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憲法全面改正に手段選ばず見解翻し歴史歪曲も。その4憲法記念日と吉田茂とGHQ。吉田政権は憲法改正せず決定

2024-05-02 18:05:33 | 憲法

 ※以下の内容は2016年2月13日に投稿したものですが、今年も日本国憲法公布の日(11月3日)を迎え再投稿しました。

 現行の「日本国憲法」は、吉田茂内閣の下で成立した。しかし、彼は改憲論者であった事から、彼にとってできるであろう事として次に考えた事が「憲法をいつ公布し施行するか」という点での策略であった。その背景には彼の歴史認識があった。

 吉田茂は、日本の近代史のなかで、明治時代以来の神聖天皇主権大日本帝国政府の歩んだ道にはまったく誤りがなかったと信じていた。ただ、1931年9月の満州事変から1945年8月の敗戦までの間に限り、大日本帝国政府軍部の余計な干渉によって、変調をきたしたと考えていたのである。

 そのため、占領下日本について、新しい民主主義国としての「新生日本」として見る事は間違いであり、「再生日本」として理解すべきであり国づくりをすべきであると考えていた。つまり、満州事変から敗戦までの間を手直しする事が彼の目標であり、軍事主導体制を「君主制下の政治主導体制に戻すという事を目標とした。それは、天皇制の存続と、「国民」は今まで通りの「臣民」(天皇の家来)であらねばならないという認識であったという事である。そして、吉田茂は徹底した「反共主義者」でもあった。

 国民をどのように見ていたのかという点については、『回想十年』によると、強烈な大衆蔑視意識をもっており、「日本人は時代の風潮に流されやすく、軍国主義の時代になれば、それこそ一億右ならえであり、敗戦によって民主主義の到来という事になれば、それっとばかりにそちらに走り出す。そして共産主義の宣言に自ら呼応するといった状態になる、そのような大衆には強圧的に対応する事が必要だ」と考えていた。

 さて、「憲法をいつ公布し施行するか」という事である。吉田茂は日本国憲法施行において最大の関心を払ったのが敗戦までの天皇制と大日本帝国の記憶を国民の意識下に改めて刻みつけ将来の復活を図る事であった。このため彼は神聖天皇主権大日本帝国政府下では2月11日紀元節(神武天皇即位日)とし、それに合わせて大日本帝国憲法が発布されていた事を最重要視し、再生日本の出発点として2月11日を施行日とする事を目論んでいた。

 しかし、GHQはそれとはまったく正反対の考えを持っていた。それは、神聖天皇主権大日本帝国政府下で「明治節」(明治天皇誕生日)としていた11月3日に公布し、明治天皇の天皇主権欽定憲法国民主権(民定憲法)の憲法に変更して国家体制の変更を印象づける絶好のチャンスにしようとしていたのである。また、そうする事により、施行日が5月3日となるので、軍国主義日本から平和主義国家への転換を印象づける事ができると考えたからである。というのは、1年前の1946年の5月3日には、東条英機ら28名のA級戦争犯罪容疑者を裁く「極東国際軍事裁判(東京裁判)」が開廷された日(~48年11月)であり、その1周年記念日に戦争放棄・戦力不保持の憲法を施行する事で新生日本を印象づける事ができると考えていたのである。そして、この構想が実現したのである。

 吉田茂の構想は、結局どうなったのか。先ず、2月11日施行を考えていたが、憲法改正案の成立が10月7日であったため、不可能となった。そのため、「明治節」であった11月3日を「憲法記念日」とする事を考えたが結局それも実現する事はできなかったのである。

 吉田茂は完全にGHQに押し切られたのである。しかし、マッカーサーは吉田茂に配慮した事もあった。それは、日本国憲法制定に先立って、吉田茂対し「憲法が日本人の自由にして熟慮された意思の表明である事に将来疑念を持たれてはならない」として、憲法施行後2年以内に自由に改正できる権限を与えていた。

 これによって、1948年6月以降、国会や民間に検討のための研究会が設置され、見直しがされたが、吉田政府は、改正の意思がない事を表明し、憲法施行2周年の1949年5月3日に「自主的判断」により、現行憲法のままとする事を確定した。

 当時の改憲勢力の考え方については、1956年の参議院内閣委員会の審議に参考人としてよばれた鈴木義男衆院議員の「私の記憶に存する憲法改正の際の修正点」で知る事ができる。鈴木は片山・芦田両内閣で司法大臣や法務大臣を務め、戦前から戦後への法体系の大変革の時に中心となった人物であるが、彼によると、「改正論者の本当の目的とするところは、天皇制のある意味の復活、第9条の大改正、家族制度の復活、こういう風なところにあると思う」これらだけを持ち出すと抵抗があまりに強いので、カムフラージュするために項目をたくさん並べて焦点を多岐にわたらせて、なるほどと思わせて主たる狙いを完遂してしまおうというのである」と述べている。また、衆参両院議長に諮り、法制局でも改正点の調査を命じた事を述べ「修正したい所があったら申し出よと言ったけれども、いや良くできている、修正するような所はない。どこへ行って聞いてもそういう御意見であった」「当時の国民が日本国憲法を歓迎した」と述べている。

 1946年5月27日の毎日新聞による「憲法改正に対する世論調査」では、象徴天皇制については85%が支持、戦争放棄条項(第9条)については70%が支持、国民の権利については65%が支持、国会の2院制については79%が支持している。

 自民党のこの悔しさは、紀元節復活への思いを強くさせ、1966年末に紀元節であった2月11日を無理やり「建国記念の日」とする強行成立へ向かわせたのである。

(2016年2月13日投稿)


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