塔ノ岳から蛭ケ岳経由で橋本駅北口へ

 タイトルのコースはお気に入りです!

マーラー9 
シューベルト・ピアノソナタ 17 が
祈りの音楽です。

丹沢山行記 セレクト  

2017-06-20 16:38:47 | いろいろ
 「毎日、自分の足に感謝する。練習が終わったら足に『きょうもありがとう』と話しかけて感謝する」

「こういうことはいつかは来る。ここで終わりじゃない」

 「2013年にけがをしてしまって、ダッシュ練習が一切できなくて、スタートもできないぐらい腰を痛めた。12秒しか出ない自分に悔しい思いをしているときに『陸上をやっていていいのか?』と思った。

結果を残せない時期が一番悩みでもあった。そのときにも支えがあって今がある」と、少し目を潤ませながら周囲のサポートに感謝した。

 同日に行われた女子200メートル予選は自己ベストの23秒39をマークし、全体トップで25日の決勝に進んだ。今夏のロンドン世界陸上参加標準記録の23秒10に迫り「200メートルで自己ベストを出したのが一番うれしかった。チャンスがあれば狙っていきたい」と、100メートルとの2冠を見据えた。

 サニブラウンについては「強いの一言に尽きる。予選、準決勝、決勝と一定の高いレベルの記録で余力を持って通過した。世界で決勝に行くためには非常に重要。(ウサイン)ボルト選手やカール・ルイス選手のように60~70メートルまでメンタルを安定させて走れるのが強み。レース勘にたけている」と評価した。


日本陸連の伊東浩司・強化委員長(47)は、2万700人の観衆を集めた男子100メートルを総括し「決勝はもっと高い次元の記録になると思ったが、天候にだいぶ左右された。昨日(23日)と同じ条件なら(9秒台は)出ていたと思う」と恨めしそうだった。



2016
年末現在

 2566塔ノ岳2594

 1381丹沢山1407

 1216蛭ヶ岳1242

  634姫 次659

  157青根159

    6平丸8

  423焼 山438

  419焼山登山口435

  406三ケ木420

  291橋本駅北口294

  160檜洞丸162

   18本間ノ頭19

   67三ノ塔72

   37大山45


    3大山三峰5


ミトコンドリアがお休みしたら、身体は動かない。

言うならば電池切れ・・・状態。

這々の体で日陰に逃げ込む。

水分をとり身体の回復(バッテリーチャージ)を待つ。

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うおお!バン・ニーキルク世界新!!400m43秒03ておい!!100mを10秒75でいく計算!

2017-05-29 20:51:42 | マラソン・駅伝関係

陸上界の新たなスター、ウェイド・バンニーキルク!

100m9秒台 200m19秒台 400m43.03←世界記録

8レーンの配置が好記録につながったのか、シードレーン(4~6レーン)だったら42秒台は達成されたのか!陸上はタラレバがつくスポーツですが、42秒台が現実的になった物凄いレースでした!

リオオリンピックでマイケル・ジョンソンの永久不滅と言われた世界記録を破り、43秒03という驚異的な世界記録で金メダルを取った南アフリカ共和国の「ウェイド・バンニーキルク」選手。

日本のテレビではあまり大きく取り上げられませんでしたが、陸上関係者(特に400mスプリンターの皆さん)の間では、まさに衝撃的ニュースとなりました。

個人的にはウサイン・ボルト選手の9秒58並に衝撃の記録だったと感じているのですが、いかがでしょうか?


世界の他の400m選手と比べても、短い距離でのPB記録が圧倒的に速く、世界で唯一9秒台、19秒台、43秒台を達成した選手です。

これは2016年現在現役である選手だけが対象でなく、これまでの陸上史の中で見ても彼しかなし得ていない大偉業となります。

あのマイケル・ジョンソンですら100m9秒台は持っていませんし、世界最速のボルトですらなし得ていないことです。

それだけ圧倒的優位なスピードを持っているバンニーキルク選手ですが、ただ短い距離が速いだけでも43秒03という記録を出すことはできません。

バンニーキルク選手は9レーンという不利なレーンでのレースの中、序盤から自身のスピードを活かして積極的に攻めていきます。

300m地点では一度メリット選手やキラニ選手と並びかけますが、前半あれだけ飛ばしたにも関わらず、ラスト100mで他の選手をさらに引き離していきます。

ラスト100m、バンニーキルク選手を追うメリット選手とキラニ選手は一生懸命腕を大きく振って前に進もうとしますが、それが逆に力みとなり、思ったように前に進んでいません。

一方のバンニーキルク選手、ラスト100mの粘る場面になっても腕の振り方はコンパクトなまま、リズミカルにうまく重心を移動させて大きく前に進んでいっています。

最初飛ばして後半もスピードが落ちない、非常に理想的なレース展開ですね。



このレース展開に関して、バンニーキルク選手はかなり緻密にレースプランを研究したと思われます。

スピード型400m選手らしい、実に理想的なレース展開。

このレースプランを普段の練習からしっかり意識しているため、前半はスピード型の「パー」の腕振り、加速局面を過ぎてからはエコに走ることができる「グー」の腕振りを自然に行っているのだと思われます。

非常に小さな違いですが、こういった小さな違いを普段から意識しているからこそ、オリンピック本番であれだけ素晴らしいレースを行うことができるのでしょう。

【8月15日 AFP】リオデジャネイロ五輪は14日、陸上男子400メートル決勝が行われ、南アフリカのウェイド・バン・ニーキルク(Wayde van Niekerk)が、マイケル・ジョンソン(Michael Johnson、米国)氏の世界記録を更新する43秒03で金メダルを獲得した。

 第8レーンで優勝候補とは見なされていなかったバン・ニーキルクは、ジョンソン氏が1999年にスペインのセビリア(Seville)でマークしたタイムを0.15秒上回った。

 ロンドン五輪王者のキラニ・ジェームス(Kirani James、グレナダ)は43秒76で銀メダル、ラショーン・メリット(LaShawn Merritt、米国)は43秒85で銅メダルだった。

 英国放送協会(BBC)で解説を務めたジョンソン氏は、「こんなレースは見たことがない。素晴らしい。バン・ニーキルクには完敗だ。あの若者は本当に特別なことを成し遂げた。私が挑戦して失敗した43秒切りもできるだろう。8レーンで走れたことが利いた。ジェームスとメリットから離れて、タイムトライアルを走っている状態だった」と語った。(c)AFP

世界歴代10傑[編集]
男子
タイム 名前 所属 日付
1 43秒03 ウェイド・バンニーキルク 南アフリカ共和国2016年8月15日
2 43秒18 マイケル・ジョンソン アメリカ合衆国 1999年8月26日
3 43秒29 ブッチ・レイノルズ アメリカ合衆国 1988年8月17日
4 43秒45 ジェレミー・ウォリナー アメリカ合衆国 2007年8月31日
5 43秒50 クインシー・ワッツ アメリカ合衆国 1992年8月5日
6 43秒65 ラショーン・メリット アメリカ合衆国 2015年8月26日
7 43秒70 フレッド・カーリー   アメリカ合衆国 2017年5月26日
8 43秒72 アイザック・マクワラ ボツワナ 2015年7月5日
9 43秒74 キラニ・ジェームス グレナダ 2014年7月3日
10 43秒81 ダニー・エベレット アメリカ合衆国 1992年6月26日






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若きトレランたちへ! 大倉-橋本駅コース: 山羊、のまダッシュ、甘栗、三強に挑戦! 目指せ自己ベスト!

2017-05-22 20:33:39 | マラソン・駅伝関係


大倉→橋本駅のベスト4記録を比較してみました。

トレイル区間(丹沢主脈)だけの記録だともっと速い記録が存在するかもしれませんが
現在知っている範囲で比較してみました。

上の表は通過タイムで下は区間タイム



※山羊さんの記録は初見でのタイム

サブ5で走るためにはやはりトレイル区間を3時間30分以内
ロード区間を90分以内というのが目安になりそうです。

区間の記録を見ると蛭ヶ岳までの登り基調の区間は山羊さんが速く、
蛭ヶ岳からの下り区間+ロードが甘栗さんが速い。

特に甘栗さんの焼山からの下りがかなり速いです。
あの激下りを飛ばすと直後のロードが辛くなりそうですが
ロード区間の入りがさらに速いのが凄い。

いつかまた挑戦したいけどまだ当分先かな。



2012年10月27日 (土)

挑戦!大倉‐橋本コース

秋~冬の丹沢の雰囲気が好きでちょくちょく訪れていて、このシーズンの1回目。コースはまだロングをやるには体調に不安があるので、塔ノ岳さんが良く走っておられる大倉-橋本駅コースにチャレンジすることにした。正直ロードは苦手だが、このコースならトレイルは25kmで、ロードは疲れてもバスにも乗れる。6時間を目安にしてあまり調子悪いようならバス、行ければタイムを短縮していこうと考えた。電車での山は久しぶりで、着替えも必要だがコンパクトにするよう心掛け、いつもと大差ないボリュームで済んだ。

大倉ビジターセンター(8:14)
塔ノ岳 1:13:20
丹沢山 1:35:55
蛭ヶ岳 2:09:48-2:11:18
姫次 2:38:22
焼山 3:03:37
焼山登山口バス停 3:29:10-3:33:00
三ヶ木 4:06:59
橋本駅 5:07:16(13:21)





渋沢ではちょうどバスが来ていたので乗る。超満員だった。大倉で準備を整え8:14出発。すぐ先でO川さんに会い、今ホットなUTMFのことなどちょっと話す。最初はやはり呼吸が苦しいが、急登になっても脚に乳酸が溜まらないので、脚はリフレッシュしているようだ。混雑しているのでペースを調節しながら73分で塔ノ岳。タイムトライアル+5分だから悪くない。残念ながらガスの中で寒いので休まず進む。時々咳込んでしまうが、脚が楽でペースがいいのは感じ取れる。蛭ヶ岳から先はタイムを意識しつつ、地蔵平から姫次までは幻想的な紅葉の中を駆け抜ける。3時間半でロードに出れば残り18kmキロ5分で5時間ジャストで、それは可能かと思われたが甘かった。ロードはキロ5分をちょっとオーバーするペースが精いっぱいで本当に長く感じられた。

比較してみるとロードの区間は塔ノ岳さんに全く及ばず、今日実際走ってみてその強さに感服した。ロードはなんとなく行けそうでは通用せず、練習の賜物だということを痛感した。逆に言えば、まだまだやれば伸ばせるところがあるということが今日の発見だった。下山後ロードが走れるようになると、コースのバリエーションもぐっと増やせる。次チャレンジする時は気持よく橋本駅まで走って、4時間台を目指したい。今日は今日でよく頑張った。






初めてでサラッとこのタイムはさすがです!
次回は4時間台になりそうですね。
蛭ヶ岳の2:10以内は目標にしているタイムなので
良い刺激をいただきました^^
投稿: のま | 2012年10月29日 (月) 17時48分

過去の記録を追ってみると、のまさんに1分及ばなかったみたいで、
いえ、たとえ分かっていても最後はもう余力なしでした。。
しかも途中の経過もほとんど同じだったようで、
もし一緒に走っていたら常に視界に入る壮絶なレースになっていたことでしょう。
こんな楽しみ方もいいですね。


投稿: 山羊 | 2012年10月29日 (月) 22時17分





 新穂高温泉バス停7:10-穂高平7:33-槍平8:43-千丈乗越分岐9:28-飛騨乗越10:05-10:10槍岳山荘10:41-千丈乗越11:00-樅沢岳12:21-12:33双六小屋12:54-13:45鏡平13:57-ワサビ平15:05-新穂高温泉バス停15:29(2007.8.27)

 竹宇駒ケ岳神社5:06-笹ノ平5:55-五合目小屋6:47-七丈小屋7:08-本八合目7:32-8:00甲斐駒ケ岳8:30-五合目小屋9:33-竹宇駒ケ岳神社10:58(2007.6.12)


竹宇駒ケ岳神社4:56-笹ノ平5:47-五合目小屋6:38-七丈小屋7:00-本八合目7:22-7:47甲斐駒ケ岳8:13-五合目小屋9:14-竹宇駒ケ岳神社10:42(2009.6.27)



 早川第一発電所5:10-6:37大門沢小屋6:42-8:10大門沢下降点8:27-8:50農鳥岳8:52-9:31農鳥小屋9:35-10:20間ノ岳10:30-11:51北岳12:21-13:29白根御池13:47-広河原山荘14:32(2007.8.30)


 広河原山荘9:00-大樺沢二俣9:54-八本歯ノコル10:44-11:15北岳山荘11:20-12:09間ノ岳12:12-12:40農鳥小屋12:45-13:32農鳥岳13:36-13:53大門沢下降点14:03-15:03大門沢小屋15:18-奈良田バス停16:40(2007.9.4)


 七倉6:12-8:12船窪小屋8:23-8:30七倉岳8:34-10:53不動岳11:01-11:44南沢岳11:50-12:29烏帽子小屋13:16-高瀬ダム14:47-七倉15:19(2007.9.22)



 蓮華温泉6:54-瀬戸川7:31-鉱山事務所跡8:16-塩谷精錬所跡8:51-国境稜線9:27-三国境10:00-10:20白馬岳10:45-12:00白馬大池12:05-蓮華温泉13:11
(2007.10.3)

 大倉4:28-7:21蛭ケ岳7:29-8:46檜洞丸8:52-10:31大室山10:33-11:50モロクボ沢の頭11:57-13:16菰釣山13:24-14:56高指山14:59-平野15:17-旭日丘15:39
(2007.5.20)


大倉ロッジ峠5:03-堀山ノ家5:55-6:31塔ノ岳6:44-堀山ノ家7:06-大倉ロッジ峠7:34
大倉ロッジ峠7:41-堀山ノ家8:23-8:55塔ノ岳9:14堀山ノ家9:34大倉ロッジ峠9:56
大倉ロッジ峠10:09-堀山ノ家10:54-11:29塔ノ岳11:49-堀山ノ家12:12大倉ロッジ峠12:42
大倉ロッジ峠12:58-堀山ノ家13:45-14:22塔ノ岳14:39-堀山ノ家15:02大倉ロッジ峠15:31 (2007.2.27)




 大倉バス停7:13-9:37蛭ケ岳9:40-焼山10:45-11:14焼山登山口バス停11:21-三ケ木バス停11:57-橋本駅北口12:58(2009.4.19)



 大倉ロッジ峠4:14-6:51蛭ケ岳6:56-8:07檜洞丸8:19-9:39ユーシンロッジ9:44-雨山峠10:16-11:28塔ノ岳11:31-大倉ロッジ峠12:25(2007.5.27)


 

 女神茶屋3:48-蓼科山4:52-北横岳6:46-縞枯山7:22-8:07麦草峠8:17-東天狗岳9:52-12:06赤岳12:07-権現岳13:18-14:01編笠山14:02-14:52観音平15:03-小淵沢駅16:18(1987.6.26)


千畳敷8:16-檜尾岳9:49-木曾殿小屋11:13-11:56空木岳12:07-大地獄13:08-13:39池山水場13:46-林道終点14:12-菅ノ台14:35(2007.6.30)


蓮華温泉6:36-7:27天狗ノ庭7:32-8:04白馬大池8:09-10:02白馬岳10:25-11:46雪倉岳11:53-13:33朝日岳13:43-青ザク14:41-花園三角点14:52-15:18白高地沢15:31-16:03瀬戸川16:07-兵馬ノ平16:28-蓮華温泉16:56(2006.8.7)


扇沢橋7:20-種池山荘8:37-9:33新越山荘9:45-10:30赤沢岳10:35-11:51針ノ木岳12:05-針ノ木峠12:25-13:00蓮華岳13:10-13:37針ノ木峠14:06-大沢小屋15:12-扇沢橋15:45(2007.9.13)

西穂高口7:27-7:58西穂山荘8:03-9:11西穂高岳9:25-10:02間ノ岳10:07-10:45天狗ノコル10:52-ジャンダルム11:47-12:35奥穂高岳12:52-13:08穂高岳山荘13:28-14:13涸沢小屋14:22-15:53横尾5:18-8:36槍岳山荘8:54-11:28双六小屋11:52-12:58鏡平13:43-新穂高温泉バス停15:40(2007.8.10~11)

太郎坊5:30-七合目日の出館7:35-八合赤岩館8:23-9:20剣ケ峰日本最高点9:30-10:00御殿場口頂上10:20-太郎坊11:45(2008.7.30)


あるき沢橋6:15-7:27池山御池小屋7:33-城峰7:58-森林限界8:39-9:01ボーコン沢ノ頭9:11-八本歯ノ頭9:40-八本歯ノコル9:47-10:17北岳10:30-肩ノ小屋10:43-11:28大樺沢二俣11:33-広河原山荘12:28(2008.8.12)


 扇沢橋5:10-種池山荘6:40-7:09爺ケ岳中峰7:19-冷池山荘7:50-8:53鹿島槍ケ岳9:10-9:56キレット小屋10:06-北尾根ノ頭10:51-11:49五竜岳12:03-12:23五竜山荘12:44-大遠見山13:34-アルプス平14:35(2006.8.3)


天狗平5:39-ホテル立山6:00-新室堂乗越6:40-7:36奥大日岳7:44-8:50大日岳9:09-大日小屋9:15-10:09大日平小屋10:16-牛ノ首10:40-登山口11:07(2005.8.27)


三股7:00-森林限界8:43-前常念岳9:21-10:00常念岳10:15-11:56蝶槍12:15-12:36蝶ケ岳ヒュッテ13:35-まめうち平14:21-力水14:43-三股15:00(2005.10.11)


河童橋6:18-7:50横尾8:01-9:36涸沢小屋9:56-11:32穂高岳山荘12:00-白出大滝13:26-白出小屋14:15-穂高平14:38-新穂高温泉バス停15:05(2005.10.18)


扇沢5:08-大沢小屋5:55-7:27針ノ木峠7:46-針ノ木谷出合8:55-平ノ渡し11:00-12:46奥黒部ヒュッテ5:19-口元ノタル沢7:38-9:02薬師見平9:28-10:12姿見平10:26-赤牛沢11:27-12:00夢ノ平12:12-12:28露天風呂13:30-13:42高天原山荘5:39-7:35岩苔乗越8:12-8:42水晶小屋8:48-9:12水晶岳9:32-11:21赤牛岳12:54-15:08奥黒部ヒュッテ6:00-黒部ダム11:00(1988.7.30~8.2)


富士吉田市役所0:00-中の茶屋33:38-馬返し56:17-佐藤小屋1:44:23-七合目2:13:27-本八合目3:00:46-九合目3:17:27-頂上3:26:42(1988.7.25)


七倉5:46-船窪小屋8:09-8:18七倉岳8:45-9:34北葛岳9:45-11:13蓮華岳11:30-11:53針ノ木峠13:03-大沢小屋13:49-14:28扇沢14:40-17:09種池山荘4:26-8:25針ノ木岳8:40-9:18針ノ木峠11:48-大沢小屋12:22-扇沢13:08(1988.7.3~4)



老平5:45-広河原6:41-山ノ神7:04-造林小屋7:41-檜横手山8:11-布引山9:13-9:53笊ケ岳10:36-布引山11:12-12:35広河原12:37-老平13:15(1988.11.3)


七倉6:00-湯俣9:39-14:40北鎌沢右俣出合5:00-6:10北鎌沢コル6:20-7:45独標8:05-9:10北鎌平9:25-9:51槍ケ岳10:24-11:36南岳11:40-15:00北穂高岳6:18-7:53奥穂高岳8:07-9:05天狗ノコル9:25-10:35西穂高岳11:26-12:24西穂山荘13:00-河童橋14:07(1988.9.8~10)


平野3:42-切通峠4:06-高指山4:17-大棚ノ頭分岐4:45-5:50菰釣山5:55-城ケ尾峠6:36-大界木山6:48-7:07モロクボ沢ノ頭7:18-白石峠8:00-加入道山8:10-8:45大室山8:46-9:16犬越路9:25-10:30檜洞丸10:36-臼ケ岳11:22-12:06蛭ケ岳12:15-13:06丹沢山13:54-14:30塔ノ岳14:44-三ノ塔15:47-水場16:24-ヤビツ峠16:37-17:38大山17:44-大山ケーブル下18:39(1988.5.29)


 平野4:02-山伏峠4:45-大棚ノ頭5:05-6:09菰釣山6:16-城ケ尾峠6:58-大界木山7:10-モロクボ沢ノ頭7:28-白石峠8:17-大室山9:05-9:35犬越路9:40-10:52檜洞丸10:55-12:30蛭ケ岳12:36-13:21丹沢山14:00-塔ノ岳14:34-三ノ塔15:35-ヤビツ峠16:18-17:03大山17:07-大山ケーブル下17:50(1987.5.24)

