塔ノ岳から蛭ケ岳経由で橋本駅北口へ

 タイトルのコースはお気に入りです!

マーラー9 
シューベルト・ピアノソナタ 17 が
祈りの音楽です。

山全体でいうとアンナプルナで壁だけでいうとマカルー西壁が最強  マカルー西壁やナンガパルバットルパール壁アンナプルナ南壁

2017-03-23 21:27:49 | マラソン・駅伝関係
マカルー 西壁
デスゾーン手前から山頂付近まで垂直の岩壁~オーバーハングが続くという人類の限界を超えたルート。 世界の一流クライマーが挑んだが全て敗退している。

マカルー西壁はデスゾーンでハードルがあがっちゃうからキツイね
ウエリシュティックでも無理だろ

1996年に満を持して挑んだものの、「フリーで登るのは不可能、多量のギアを持てばスピードが落ちてリスクが上がる」というジレンマの通り落石の直撃を受けて負傷し核心部に至らず敗退。 

「どのようなトレーニングを積めばいいのか判らない」と難しさを語っている。

これからも登頂が難しいのは今まで何回も挑戦されてるけど誰も登頂してないナンガパルバット冬季登頂
それと、あの山野井さんが「どうやって登ればいいのかわからない」と言わしめたマカルー西壁
この二つはなかなか登頂されないだろ

マカルー西壁、極限のクライミングを記録に残す意味。

――山野井さんはこれだけ世界的に注目される登山をしながら、あまりドキュメンタリー撮影などでクライミングしている姿を映像に残していませんよね。でも、「ヒマラヤに残された最後の課題」ともいわれるマカルー西壁(8463m)へのアタックでは、テレビの取材を受け入れましたね。これはやっぱり特別な挑戦だったんでしょうか。

 自分のやっていることを見せたいと思ったんです。というのも、メディアに流れる情報が、大きな隊によるエベレスト登頂や七大陸最高峰制覇といった方向に偏っていたのが気になっていたからです。登山にはそれとは違う世界があること、神秘的な山、困難な岩壁で、極限に挑戦しているクライマーがいるんだということを、ひとりでも多くの人に見てもらいたいという気持ちがあった。だから、べつに僕が主人公じゃなくてもよかったんです。

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 結果は頭に落石を受けて敗退。登頂を撮影することはできませんでした。その後もお話はありましたけど、基本的にはぜんぶお断りしました。そもそも8000m級の山で壁にしがみついている表情なんて撮れるわけがないということも分かった。

――野球やサッカーのような競技スポーツだったら、放っておいてもメディアに取り上げられますけど、登山の場合、自分から報告しないと誰にも分かってもらえない。そういう意味でも難しいスポーツですよね。

 僕の場合、だからといって自分の冒険を大げさに伝えるようなことは嫌だったんです。子供の頃からこの世界が大好きだから、正しく報告しなきゃいけないなということをすごく感じてました。それに自分がやってきたクライミングで、人に向かって本当に「やったぞ!」と言えるものはそれほどない。今までずいぶんいろんなところに書いてもらったし、自分でも書いたので、もう充分だと思ってます。

 むしろ、見せなくてもいい世界があるんだと思うようになりましたね。全部を世の中の人に知ってもらわなくてもいいじゃないかと。いずれにしても、経験したことそのものに比べれば、記録されたものは、残りかすみたいなものです。それは僕自身の文章もそうです。


アンナプルナは別格だけど
ナンガパルバット、K2,カンチェンジュンガ、ガウラギリ、マカルー
このへんの危険度は同じくらいでは?
壁によってはマカルーやダウラギリが一番危険だったりする

2009年のデータ発見しました ^^V
アンナプルナがとび抜けて、次にK2って感じみたいです。

以下 14座の挑戦者数、死亡者数、死亡率です(標高順)

