島の湍津姫神(たぎつひめ)を迎えるもので、海上では宗像三女神それ

ぞれの御輿を載せた3隻の御座船(ござぶね)が約500隻の漁船に供奉(ぐぶ)されて、海上を巡行

する大規模な海上神幸行事で知られる。宗像氏は有史以前の古代から海人族として知られ、優れた

航海技術をもち日本と大陸との交易、政治にじつに重要な役割を果たしてきたとされる。』

五年程前になろうか、世界遺産にされる前、私は宗像大社と中津島神社を訪れたことがあるが、

このみあれ祭と沖津島参拝はどうしても果たしたい私に取っての神事であった。

今回、縁があり、ある漁船に乗せてもらえる幸運を得た。

この件は、10月5日ごろでブログで報告できると思う。乞うご期待!


無我の境地

2018年09月19日 | 日記

9・19・2018(Ⅿ) 曇り

来週の月曜日にピアノの発表会がある。先生について習い始めてもう1年半、延べ練習時間にして

約一千時間も費やしているのに、わずか3分余りの曲を弾くのに弾きこなすのに七転八倒している。

どうしてこうも指が動かないのだろう。嫌になって来る。頭で理解することと行うということが

かくも違うという絶対格言をイヤというほどいま味わっている。子どもの練習時間を1とすれば、

大人のそれは4倍かかるという。子供は自然にまねをするが大人はどうしてもいったん頭で考え

てから、つまり何事も翻訳作業を経ないと動けないからだという。

 

故・井筒俊彦先生がいう『超自然的意識』、すなわちそれ自身の無化、つまり意識が己自身の放つ

全光輝なかで光り輝き、自分を照らすとは、超自然的意識に立った無我の境地の奏者を指すので

あろうか。一日もはやく悟った無我の境地で弾く奏者に近付きたいよ。