2010.11.07
大倉バス停 → 橋本駅タイムトライアル (3)
カテゴリ:カテゴリ未分類
4週連続の丹沢。

今日は大倉バス停 → 橋本駅のタイムトライアル。
大倉バス停から焼山登山口バス停までの登山道はノンストップで駆け抜けた。

大倉バス停 7:03 スタート
走り始めは脹脛の疲労感と張りがすごくて破裂しそう(^^;
これは30分我慢すれば落ち着くのは先週確認しているので我慢して進む。

堀山の家 0:43:12

堀山の家通過は自己ベストペース。
先週はここからいい感じだったけど今週は思ったほどペースは上がらず
塔ノ岳山頂までの区間タイムは先週と同じ。

塔ノ岳 1:13:26

前半の貯金で一年半ぶりの自己ベスト更新となった。

丹沢山 1:37:01

稜線から見下ろす渓谷の紅葉がきれいだった。
ユーシンに降りるのは(先週じゃなくて)今日の方が良かったな。。。

蛭ヶ岳 2:10:56

大倉バス停 → 蛭ヶ岳の自己ベストも更新した。
2:10切りも狙ったけど僅かに届かず。
珍しく団体さん多い。

蛭ヶ岳から先はいつもだとほとんど人と会わないのですが
今日は学生の部活風の団体が多かった。(5人程度のグループ×4~5)

姫次 2:38:22
焼山 3:04:26

展望塔の上にはもちろん上っていません(笑)

焼山登山口バス停 3:28:57 (発3:34:13)

ここで初めて休憩(5分)自販機のジュースとバームクーヘン

三ヶ木 4:09:54

ここから一気に足が重くなり、ペースは落ちたけどひたすら耐える。
30kmペース走のしんどさに比べれば(比べるのが間違いか)となんとか踏ん張る。

ロードではサイクリング部の合宿風の団体(5人程度のグループ×4~5)と前後しながら進む。
今でも大鍋を積んで走ってるんですね。懐かしい。

橋本駅周辺の高層マンションを駅の目印にしているので
あれが見えてくるとほっとします。

橋本駅 5:06:29

自己ベスト更新でした(^^)v



2012年12月2日
丹沢主脈縦走 大倉バス停⇒橋本駅
単独


塔ノ岳さんのお薦めコースである大倉to橋本を初挑戦してきました。
丹沢主脈:大倉バス停⇒焼山登山口バス停(25㎞)
ロード:焼山登山口バス停⇒橋本駅(18㎞)

平丸分岐から焼山登山口まで歩いたことがなかったのと最近流行っているのでチャレンジしてきました。
苦手なロード区間が18㎞あるので敬遠していました。

今日は大倉まで電車とバスで来たのでバス停スタート。
ロッジ峠までジョグした時点で脹脛がパンパンで息もゼエゼエでした。
慣れないことするとこうなるんですね。

だましだまし登って塔ノ岳には1:28ほど。
頂上はガスガスでした。


蛭ヶ岳でコーラ休憩。
姫次までは階段が整備されていて歩きやすくなっていました。
確かに目がおかしくなりそうでした。

姫次から先はキタタンでしか通ったことが無く、平丸分岐から先は初めてでした。
個人的には姫次から焼山までの道はあんまり好きじゃないです。
走るのには快適なのですが、傾斜が緩やかなのでスピードを出せるほどの走力がありません…。

焼山登山口バス停には大倉バス停から予定通り4:12で到着。
密かにサブ6を狙っていたので、残りのロード18kmをキロ6で丁度サブ6なのでちょっとやる気がでました。

三ヶ木までのロードは車で良く通るので把握していました。
ロードの入りを頑張って強めにして、三ヶ木にはキロ6を切るペースで到着することができ、サブ6を勝手にほぼ確信(!?)
ここから橋本駅までのロードが全然わからなく、残りの距離もわからないのでかなり中だるみしてしまいました。
橋本駅周辺が見え始めてからヤバいと思いペースアップ。
下調べもほとんどしていなかったので橋本駅周辺で少し迷子になりつつも、最後は時計とにらめっこしながらなんとか南口に到着。
時間も5:59:53でギリギリ目標達成。

レース以外でロードを18㎞も走ったのは初めてでした。
しばらくロードは走りたくないです(笑)

大倉バス停 6:59
塔ノ岳 8:27
丹沢山 8:53
蛭ヶ岳 9:33~9:39
姫次 10:10
焼山 10:45
焼山登山口バス停 11:11~11:13
三ヶ木 11:51
橋本駅南口 12:59

塔ノ岳から橋本駅北口へ 2009.11/28(土)の記録
2009-11-28 15:05:53 | 日記

 
 大倉バス停7:04-一本松7:33-駒止7:41-堀山ノ家7:50-花立山荘8:10-鍋割分岐8:17-塔ノ岳8:25-日高ノ峰8:36-竜ケ馬場8:43-丹沢山8:54-不動ノ峰9:13-鬼が岩9:24-9:37蛭ケ岳9:46-10:20姫次10:26-平丸分岐10:47-焼山10:57-西沢分岐11:09-西野々分岐11:23-11:29焼山登山口バス停11:38-梶野交差点11:52-地蔵前バス停12:03-青山交差点12:12-12:17三ケ木交差点12:19-日赤病院12:34-城山高校前12:49-原宿交差点13:02-二本松交差点13:08-橋本駅北口13:21(6:16:44)


塔ノ岳から橋本駅北口へ 2009.11/23(月)の記録
2009-11-23 16:05:42 | 日記

 

大倉バス停7:19-塔ノ岳8:39-9:52蛭ケ岳9:57-10:31姫次10:40-11:07焼山11:10-11:42焼山登山口バス停11:51-三ケ木交差点12:30-城山高校12:59-二本松交差点13:19-橋本駅北口13:31 (6:12:53)

塔ノ岳から大石山へ 2009.11.21(土)の記録
2009-11-21 19:58:02 | 日記


思い切り、何処か遠くの山へ日帰りしたかった!
今日も定番の大倉2番バスで行く。

 大倉バス停7:13-8:36塔ノ岳8:38-9:51蛭ケ岳9:58-11:19檜洞丸11:25-12:02同角ノ頭12:03-12:33大石山12:37-12:56ユーシン・ロッジ13:06-13:34雨山峠13:36-14:14鍋割山14:17-14:48塔ノ岳14:51-大倉バス停15:45 (8:32:16)


塔ノ岳から橋本駅北口へ 2009.10/17(土)の記録
2009-10-17 18:20:27 | 日記

 

大倉バス停8:37-一本松9:07-堀山ノ家9:24-花立山荘9:43-塔ノ岳9:58-日高ノ峰10:08-竜ケ馬場10:15-丹沢山10:25-不動ノ峰10:44-鬼が岩10:56-11:08蛭ケ岳11:12-地蔵平11:34-11:47姫次11:51-平丸分岐12:13-12:22焼山12:28-西野々分岐12:52-12:58焼山登山口バス停13:07-三ケ木交差点13:46-日赤病院前14:02-城山高校前14:16-二本松交差点14:36-橋本駅北口14:49 (6:12:09)

出足の大倉尾根はもっと突っ込む予定だったが、丹沢名物の海からの湿った空気で大変に蒸し暑くなり、自重する。結果、塔ノ岳から蛭ケ岳までは良いぺースで行けた。大倉バス停から蛭ケ岳までを2H30Mを目安にしている!!

蛭ケ岳777回目から橋本駅北口へ 09.10/04(日)の記録  
2009-10-04 17:26:06 | 日記

 
大倉バス停7:15- 一本松7:42-駒止7:49-堀山ノ家7:58-花立山荘8:17-8:31塔ノ岳8:32-丹沢山9:01-9:44蛭ケ岳9:47-10:22姫次10:26-10:56焼山11:00-11:30焼山登山口バス停11:39-三ケ木12:17-城山高校前12:50-二本松交差点13:10-橋本駅北口13:23(6:08:47)




塔ノ岳3本/1日の我慢の日々 12月~3月まで
2009-06-25 21:32:17 | 日記

 塔ノ岳大倉尾根1日3本を、ひたすら繰り返してました
毎年12月から3月末までは、丹沢主脈の稜線はマイナス10度の体感で路は凍りついて歩きの練習になりません。
 よって、南側斜面で冬でも暖かい大倉尾根を54本往復しました
発狂しそうになりますが、ほかに歩けるコースがないのと、大倉ロッジ峠に車を停めておき、山頂の尊仏山荘でコーヒーを54杯飲んで繰り返しました
 

冬のシーズン塔ノ岳54本のいったりきたりの記録


大倉ロッジ峠5:05-堀山ノ家5:58-6:35塔ノ岳6:50-堀山ノ家7:15-大倉ロッジ峠7:46
大倉ロッジ峠8:01-堀山ノ家8:46-9:19塔ノ岳9:37-堀山ノ家10:02-大倉ロッジ峠10:35
大倉ロッジ峠10:47-堀山ノ家11:34-12:10塔ノ岳12:26-堀山ノ家12:53-大倉ロッジ峠13:33(8:27:37) 2008.12.06(土) 1.2.3

大倉ロッジ峠4:47-堀山ノ家5:43-6:22塔ノ岳6:36-堀山ノ家6:59-大倉ロッジ峠7:31
大倉ロッジ峠7:50-堀山ノ家8:33-9:06塔ノ岳9:20-堀山ノ家9:44-大倉ロッジ峠10:18
大倉ロッジ峠10:32-堀山ノ家11:18-11:54塔ノ岳12:09-堀山ノ家12:35-大倉ロッジ峠13:16(8:29:48) 2008.12.13(土) 4.5.6


大倉ロッジ峠5:39-堀山ノ家6:32-7:09塔ノ岳7:29-堀山ノ家7:53-大倉ロッジ峠8:25
大倉ロッジ峠8:44-堀山ノ家9:30-10:04塔ノ岳10:16-堀山ノ家10:40-大倉ロッジ峠11:11
大倉ロッジ峠11:28-堀山ノ家12:09-12:44塔ノ岳13:01-堀山ノ家13:27-大倉ロッジ峠14:04(8:24:46)2008.12.18(木) 7.8.9

大倉ロッジ峠5:57-堀山ノ家6:46-7:21塔ノ岳7:36-堀山ノ家8:00-大倉ロッジ峠8:31
大倉ロッジ峠8:44-堀山ノ家9:28-10:02塔ノ岳10:13-堀山ノ家10:37-大倉ロッジ峠11:10 
大倉ロッジ峠11:28-堀山ノ家12:11-12:49塔ノ岳13:01-堀山ノ家13:26-大倉ロッジ峠14:03(8:06:23)2008.12.23(火) 10.11.12


大倉ロッジ峠6:09-堀山ノ家6:57-7:32塔ノ岳7:41-堀山ノ家8:03-大倉ロッジ峠8:34
大倉ロッジ峠8:48-堀山ノ家9:35-10:11塔ノ岳10:25-堀山ノ家10:49-大倉ロッジ峠11:24
大倉ロッジ峠11:39-堀山ノ家12:25-13:00塔ノ岳13:21-堀山ノ家13:46-大倉ロッジ峠14:21(8:12:48)2008.12.27(土) 13.14.15

大倉ロッジ峠5:47-堀山ノ家6:38-7:15塔ノ岳7:28-堀山ノ家7:53-大倉ロッジ峠8:26
大倉ロッジ峠8:44-堀山ノ家9:29-10:03塔ノ岳10:17-堀山ノ家10:42-大倉ロッジ峠11:14
大倉ロッジ峠11:27-堀山ノ家12:12-12:47塔ノ岳13:02-堀山ノ家13:29-大倉ロッジ峠14:05(8:18:15) 2008.12.30(火) 16.17.18

大倉ロッジ峠6:24-堀山ノ家7:11-7:47塔ノ岳7:58-堀山ノ家8:24-大倉ロッジ峠9:00
大倉ロッジ峠9:12-堀山ノ家9:56-10:31塔ノ岳10:40-堀山ノ家11:05-大倉ロッジ峠11:40
大倉ロッジ峠11:52-堀山ノ家12:39-13:16塔ノ岳13:29-堀山ノ家13:53-大倉ロッジ峠14:25 (8:01:07)2009.01.11(日) 19.20.21

大倉ロッジ峠6:25-堀山ノ家7:13-7:49塔ノ岳8:02-堀山ノ家8:24-大倉ロッジ峠8:55
大倉ロッジ峠9:08-堀山ノ家9:50-10:23塔ノ岳10:37-堀山ノ家10:58-大倉ロッジ峠11:29
大倉ロッジ峠11:40-堀山ノ家12:23-12:56塔ノ岳13:04-堀山ノ家13:26-大倉ロッジ峠13:54 (7:29:55)2009.01.18(日) 22.23.24

大倉ロッジ峠6:08-堀山ノ家6:59-7:34塔ノ岳7:53-堀山ノ家8:15-大倉ロッジ峠8:46
大倉ロッジ峠9:00-堀山ノ家9:40-10:12塔ノ岳10:24-堀山ノ家10:47-大倉ロッジ峠11:20
大倉ロッジ峠11:28-堀山ノ家12:14-12:48塔ノ岳13:03-堀山ノ家13:26-大倉ロッジ峠13:58(7:50:46) 2009.01.24(土) 25.26.27

大倉ロッジ峠6:08-堀山ノ家6:55-7:30塔ノ岳7:41-堀山ノ家8:03-大倉ロッジ峠8:32
大倉ロッジ峠8:45-堀山ノ家9:24-9:56塔ノ岳10:05-堀山ノ家10:27-大倉ロッジ峠10:57
大倉ロッジ峠1:06-堀山ノ家11:49-12:22塔ノ岳12:30-堀山ノ家12:51-大倉ロッジ峠13:19(7:10:45) 2009.02.01(日) 28.29.30

大倉ロッジ峠5:38-堀山ノ家6:26-7:00塔ノ岳7:12-堀山ノ家7:33-大倉ロッジ峠8:02
大倉ロッジ峠8:13-堀山ノ家8:52-9:24塔ノ岳9:36-堀山ノ家9:57-大倉ロッジ峠10:27
大倉ロッジ峠10:38-堀山ノ家11:22-11:56塔ノ岳12:06-堀山ノ家12:28-大倉ロッジ峠12:56(7:18:00)2009.02.07(土) 31.32.33

大倉ロッジ峠6:01-堀山ノ家6:49-7:24塔ノ岳7:37-堀山ノ家7:59-大倉ロッジ峠8:32
大倉ロッジ峠8:46-堀山ノ家9:27-10:00塔ノ岳10:12-堀山ノ家10:36-大倉ロッジ峠11:08
大倉ロッジ峠11:20-堀山ノ家12:02-12:35塔ノ岳12:53-堀山ノ家13:18-大倉ロッジ峠13:53(7:51:32)2009.02.11(水) 34.35.36

大倉ロッジ峠5:23-堀山ノ家6:12-6:46塔ノ岳6:59-堀山ノ家7:20-大倉ロッジ峠7:48
大倉ロッジ峠8:03-堀山ノ家8:43-9:15塔ノ岳9:26-堀山ノ家9:47-大倉ロッジ峠10:17
大倉ロッジ峠10:29-堀山ノ家11:10-11:42塔ノ岳11:53-堀山ノ家12:15-大倉ロッジ峠12:47(7:23:53)2009.02.15(日) 37.38.39

大倉ロッジ峠5:18-堀山ノ家6:06-6:42塔ノ岳6:50-堀山ノ家7:14-大倉ロッジ峠7:45
大倉ロッジ峠8:00-堀山ノ家8:41-9:14塔ノ岳9:26-堀山ノ家9:50-大倉ロッジ峠10:20
大倉ロッジ峠10:35-堀山ノ家11:16-11:50塔ノ岳12:07-堀山ノ家12:33-大倉ロッジ峠13:08(7:49:52) 2009.02.22(日) 40.41.42


大倉ロッジ峠5:06-堀山ノ家5:55-6:32塔ノ岳6:45-堀山ノ家7:08-大倉ロッジ峠7:36
大倉ロッジ峠7:47-堀山ノ家8:26-8:57塔ノ岳9:08-堀山ノ家9:30-大倉ロッジ峠10:00
大倉ロッジ峠10:17-堀山ノ家10:58-11:32塔ノ岳11:52-堀山ノ家12:15-大倉ロッジ峠12:46(7:40:47) 2009.03.01(日) 43.44.45

大倉ロッジ峠5:30-堀山ノ家6:19-6:55塔ノ岳7:11-堀山ノ家7:37-大倉ロッジ峠8:09
大倉ロッジ峠8:22-堀山ノ家9:03-9:36塔ノ岳9:46-堀山ノ家10:10-大倉ロッジ峠10:42
大倉ロッジ峠10:57-堀山ノ家11:39-12:13塔ノ岳12:29-堀山ノ家12:55-大倉ロッジ峠13:27(7:57:09) 2009.03.07(土) 46.47.48

大倉ロッジ峠5:37-堀山ノ家6:22-6:56塔ノ岳7:08-堀山ノ家7:32-大倉ロッジ峠8:02
大倉ロッジ峠8:13-堀山ノ家8:53-9:26塔ノ岳9:38-堀山ノ家10:02-大倉ロッジ峠10:32
大倉ロッジ峠10:43-堀山ノ家11:27-12:02塔ノ岳12:12-堀山ノ家12:31-大倉ロッジ峠12:56(7:18:41) 2009.04.04(土) 49.50.51


大倉ロッジ峠4:40-堀山ノ家5:24-5:58塔ノ岳6:12-堀山ノ家6:34-大倉ロッジ峠7:03
大倉ロッジ峠7:13-堀山ノ家7:54-8:27塔ノ岳8:38-堀山ノ家8:59-大倉ロッジ峠9:29
大倉ロッジ峠9:38-堀山ノ家10:19-10:53塔ノ岳11:07-堀山ノ家11:28-大倉ロッジ峠11:56(7:16:30) 2009.04.26(日) 52.53.54






自己ベスト!!大倉バス停→橋本駅北口109回目 12.11/03(土)



大倉バス停7:10:55-堀山ノ家7:55:31-8:29:09塔ノ岳8:31:09-丹沢山8:58:16-9:36:32蛭ケ岳9:39:42-10:08:53姫次10:10:26-焼山10:38:39-11:05:56焼山登山口バス停11:12:50-三ケ木交差点11:46:12-城山高校バス停12:14:14-JR橋本駅北口12:43:21( 5:32:26)





自己タイ!! 大倉バス停→橋本駅北口 115回目 12.12/08(土)



大倉バス停7:40:05-堀山ノ家8:23:51-塔ノ岳8:57:21-丹沢山9:24:21-10:04:19蛭ケ岳10:06:49-10:38:48姫次10:40:24-焼山11:10:10-11:37:22焼山登山口バス停11:42:11-三ケ木交差点12:15:20-城山高校バス停12:42:49-JR橋本駅北口13:11:56( 5:31:51)





011.04.26 楽天プロフィール XML
第5回塔ノ岳カップ(塔ノ岳TT) (3)
カテゴリ:カテゴリ未分類
4/24はウェルさん企画の「第5回塔ノ岳カップ」に参加しました。

レースではなくて個人的な塔ノ岳TTをみんなでやろうという企画。
山頂9時到着するように各自目標タイムから逆算してスタートする形式。

自宅からいつもの始発電車に乗って小田急を乗り継いで渋沢に向かう。
空いているので座っていくのですがふと前の席を見ると夜明けのランナーさんが座っていた^^
(大山方面に行かれるそうで伊勢原で下車されました)

渋沢駅からはバスで大倉まで行くことが多いのですが
今日はTTということでアップを兼ねて走りました。4kmちょっと。

バスロータリー脇のベンチで待っているとバスやランで続々と参加者集合。
塔ノ岳さんの姿を見つけたのでTTに参加していただきました。

TT参加者
・ウェルさん
・おいちゃさん
・ヤマジャンさん
・とよっちさん
・あきやまひろみさん
・リキさん
・G3さん
・塔ノ岳さん
・ELBさん(「漆黒」チームからの刺客^^)
・のま
(10名)

その他
・衛生兵さん
・O川さん(女子強豪)


私の目標タイムは80分としました。
先週までそれなりに頑張っても86~90分くらいだったので80分切れれば上出来です。
逆算して8:40に一人でスタートにしました。

90分スタートの誰かに追いつけることを密かに狙う。
特にひろみさんね^^まだ山走っているとこ見た事ないので。
追っ手は塔ノ岳さん、ウェルさん、ELBさんです。
(この企画の記録ホルダーである藍パパさんは残念ながら急用でDNS)