エベレスト     5104 219  4.29%
K2         302  80 26.49%  
カンチェンジュンガ  243  40 16.46%
ローツェ       396  12  3.03%
マカルー       323  29  8.98%
チョ・オユー    2790  43  1.54%
ダウラギリ      417  62 14.87%
マナスル       297  58 19.53%
ナンガパルバット   326  68 20.86%
アンナプルナ     157  60 38.22%
ガッシャーブルムⅠ  298  26  8.72%
ブロードピーク    358  20  5.59%
ガッシャーブルムⅡ  872  20  2.29%
シシャパンマ     285  24  8.42%

エベレストは挑戦者5万くらいで死亡者千人の4㌫
アンナプルナは挑戦者5百人くらいで死亡者200人の40%

標高(8611m 世界第2位)
死亡率(アンナプルナに次ぐ2位)
冬季未踏峰(14座ではK2とナンガパルバットのみ)
不安定な気候
急峻な傾斜
人里から離れているためアプローチが難しい

以上の点から K2がもっとも危険な山と思われる。

世界初の14サミッターメスナー ローツェ南壁敗退
世界2番目の14サミッターククチカ ローツェ南壁にて死亡


ローツェ南壁を真冬に完登した田辺治は、ダウラギリノーマルルートで雪崩にやられた
表層雪崩なら避けられても、はるか高所のセラックが崩れたら予知も回避もできない

そんなこと言ったらきりないだろ
じゃあ誰も登頂してないマカルー西壁はどうなんだ?
まだ日本人女性が誰も登頂してないカンチェンジュンガやアンナプルナはどうなんだ?
一部分だけみて判断するのはどうかな?

14サミッター竹内洋岳のアンナプルナ評

とにかく怖かった
後にも先にもあそこまで追い込まれたのはあの時だけ
弾倉に弾丸が半分入ってるロシアンルーレットのようなもの
もう二度と登れない

あの竹内氏が言うんだからアンナプルナ超ヤバイんじゃね?





1995年のマカルー登頂から足かけ18年……数々の試練を乗り越えて
ついに日本人初の8000m峰14座登頂に成功した竹内洋岳。
ダウラギリの頂上に立ったそのとき、何を感じたのか?
下山したばかりの彼に、その思いを語ってもらった。
 世界に14座ある、8000m峰。

とにかくダウラギリの存在感はハンパない
回りの山が低くて丸っこい山の中で真っ白で馬鹿でかく鋭利な山がそびえ立ってる
将棋でいえば王将がドーンと立ちはだかってるような感じ
見た瞬間にこんな山絶対登れるはずがないと思うような山
しかし、テレビで竹内さんがすいすいと登頂したのを見てこれまた衝撃を受けてしまった

8000m峰危険度ランク

Sランク
アンナプルナ

Aランク
カンチェンジュンガ、ナンガパルパット、ダウラギリ、K2

Bランク
マカルー、ローツェ、エバレスト

Cランク
マナスル、ブロードピーク、チョオーユー、シシャマンマ、ガッシャブルムⅠ峰Ⅱ峰

女性登山家のワンダがアンナプルナ登頂したときにK2よりはるかに厳しかったって言ってた
そのワンダもカンチェンジュンガで滑落して死んでしまった


8000メートル峰の中では
最も難しいのがK2、最も危険なのがアンナプルナ


SS アンナプルナ、K2
S  ナンガパルバット
A  カンチェンジュンガ、ダウラギリ
B  マカルー、ローツェ
C  エベレスト、シシャパンマ、チョ・オユー、マナスル、ブロードピーク
   ガッシャーブルムⅠ峰、ガッシャーブルムⅡ峰

K2
おそらく世界で最も難しい頂。
標高が高い。雪崩の危険が高く、天候はよく悪化する。技術的に難しく、簡単なルートが無い。
北側の稜線はやや難度が下がるが、自然要因(嵐・雪崩・強風)の影響が厳しくなる。