この日は塔ノ岳TTの後も10時間程度走る予定だったので
食料等で軽量化はあまりできませんでしたが水は塔ノ岳の水場で汲めるので
ハイドレーションパックは空にして500mlのペットボトルだけにしました。

水を減らすだけでも大分違いますね。スタートから意外に走れました。
見晴茶屋からの登りで緑のウェアのランナーに抜かれるorz
実はスタートの準備をしている時に1、2分前にスタートするのをチェックしていました。
私は最短コースでしたがおそらくこの方は大倉高原山の家のコースを回っていて
そこで入れ替わったのだと思う。
このブログを見ていただいているようでハンドル名を呼ばれてびっくりしました。
急な階段も軽快に走られてかなり強い方だと思われます。(私は歩き&滝汗)
名前聞いておけば良かったなあ。

そこからは少しずつ離されていく緑ウェアの方を目で追いながら進んだら
なんと堀山の家の通過タイムは自己ベストの時の通過タイム(0:43:14)より1分速かった。

0:42:14 堀山の家

もしかしてベストが出せるかもと思ったりしたけどやっぱり突っ込み過ぎでした(笑)
その後緩やかに失速してゴールタイムは自己ベストより1分遅れとなった。

1:14:38 塔ノ岳

思っていたよりは頑張れましたが成長は全く感じられないですね。
いかに良かった時の状態に戻せるかという感じになってきている最近の私。。。

リキさん、ひろみさんとは30秒程度の差だったようで
そこだけはもう少し頑張れば良かったなーと思います(笑)

緑ウェアの方は最後の木階段区間ですれ違いました。
他の方の目撃情報でも「走っていた」らしいので相当強いですね。
山の家経由で余裕を持って走られて70分前後?スゴイです。

他の方の結果はこちら

山頂はガスっていてちょっと寒かった。
最終のGさん到着を待ってすぐ解散。
参加された皆さんお疲れ様でした。

解散後はそれぞれ表尾根→大山、蛭ヶ岳→焼山登山口、丹沢山→宮ヶ瀬へ行かれたようです。
私は塔ノ岳さんとユーシンに下り、檜洞丸、神ノ川、姫次へと丹沢3ピークコース。
とりあえず姫次に向かいそこから先は余力を見て考えることにした。

塔ノ岳直下の水場で1.5L水を入れる。(+粉末のスポドリ)
鍋割沢までの下りでは今日も登ってくる人と会った。
ユーシンロッジ辺りでテント泊したのかな?
前日が大雨だったので枯れていることが多い鍋割沢も水が流れていた。
ジャンプでギリギリ渡れた。

1:39:28 尊仏ノ土平(塔ノ岳山頂滞在中は時計停止)

ユーシンロッジ入り口の橋の横から水が出ているのを教えてもらうが
この日はちょろちょろで質もいまいちだった。一応ペットボトルに汲んで行くが・・・

2:10:50 ユーシンロッジ

トイレに行きたかったのだけどユーシンロッジのトイレは鍵がかかっていた。
水道も閉められていた。
ユーシン沢で水を汲む。(500ml)
今まで飲めると思ってなかったんだけどここの水はおいしかった。

大石山への登りは何度登ってもきつい。アキレス腱にきます(><)

2:43:37 大石山

晴れてきたので富士山、蛭ヶ岳を見ながら進む。
大石山から同角ノ頭までもきつい。

3:17:53 同角ノ頭

同角ノ頭から先頭交代で後からついていく。
檜洞丸までに一度大きく下ってから登らされるのが辛いです。

3:57:05 檜洞丸

檜洞丸山頂は登山者いっぱい。
大鍋でカレーを作っているグループがいていいにおいが漂っていた。
頭の中がカレーに支配される。私も山でカレー作りたい^^
ここからの下りは再び先頭で進む。
檜洞丸からの下りは大パノラマだった。途中で写真も撮りながら進む。

4:14:31 熊笹ノ峰

一気に神ノ川まで下ってからV字上昇です。

4:48:28 神ノ川(橋への降り口)

トイレに寄りたいけど神ノ川ヒュッテのトイレまでちょっと離れているので我慢。

5:28:37 風巻ノ頭

塔ノ岳さんがちょっと遅れたので山頂で待つ。
名前の通り?風の通りが良い山頂でした。
暑かったので風が心地よかった。
ここから塔ノ岳さん先頭(ゴールまで)。
塔ノ岳TTが効いてきたのか袖平山への登りはヘロヘロになってしまいました。

6:13:37 袖平山

蛭ヶ岳がきれいでした。
このコースは蛭ヶ岳山頂は通らないけどいろいろな方向から蛭ヶ岳が見れるのが良いです。

6:21:39 姫次

富士山は見えなくなっていた。
ここからの予定は焼山登山口に下ることにした。
水が切れそうだったのとやっぱり塔ノ岳TTで消耗していて辛かった。
この日は東丹沢トレイルレースが行われていたので姫次から下は
前日の雨+レースでグチャグチャか?と思っていたけど大丈夫だった。

6:56:51 焼山

焼山で水が無くなる。

7:30:20 焼山登山口バス停

トイレで軽量化し、コーラ飲んで生き返る^^

7:45:17 バス停発

8:26:49 三ヶ木

ロードはずっと塔ノ岳さんに引っ張ってもらったけど
めちゃくちゃきつかった。一人だとダレてましたね。
牛丼食べてバス乗車パターンにしたかった(笑)

それにしても塔ノ岳さんは焼山登山口から橋本まで給水無し。
(一口私のボトルを回し飲みしただけ)
滝汗の私にはありえません^^;

9:29:14 橋本駅北口(この日は踏み切りに掛かったのでそこでゴール)

塔ノ岳さんとは駅で解散。
私は空腹が我慢できずラーメンを食べてから帰りました。
お付き合いいただきありがとうございました。


■塔ノ岳TT
次回は70分切りを狙えるようにしたいですが相当鍛えないと無理そうです。
もっと走れる区間を広げていかないと駄目ですね。
私はいつも堀山の家で前半、後半に分けて考えていて
後半を30分というのを目安にしています。
ウェルさんのタイム(0:29:22)から考えても
70分切りは後半はこのタイムで十分だと考えています。
問題は前半で40分以内というのがかなり遠い感じです。

ウェルさんの鬼ラストスパートはいいもの見せていただきました。

■3つの登り
この日の3ピークでどれが一番楽かというと大倉尾根ですね。
一部ガレ場もあるけど基本的には階段登りなので楽です。
やっぱりきついのは同角山稜への登り。まったくステップが無い急勾配(><)
袖平山は勾配はきついけど岩等をステップとして使えるのでまだ楽。
あと登りに目が行きがちですが登った分は下らないといけないのでそっちもきついです。
先週の大倉→山中湖ではほとんど筋肉痛は無かったですが
激下りを含むコースは筋肉痛が酷いです。。。

2011.04.16 楽天プロフィール XML
目指せ山中湖 (6)
カテゴリ:カテゴリ未分類
2007年に初めて塔ノ岳さんに会った時に聞いてから
いつかはやってみたいと思っていた。大倉→山中湖に挑戦してきました。

結果は無事完走です。タイムはともかく・・・



0:00:00 大倉バス停
0:49:54 堀山の家
1:26:37 塔ノ岳
1:53:55 丹沢山
2:37:48 蛭ヶ岳
3:12:24 臼ヶ岳
3:59:54 檜洞丸
4:48 32 犬越路
5:32:16 大室山
6:01:59 加入道山
6:51:12 モロクボ沢の頭
8:04:55 菰釣山
9:04:05 山伏峠分岐
9:26:44 高指山
9:45:50 平野
10:16:26 旭日丘バス停

スントt6cによると累積標高は4400mということになっていますがそんなにあったかな?
細かいアップダウンはうんざりするほどありましたけど・・・


・見晴茶屋の先の階段で塔ノ岳さんに追いこされるが付いていけず。
・登りで離されてランと下りで追いつくという感じで塔ノ岳まで。
・丹沢山を過ぎると霧が晴れて景色が楽しめたけど次第に暑くなる。









・蛭ヶ岳までちょっと速すぎだったかも。
 橋本駅コースの塔ノ岳さんとはここでお別れ。
・その後失速。。。檜洞丸の登りは死んだな。
・水分補給が不足していたようで早くも手の指がむくむ。
・犬越路への下りは2007年以来。物凄く怖かったイメージがあったけどそうでもなかった。



・すれ違った登山者から大倉5時スタートで山中湖を目指しているランナーがいることを聞いた。
 姿は見えないけどだいぶ励まされた。
・水はコーラ、お茶を含めてスタート時に3L持ったので
 先週までの消費量から考えて余裕だと思っていたら暑さで消費が早く
 節約モードに・
・大室山の登りもカメ。
・モロクボ沢の頭の手前で痛恨のロスト(ちょっと恥ずかしい・・・油断大敵ですね)
 気持ちが切れて温存していたコーラをついつい開けてしまう(笑)
・2週間前までボトルが凍るのを心配していたのに今日はぬるいコーラ。。。
・菰釣山の登りが一応ラスボスになるのかな・・・でも
 それよりも細かいアップダウンの方がやっかい。
・道志村トレイルの試走をしていたたーこさんとバッタリ。
 道志村トレイルの情報をしばらく立ち話。
・その後も試走者一人すれ違う。
・水分をけちっていたのでパンが喉を通らず。エネルギー切れも何度か。。。




・高指山を下り始めたら前にランナーが見えた。
 大倉→山中湖に挑戦されていたKAZUさんでした。
・平野交差点のコンビニまでKAZUさんといっしょに進んでゴール。



・ガリガリ君、ライフガードを買ってバス停に向かう。
 水はここで丁度切れた。ギリギリの節約をしてギリギリ。




・最後はのんびり写真を撮ったり歩きを入れながらバス停について終了。



・山中湖は行くのはいいけど帰るのが大変ですね。家まで4時間以上かかりました(><)


2011.04.13 楽天プロフィール XML
蛭ヶ岳周回 (2)
カテゴリ:カテゴリ未分類
3回目の挑戦でやっと蛭ヶ岳周回コース完走しました^^

大倉バス停→塔ノ岳→尊仏ノ土平→ユーシンロッジ→大石山
→同角ノ頭→檜洞丸→熊笹ノ峰→神ノ川園地→風巻ノ頭→袖平山→姫次
→榛ノ木丸→伝道→本間橋→本間ノ頭→丹沢山→塔ノ岳→大倉バス停


0:00:00 大倉バス停
1:30:48 塔ノ岳
1:56:00(0:25:12) 尊仏ノ土平
2:19:26(0:23:26) ユーシンロッジ
2:56:19(0:36:53) 大石山
3:33:31(0:37:12) 同角ノ頭
4:08:48(0:35:16) 檜洞丸
4:54:40(0:45:52) 神ノ川(橋への降り口)
5:36:53(0:42:13) 風巻ノ頭
6:15:25(0:38:31) 袖平山
6:20:50(0:06:20) 姫次
7:11:25(0:50:35) 本間橋
8:22:43(1:11:17) 本間ノ頭
9:14:13(0:51:30) 丹沢山
9:56:31(0:27:44) 塔ノ岳
10:52:22(0:55:50) 大倉バス停

累積標高 5138m

塔ノ岳9時間56分の時点で累積標高5098mなので
10時間5000mアップの目標も達成(祝)

・渋沢駅でウェルさん、衛生兵さんとバッタリ。
 大倉まで走られるとのことなのでそこでお別れ。
・バスはほぼ満員。
・大倉バス停に着くと小雨。
 走ってきたウェルさん達にまた会ったが先が長いので
 お先にスタートさせてもらう。
・金曜日の疲れか、先週の疲れか、塔ノ岳までが辛くてまたまた90分オーバー。
 今日は完走狙いとして焦らず進む。
・下り始めてすぐ水を汲み上げている方(小屋の関係者?)とすれ違う
 先週は水場ですれ違ったのでちょっと遅れている^^
・ユーシンまでの林道は落石が多いので注意しながら進む。
 1ケ所大きく崩れているところがある(崩れたのは昨年)
・林道で1人とすれ違う。先週も1人すれ違った。
 ユーシンロッジの周辺でテント泊する人が多い(多いとは言わないか)ようだ。
・塔ノ岳まで無理しなかったのが良かったのか
 その後の区間タイムは先週のタイムを上回り檜洞丸で逆転した。
・同角山稜では誰にも会わない。先週もそうだった。鹿の足跡しか無い。
・檜洞丸山頂付近で数人の登山者。
・檜洞丸から熊笹ノ峰に向かう下りはやわらかい土が流れて荒れている。
 ぬかるみも酷い。
・雪はかなり解けた。来週はまったく問題にならないでしょう。
・神ノ川園地でやっと雨が止んだ。
・風巻ノ頭への登りは失速。
・袖平山への崩壊地あたりで白い大きな犬を連れた人(ハルミさん)が下ってきた。
 もしやぴれきち?と思ったらやっぱりそうでした。
 M藤さんが後からきているかも知れないと聞いてちょっとだけ急ぐ。
・姫次東から伝道へ下る道はマークが増えてわかりやすくなっていた。
・本間橋の登山道入り口が相変わらず不明。
 何かの施設(昔は丹沢観光センターだった?)の上にある広場の階段から
 給水施設?の脇を通り沢沿いに進むと何種類かのテープが巻いてあるので
 それを追ってアバウトに登っていくと標識が現れた。
・本間の頭への登りスゴイ。どMな登りだった。
 上から降りてくる人がいて「この道すごいですよね」とお互い苦笑。
・丹沢三峰のアップダウンを過ぎて丹沢山への登りが始まると
 少し雪が残っていたが傾斜が緩いので問題なく登れた。
・みやま山荘でカップ麺休憩15分。
 カレーを頼もうとしたけど「ちょっと時間がかかります~」
 と言われたのでカップ麺。
・丹沢山~塔ノ岳は誰にも会わず。夕方になるとまだまだ寒い。
・大倉尾根はゆっくり下り始めたけど途中からビルドアップして
 最後は久しぶりの全力ダウンヒル。
・なんとか明るいうちに下山。
 丁度バスが止まっていたのでそのままバスに乗った。

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モーツァルトは、 悲しみに包み込まれるヴァイオリンソナタ(第28番ホ短調 K.304)

2017-05-15 20:19:58 | 音楽


●ハーン(vn)ナタリー・シュー(p) DG,2004
25番・28番・32番・42番を収録。ハーンは現役ヴァイオリニストのなかでもっとも注視しているひとり。ボウイングがいいのだと思うが、丁寧できめ細やかで美しく、それでいて誰が弾いているかすぐわかる個性的な音だ。技術的には今回聴き比べした中で一番かも。完璧さでこの演奏の上を行くというのはちょっと考えにくい感じ。ピアノのシューも好演だが、正直ハーンの相方としては役者不足といわざるをえない。これが普通のヴァイオリンソナタなら問題ないレベルだが、ピアノのウエイトが大きい曲だからこそ感じてしまう小さな不満である。無難な選曲なので他の曲もぜひ録音してほしい。


その中でも飛びきり好きな曲と言えば、やはり第28番ホ短調K304ということになります。この曲に、最も”霊感”(インスピレーション)を感じるからです。曲全体を短調特有の苦悩や哀しみが覆っていますが、第2楽章中間部の静寂の中に射し込める微かな薄明かりは、ほんの束の間の幸福を想わせて涙を誘われずにいられません。


この曲は、一度聞いたら忘れられない憂いに満ちたメロディーのために広く愛されており、もちろんサイト管理人の大のお気に入りでもあります。
 作曲された時期は、先にご紹介したピアノソナタ第8番と同じくパリで母が客死した頃であり、時には号泣し時にはすすり泣くようなモーツァルトが感じられるような感傷的な表現に満ちています。


作曲家の人生に起こった出来事と結びつけて作品を論じようとするのは、必ずしも有効な方法とは言えない。「この人は当時こういう生活をしていたからこういう作品を書いた」という説明がしっくりくる作品もたしかにあるが、実人生とは連結し得ない純粋にイマジネイティヴな作品、天啓のようなインスピレーションから生まれた作品も無数にあるのだ。とくに、モーツァルトのような作曲家についてはそれが言える。悲しい境遇にあっても天使のいたずらのように愛らしくて楽しい音楽が書けてしまう彼の才能は、現実の出来事に蝕まれることなく、実人生からほとんど乖離した状態にある。

 しかし、そんな彼にも真情をそのまま吐露したような、私小説的な作品がある。それがヴァイオリン・ソナタ第28番ホ短調だ。「短調のモーツァルト」で有名なのは交響曲第40番、ピアノ協奏曲第20番、そして「疾走する悲しみ」で知られる弦楽五重奏曲第4番あたりだろう。ただ、これらの作品には「悲しみ」だけでなく、その悲しみを打ち破ろうとする強い感情ーー怒りや焦燥感もうねっており、それが劇的な表現を生んでいる。ところが、ヴァイオリン・ソナタ第28番はひたすら物悲しく、グルーミーである。モーツァルトの作品には必ずと言っていいほど見られる、暗さから這い上がろうとする防衛本能の力も非常に弱い。

 曲が完成したのは1778年夏。当時のモーツァルトは仕事の面でも精神の面でも危機的状態にあった。ここではその前後の出来事を辿ってみたい。

 1777年9月、ザルツブルクでの息が詰まるような宮仕えから逃れた21歳のモーツァルトは、母アンナ・マリアと共に新天地を求めて旅立った。ミュンヘン、アウクスブルクを経てマンハイムにやってきたモーツァルトは、そこでヴェーバー一家と出会い、次女アロイジアに恋をする。
「もう書いたかどうか覚えていませんが、その人には、非常に歌が上手で、美しく澄んだ声を持つ娘さんがいます。演技力が不足していますが、それさえあればどんな劇場でもプリマ・ドンナになれるでしょう」(1778年1月17日)
 ザルツブルクにいる父、レオポルド宛の手紙である。アロイジア・ヴェーバーは当時17歳。バス歌手で、内職で写譜師の仕事もしていたフランツ・フリードリン・ヴェーバーの娘である。後年『魔弾の射手』を書いたカール・マリア・フォン・ヴェーバーはアロイジアのいとこにあたる。モーツァルトは彼女のために歌の指導をし、有力者に紹介しようと骨を折り、自作の美しいアリアまで捧げた。さらに彼の気持ちは高揚し、こんな手紙を送って父レオポルドを仰天させている。
「僕はこのかわいそうな家族のことが大好きで、彼らを幸せにすることしか考えていません。そして僕にはたぶんそれが出来るでしょう。思うに、彼らはイタリアへ行けばいいのです。......僕たちがイタリアへ行けるように出来るだけのことをして下さい」(1778年2月4日)
 自身の就職活動はうまくいかず、先の見通しも全然立っていなかったが、それでもモーツァルトはアロイジアと幸せになることを夢見ていた。しかし、息子の身を案じたレオポルドはこう命じる。「パリへ発ちなさい! 今すぐに」ーー父親の心配ももっともである。モーツァルトには職がなく、お金もなく、非力で、無名だった。まずは名をあげなければならない。

 1778年3月、モーツァルト母子はパリに到着した。しかし周囲の反応は冷たかった。神童時代の名声は忘れ去られ、モーツァルトは「過去の人」になっていたのだ。自分を売り込むのが下手なモーツァルトについて、グリム男爵はレオポルドにこう書き送っている。「ご子息はあまりに人を信じやすく、積極性に欠け、だまされやすく、立身出世に通じる方策に無関心です。......才能は今の半分で結構なので、倍の世渡りのうまさを望みたいところです」
 ピアノや作曲のレッスンをすることで小金を稼いでいたモーツァルトは、コンセール・スピリチュエルの音楽監督ジョゼフ・ルグロに依頼され、交響曲第31番「パリ」を書き、成功を収める。しかし、その喜びも束の間、母アンナ・マリアが体調を崩して寝込み、7月にパリの下宿先で世を去る。
 9月、パリを出たモーツァルトはストラスブールを経てマンハイムへ戻る。アロイジアはミュンヘンの劇場に雇われていたためいなかった。ミュンヘンに向かったモーツァルトはアロイジアと再会。愛の確認の場となるはずだったが、そうはならなかった。彼女は歌手として出世することを望み、一介の音楽家と結婚する気はない、と言い放ったという。失意のモーツァルトはレオポルドに帰郷を迫られるまま、ザルツブルクに戻った。

 後年、ウィーンに出てからのモーツァルトは、なんだかんだ言っても名声を得ることが出来たし、(出費はひどかったにせよ)収入面でも恵まれていた。しかし、このマンハイム〜パリ時代は、将来への不安、無名であることのふがいなさ、無力感、失恋、母の死など、外的要因と内的要因が重なり、暗黒時代と呼んでもいいほど低調だった。ヴァイオリン・ソナタ第28番には、そんな彼の弱音がポーズとしてではなく、聴き手まで無力にさせるほど率直に表れている。ここには天使の微笑みもなく、デーモンの激越な感情も出てこない。ただ出口の見えない思い出の中をいつまでも低徊しているような無力感に浸っている。あるのは仄暗い諦観のみ。ひょっとすると、これはモーツァルトが書いた最も悲しい曲ではないだろうか。


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憧れの のまダッシュさんとロードは並走 思い出の 大倉バス停⇒橋本駅北口261回目 15.12/23(水)

2017-05-13 07:15:43 | 橋本駅コース
大倉バス停7:06:37-堀山ノ家7:56:42-8:35:46塔ノ岳8:39:52-9:11:27みやま山荘9:20:33-9:56:18蛭ケ岳10:00:02-姫次10:28:15-焼山10:55:46-11:22:32焼山登山口バス停11:27:29-三ケ木11:58:36-JR橋本駅北口12:58:31( 5:51:54)

今日はサプライズ

みやま山荘の扉を開けて外へ出たら

目の前を

トレイル師匠が

三ケ木までご一緒させていただきました

とっても好い時間となりました

「K野さん」も一緒で三人でのロード走は最高でした

丹沢山⇒三ケ木の区間タイムが上がって

ゴールタイムも今季最高タイムとなりました!!



今思えば、これが6H切りのラストランになったかもしれません


これからはトレランはなしで登山へ転向です

いろいろなコースを巡って行きたいです



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丹沢グルリ(蛭ケ岳周回)ヴァーチカル5000 13.04/13(土)の記録 

2017-04-21 17:43:25 | 該当なし
大倉バス停6:50:00-8:16:44塔ノ岳8:20:11-尊仏の土平8:47:55-ユーシン・ロッジ9:24:26-大石山10:05:56-10:46:27同角ノ頭10:52:09-11:36:10檜洞丸11:39:18-神ノ川12:28:32-風巻ノ頭13:15:36-13:58:45袖平山14:08:45-姫次14:14:34-ハンの木丸14:34:28-15:13:04早戸川観光センター15:17:57-16:19:04本間ノ頭16:26:04-17:13:59丹沢山17:17:51-17:42:33塔ノ岳17:48:03-堀山ノ家18:12:41-大倉ロッジ峠18:55:02( 12:05:02)



今日は本当に素晴らしい好き一日となりました!!

いつもは橋本駅コースなのですが

今日に限って

この一度はやりたかった丹沢グルリ(蛭ケ岳周回)コースを

強豪三人衆が大倉一番バスで出走するということが分かっていたので

それに便乗した形となり

でも、強豪三人衆との同時スタートでは初っ端の大倉尾根の入りから高レベルで大変なので

どうしてもその前にスタートをしてユーシン・ロッジ辺りで追い着かれようと

ハンデを作り

大倉バス停は一番バスより前のスタートで

朝は早起きをして渋沢駅に6:21に着いたので

渋沢駅発6:25発の秦野行きに乗り、大倉入口にて下車して

大倉バス停では、一番バスより15分は早く6:50スタートでした

予想では強豪三人衆が20分遅れで追いかけてくるので

大倉尾根の序盤はゆったりと入り

好い緊張感を保ちながら

予定通り、温存策で朝一の塔ノ岳頂上へ

今朝は冷え込んで霜柱も立っています

ロングをやるには好い条件のような気がします

結局

一番バスの前に臨時は出なかったのか

強豪三人衆のうちの一人が一番バスの乗車に乗りこめなくなり

二番バスの乗車に成り

強豪三人衆は結局30分遅れのスタート時間となりました

尊仏土平→熊木ダムまでの林道は落石ゴロゴロで通過が大変でした

熊木ダムからは好い林道です

なぜ、強豪三人衆は怖いのかと言うと

山の下りがとても強いのです

塔ノ岳→尊仏ノ土平までの下りが速すぎて付いては無理

下りなのに登りのような苦しさを体感します

ここを一人でマイ・ペースで降りたかった

タイム差10分ありますから

それは大変な差です

そう言う訳で一人旅で先行しました



ユーシン・ロッジで追い着かれる予定が

上記の事もあり、強豪三人衆は現れませんでした

それで

同角ノ頭まで急登をマイ・ペースで登ることが出来て

温存に成りました

しかし

石棚山稜分岐付近に着いてからは後方が気になり

まだ来ないかなと思いながら

ツツジ新道分岐上の木道で後方を見ると気配がして

なんと30分差を詰めて参りました

檜洞丸の頂上ベンチで一度は一緒に成りましたが

ここから同時スタートになると

熊笹ノ峰から神ノ川への下りが劇的に弱いので先にスタートして逃げました

そしたらなかなか追いついて来てくれません

神ノ川の橋を渡り

急峻な尾根に取り着き

風巻ノ頭手前で強豪三人衆のうちの一人が

駆け登って抜き去って行きます

このお方が

この丹沢グルリコースの生みの親なので

当然と言えばそのままですが

風巻ノ頭から袖平山まではペースが上がらすに

後ろから来る二人が気になった

そして

スタートしてから7:08:45後にして

一番恐れていたことが

袖平山頂上で4人が一同に会し

一緒に姫次→早戸川の下りをしなければなりません

だが

ハンの木丸からの下りが柔らかくて助かりました

難なく林道へ降りたち

ラストの4本目の登りになります

今日の登りはこれが最後なので

早戸川の本間橋の脇にある早戸川観光センターからが登り口

最初の沢沿いと鹿柵沿いまでが蟻地獄のような滑る急登でした

鹿柵が終わると少し楽になる

ここから本間ノ頭までは楽しかった

本間ノ頭頂上ベンチで休憩します

しかし

時間が押していて

あまりのんびりはしてられません

丹沢山までを少し早くして

大倉尾根を半分は明るいうちに降りたいので

円山木ノ頭を過ぎると風が強くなり体感温度が急降下

後ろから強豪三人衆がピタリと

リモート・コントロールされてるようで

一番後ろに下がったらヤバイので先頭で行きました

そして

丹沢山頂上へ

なんか帰って来たなあという気がします

本当は、みやま山荘でカップメンの予定でしたが

泊まり客で賑わっていたのでパス

丹沢山→塔ノ岳は24分台で行きました

後ろからプッシユされてる感じです


尊仏山荘でカップメンの誘惑もありましたが

堀山ノ家までは明るいうちに通過したいのと

真っ暗な中、ライトの灯りだと時間がかかるので

そのまま行きました


皆、ここで食糧がなくなったようで

空腹を感じながら


私は下りがヘボなので

なんとか先頭で駒止階段下のフラット地まで

でも

ここで強豪三人衆が本領発揮して

ここから夜道一人旅となりました

大分、下で待って貰ったと思いますが

メンバーの内の一人が車だったので

お陰で大倉ロッジ峠から車に同乗させて頂き、暖房で快適に渋沢駅まで送迎して頂きました

お腹が空き空きだったので箱根そばで休憩してから帰りました


この日帰りコースは累積標高差5000mで総延長50kmでした

丹沢山塊の盟主「蛭ケ岳」の廻りを周回させています

このコースでの唯一の心残りは、蛭ヶ岳を経由しないということです

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3人でハイ・ペースで大倉バス停→橋本駅北口213回目 14.11/08(土)の記録

2017-04-21 17:43:00 | 橋本駅コース
ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第四番の第一楽章の導入部の旋律の様に

厳かに.......。

ニューフェイスのOさんを挟んで「K野さん」と三人で

三ケ木までは三人一緒に

とっても、記憶に残る橋本駅コースになりました



大倉バス停6:58:00-堀山ノ家7:42:22-8:15:23塔ノ岳8:21:03-丹沢山8:47:06-9:25:43蛭ヶ岳9:32:16-10:04:38姫次10:10:02-焼山10:39:46-11:05:33焼山登山口バス停11:15:23-三ケ木11:50:55-JR橋本駅北口12:43:20( 5:45:20)



とっても素晴らしい気候コンディションにも恵まれて


道路コンディションにも恵まれて


三人でハイ・ペースで押しながら


このペースで蛭ヶ岳まで行っても


今、現役の中で丹沢主脈をやらせたらNO.1のスピードだと思われるS野さんが

10分詰めて来て

蛭ヶ岳頂上で追いつかれちゃいました

完全に白旗です!!

その後のS野さんは、檜洞丸経由ユーシン~塔ノ岳で渋沢駅までとなっています





今日はいつもより

蛭ヶ岳からの下りも軽快に


特に

焼山の下りについては

Oさんに先導して貰ったら

私にとっても

焼山→焼山登山口まで自己ベストとなりました



そして

国道413号線のロードは

三ケ木までは自重して

大沢交差点手前から

「K野さん」がトップ引きに変わり

途端にペース・アップ

最後まで

並走シーンで

思い出に残るロード走となり、

久しぶりの好タイムでの橋本駅ゴールとなりました!!


ベートーヴェンの交響曲の様に重厚にやるのにも

好い季節になりました























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南アルプス山行記 セレクト

2017-04-15 18:02:41 | マラソン・駅伝関係

<
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北アルプス山行記 セレクト

2017-04-14 18:06:32 | マラソン・駅伝関係

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2014.9.27,28 伝付峠⇒二軒小屋⇒蝙蝠岳⇒間ノ岳⇒広河原

2017-04-04 19:53:33 | マラソン・駅伝関係

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山全体でいうとアンナプルナで壁だけでいうとマカルー西壁が最強  マカルー西壁やナンガパルバットルパール壁アンナプルナ南壁

2017-03-23 21:27:49 | マラソン・駅伝関係

 

ニュースサイトで読む: http://mainichi.jp/articles/20160208/ddm/005/070/028000c#csidxd16745d67e97242ab1ee130133628b6
Copyright 毎日新聞



女性アルパインクライマーとして世界中の山を舞台に活躍する谷口ケイさん。小柄ながらも底知れぬ体力と精神 力で世界の高嶺を次々と制覇し、栄誉ある「ピオレ・ドール(金のピッケル)賞」を日本人として、女性として初めてノミネート・受賞した。学生時代から何事にも全力で取り組み、後に続く人たちへの確かな道を切り拓いてきた。

山と友達になって恐怖心を克服
 何が起こるか分からないのが自然の世界。ルート上が氷壁かもしれないし、クレバスが大きな口を開けているかもしれない。そういう山に登っているから大きい人だと思われるけど、会ってみたら「凄く小さいね」とよく言われる。本当は小さい方が無駄なカロリーを消費しないから、ヒマラヤみたいな高い山では最終的には生き延びるんですけどね(笑)。

 正直、山に対してはいつも恐怖心を抱いています。でも、登り始めると恐怖心はなくなるんです。人間関係と似ていて、初対面の人には一歩引いて接していても、挨拶を交わして話しをするうちに打ち解けますよね。同じことが山と自分の間でも起こるんです。山と対話をするとお互いの距離が縮んでいく。こうして山と友達になると、恐怖心はなくなるんですよ。


07年、エベレスト登頂。この時、谷口さんがブログに記した手記が印象に残る。「初めてのチョモランマ(エベレスト・チベット側)そして、きっと二度と来ないはず」との書き出しだった。高所の薄い酸素の中で平常心を失っていた別の隊のイタリア人に酸素を吸わせ、命綱を付けずに下山していたオーストリア人女性に「死にたくなかったらカラビナ(登山用金具)ちゃんとロープに掛けなさい」と厳しく注意するなど多くの登山者の面倒をみた様子がつづられていた。近年、エベレスト登山の主流となっている公募隊。メンバーの技量が違い、気持ちも通じあっていないことが多い現状を嘆き、その異様さに警鐘を鳴らしていた。

 09年、世界の優れた登山家に贈られるフランスの「ピオレ・ドール(黄金のピッケル)賞」を女性として初受賞。行方不明となったのは昨年12月21日、大雪山系黒岳の山頂付近。翌日、発見され死亡が確認された。登山家の田部井淳子さんは「男性と対等に登れる体力と技術を持った女性登山家の星だった」と早すぎる死を悼んだ。誰よりも危険性を知っていた雪山で亡くなるなんて……。最近は学生向けの登山研修会に講師として積極的に参加していた。後進たちの安全登山を見守り続けてほしい。

女性クライマーの星 谷口(たにぐち)けいさん=滑落による脳挫傷のため、2015年12月22日死去・43歳
 2006年、アルピニストの野口健さんが主宰したネパール・マナスル峰(8163メートル)の清掃登山隊に参加し、谷口さんは自身初の8000メートル峰登頂を果たす。その時、私は標高約4800メートルのベースキャンプまで同行取材した。5歳年上の谷口さんは当時33歳で「面倒見のいいお姉さん」だった。日焼けした顔でネパール人シェルパに和気あいあいと接し、譲れないことは主張した。芯の強さと柔軟さを持ち合わせた人だった。



2001年 マッキンリー(6,193m/アメリカ)登頂。2日連続登頂。
2004年 ゴールデンピーク[北西稜](未踏ルート/7,027m/パキスタン)初登頂。
2004年 ライラピーク[東壁](未踏ルート/6,200m/パキスタン)初登頂
2005年 ムスターグアタ[東稜](7,569m/新彊ウイグル自治区)登頂。
2005年 シブリン[北壁](未踏ルート/6,543m/インド)初登頂。
2006年 マナスル(8,163m/ネパール)登頂。
2007年 エベレスト[北壁](8,848m/チベット)登頂。
2008年 カメット[南東壁](未踏ルート/7,756m/インド)初登攀。
2011年 フランシス峰[南西稜](3,185m/アメリカカヒルトナ氷河)登頂。
2011年 カヒルトナクイーン[西壁](3,773m/アメリカカヒルトナ氷河)登頂。
2011年 マッキンリー[ウエストバットレス](6,194m/アメリカ)登頂。
2011年 ナニムニ[南東壁](7,694m/チベット)登頂。
2012年 アネト山(3,404m/フランス)登頂。
2014年 ムスタンマンセイル峰(未踏峰/6,242m/ネパール)登頂。

また、「女性だからできない」と言われるのがとにかく嫌い。先輩に無理だと言われた片道300kmを走る自転車のロードレースに女性として初めて参加もしました。いま考えると頑張りすぎた気がしますが、自分に続いてきた後輩たちもたくさんいましたし、そうした 努力があって今の自分が形成されたのだと思います。いまでも時々「女性だから」って声を耳にするけど、他が何と言おうと自分がやりたいと思えば、努力してやればいい。ただシンプルにそう考えています。

自分で限界を設けないで
 じつは初めての海外遠征でマッキンリーに登った際、パートナーのトラブルなどがあり、結局、二日続けて2回の登頂を果たしました。その時、「あれ?自分って思っている以上にもっとできるのでは?」と新たな可能性が見えたんです。山の世界は極限の状況でいつも死が隣り合わせ。だから身の安全がもっとも大切だけど、一歩踏み込んで挑戦するか、踏み出さないで安全な域にずっといるかで自分のキャパシティはどんどん変わってくるものです。だから学生のみなさんも、自ら限界を作らないでほしい。自分の可能性が無限であることを見つける旅、それが人生なのだから。

Profile of Kei Taniguchi
初めての海外遠征で北米大陸最高峰のマッキンリー峰の登頂成功に始まり、2004年パキスタン・ゴールデンピーク(7027m)、06年ネパール・マナスル(8163m)、07年エベレスト(8848m)など世界中の高峰を制覇。08年インド・カメット峰未踏の南東壁に初登攀。これに対して、日本人として、女性としても初のピオレ・ドール(金のピッケル)が贈られ、日本を代表する女性アルパインクライマーとして注目される。1972年生まれ。和歌山県出身。


マカルー 西壁
デスゾーン手前から山頂付近まで垂直の岩壁~オーバーハングが続くという人類の限界を超えたルート。 世界の一流クライマーが挑んだが全て敗退している。

マカルー西壁はデスゾーンでハードルがあがっちゃうからキツイね
ウエリシュティックでも無理だろ

1996年に満を持して挑んだものの、「フリーで登るのは不可能、多量のギアを持てばスピードが落ちてリスクが上がる」というジレンマの通り落石の直撃を受けて負傷し核心部に至らず敗退。 

「どのようなトレーニングを積めばいいのか判らない」と難しさを語っている。

これからも登頂が難しいのは今まで何回も挑戦されてるけど誰も登頂してないナンガパルバット冬季登頂
それと、あの山野井さんが「どうやって登ればいいのかわからない」と言わしめたマカルー西壁
この二つはなかなか登頂されないだろ

マカルー西壁、極限のクライミングを記録に残す意味。

――山野井さんはこれだけ世界的に注目される登山をしながら、あまりドキュメンタリー撮影などでクライミングしている姿を映像に残していませんよね。でも、「ヒマラヤに残された最後の課題」ともいわれるマカルー西壁(8463m)へのアタックでは、テレビの取材を受け入れましたね。これはやっぱり特別な挑戦だったんでしょうか。

 自分のやっていることを見せたいと思ったんです。というのも、メディアに流れる情報が、大きな隊によるエベレスト登頂や七大陸最高峰制覇といった方向に偏っていたのが気になっていたからです。登山にはそれとは違う世界があること、神秘的な山、困難な岩壁で、極限に挑戦しているクライマーがいるんだということを、ひとりでも多くの人に見てもらいたいという気持ちがあった。だから、べつに僕が主人公じゃなくてもよかったんです。

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 結果は頭に落石を受けて敗退。登頂を撮影することはできませんでした。その後もお話はありましたけど、基本的にはぜんぶお断りしました。そもそも8000m級の山で壁にしがみついている表情なんて撮れるわけがないということも分かった。

――野球やサッカーのような競技スポーツだったら、放っておいてもメディアに取り上げられますけど、登山の場合、自分から報告しないと誰にも分かってもらえない。そういう意味でも難しいスポーツですよね。

 僕の場合、だからといって自分の冒険を大げさに伝えるようなことは嫌だったんです。子供の頃からこの世界が大好きだから、正しく報告しなきゃいけないなということをすごく感じてました。それに自分がやってきたクライミングで、人に向かって本当に「やったぞ!」と言えるものはそれほどない。今までずいぶんいろんなところに書いてもらったし、自分でも書いたので、もう充分だと思ってます。

 むしろ、見せなくてもいい世界があるんだと思うようになりましたね。全部を世の中の人に知ってもらわなくてもいいじゃないかと。いずれにしても、経験したことそのものに比べれば、記録されたものは、残りかすみたいなものです。それは僕自身の文章もそうです。


アンナプルナは別格だけど
ナンガパルバット、K2,カンチェンジュンガ、ガウラギリ、マカルー
このへんの危険度は同じくらいでは?
壁によってはマカルーやダウラギリが一番危険だったりする

2009年のデータ発見しました ^^V
アンナプルナがとび抜けて、次にK2って感じみたいです。

以下 14座の挑戦者数、死亡者数、死亡率です(標高順)

エベレスト     5104 219  4.29%
K2         302  80 26.49%  
カンチェンジュンガ  243  40 16.46%
ローツェ       396  12  3.03%
マカルー       323  29  8.98%
チョ・オユー    2790  43  1.54%
ダウラギリ      417  62 14.87%
マナスル       297  58 19.53%
ナンガパルバット   326  68 20.86%
アンナプルナ     157  60 38.22%
ガッシャーブルムⅠ  298  26  8.72%
ブロードピーク    358  20  5.59%
ガッシャーブルムⅡ  872  20  2.29%
シシャパンマ     285  24  8.42%

エベレストは挑戦者5万くらいで死亡者千人の4㌫
アンナプルナは挑戦者5百人くらいで死亡者200人の40%

標高(8611m 世界第2位)
死亡率(アンナプルナに次ぐ2位)
冬季未踏峰(14座ではK2とナンガパルバットのみ)
不安定な気候
急峻な傾斜
人里から離れているためアプローチが難しい

以上の点から K2がもっとも危険な山と思われる。

世界初の14サミッターメスナー ローツェ南壁敗退
世界2番目の14サミッターククチカ ローツェ南壁にて死亡


ローツェ南壁を真冬に完登した田辺治は、ダウラギリノーマルルートで雪崩にやられた
表層雪崩なら避けられても、はるか高所のセラックが崩れたら予知も回避もできない

そんなこと言ったらきりないだろ
じゃあ誰も登頂してないマカルー西壁はどうなんだ?
まだ日本人女性が誰も登頂してないカンチェンジュンガやアンナプルナはどうなんだ?
一部分だけみて判断するのはどうかな?

14サミッター竹内洋岳のアンナプルナ評

とにかく怖かった
後にも先にもあそこまで追い込まれたのはあの時だけ
弾倉に弾丸が半分入ってるロシアンルーレットのようなもの
もう二度と登れない

あの竹内氏が言うんだからアンナプルナ超ヤバイんじゃね?





1995年のマカルー登頂から足かけ18年……数々の試練を乗り越えて
ついに日本人初の8000m峰14座登頂に成功した竹内洋岳。
ダウラギリの頂上に立ったそのとき、何を感じたのか?
下山したばかりの彼に、その思いを語ってもらった。
 世界に14座ある、8000m峰。

とにかくダウラギリの存在感はハンパない
回りの山が低くて丸っこい山の中で真っ白で馬鹿でかく鋭利な山がそびえ立ってる
将棋でいえば王将がドーンと立ちはだかってるような感じ
見た瞬間にこんな山絶対登れるはずがないと思うような山
しかし、テレビで竹内さんがすいすいと登頂したのを見てこれまた衝撃を受けてしまった

8000m峰危険度ランク

Sランク
アンナプルナ

Aランク
カンチェンジュンガ、ナンガパルパット、ダウラギリ、K2

Bランク
マカルー、ローツェ、エバレスト

Cランク
マナスル、ブロードピーク、チョオーユー、シシャマンマ、ガッシャブルムⅠ峰Ⅱ峰

女性登山家のワンダがアンナプルナ登頂したときにK2よりはるかに厳しかったって言ってた
そのワンダもカンチェンジュンガで滑落して死んでしまった


8000メートル峰の中では
最も難しいのがK2、最も危険なのがアンナプルナ


SS アンナプルナ、K2
S  ナンガパルバット
A  カンチェンジュンガ、ダウラギリ
B  マカルー、ローツェ
C  エベレスト、シシャパンマ、チョ・オユー、マナスル、ブロードピーク
   ガッシャーブルムⅠ峰、ガッシャーブルムⅡ峰

K2
おそらく世界で最も難しい頂。
標高が高い。雪崩の危険が高く、天候はよく悪化する。技術的に難しく、簡単なルートが無い。
北側の稜線はやや難度が下がるが、自然要因(嵐・雪崩・強風)の影響が厳しくなる。

アンナプルナ
14座の中で最も危険。北側のノーマルルートは技術的に難しくはないが雪崩の巣。
南側は技術的に極めて難しく、多くの危険がある。

ナンガパルバット
ノーマルルートは技術的に極めて難しいというほどではないが、長く、自然要因(嵐・雪崩・強風)の影響を受ける。
天候が悪いことで有名で、用心しなければならない場所が多い。難しい山の一つ。

K2の難所 頂上直下のボトルネック。
頭上のセラックやばすぎw
これがいつ崩壊するか分からんとかどんなムリゲーだよ

竹内さんは死の一歩手前だったガッシャブルムやエベレストよりアンナプルナの恐怖のほうが印象強かった
マジに死の恐怖に直面したらしい


K2、ガッシャーブルム、ブロードピークはほぼ同じ位置にあって
アプローチの難しさは同じ

カンチェンジュンガはかなり難易度高い
標高も高いしかなりの難易度、ナンガパルパットやK2と同じくらいのレベル
マナスルはアンナプルナまではいかないけど雪崩が多い
雪崩さえ気をつければ難易度は巨峰の中でも下のほう
イモトのときは雪崩がなかったから大量登頂できた
ダウラギリはルートによって難易度がまったく違う山
ここも雪崩が多く有名登山家ではシャンタルや田辺さんなどが亡くなってる

14座登頂した竹内さんが危険度NO1はぶっちぎりでアンナプルナって言うんだからアンナプルナなんだろ

メスナーはK2を山の中の山と評しているが、アンナプルナは特に評していない
ちなみに、メスナーが危機を感じたのはカンチェンジュンカとナンガパルバット

14座無酸素
マリオ・パンツェーリ(Mario Panzeri、イタリア)エベレスト3回を含む完全無酸素8000m峰14座制覇。
ゲルリンデ・カルテンブルンナー(オーストリア)女性として初めて8000m峰14座制覇の無酸素登頂に成功(2011年)


アンナプルナⅠ峰南壁
クリス・ボニントン(イギリス) エベレスト遠征のエキスパート、アンナプルナⅠ峰南壁初登頂


日本人の活躍
山野井泰史 K2南南東稜単独無酸素最速登頂の記録を持つソロクライマー
八木原圀明 エベレスト冬季南西壁初登頂
長谷川恒男 史上初のアルプス三大北壁冬季単独完登



マッキンリーは6000m峰だけど比高は世界一だし高緯度のため
高山病の危険が非情に高い山。
危険度で言うとエベレストよりは上だと思う。

冬富士は荒れれば生きて帰ってこれないぐらい危険だがアプローチが簡単で車から天候を読んで安定した1日で登れ、雪山中級なら誰でも登れると思う。

北アルプス、特に劔や槍穂高の稜線は違う。
アプローチに数日かかって急激に低気圧が発達したら身動きがとれず数日ビバーグもありえる。
しかも世界有数の豪雪地。
ドカ雪の日は夜も昼も寝れない。
1時間おきに雪かきしないと埋まっちゃうから。
ラッセルも半端ない。劔なんて厳冬期に入るパーティーなんてまずいないから
全てラッセル。
深いところは胸まで沈む。
気温はマイナス20と風速20mが重なれば体感温度はマイナス40度に達する。
特に上の動画の奥穂高岳から西穂高への縦走はまともなビバーグ地点すらない。
もちろんエスケープルートもない。
北アルプスは一度核心部まで突っ込んだら行くも地獄、退くも地獄。
やめといた方がいいよ。結構死んでる。
秋に奥穂から西穂縦走したけどすれ違ったおじさん翌日のニュースで亡くなってた。
一応一般道だけど大キレットと西奥縦走、妙義縦走は未経験者はやめたほうがいい。

ガチランキング

1 K2、アンナプルナ
2 ナンガパルバット
3 カンチェンジュンガ
4 ダウラギリ、ミニヤコンカ、ギャチュンカン
5 梅里雪山
6 マナスル
7 マカルー
8 エベレスト、ローツェ

SSS ギャチュンカン K2
SS  ナンガパルバット アンナプルナ ガンケルプンズム
S   カンチェンジュンガ ミニヤコンカ ウルタルⅡ峰
A   ダウラギリ 梅里雪山
B   マカルー カメット
C   エベレスト ブロードピーク ローツェ マナスル

日本人エベレスト登頂者のべ200人
日本人K2登頂者50人

K2登頂した主な女性
ワンダ、ガリンダ、ジュリー、シャンタル、小松由香

ガリンダはエベレストも登頂してるが他は全員エベレスト敗退してるな
記憶違いでワンダは登頂してるかもしれないが
とくにシャンタルはK2一回目の挑戦で登頂したけどエベレストは5回くらい敗退したはず
一概にK2のほうが難しいとは言えない


 そのすべてに登頂した、初めての日本人がプロ登山家の竹内洋岳だ。

 5月26日、14座の掉尾を飾る、ダウラギリI峰(8167m)の登頂に成功。1995年のマカルー登頂以来、足かけ18年に及んだ挑戦に区切りをつけた。

 カトマンズで羽を休める竹内に、今の心境を訊いてみたい。受話器から聞こえてくる声は、軽やかに弾んでいた。

――改めておめでとうございます。快挙達成のニュースに日本中が沸きましたよ。

竹内 そうですか。いや、なんかね、こっちにいるとよくわからなくて。ヒマラヤには私以外にも14座のサミッターは普通にいて、珍しくないんですよ。

――世界で29番目とも言われる、14座完登者になりました。ダウラギリの山頂に立った瞬間は、何を思いましたか。

竹内 今回に限らずいつも思うのは、もう登らなくて良いんだってこと。そこから先は空しかないですからね。もちろん、今回が14座目の完登に間違いないんですけど、14座完登よりも、14座目の山に登れてうれしかった。ダウラギリに登れて良かったなあ、という思いの方が強かったです。



――遠征に同行したカメラマンの中島ケンロウさんが体調不良でリタイア。単独でのサミットプッシュになりました。山頂で竹内さんが撮られた写真を見て驚いたんですが、一番上にあんな大きな岩があるんですね。

竹内 実物はたいして大きくないんですけど、あの岩がダウラギリの頂上です。とにかく風が強くて、岩の上には乗っかったんですけど、立ってガッツポーズするなんてとんでもない。四つん這いになって、一番高いところに手をかけた。そんな感じでした。

――すると、喜びにひたれたのはBC(4600m地点にあるベースキャンプ)に下りてきてからですか。

竹内 まずBCに降りてきた時は「ただいまー」という感じで嬉しかったですね。それからBCを撤収して、車や飛行機を乗り継ぎながら、ようやくここカトマンズまで帰ってきたわけですけど、もうBCを離れた時からなんとなく「次はどこに行こうかな」という気持ちになっていたように思います。

14座を登っただけで山の神髄を究めたとは思えない。

――そんなに早く次の山に関心が移っちゃうんですか。なんだか、もったいない。

竹内 ハハハッ。でも、いつもそうなんですよ。たとえば一生に一度の記念でエベレストに登るとかだと喜びのピークがあるのかもしれないですけど、私はやっぱり毎年のように登山を続けてきて、好きな山をどれだけ続けていけるかということを考えてますので。

 14座というのは確かに山田昇さん('88年秋の時点で9座の頂に立った日本を代表する超高所登山家)を始め、偉大な先人たちが綿々と受け継いできてくれた魂の系譜で、それを結びつけられたことは本当に嬉しいし、誇りに思うんですけど、一方でこれだけ無数に山があって、14座を登っただけでとても山の神髄を究めたとは思えないわけですね。まだまだ他にも登りたい山はたくさんありますし、登った山でも別のルートから登ってみたい。だから爆発的な喜びや達成感を、あまり感じられないのかもしれません。

ビバーク中、地吹雪のような風が吹くと、「バカヤロー!」って。

 14座の頂は、宇宙に近い。

 標高が8000mを超えると、酸素は平地の3分の1ほど。雪崩や強風、寒さによる低体温化など、試練は次々に襲ってくる。

 竹内の登山スタイルは、酸素ボンベやシェルパの力に頼らない速攻登山。生身で生きて還る能力こそが、試される世界だ。

――下山時、大きな試練に直面しました。途中で日が沈み、C3(最終キャンプ)へのルートを見失ったと聞いています。

竹内 天気は良かったんですけど、風が強くて。予想以上に登頂までに時間がかかってしまいました。予定では14時に着くはずが、実際に頂上に立ったのは17時半でした。

――水なし、テントなし。酸素ボンベもない。それでも7536m地点でのビバークを選択しましたね。

竹内 ビバークというと、冬眠中の熊のようにじっとしているイメージがあるんですけど、そこは吹きっさらしの岩の上で、寒くてですね、じっとなんてしてられないんですよ。腰を下ろしてウトウトしても、パッと目が覚めて。体をさすったり、また少し歩いて別の場所を探したりと、休むというよりは明るくなるのをひたすら待っている状況でした。たまに地吹雪のような風が吹くと、「バカヤロー!」って。ハハハハッ。叫んでましたね。
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 「非情の山」ともいわれるK2 青木 達哉 小松 由佳

2017-03-19 20:38:18 | マラソン・駅伝関係

 2006年8月1日16時50分。待ちに待ったその瞬間、東海大学K2登山隊ベースキャンプは歓喜と安堵に包まれた。東海大学K2登山隊の小松由佳隊員と青木達哉隊員というアタック隊が、世界の精鋭登山家にもっとも険しいと恐れられるK2の山頂を極めたのだ。
 しかもこの登頂は記録ずくめとなった。小松由佳隊員は「日本人女性初登頂(世界でも8人目)」、21歳10か月の青木達哉隊員は「世界最年少登頂」を成し遂げたのだ。
 登頂に成功したその瞬間を小松由佳隊員はこう振り返る。
「午前2時半にアタックを開始して、膝まで埋まるような雪や難度の高い岩場を超え、半日以上経った頃ようやく他の高みが見えない、ゆるやかな頂が見えてきたんです。それまでいくつかのピークを越えてきましたが、その頂が見えた瞬間、『ここがK2の山頂だ』と確信めいたものがあったんです。そのとき、先を行っていた青木が『先に行ってください』と気遣ってくれたんですが、もうそのまま行かせちゃいました」
 その山頂目前のやりとりを、青木達哉隊員は克明に覚えているという。
「ちょうど山頂まであと数歩――2mくらいのところだったと思います。自分でもどうして『どうぞ』って先に行ってもらおうとしたのかよく思い出せないんです。いろんな山で指導してくれた尊敬する先輩という気持ちがそうさせたんだとは思うんですが、山頂を目の前にしての達成感や、その反面『もう終わっちゃうのか』という寂しさ……。いろんなものがこみ上げてきたんです。ただ先に行ってもらおうと思ったら、『いいよ、行きな』って……。鼻をすするような音が聞こえてきたから、もしかして泣き顔を見られたくないのかなとも思いました」
 山頂に先にたどり着いた青木隊員は、最後の数歩を踏みしめるたび、脳裏にそれまでのことが次から次によぎっていた。現地スタッフや他国の登山隊の顔ぶれが浮かんでは消える。そして最後の一歩を登った瞬間、空と一体になって頭が真っ白になったという。アイスバイルをついて、無線でベースキャンプに連絡を入れた。デジカメで記録写真を撮影した。しかし、その時点で小松隊員は違うことを考えていた。
「私も登頂する瞬間は、サポートしてくれた方々への感謝の気持ちが大きくわき上がりましたね。青木と同じように、走馬燈のようにいろんなことが頭を駆けめぐりました。ただ、登頂前の本当に数秒だったと思います。登頂した実感も正直あまりなかったですね。むしろ『どう降りるか』ということに気を取られていたような気がします」
 山頂にいたのは1時間足らず。既にアタック開始から15時間以上が経過している。酸素の減りは予定よりも早く、下降中に切れそうだった。下山前に頂から下を見たとき、「数千メートルも下にすっぱり切れ落ちた斜面は底のない穴のように見えた」と小松隊員は言う。
 そして登頂報告の無線を最後に2人からベースキャンプへの連絡は途絶えた。




そもそも東海大学の登山隊がK2という山を目指すことになったのは、2006年が同大学の山岳部創部50年という区切りの年だったことも、その理由だった。それまでも、2001年にはクーラカンリ、2004年には中国・カラコンロンと6000~7000mクラスの山へ遠征し、実績を積んでいた。そして満を持して2006年、K2へのアタックとなったのだ。東海大学K2登山隊の出利葉義次隊長は、その経緯をこう語る。
「当初は世界最高峰のエベレストという話も出ていたんです。数字を求めるだけなら世界最高峰を目指すという選択肢もあったかもしれません。ただ、山岳の世界ではもっとも難しい山はK2だと言われている。ならば、登山家として、より高い目標を目指すべきではないかということになったんです」
 だが、決定したあとも不安はよぎる。相手は、世界の精鋭登山家たちが命を落としたK2という最難峰。登頂できるのか、いやそれどころか生きて帰れるのか……。だが、より大きな困難を乗り越えたときほど、達成感や喜びは大きくなる。目標は、登山家なら誰もが憧れるK2に定められた。
「しかし、東海大の山岳部は他の大学の山岳部に比べて歴史も浅い。足りない経験を補うための万全の準備が大前提となります。例えば、登るルートひとつとっても、どんなルートを選ぶか、そのルートは登山隊や隊員のスキルに適したものか……。他にも医療スタッフや通信手段、気象情報の収集手段など、考えるべきことは無限にあります。登山というのは、自然との闘い。強大すぎるほどの相手だからこそ、十分すぎるほど情報を集めなければならない。ベースキャンプという5000mを超える高所での根幹を担うのが発電機。全幅の信頼がおけるものでなければ選ぶことはできません」(出利葉隊長)
 2001年のクーラカンリ登頂以来、東海大学山岳部はHondaポータブル発電機に全幅の信頼を寄せている。文字通り、生死を賭した危険な挑戦だからこそ、Honda『EU9i』は、東海大学K2登山隊のベースキャンプにまで随行する唯一のポータブル発電機となったのだ。 


東海大学山岳部のターゲットはK2に定まった。現役・OB他、登山隊員8名がK2への道を目指すこととなった。そしてK2のような高峰を目指すにあたり、まず初期段階での重要な作業はルートの策定となる。ルート次第で登山の成否は決まると言っても過言ではない。
「ルートは、単に傾斜のきつさだけで決めるのではありません。例えば、他の登山隊が多く登ったルートでは、先行した登山隊が残していったロープをあてにして登ることもあります。しかし時間が経過してゆるんでいたりすると、思わぬトラブルに巻き込まれることもある。さらに、他の登山隊がすぐ前を先行しているときには、それに伴う落石も考えられる。自分たちが先行している場合には岩を落とさないよう、気を遣わなければならない。比較的登りやすいルートは、他国の隊も集中する。それより、山と隊が真っ向から対峙できるルートを選ぼうということになったんです」(出利葉隊長)
 検討に検討を重ねた結果、出利葉隊長率いる東海大学K2登山隊は南南東から登るルートを選択した。急な岩場や、氷と雪で固く締まった壁に覆われた難ルートである。
「南南東リブから入るルートは、確かに難ルートではあります。しかし、氷雪壁の登はんとなれば、日本の雪山で鍛えられた東海大学登山隊が得意とするところ。もちろんルートを決めた時点では、まだアタック隊はおろか、どんな人選で隊を組むかも決めていませんでした」(同)
 だがその段階でも、やるべきことはいくらでもあった。
「『EU9i』があれば電力は確保できる。となれば、登山に必要な情報テクノロジー用の電源はすべて網羅することができるのはわかっていました。ですから、まず最大限に情報を集め、解析できる体制作りから手をつけることにしたのです。まず、大学内の情報技術センターに支援を依頼し、ヨーロッパの気象衛星METEOSAT5号の衛星画像を加工・補正してもらい、パキスタン北部地域を網羅した衛星画像が送信される体制を整えました。さらに、この衛星画像をもとに、学内の気象学の専門家に予想天気図を作成してもらうことにもなりました」(同)
 すべての電気の源を司る『EU9i』については、2001年のクーラカンリ遠征と同様、オールホンダ販売に依頼し、メインジェットを高地用にチューニングした。電源を要としたハード面、そして日本からの情報支援については目算が立った。だが、出利葉隊長の目の前には問題が山積みとなっていた。

 ハード面では『EU9i』含め、可能な限り最高の準備の目算が立った東海大学K2登山隊だったが、何より最大の問題が控えていた。当然ながら、登山とは人が山を登るもの。だが、肝心の隊員の編成が最大の問題だった。
「大学登山隊は、基本的に現役で山岳部に所属する学生と、OBで編成されることになります。そこで中核となるのは、やはり経験豊富なOB隊員。ただし、ほとんどのOBは企業勤めをする会社員。休みの調整なども必要ですが、家庭や仕事の事情で断念せざるを得ない隊員もいるので、中核を担うOBの存在は本当に貴重なのですが……」(出利葉隊長)
 しかし、自然を相手に研鑽を積む以上、危険とは常に隣り合わせ。そんななか、出利葉隊長にとって頭を悩ませる事故が起きた。
「主力にカウントしていた中堅の隊員が2005年にヒマラヤで凍傷にかかってしまい、両手足の指を切断することになってしまった。隊の中核を担うには、回復までの時間が足りなかった。他の隊員も日程を調整し、学内からだけでなく学外からの支援も受けている一大プロジェクト。日程はどうにも動かせなかったんです」(同)
 戦力ダウンを埋めるため、山で荷運びをする高所ポーターを手配することになった。だが、ポーターはあくまでも隊を補助する存在。K2の山頂を目指す隊員の質の向上が急務となった。
「コンディションがよければ、アタック隊として山頂を目指せる人材を増やすことが急務でした。時間が限られているなか、学生ならば集中的に鍛えることができ、伸びしろも期待できたんです」(同)
 といっても、10名程度の学生のうち、K2にチャレンジできる力量までの伸びが期待できるのはある程度のキャリアがある上級生のみ。しかし、上級生ともなると就職活動も本格化する。そんななか、K2という最高峰に挑むための過酷なトレーニングに身を投じる者はほとんどいなかった。隊に参加した数少ない一人は、その動機をこう語る。
「いやー、僕は消防士になろうと思ってたんで。単位も間に合ってたから、『もうちょっと山に登ろうかな』と思って。K2なんて、滅多に行ける場所じゃありませんし」
 K2世界最年少登頂を達成した、青木達哉隊員が隊に参加することを決意したのは、そんな気軽な動機からだった。

K2登山隊への参加を決めた青木隊員だったが、K2へ向かうためのトレーニングは過酷を極めた。標高4000m相当の低圧・低酸素室で高所順応トレーニングを行った。週に4回、1回につき6時間。プロのアスリートよりも過酷なトレーニングともいえる。
「もともと体を動かすのは好きだったんです。山岳部に入ったのは、新人勧誘で『ロッククライミングができるよ』って誘われたから。なんだか楽しそうだと思ったら、入部早々登った雪山がすごく過酷で『なんで、こんなことしてるんだろう』ともう苦しいったらありませんでした。でも、山頂まで登ったら今まで知らなかった爽快感を味わうことができた。それからすっかりハマることになっちゃいましたね」(青木隊員)
 以来、山の魅力に惹かれ、国内の山を次々に登った。2年生の時にはカラコンロン山脈へと赴いた。
「そのカラコンロンで、先輩の小松さんたちと同じ宿になって、いろいろ話す機会を持つことができたんです」(同)
「小松さん」というのは、K2アタック隊でコンビを組んだ小松由佳隊員のこと。当の小松由佳隊員は当時のことをこう振り返る。
「青木君に限らずですが、彼らの代の子たちとはいろいろ話はしましたよ。詳しくは差し障りがあるので言えませんが、それこそ話し合いの過程で殴り合い寸前になったことも(笑)。私の代も彼らの代も人数は少なかったから、似たような苦労もしているんですよね」
 小松隊員は、高校時代から山岳部で競技登山を行っていた。
「インターハイや国体での競技登山は、あくまでも点数を競うもの。山という雄大なフィールドの中なのに、誰が何秒早く到達するかという競い合いになる。向き合うべきは、山のはずなのに……。ルールに縛られるのではなく、純粋に山と向き合いたいと思ったんです。もっとも、根っからの冒険好きでインディージョーンズみたいな世界観を味わいたいな、考古学も学びたいな、と思っていたら、最先端の登山はパソコンや衛星通信も使っていた。驚きましたね」(小松隊員)
 現代の登山シーンにおいては、『EU9i』のようなポータブル発電機は、もはや必携アイテムになっていたのだ

高校時代から数えて、もう10年山に登っているという小松隊員だが、2006年にK2に挑む直前には、登山を続けるかどうか悩んだこともあったという。
「山は基本的に男社会。もちろんどんなに鍛えても、筋力ではかなわない。女性がリーダーとして隊を統率するのは難しい面もあるんです。他にもいろいろな悩みが積み重なり、2005年頃には『もう山をやめようかな』と悩んでしまっていた。それまでは、生活の90%が“山”だっただけに、抜け殻みたいになっていたんです。そんな頃でした。出利葉さんから『K2に行かないか』と誘われたのは」(小松隊員)
 険しい山になればなるほど隊は大編成となり、チームワークも必要とされる。そんなチームを率いるには、個人として山に向かうのとはまた異なる資質が必要になる。その資質は、“山男”なら誰もが持っている資質というわけではない。個人それぞれが山と向き合うことと、チームとして山と対峙することは根本的に異質なもの。その双方を兼ね備えたリーダーは決して多くはない。様々な経験を重ねたが故に、当時の小松隊員は出口のない迷路に入り込んでしまっていた。そんな彼女を救ったのが、出利葉隊長からのK2への誘いだった。
「誘いを受けた後、大学に出向いて何回も話をして『この人がリーダーのチームなら、きっとまた登れる』と思えたんです。世界中に数ある登山隊には、リーダーが独善的だったり自分の考え方を押しつけるような隊もあるんですが、出利葉さんは、チームを意思統一できるリーダーとしての厳しさはありながらも、隊員ひとりひとりの考え方も受け止めてくれる。私が考える登山隊像に合っていたんです。声をかけてくれたのが出利葉さんだったから、『また登ろう』とやる気になれたんです」(同)
 小松・青木両隊員だけではない。東海大学K2登山隊に参加したメンバーの数だけドラマがあった。そして、2006年6月5日、先発隊として出利葉隊長以下、小松・青木の両隊員が成田を発った。3か月前に船便で出発した『EU9i』をはじめとした、荷物が待ち受ける大陸へと向かって。

先発隊の3人がパキスタンに入った数日後には、医師や看護師なども含め、隊に参加する全員が集まり、6月14日にはキャンプ地を目指し行軍を開始した。だが、初夏のパキスタンは厳しい暑さでも知られる。地域によっては平均気温が8月よりも高くなり、最高気温が40℃を超えることもしばしば。行軍は、早朝の涼しいうちに開始され、現地のポーターたちと合わせ約20名のチームはベースキャンプ(BC)へと向かった。行軍の様子を出利葉隊長はこう語る。
「猛暑のなかで1トン以上の荷物を背負っての行軍でしたが、BCまではほぼ順調に行程をこなすことができました。途中、ポーターに一人50ルピーのチップを出すと伝えると、もの凄い勢いで進んでいったのが印象的でした(笑)」
 6月20日にはBCに到着。その後、約1か月をかけて、C0、C1、C2と設営していった。昼はキャンプの設営、夜は機材の整備などに追われた。
「BCでの食事は現地のコックが作る料理と、日本から持ち込んだフリーズドライの食品が中心でしたが、現地のコックが作るのは当然パキスタン料理。何を作っても全部カレー味。補助的な食品として、現地でクッキーを買い込みましたが、さすがにカレー味のクッキーは不評でした(笑)」
 出利葉隊長は、笑い話としてBCでの様子を話すが、ほとんどの日程で設営は夜にまで至った。連日、登はんが終了するまでの18時から21時までの間、Hondaポータブル発電機『EU9i』はフル稼働していた。医師として隊に参加しながら、発電機のメンテナンス担当となった小林利毅隊員はその様子をこう語る。
「BCでの1か月半、ほぼすべての電源を発電機から供給していましたね。持ち込んだガソリンには限りがあるので、1日数時間しか稼働させられない。その間にすべての電源を確保する必要がある。『EU9i』を一次電源として、車載用の大容量バッテリーや汎用電池パック、パソコン、デジタル音楽プレーヤーなどの充電まで行っていました。もちろん、夜間の照明等の電源にも使用しましたが、最後までトラブルもなく快調でした。むしろ、他国の隊が使っていた他メーカーの発電機のメンテナンスに追われることの方が多かったかもしれません(笑)」
 海外のガソリンは地域によっては、高品質とは限らない。ゴミなどの不純物の混入を避けるため、給油は婦人用のストッキングをネット代わりに濾過して行われた。出利葉隊長は、そんな小林医師の様子をこう振り返る。
「二足のわらじというか、ほとんどエンジニアのようでしたね。私を始め、他の隊員から『小林モータース、今日もロシア隊に出張してるなぁ』なんてからかわれていました(笑)」
 そうしてEU9iがフル稼働している間に、C0~C2までの設営は着々と進んでいった。



 C0~C2までの設営が着々と進むなか、同時にアタック日の選定が慎重に行われた。ヨーロッパの気象衛星からの情報の解析結果が日本の東海大学を通じてBCに送られ、その情報をもとに、アタックの詳細が決定された。そのアタック隊に選ばれたのは、1978年生まれの蔵元学士隊員、1982年生まれの小松由佳隊員、そして現役の学生である1984年生まれの青木達哉隊員という3名。その決定理由を出利葉隊長はこう語る。
「衛星通信を介しての情報をもとに、慎重に検討した結果、8月1日頃の天候がいいと予測できた。パソコンや衛星回線を介して、あらゆる情報を検討できたからこそ、精度の高い予測ができたんです。K2では、毎年遭難者が少なからず出ていますが、やはり天候などの情報を得ずにアタックする隊は遭難の率が高い。しかし、どんなに万全の準備でのぞんでもK2という山は甘くない。比較的若い隊員を選んだのは、不測の事態が起きたとき、体力・気力の充実が欠かせないと考えたのです。他の山ならば、私も一緒に登りたいところですが、K2相手となれば、わずかな隙が命取りになりかねません。私が登るという選択肢はありませんでした」(出利葉隊長)
 そして、7月29日の未明、アタック隊として選ばれた蔵元、小松、青木隊員が第一回目のアタックを目指し、BCを出発した。
 ところが、アタック隊はBC出発直後にアクシデントに見舞われる。アタック隊のリーダー格でもあった蔵元隊員が激しい腹痛に見舞われ、隊からの離脱を余儀なくされたのだ。腹痛の原因は急性の虫垂炎だったという。
「BC出発から数時間後のことで、まだC1にもたどりついていない頃でした。本人は無念だったでしょうが、我々が見たのは脂汗を流しながら体を『く』の字に曲げて降りてくる蔵元の姿。本人は無念だったでしょうが、我々も『なぜこんなときに……』と無念の思いでした。それまでは、常に先頭に立ってルートを切り開き、アタックキャンプになるC3予定地にも最初に到達した。高所経験も豊富で、彼がいたからこそ小松、青木と3人でのアタック隊を編成したんですが……」(同)
 予定通り、7月29日に小松、青木両隊員はC1に、翌30日にはC2に入った。そしてその夜、出利葉隊長はC2にいる2人と無線で話し合いを持った。
「アタック目前の彼らは、当然『行きたい』という。蔵元が降りていく後ろ姿に感じるものもあったのでしょう。ただし若く、高所の経験が豊富ではない彼らだけで行かせていいのかという不安もありました。迷いましたが『絶対に無理はしない』という約束をさせた上で一度だけチャンスを与えることにしたんです。とはいえ、実は勝算もあった。あの2人は、どんな山でも山をナメるということをしない。国内の山でもどんな登山者よりも早くに出発し、どんな簡単な場所でも基本に忠実に登っていく。だから後ろからの登山者にどんどん抜かれるんですが、登山とは他者との競争ではなく、『生きて帰ってくること』こそが登山だということをよくわかっている。だからこそ、行かせることにしたんです」(同)
 そしてアタック日は8月1日に決定した。


8月1日午前2時30分。前日の7月31日にはC2からアタックキャンプであるC3へと入っていた小松、青木両隊員はアタックを開始した。朝食は紅茶と堅いパウンドケーキ。小松隊員の「後悔のないようやれるだけやろう。最高の一日にしよう」との問いかけに短く「はい」と答える青木隊員。初めての8000mラインへの挑戦が始まった。
「下の方を見ると、小さな光が暗闇にぽつんと浮かんでいる。BCのみんなが激励のために、たき火を焚いていてくれたんです。あぁ、登っているのは2人だけじゃない。みんなで登っているんだと胸が熱くなりました」(小松隊員)
 何も聞こえない無音の世界のなか、聞こえるのは、自分たちの息づかいと雪を踏みしめる足音のみ。世界のなかで自分だけがぽっかりと浮かんでいるような不思議な感覚に2人はとらわれた。膝まで埋まるような新雪の急斜面かと思えば、ガチガチの固い氷が露出した氷壁もある。足下の変化を一歩ずつ感じ取りながら、慎重に進まなければならない。8000mという高度による疲労も容赦なく2人を襲う。
「4歩歩いて一休み、の連続でした。以前カラコンロンのときに6000mを体験し、今回7000mのC2で高度障害を起こして、高所の恐ろしさは知っていたつもりだったんですが、8000mは一気に体が重くなってくる。あのヤバさは別物でしたね」(青木隊員)
 午前2時半にC3を出発し、あっという間に12時間以上が経過した。当初、午後3時になっても到達できなければ引き返そうと決めていたが、その頃にはもう山頂が目の前に見えていた。山に魅せられた者が、山頂を目の前にして引き返すことなどできるわけがない。
「8000mには7000mまでには気づかなかった“空気の匂い”がありました。単純に鼻で感じる匂いというより、頭というか体全体で匂いを感じるような感覚。太陽の光、雲、風……。すべてがダイナミックでギラギラして体にダイレクトに突き刺さるような感覚。すべての感覚がすごく鋭敏になった記憶があります」(小松隊員)
 とはいえ、そうした感覚にばかり溺れるわけにはいかない。午前3時半にBCに報告の無線を入れて以来、無線を入れようとしても圏外をあらわす音が鳴るばかりでBCとの交信も途絶えていた。繰り返し交信を試みるが、いっこうにつながる様子はない。そのときのBCの様子を出利葉隊長はこう語る。
「BCで待機している我々は、まったく状況がわからない。登頂したのかもしれないし、万が一ということもあり得る。16時を回り、不安が頭をもたげ始めた16時50分、無線が入ったんです」
 一瞬にしてBC内の空気が変わった。緊張で息をのむBCの隊員たちの耳に聞こえてきたのは、『BC聞こえますか! 私たちは今、ついにK2の山頂に到達しました!』という小松隊員の声だった。一瞬の静寂の後、BC内は歓声で埋め尽くされた。言葉がわからないはずの現地スタッフたちも喜びを爆発させる。無線でしかつながっていないはずのK2の山頂にもその感動は伝わっていた。
「出利葉さんの『よくやった!』と興奮する声と、BCの緊張と興奮が無線を通じても痛いほどに伝わってきました。感無量でしたが、心配かけて申し訳なかったなという思いや喜び、そして下りへ向かう緊張感。様々な気持ちがないまぜになっていました」(小松隊員)
「無線では何を話していいかわからなくて、最初に『青木です』と言った後は、ひたすら『よくやった!』『ありがとうございます』という会話を繰り返していました(笑)。K2の山頂はまるで天空にいるような不思議な感覚でした」(青木隊員)
 周囲を見回しても、ここより高い場所は見えない。8068mのガッシャーブルムも8047mのブロードピークも眼下に見える。そんな世界で2番目に高い場所に2人は約1時間、たたずんでいた。



 遂にK2山頂にたどり着いた2人だったが、山頂から下を見ると、数千メートル下まですっぱりと切れ落ちた底のないような穴に見えた。
「『ここを降りるのか』と改めて、今、自分たちがいかに危険な場所にいるかを再認識して『とにかく生きて帰るんだ』と気を引き締めました」(小松隊員)
 登りで時間がかかった分、酸素ボンベの残量も限られていた。下りる間に、酸素ボンベの流入量を毎分2Lから1Lに、さらには0.5Lに切り替えた。「下りこそが危険」というのは、山の常識でもある。登りは2人同時に登った箇所も、下りでは片方が確保を取り、ロープでつながれたもう一人が下りるという、より安全なやり方を採用した。
「スピードが安全につながるという面もあるのですが、とにかく生きて帰ることだけを考えたら慎重に進まざるを得なかったんです。ただ時間の感覚がどうにもおかしくなっていて、21時頃かと思ったら、あっという間に翌日の午前2時半になっていました」(小松隊員)
 頂上アタックを開始してから、もう丸1日行動し続けていた。興奮状態で、疲労を感じにくくなっているとはいえ、2人の体力は限界に近づいていた。
「高度障害に疲労、そして酸素不足もあって、下りは本当にしんどかったですね。ボクがロープを確保して小松さんが下りてくるのを待っているときに立ったまま、まぶたが落ちてしまったこともありました」(青木隊員)
 立ったまま、寝たり起きたりを繰り返した。空の酸素ボンベやヘッドランプも手につかない。手から滑り落ちたそれらは、あっという間に視界から消えていく。
「疲労が極限に達し、ビバークを決意しました。8200mという高所でビバークするか、このまま下り続けることのどちらが危険かと考えたとき、ビバークを選択せざるを得ないような状況でした」(小松隊員)
 もう酸素は残っていない。凍った斜面をアイスバイルのブレードで削り、2人がようやく腰を下ろせるだけのスペースを作った。午前3時、確保を取りながら、手持ちのものをすべて着込んだ。さらにその上からシートをかぶり、2人はつかの間の眠りについた。「寝たら、もう目が覚めないなんてことはありませんよね?」との青木隊員の問いに、小松隊員は「大丈夫」と答えたが、小松自身8000mを超える高所でのビバークは初めてだった。




朝になってもC3に姿を見せない2人に、出利葉隊長をはじめとしたBCは焦りを感じ始めていた。
「夜間ということもあり、頂上からアタックキャンプのC3まで下りてくるのに約5~6時間かかると見ていました。ところが17時50分の無線連絡以降、またも無線が不通になり消息がしれないまま夜明けを迎えてしまった。スコープで覗いてもC3に姿も見えない。無線も通じない2人を案じながらも、すべての可能性を考え、午前10時の段階で日本の大学に連絡を取りました」(出利葉隊長)
 山ではどんな悲劇が起きても不思議ではない。明るくなっても無線は入らず、BCから目視できるはずのC3にも2人の姿が見えない。最悪の事態が脳裏をよぎった。
「『遭難の可能性あり』と、何時の時点で判断し、どのタイミングで発表するかも含め、大学側との協議を開始しました。単に下山が遅れている可能性も考慮しましたが、万が一の可能性もある。ただし、日本時間の夕方に発表してしまうと、夕方の報道番組や夜のニュースで流れてしまう。混乱のさなか、マスコミから家族に伝わるという最悪のケースは避けなければならない。協議を繰り返した結果、パキスタン時間の15時、つまり日本時間の19時までに2人を確認できなければ、まず大学側から家族に一報を入れようということになりました。マスコミへの発表はその後ということに。ただ、大学の広報はメディアからは『いつコメントは出せるのか』、『いつ帰国するのか』という問い合わせが殺到する裏で、こちらとのやりとりも行うという本当に大変な状況だったようです」(出利葉隊長)
「遭難の可能性あり」と判断を下すまで、残り3時間となる現地時間の12時になっても2人は戻らない。出利葉隊長は、パキスタン軍にヘリコプターの出動を要請した。午後に要請すると、手続き上ヘリコプターの現地到着が2日後になってしまうからだ。翌日にヘリコプターを現地に入れるためには、昼までに当局に出動要請を行う必要があったのだ。
 午後になっても2人の姿は見えない。焦燥の色が濃くなっていくBC。そんな午後12時30分、BCの無線機が鳴った。「いまC3に戻りました。2人とも元気です!」との小松隊員の声が無線機に流れ出した。登頂時をも凌駕する歓声がBCを包んだ。誰もが声にならない声を上げ、ボロボロと歓喜の涙を流していた。







 その数時間前、小松隊員はほほに強烈な光を感じて、目を開けた。時計は午前6時を指していた。眼下に雲の海が広がり、彼方から昇る太陽は見たことがないほど美しかった。
「まるで『生きなさい』と言われているかのような美しさでした」(小松隊員)
 1時間ほど日の光を浴びて体を温めた後、2人は再び下降を始めた。BCが心配しているだろうことは痛いほど想像できたが、無線はつながらない。仕方なくそのまま下降を続ける2人だったが、眠気は去ったものの今度は襲い来る落石の恐怖との闘いとなった。
「ロープにぶら下がっていて避けようのない状態で、1メートルクラスの落石がすごいスピードで体のすぐ横を通過し、奈落へと落ちていく。しかも、岩肌でこすれたのか、焦げたような匂いまで漂ってくる。当たらなかったのは、本当に幸運でした」(青木隊員)
 8200mという高所で無酸素状態でのビバークを経て、体力を使い切った2人がC3に戻ったのは午後12時30分。C3の緑色のテントが見えたときには、前日の未明に出発したとは思えないほど、時間が経過しているように感じたという。BCに無事を伝える無線を入れ、凍傷のチェック、水分などの栄養補給をすると2人は体を横たえた。疲労の極限にあった2人は、その日は体力回復のためC3にて一晩を過ごすことにした。そしてその日の午後と夜の2回、“訪問客”があったという。
「テントの中で休んでいると、下の方からザクッザクッという足音が近づいてきて、テントの近くで何やら話している。そのときは疲れていて外を覗く気にもなれませんでしたが、あとで外に出ても、足跡ひとつないんです。最初は自分の聞き違いかとも思ったんですが、青木に確認しても同じタイミングで同じ声を聞いている。正直ゾッとしました」(小松隊員)
 東海大学K2登山隊がC3を設営した近くには、雪に埋もれたテントに過去の遭難者の遺体が何体も眠っているという。
第十一章 精霊の訪問 「ボクも男性の声と足音は、はっきり聞きました。ただ、小松さんと違って怖いという感覚はありませんでしたね。むしろ伝説のクライマーがK2の精霊となって会いに来てくれたのかもしれないと、うれしさすら感じました。後で、出利葉さんには『幻聴じゃないのか?』と笑い飛ばされましたが、確かにそこにいたんです」(青木隊員)
“精霊”に触れた2人は、その晩泥のように眠った。そして翌日早朝、登山隊のメンバーが待つBCへ向けて出発した。



8月3日の早朝にC3を出た2人がBCへ戻ることができたのは、4日の深夜0時を回った頃だった。遠くに見えるBCのテントの外にヘッドランプの光がちらちらと見えた。隊員が出迎えてくれていたのだ。「やっと帰ってきた」という思いで近づくほどに早足になる。
 BCで爆発する歓喜、そして嵐のような抱擁と握手が2人を待っていた。
「BCで調理を担当してくれた現地のコックさんに至っては、2人の肩を抱きながら『ウワァーン』と声を上げての号泣とともに迎えてくれたんです。何も言わず、骨が折れそうなほど強く手をギュッと握りしめてくれた隊員もいれば、ひたすら『よかった』を繰り返す人もいた。表現は違うものの、誰もが万感の思いで出迎えてくれたのを痛感しました。同時に仲間って本当に温かい存在なんだと、ありがたさと申し訳なさで改めて胸が熱くなりました」(小松隊員)
「振り返ってみればたった数日でしたが、すごく久しぶりに小松さん以外の人の声を聞いたような気がして、『やっと生死の狭間から帰ってきたんだ』という安心感でいっぱいでした。みんなと抱き合って、握手して、笑い合った。頂上よりも素晴らしい場所があることを知った瞬間でした」(青木隊員)
 それから数日間は、休養に充てられた。PCを使ってのHPの更新作業は急ピッチで進められた。食堂テントではDVDで映画を見たり、小松は持ち込んだデジタル音楽プレーヤーで好きなエンヤを愉しんだりもした。
「それらすべての電源の源はすべて『EU9i』でした。以前のクーラカンリのときもそうでしたが、現代の登山において電源はすべての根幹です。アタック日の選定ひとつとっても、学内の総力を結集して得た情報を衛星回線で手に入れられるから、風のない日を選んでアタックできた。8200mでのビバークやC3から無事帰還できたのも、天候のよさに救われたという面もある。他にも、アタック前後に彼らが口にした堅いパウンドケーキは、プロスキーヤーの三浦雄一郎さん率いるミウラ・ドルフィンズから差し入れていただいた手作りのもの。ナッツ類や香辛料も豊富でカロリー補給という面からも本当に助けられました。他にも、各方面から様々なサポートをいただいたからこそ、K2登頂をなしえることができた。隊員として名を連ねた者だけでなく誰ひとり、持って行った何ひとつ欠けても、今回のK2登頂はなしえなかったはずです」(出利葉隊長)
 2006年の東海大学K2登山隊の挑戦は、記録ずくめの偉業となった。そしてその偉業は、チームを中心とした、そこに関わるすべてのものの偉業でもある。
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私の敬愛するヒマラヤニスト その1 山田昇氏

2017-03-19 20:12:36 | マラソン・駅伝関係
山田さんは登山センスの他にも、ヒマラヤ登山に不可欠な高所順応力がずば抜けていた。これは8000m峰にチャレンジする上で大きな力になる。
その後、多くのヒマラヤ登山隊に参加した山田さんはヒマラヤで活躍した。

1978年秋 ダウラギリⅠ峰南東稜より初登攀(群馬県山岳連盟)・・・世界初
1981年春 カンチェンジュンガ主峰登頂(日本ヒマラヤ協会)
1982年秋 ダウラギリⅠ峰北面ペアルート初登攀(カモシカ同人)・・・世界初
1983年秋 ローツェ(8511m)西壁より登頂(カモシカ同人)
1983年冬 厳冬期エベレスト(8848m)南東稜より第3登(カモシカ同人)
1985年夏 K2(8611m)南東稜より無酸素登頂(日本ヒマラヤ協会)
1985年秋 エベレスト無酸素登頂(映画「植村直巳物語」撮影隊)
1985年冬 厳冬期マナスル無酸素登頂(斎藤安平氏と2人でのアルパイン・スタイル)
1987年冬 厳冬期アンナプルナ南壁無酸素初登攀(群馬県山岳連盟)・・・世界初
1988年春 エベレスト南北の初縦走(日本・中国・ネパール3国友好登山)・・・世界初
1988年秋 シシャアンマ主峰・チョーオユーをアルパイン・スタイルで継続登頂(日本ヒマラヤ協会)

1985年と1988年にはハットトリック(1年で8000m峰を3回登る事)を記録している。
その他にも7000m峰で2座を初登頂した。
ヒマラヤ登山22回、8000m峰14座中、9座に登頂

この中で特筆すべき記録をまとめると
エベレスト三冠王(春・秋・冬) 無酸素登頂 南北縦走
K2無酸素登頂 厳冬期マナスル無酸素登頂
バリエーション・ルートでは ダウラギリⅠ峰南東稜・ペアルート、アンナプルナ南壁の無酸素登攀

現在でも日本人の登山家でこれほどの記録を持っている人はいない。日本最強の登山家と言われる由縁だ。
1980年代当時、世界の登山界では世界初の8000m峰14座全山登頂を成し遂げたオーストリアの超人ラインホルト・メスナー、それにつづくポーランドのイエジ・ククチカが人並み外れた登山記録を持っていたが
山田さんはこれに匹敵する様な登山を実践した。

私が尊敬するヒマラヤ登山家に山田昇という人がいる。未だにあこがれている。故人となってしまったが。
1989年2月に他の2名の日本人登山家とアラスカのマッキンリーに登山中に遭難、3名とも遺体で収容された。
登頂後の下山中に5200mのデナリ・パス付近で強風で飛ばされて滑落したものと思われる。
その6年前の1983年2月に冒険家・植村直巳さんもここで消息を絶ち、未だに不明のままだ。
北米大陸の最高峰マッキンリーは6000m少しの標高だが、厳冬期になると風速60m/秒を超える強風が吹き、北極に近い高緯度にある事が重なり、
その厳しさが厳冬期エベレストと同等か、それ以上と云われる。日本が世界に誇る冒険家・植村さんと、日本最強の登山家と云われた山田さんが奇しくも
同じ山で帰らぬ人となった。

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竹内洋岳 田辺治 

2017-03-19 20:05:40 | マラソン・駅伝関係
ローツェは世界最高峰エベレスト(8848m)の直ぐ隣に聳えている。
世界第4位の高峰でありながらエベレストの隣にある為、あまり注目されない山だが、その山の南面である南壁は麓から3300mの高度差で頂上まで突き上げている。その壁の巨大さと8000m以上での岩壁登攀の困難さから、かつて8000m峰14座全山登頂を世界で初めて成し遂げたラインホルト・メスナーは「ヒマラヤの21世紀の課題」と言った。その壁が初めて登られたのが1990年の旧ソ連隊によってだった。その後の挑戦も続いたが、なかなか登れる壁ではなかった。同じく1990年にスロベニアの登山家 トモ・チェセンが単独登頂に成功したとの知らせもあったが、その後に事実の信憑性からこの登攀は疑惑の登攀(登っていなかった)と言われ、正式な記録として認定はされていない。

登山でその山の同じルートをコンディションのいい時期とそうでない時期に登るのとでは、困難の度合いに大きな差がある。
最大に困難なのは厳冬期(12月から1月)だ。ヒマラヤでは11月後半から高層のジェット・ストリームが降りてくる。その風速は高度8000m以上で風速50m以上、気温は-50℃以下で、
その条件下で登山をするとなると体感温度は-100℃以下になり。空気中の酸素は平地の3分の1、薄い酸素と寒気で油断をすればすぐ手・足が凍傷になってしまう。
強風の為に岩壁に付いている雪が飛ばされて、岩がむき出しになり、アイゼンを使った登攀がしにくくなる。
また寒気から身体を守る為に、ウエア等の装備も重装備になる。更に冬期により日照時間が短くなるので、昼間の行動時間が短くなる。
等、厳冬期でのヒマラヤ8000m峰登山は最大限に困難な登山となる。

日本の厳冬期8000m峰のバリエーション・ルートでの登山は群馬県山岳連盟が1987年12月にアンナプルナⅠ峰(8091m)や1993年12月に世界最高峰エベレスト(8848m)南西壁での世界初の厳冬期初登頂に成功している。(バリエーション・ルート登山は一番登りやすい通常ルートではなくて、より困難な難しいルートより登頂する事。)
世界最高峰エベレスト(8848m)南西壁の高度差は2200m、ローツェ(8511m)南壁は3300m。山の高さはエベレストより低いが、壁の高さは約1.5倍。
これを厳冬期に登るとすると両者で同等の困難さになると予想された。

日本の登山界にとって群馬岳連の厳冬期エベレスト南西壁以来久々の快挙だと思っていた。
田辺さんは厳冬期エベレスト南西壁にも参加して、2次隊で見事に登頂している。
ローツェ南壁と合わせて、その実力は今の日本でも最高のヒマラヤニストの1人だと私は思う。

厳冬期ローツェ南壁初登攀の快挙に対して、日本の新聞・マスコミは「頂上に登れなかったから、登山は失敗」というニュアンスで報道した。

田辺 治は、日本の登山家。元日本ヒマラヤ協会理事。元日本山岳会東海支部長。 ウィキペディア
生年月日: 1961年1月4日
生まれ: 愛知県 名古屋市
死没: 2010年9月28日
 JAC東海支部でローツェ南壁を初登攀した田辺治さんがダウラギリで雪崩に遭った、との報道に驚く。これまで困難な登攀を危なげなくパスしてきたアルピニストだけになぜ?と思う。
 雪崩に遭ってもしばらくは生きているものらしい。しかし高度が高いだけにわずかな呼吸困難でも窒息するかもしれない。場所が場所だけに救助活動も思うに任せないだろう。
 奇跡を信じたい。いやーご心配をおかけしました、と帰ってきて欲しい。関係者のみなさんがそう思っている。何も協力できないが祈るしかない。

東京新聞からコピー

ヒマラヤ遭難、現地と捜索協議 登山家3人の家族や協会
2010年9月30日 12時55分

 ネパール・ヒマラヤの高峰ダウラギリ(8167メートル)で雪崩に巻き込まれた日本人登山家3人が行方不明になった山岳遭難で、パーティーの隊長を務める名古屋市中区の田辺治さん(49)が所属する日本プロガイド協会(愛知県刈谷市)や家族は29日夜から30日にかけ、今後の捜索活動について現地と連絡を取り合うなど対応に追われた。

 同協会によると、自力で脱出し無事だった兵庫県芦屋市の島田和昭さん(37)がベースキャンプに滞在。同協会は島田さんと協議し、捜索活動などについてネパール当局と検討する。

 協会事務所がある登山用品店「穂高」には、行方不明になっている長野県白馬村の本田大輔さん(32)の両親らが集まり、現地からの情報を待った。島田さんから29日夜、衛星電話で「自分は無事。田辺さんたちの捜索に加わる」と連絡があったという。



厳冬期、困難なルートを選びながらも「人を死なさない隊長」として知られていたが、ダウラギリのノーマルルートの下部キャンプ移動中に雪崩の直撃を受けて遭難。 遺体は未だに発見されていない。

全14座制覇の竹内洋岳氏が薫陶を受けた先輩。

竹内さんが初めて登頂した8000m峰は1995年、マカルー北東稜西稜初登攀でしたが、当時中堅登山家だった田辺治さんもその登山隊の隊員でした。竹内さんにとって田辺さんはヒマラヤの先輩に当たる人です。






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竹内洋岳 ヒマラヤ8000メートル峰全14座を登りきる 山でもらった命だから山で使う。竹内は穏やかな表情でそう言い切った。

2017-03-17 19:17:55 | マラソン・駅伝関係
2012年5月26日、夕暮れの迫る17時30分。竹内洋岳は標高8167メートルのダウラギリ山頂に辿り着いた。1995年に24歳で8463メートルのマカルーの頂に立ってから17年の年月をかけて、ヒマラヤ山脈の8000メートル峰14座すべてを登りきった瞬間。世界では14座の登頂は30人近くが達成しているが、日本では最強の登山家と言われた山田昇も9座目に登った後で遭難死、この志を継いだ名塚秀二も10座目のアンナプルナで命を落とすなど、これまで10座の壁に阻まれてきた日本の山岳界にとっても呪縛から解放された瞬間だった。

竹内洋岳(たけうちひろたか)は、日本人で初めて8000m峰の全14座に登頂したプロ登山家である。2012年5月26日にダウラギリ(8167m)に登頂したことで、地球上にある8000m峰全14座を登り切ることに成功した。竹内は『日本人初の8000m峰全14座登頂の記録』について、9座まで登頂した後に亡くなった山田昇(やまだのぼる,1950-1989)・名塚秀二(なづかひでじ,1956-2004)に続いて全14座を登ろうとした日本人がいなかったことが、自分が初になれた最大の理由だと語る。また、現代の軽量かつ高性能な登山の道具や世界の高山に関する豊富な情報があったからこそ、自分は全14座登頂を成し遂げられたのだと謙遜した口調で語っている。

登山の行為のうち、この14座登頂がいかに偉業かというと、それはあのローツェ南壁登攀の次くらいの難易度といえばその凄さが容易に分かると思う。…分からんか。

竹内洋岳という登山家の異常なまでのタフネスと身体能力の高さ、高度順化のスムーズさが印象的であり、6000~7000メートルくらいの高所で阿蘇・中島が『高度順化による体調不良』に喘いで寝込んだり苦しんだりしている時に、竹内氏だけはピンピンとして元気な様子なのである。
中島氏から見た竹内洋岳の最初の印象は、『普段は何もトレーニングをしてなさそうだし、見た目もヒョロヒョロしているし、本当に山に登れるのだろうか?』というものだったそうだが、実際にチョー・オユー登山を一緒にしてみると『竹内氏の高度順化の早さ・歩く登る速度の速さ』が超人的に並外れていて驚かされている。チョー・オユーの頂上はだだっ広い台形上でどこが頂上なのか分からないくらいの広さだというが、竹内氏は頂上からC2へ降りる途中で『道迷い』をしてしまう。8000mの高さでの道迷いだから、下手をすれば死んでしまう致命的なミスであり、実際、竹内氏は丸二日間、若干の睡眠を取りながら歩き続けてバテバテになってC2に帰ってきた。
仮眠を取っていた場所で顔見知りのシェルパに会って下山を急かされなければ、竹内氏は落命していた可能性もあるが、ここで竹内氏を救ったのは『偶然の幸運』と『400mを登り返すという判断』だった。竹内氏は道に迷って何度も幻覚に襲われて、右足が凍傷になりながらも、何とか生還して最後のダウラギリに挑むことになった。普通の登山でも自分が道迷いをしたかもしれないと思って、来た道を引き返してもう一回登り返すというのは『面倒できつい判断』であり、ついつい『もう少しこの道を歩いたら降り口が見つかるんじゃないか』という甘くて楽な判断に傾いてしまう。しかし、この時の竹内氏がその甘くて楽なほうの判断をしていたら、それ以上進めない場所で行き詰まってしまい命を落としていた可能性が高いだろう。

 8000mを越える高さは、「デスゾーン」と呼ばれ、酸素濃度は平地の3分の1だし、低温、気候等、とうてい人間はおろか生物の存在できるところではない。
 それでも、先鋭的登山家は自然の摂理を無視して、デスゾーンを突破して8000m級の山の登頂に立つ。
 当然に危険極まる行為であり、死の危険が高い。
 8000m級の山に挑戦したさいの死亡率は、wikipediaに詳しくのっているけど、(→ここ)、登山術が発達した1990年以後の記録では、死亡率の高い順に、カンチェジュンガ 22% アンナプルナ 19.7% K2 19.7% と5人に1人が亡くなるというハード極まる山が並ぶ。近年観光化されフィックスロープが張り巡らされたエベレストでも4.4%の死亡率だ。
 確率計算でいえば、14座登って、命を失わずに下山できる可能性は約20%。10人トライして、2人しか成功しないという低い確率。しかもここでの失敗は、すなわち死ということであり、あらゆるスポーツでも死亡率80%なんて無茶な競技はこの「ジャイアンツ14座登頂」くらいなものである。しかもそれに挑む者はトップレベルのクライマーばかりなのであり、その10人のうちの2人しか成功できないというのは、とんでもない難事業なのであって、これを達成できたことは、すなわち国家表彰レベル、国民栄誉賞を与えていいくらいの偉業なのである。
 じっさい、竹内氏のパートナーで一足先に14座登頂を達成したラルフ・ドゥイモビッツ氏は表彰を受けている。

 ところで、竹内氏は日本人初のジャイアンツ14峰登頂者である。

14座 竹内洋岳
 9座 山田昇 (故人)
     名塚秀二 (故人)
     田辺治 (故人)
     近藤和美
 8座 加藤慶信 (故人)
     谷川太郎
 7座 山本篤
 6座 尾崎隆 (故人)
     宮崎勉
     後藤文明
     三谷統一郎
     高橋和弘
     北村俊之
     天野和明


Hirotaka Takeuchi

竹内洋岳は、『マカルー→エベレスト→K2→ナンガパルバット→アンナプルナ→ガッシャブルムⅠ峰→シシャパンマ→カンチェンジュンガ→マナスル→ガッシャブルムⅡ峰(雪崩遭難に見舞われて背骨・肋骨を骨折する大怪我をしたが1年後に再度挑戦して登頂)→ブロードピーク→ローツェ→チョー・オユー→ダウラギリ』という順番で8000m以上の高山の全14座に登頂している。

ピンキリである8000メートル以上の高山の登山費用についての話も興味を惹かれるが、無酸素でシェルパを使わず、特別な道具も新たに調達しないという条件であれば、“100万円前後”くらいで8000m峰にチャレンジできるのだという。

13座目のチョー・オユー登山では、それまで長年パートナーを組んでいたラルフ・ドゥイモビッツ(1961-)とガリンダ・カールセンブラウナー(1970-)が既にチョー・オユーとダウラギリに登っていた事もあって、ブログで新たに別のパートナーを募集することにした。ネパールの首都カトマンズに集合・解散で、年齢・性別・経験は不問、資金はなければ貸し付けも可能という条件で、竹内洋岳はチョー・オユー登山のパートナーを募集したのだが、8000m峰でこういったパートナー募集は異例の試みだろう。

無論、竹内洋岳氏らが挑戦している低コストのアルパインスタイルの8000m峰の登山は、一般的な登山家が容易に真似できるものではない、シェルパもつけず酸素ボンベも持たないという厳しい条件だと、日本の3000m峰の冬山にある程度登り慣れている人でも恐らく無理なのではないかと思う。



 14座を狙っていた日本のクライマーには、山田昇、田辺治といった世界に誇るモンスター級の登山家がいた。山田昇は「史上最強の登山家」が代名詞であったし、田辺治はローツェ南壁の登攀成功者である。彼らは14座登頂の十分な資格者だったはずなのだが、残念なことに9座登ったところで、遭難死を遂げてしまった。
 9座というのは、日本の山岳会にとって嫌なジンクスとなり、この二人に加え、9座を登った名塚秀二も、9座登ったところで遭難死しており、そして竹内氏も10座目に狙ったガッシャブルムII峰登山中に雪崩に会い、瀕死の目にあっている。
 しかし氏は、破裂骨折した脊椎にボルトを埋め、懸命のリハビリを行い、1年後に同峰登頂のリベンジに成功している。まさに不屈の精神の持ち主だ。

 8000mを越える山の世界では、猛威を振るう大自然の前に、人間などほんとうにちっぽけな存在である。大自然のほんの気まぐれで、あっさりと人間は死んでしまう。じつに過酷な世界だ。
 けれども、それを当然のこととし、それでも己の精神と肉体を鍛えに鍛え、その神々の領域の世界に挑み、そして神の世界に届くような難行を成し遂げる人間がいる。



――達成感や満足感に浸ることはない、ということですか?

 「ダウラギリの頂上は、そうですね、このテーブルくらいかな」

 竹内が指したテーブルは、ほぼ畳一畳分くらいの大きさである。

 「風が強かったし、頂上にいたのは2、3分くらいだったと思います」

 最終キャンプから頂上まで15時間以上かかっているのに、たった2、3分?

07年、竹内自身、まさに日本にとっては鬼門の10座目のガッシャーブルム2峰で、雪崩に遭い300メートル流され、背骨の破裂骨折、肺が潰れ、肋骨5本骨折という瀕死の遭難事故を経験している。300メートルといえば東京タワーのてっぺんから落ちるようなもの。生還が奇跡のような大事故で、この時、一緒に登っていた2人の仲間が命を落としている

プロの覚悟を定めた翌年にガッシャーブルムでの大事故に見舞われたわけだが、その覚悟に揺るぎはなかったという。だから、治療法も再び山に登れる可能性に賭けて最先端手術を迷いなく選んだ。そして、1年後に同じガッシャーブルム2峰に挑んでいる。事故の記憶が生々しい山は後回しにすることもできたのに、あえて同じ山に同じルートで登る。

 「僕の山登りは、自分の足で登って自分の足で下りること。本来、自分の足で下りてないことは死んでるということなのに、自分の足で下りてないのに生きていることがどうしても納得できなくて。体も痺れが残っていて十分ではなかったけれど、這ってでもいいから事故現場までは行きたかった。身勝手な決着のつけ方ですが、そこからもう一度自分の足で下りる。同時に、雪崩をなぜ避けられなかったのかわかるのではないか、亡くなった二人の仲間を感じることができるかも、そんな思いもありました」

ガッシャーブルムを後回しにすることはできなかった。でも、登り直しても何も変えられないという山の現実の中で、いくばくかの期待も感傷も打ち砕かれて、竹内の覚悟は強靭さを増したと言えるのかもしれない。自分が今生きている不可思議さは、遭難した時に近くにいた各国の登山隊を初め多くの人たちが、自らの危険を顧みずに救助活動にあたり、ヘリでの輸送や帰国までのすべてに力を尽くして命を繋ぎ止めてくれた結果なのだと改めて実感することで、素直に受け止められた。

 「彼らは“ミッション”だと言いました。普段軽く使っちゃいますが、まさに使命。命と引き換えなんですよね。自分は本当はあの時に死んじゃってて、みんなから命を少しずつ分けてもらったんだと思いました。助けてくれた方々へのお礼は、14座を登りきることでしか返せない、ああ、あの時のアイツ、山をやめずに登ったんだなって見てもらうしかない」


 「8000メートル級の山の頂上って本当に生命感のない、非常に危険だということがヒシヒシと伝わってくるところなんですよ。頂に到達した時に最初に思うことはね、その先には空しかありませんから、ああ、もう登らなくていいんだという安堵感。で、次に感じるのは恐怖感です。明らかに生き物が生きていける場所じゃない。生き物の自分がそこにいることがあまりに不自然に思えて、怖くなってくるんです。だから早く下りたいと思う」

ダウラギリはとてもいい山で、昔から登りたかった山でもあります。何といってもカッコいい。でも、到達したら、早く離れる。生命の危機を感じる者こそが、頂上から帰って来られるのではないでしょうか。「クライマーズ・ハイ」という言葉がありますが、達成感や満足感が頭のなかに涌き出たら、正確な判断のできない危険な状態だと私は思います。
いまのところはそういうことがなくて、それゆえに私は登れたのではなく、降りてこられました。ベースキャンプへ帰ってこないと、そこまで降りてこないと、次の山には登れません。登って降りる、を繰り返していかないと、14座は登り切れない。ですから、登れたのではなく、登って降りてこられた、というのが私の感覚です。


生と死が隣り合わせる極限の世界で、竹内洋岳は挑戦を続けてきた。自らの限界に挑み、逞しくも笑顔で乗り越えてきた。
今年5月、世界に14座ある8000m峰──そのすべてがヒマラヤにある──の完全登頂を、竹内は日本人で初めて成し遂げた。1995年のマカルー登頂から18年に及んだチャレンジはついに幕を閉じ、地球上で29人目の〈14サミッター〉が日本から誕生したのだ。
竹内が成し遂げた快挙は、登山界はもちろん日本中を駆けめぐった。興奮と感動を巻き起こした。
ところが、本人は意外なほどに冷静なのである。
「日本人初ということには、意味さえ感じません」と語るのだ。
プロフェッショナルマウンテンクライマーの胸中で、いま膨らんでいる思いとは。

 日本山岳界の悲願ともいうべき世界の8000メートル峰、最後の14座目を目指していたプロ登山家の竹内洋岳(ひろたか、41歳、ICI石井スポーツ所属)が26日、ネパール北部のヒマラヤ山脈のダウラギリ1峰(8167メートル、第7位)登頂に成功し、超人ラインホルト・メスナー(イタリア)以来、世界で29人目の「14サミッター」に、日本人として初めて名を連ねた。 

 今年のヒマラヤは天候が不安定で、長くBC(ベースキャンプ=4700メートル)に停滞を余儀なくされたが、それから解放されるかのように、23日早朝、竹内洋岳とカメラマンの中島ケンロウが元気に出発した。

■足かけ18年、世界29人目の快挙

 途中C2(キャンプ2、6600メートル)からC3(7200メートル)に向かって6800メートルにさしかかったところ、中島が体調不良を訴え、チョー・オユーに続く登頂はならず、下山した。

ここからは竹内が単独で頂上を目指すことになった。C3に25日14時20分到着。山岳気象のスペシャリスト「ヤマテン」の猪熊隆之から「26日の風はこの数日でもっとも弱い状態になる」との朗報が入っていた。

 竹内は順調に高度を稼いで26日についに頂上に立った。C3を午前1時半に出発し、頂上にたどりついたのが午後5時半。16時間がかりのアタックだった。14座目の頂上は風が強く、視界が悪かったという。

 1995年のマカルー1峰登頂から足かけ18年、14座最後となるダウラギリ峰の無酸素登頂を果たし、感激もひとしおだろう。

14座登頂の意味

――14座完全登頂というのは、やはり大きな意味を持っていますか?
記録としては、すでに「いまさら」のものです。イタリア人のラインホルト・メスナーが14座完全登頂を初めて果たしたのは、いまから25年近く前の1986年です。世界中で30人近い登山家が達成していて、記録としての珍しさもない。私自身、14座を達成した登山家を、何人も間近で見てきました。私はすべて無酸素での登頂ではありませんし、記録としては平凡です。
1989年に亡くなられた山田昇さん※が達成していたら、年代的におそらく世界で3、4人目になっていたと思います。私の記録より、もっと大きな意味があったはずです。しかし、すでに多くの人が達成しているいまでは、日本人初という意味さえあまり感じません。すべて人間がやることなんですから、国籍をどうこう言うようなものでもない気がします。
しかし、日本人にとってはすごく、すごく特別な記録であることは確かです。世界的には「いまさら」な記録を、日本人がいまだに達成していないのはそもそも大問題で、私はそれが悔しくてしかたがなかった。マナスルを初登頂したのは日本隊なのに。14座に挑戦できる環境に身をおいているゆえに、本当に悔しかったのです。

いまとなっては、山田さんや名塚秀二さん※らの14座を目ざして命を落とした皆さんのことも、忘れられてしまうような気がしていました。命を賭けるというのは、崇高なことだと私は思います。山田さんや名塚さんの功績が忘れられ、それどころか日本人が14座を達成していないことから目を背けるような様子が、私には悔しくして腹立たしくてしかたがなかったんです。ならば私が、と思ったのは事実です。

※山田昇…1950年生まれ、ヒマラヤ登山家。8000m峰9座に12回登頂。1989年に冬季マッキンリー登攀中に遭難死。
※名塚秀二…1956年生まれ、ヒマラヤ登山家。8000m峰9座に登頂。2004年、10座目となるアンナプルナⅠ峰に挑戦中、雪崩により死亡。
――最初から14座を目指していたわけではなかったのですね?
最初から、ではありません。違いました。ドイツ人のラルフとオーストリア人のガリンダというパートナーに出会い、「3人で14座達成しよう」と決めたときに、日本人初の14座サミッターになり、山田さん、名塚さんらの先人の功績が少しでも振り返られる状況を作りたい、と。そういうことも含めて、14座というのは、私にとってすごく大切な、特別なものです。それが、やっと、終わりました。

――2007年にガッシャブルムⅡ峰で、雪崩に巻き込まれて背骨を折る大ケガを負いました。それでも14座への挑戦を続けた原動力とは?
いや、特別な原動力はあまりないですよ。本当なら私はガッシュブルムで死んでいたわけです。たまたまそこにいた多くの人たちが助けてくれたから、いまもこうしてここにいる。私の命は、彼らに新しくもらったもの。山でもらった命です。だから、山で使い切っていいと思うんですよ。

――それにしても、再び山と立ち向かう際に、恐怖心はなかったのですか?
いやあ、ないですね。人間ですからどこかにあったかもしれませんが、それを上回るぐらいに登りたい意思があったと思います。自分で登って降りてこないと、山登りにならない。ガッシャブルムは、自分で降りてきていない。私が考える登山になっていなくて、それが気持ち悪くて腹立たしかった。
自分なりの勝手な決着のつけ方ですが、せめて事故があったところまで行って、自力で降りてこないと、どうにも納得がいかなかったんですね。それをしないで生きていくのはおかしい、と。それだけに、ガッシャブルムを登り直した際には、得も言われぬ感情が沸き起こってきました。

――どんな感情が爆発しましたか?
泣きました。涙が出た理由はひとつではなく、悲しい、痛い、悔しい、嬉しいといった感情の発露として泣いたわけでもなく、いっぱいになった頭のなかを整理するために、泣くという行為をしたのかしれません。

――ケガからほぼ1年後の登頂は、「奇跡的な回復」とメディアに伝えられました。
それは大げさです(笑)。翌年にもう一度ガッシャブルムへ行くとなると、必然的に時期は決まります。登山ができる時期は、限られていますから。リハビリが間に合わなくても、日本を出ちゃおうと思っていました。1年でパーフェクトな身体になるとは思っていなかったですし、這ってでも行くつもりでしたので。
まずはとにかく、ベースキャンプまで辿り着く。ベースキャンプへ着いたら、次はキャンプ1を、その次はキャンプ2を目ざす。山頂への過程も含めて、リハビリという理解でした。
事故のダメージがちゃんと抜けたのは、去年ぐらいでしょうか。ただ、事故前の身体とは違います。日常生活に支障はなく、山でも特別な問題はありませんが、指先まで神経が通っている感覚は、右足と左足では異なります。背骨の骨折とは別に、肋骨が変形治癒しているのもありまして……(といってシャツをめくり、右手で肋骨を示す)。

――あっ、左側の肋骨がポッコリと浮き上がっていますね。
飛び出しているような感じでしょう? 息が荒くなると痛んでくるんです。事故翌年のガッシャブルムではあまり気にならなかったんですが、09年のローツェは標高がガッシャブルムより500mほど高いので、どうしも呼吸が乱れるんです。そうすると、痛くて、痛くて。手で抑えて胸が開かないようにしたら、余計に苦しくなったり(笑)。

――苦しみという意味では、今回のダウラギリではビバークをしましたね。下山時に日が沈み、キャンプ3へ戻るルートが見つけられなかったそうで。
キャンプ3から頂上を目ざしているときから、たとえ遅くなっても今日のうちに山頂へ行き、帰りはビバークも有り得ると覚悟を決めました。ですから、登る途中でビバークできそうなところをいくつか探しておきました。山登りは想像のスポーツで、色々なことを想像して楽しむんですね。いかに他方向に、多重に想像できるかを山のなかで競い合う。いっぱい想像した者が、いっぱい楽しめる。
大きくいえば、あの山のあのルートを、あんなふうにして登りたい、という想像からすべてが始まっているのかもしれません。誰も登っていない山の、誰も登っていないルートを、誰も登っていない方法で登る。それを思い描けた者が、実際に行ける。想像力を競争している、ともいえるでしょう。

日本の登山は14座の呪縛から自由に


ダウラギリのC2、6600m付近。撮影:中島ケンロウ


――これからの目標も、すでに描いているのでしょうか?
どこまで登山を続けていけるのかに、私は挑戦しています。そのなかにきっと、14座があったんです。死なずに続けられたからこそ14座に到達したのであって、14座を登り切ったとは思っていない。地球上には無数の山があるわけで、裏返せばまだその14コしか登っていません。登り切ったとは、とてもじゃないですが言えないですよ。いままでも好きな山に登ってきたので、これからも好きな山に登るのかなあ。いずれにしても、ここから先は新しい登山のスタートです。

――と、いいますと?
14座をやり残してきたがゆえに、日本には“古い登山”が残ってしまっていたと私は考えています。古いものが混じった増築の登山ではなく、これからは新しい登山、新しい14座がスタートしていいでしょう。
たとえば、私はマカルー、エベレスト、K2で酸素を使っていますから、次はすべて無酸素の14座に挑むとか、ノーマルノートではなくバリエーションルートで14座を目ざすとか、そういうことをやってみたいと思う人が出てきたらいいですね。
私はこれで、過去の人間になっていきます。古い時代は終わりました。「竹内洋岳」ではなく、14座とかヒマラヤが、人々のなかに残っていけばいい。地図帳でしかみたことのなかったヒマラヤに行ってみたい、せめてカトマンズの街まで行ってみたい、できたら自分も登山をしてみたい、といった人が少しでも増えてくれたら、というのが私の願いです。
今回こうして取材を受けているのも、私がヒマラヤの話をすることで、8000mの山々を立体的に感じる人がいるかもしれない。私は幸運にも14座への挑戦を続けることができました。恵まれた環境にいるわけですから、これは義務でも使命でもなく、続けられた者がなすべき役割だと思っています。

――そうした啓蒙的な活動と並行して、登山も続けていくわけですよね?
組織に属していないといけない、お金がないと行けないというのが、1990年代までの古い登山でした。でも、実際には来週行くことだってできるんです。サッカーだって、国内を飛び出して世界でプレーしている選手がいるじゃないですか? あれと同じです。現代の登山は、ずっとずっと自由です。だからこそ、どんどん行ってほしいと僕は思っています。
ベースキャンプなんて、壮大な秘密基地ごっこですよ。何を持っていこう、何をして遊ぼう、テーブルクロスは何色にしようかなあ、どんな絵を飾ろうかなあ、なんて考えるのは、最高に楽しいじゃないですか!






世界8000m峰完登者一覧
 全ての8000m峰の登頂に成功した最初の人物はラインホルト・メスナーで、1986年10月16日に達成した。その1年後、イイジ・ククチカが2人目の達成者となった。日本人では2012年5月26日、竹内洋岳が世界で29人目の日本人初の達成者となった。
名前 達成年 国籍
1 ラインホルト・メスナー 1970-1986 イタリア
2 イイジ・ククチカ 1979-1987 ポーランド
3 エアハルト・ロレタン 1982-1995 スイス
4 カルロス・カルソリオ 1985-1996 メキシコ
5 クシストフ・ヴィエリツキ 1980-1996 ポーランド
6 フアニート・オヤルサバル 1985-1999 スペイン
7 セルジオ・マルティーニ 1976-2000 イタリア
8 朴英碩(パク・ヨンソク) 1993-2001 韓国
9 厳弘吉(オム・ホンギル) 1988-2001 韓国
10 アルベルト・イニュラテギ 1991-2002 スペイン
11 韓王龍(ハン・ワンヨン) 1994-2003 韓国
12 エド・ベスターズ 1989-2005 アメリカ
13 シルビオ・モンディネッリ 1993-2007 イタリア
14 イバン・バレーホ 1997-2008 エクアドル
15 デニス・ウルブコ 2000-2009 カザフスタン
16 ラルフ・ドゥイモビッツ 1990-2009 ドイツ
17 ベイカー・グスタフソン 1993-2009 フィンランド
18 アンドリュー・ロック 1993-2009 オーストラリア
19 Jo?o Garcia 1993-2010 ポルトガル
20 Piotr Pustelnik 1990-2010 ポーランド
21 エドゥルネ・パサバン 2001-2010 スペイン
22 Abele Blanc 1992-2011 イタリア
23 Mingma Sherpa 2000-2011 ネパール
24 ゲルリンデ・カルテンブルンナー 1998-2011 オーストリア
25 Vassily Pivtsov 2001-2011 カザフスタン
26 Maxut Zhumayev 2001-2011 カザフスタン
27 Jae-Soo Kim 2000-2011 韓国
28 マリオ・パンツェリ 1988-2012 イタリア
29 竹内洋岳 1995-2012 日本
30 金昌浩(キム・チャンホ) 2005-2013 韓国
31 ラデック・ヤロス 1998-2014 チェコ
<参考>
 代表的な日本人登山家
 ・山田昇   8000m峰9座に延べ12度登頂
 ・名塚秀二 8000m峰9座登頂
 ・田辺治   8000m峰9座登頂
 ・小西浩文 8000m峰のうち6座を無酸素登頂
 ・戸高雅史 8000m峰のうち5座を無酸素登頂

もっとも、18年かかったといっても、竹内の意識のなかでは、2001年の4座目のナンガパルパットから彼の本来の登山が始まっている。

 10人ばかりの国際公募隊に誘われて参加した。費用をシェアし、お互いをファーストネームで呼び合うフランクな関係に竹内は組織登山にはない喜びと自由を見いだす。

ここで山岳会などの大がかりな組織登山と「離別」した。無酸素登頂も彼らのスタイルでは当たり前で、ここからすべて無酸素登頂となる。

 オーガナイザーのラルフ・ドゥイモビッツ(50、ドイツ)は、竹内の実力をすぐに認めパートナーとして欠かせない存在となる。

 彼らとパーティーを組む。「メールが来て、山が決まり、カトマンズでの集合日時だけで、それで出発」。ヒマラヤは遠いところでなく、来週行こうと思えば行ける山だという。そうして先鋭的登山に生まれ変わり、彼らの中でもまれて共通の目標が「14サミッター」となったのだ。

 そのラルフは09年に達成、彼の妻のガリンダ・カールセンブラウナー(41、オーストリア)も昨年達成した。

■「『征服』と言わないでください」

 「14座を征服した竹内」と書きたいところだが、竹内はそれをよしとしない。

 「征服などという言葉には、自然に対して人間の増長した気持ちが込められている。私はそんな気持ちで登っていない」と。だから、「頂上に立ったと書いて下さい」と真面目な顔で注文されるのだ。

冷静沈着、素直で純粋な心を持ち続ける面は冒険家植村直己のようである。半面、軽妙快活なブログにファンは多く、愛されるプロクライマーとして新しいスタイルを築いている。

 シェルパも酸素も使わない少人数の先鋭的なスタイルは一度の遠征で複数の山頂を狙う「高峰継続登山」などを可能にしている。目指すのはよりコンパクトでシンプルな究極のスポーツ登山だ。

 07年、10座目となるガッシャーブルム2峰の7000メートル地点で雪崩に巻き込まれ300メートル落下した。腰椎と片肺がつぶれ、肋骨も5本折れた。生還したのは奇跡と言うしかない。

 10座目は日本人にとって大きな壁となって立ちはだかっていた。最強のアルピニストといわれた山田昇、名塚秀二、田辺治が相次いで10座目にたどり着かず命果てている。竹内が、「14」をあえて意識するようになったのは、彼らの悔しさを引き継ぐ決意をしたこともある。

 東京に搬送され入院1カ月。パートナーの2人も巻き込まれ亡くなったことで「なぜ私が生き残って彼らが死んだのか」と苦しみ抜いた。

■300メートル落下の事故乗り越えて

 翌年、「自分の心を拾い上げ、そこから一歩踏み出す」ために、再度、落下した同じ山に挑み、連続で11座目のブロードピークにも立っている。

 頂上で相棒のフィンランド人のベイカー・グスファッソンと抱き合い号泣した。「私だけの登頂ではない。いろんな人が押し上げてくれた」という感謝の思いがこみ上げて山で初めて涙を流した。14座達成時も思いは同じだろう。

 竹内の成功の陰には山岳気象を専門とする「ヤマテン」代表の猪熊隆之の存在がある。天候不順のため登頂予定が二転三転したが、「5月にこれだけ強いジェット気流が長く停滞するのは異例。当初の25日はおすすめできない」と判断。28日以降も考えられたが、それは「気温上昇によるルート崩壊等のリスクもある」ため、26日を選んだ。

 その日は、強いジェット気流も弱まるという予想。ヒマラヤの天候をピンポイントで予報するその能力に、登山家の絶大な信頼が寄せられている。世界にも誇れる異能の二人三脚でさらにスピーディーで新たな冒険の世界が開けるだろう。


たけうち ひろたか 1971年生まれ、41歳。東京都出身。立正大卒。プロフェッショナルマウンテンクライマー。ICI石井スポーツ所属。身長180センチ、体重65キロ。祖父の影響を受けて幼少からスキーと登山に親しむ。高校、大学で山岳部に所属、登山の経験を積み、20歳でヒマラヤの8000メートル峰での登山を体験。95年にマカルーの新ルート、東稜(りょう)下部初登はんで頂上に。96年はエベレスト、K2の連続登頂などで力をつけ、2001年からは各国の少人数の国際隊を組み、酸素やシェルパを使わずにアルパインスタイルを積極的に取り入れた速攻登山で8000メートルII峰を攻略していった。しかし、07年のガッシャーブルム2峰で雪崩に巻き込まれ腰椎破裂骨折の重傷を負った。再起も危ぶまれたが、1年後に同峰に再び挑み登頂に成功した

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