アンナプルナ
14座の中で最も危険。北側のノーマルルートは技術的に難しくはないが雪崩の巣。
南側は技術的に極めて難しく、多くの危険がある。

ナンガパルバット
ノーマルルートは技術的に極めて難しいというほどではないが、長く、自然要因(嵐・雪崩・強風)の影響を受ける。
天候が悪いことで有名で、用心しなければならない場所が多い。難しい山の一つ。

K2の難所 頂上直下のボトルネック。
頭上のセラックやばすぎw
これがいつ崩壊するか分からんとかどんなムリゲーだよ

竹内さんは死の一歩手前だったガッシャブルムやエベレストよりアンナプルナの恐怖のほうが印象強かった
マジに死の恐怖に直面したらしい


K2、ガッシャーブルム、ブロードピークはほぼ同じ位置にあって
アプローチの難しさは同じ

カンチェンジュンガはかなり難易度高い
標高も高いしかなりの難易度、ナンガパルパットやK2と同じくらいのレベル
マナスルはアンナプルナまではいかないけど雪崩が多い
雪崩さえ気をつければ難易度は巨峰の中でも下のほう
イモトのときは雪崩がなかったから大量登頂できた
ダウラギリはルートによって難易度がまったく違う山
ここも雪崩が多く有名登山家ではシャンタルや田辺さんなどが亡くなってる

14座登頂した竹内さんが危険度NO1はぶっちぎりでアンナプルナって言うんだからアンナプルナなんだろ

メスナーはK2を山の中の山と評しているが、アンナプルナは特に評していない
ちなみに、メスナーが危機を感じたのはカンチェンジュンカとナンガパルバット

14座無酸素
マリオ・パンツェーリ(Mario Panzeri、イタリア)エベレスト3回を含む完全無酸素8000m峰14座制覇。
ゲルリンデ・カルテンブルンナー(オーストリア)女性として初めて8000m峰14座制覇の無酸素登頂に成功(2011年)


アンナプルナⅠ峰南壁
クリス・ボニントン(イギリス) エベレスト遠征のエキスパート、アンナプルナⅠ峰南壁初登頂


日本人の活躍
山野井泰史 K2南南東稜単独無酸素最速登頂の記録を持つソロクライマー
八木原圀明 エベレスト冬季南西壁初登頂
長谷川恒男 史上初のアルプス三大北壁冬季単独完登



マッキンリーは6000m峰だけど比高は世界一だし高緯度のため
高山病の危険が非情に高い山。
危険度で言うとエベレストよりは上だと思う。

冬富士は荒れれば生きて帰ってこれないぐらい危険だがアプローチが簡単で車から天候を読んで安定した1日で登れ、雪山中級なら誰でも登れると思う。

北アルプス、特に劔や槍穂高の稜線は違う。
アプローチに数日かかって急激に低気圧が発達したら身動きがとれず数日ビバーグもありえる。
しかも世界有数の豪雪地。
ドカ雪の日は夜も昼も寝れない。
1時間おきに雪かきしないと埋まっちゃうから。
ラッセルも半端ない。劔なんて厳冬期に入るパーティーなんてまずいないから
全てラッセル。
深いところは胸まで沈む。
気温はマイナス20と風速20mが重なれば体感温度はマイナス40度に達する。
特に上の動画の奥穂高岳から西穂高への縦走はまともなビバーグ地点すらない。
もちろんエスケープルートもない。
北アルプスは一度核心部まで突っ込んだら行くも地獄、退くも地獄。
やめといた方がいいよ。結構死んでる。
秋に奥穂から西穂縦走したけどすれ違ったおじさん翌日のニュースで亡くなってた。
一応一般道だけど大キレットと西奥縦走、妙義縦走は未経験者はやめたほうがいい。

ガチランキング

1 K2、アンナプルナ
2 ナンガパルバット
3 カンチェンジュンガ
4 ダウラギリ、ミニヤコンカ、ギャチュンカン
5 梅里雪山
6 マナスル
7 マカルー
8 エベレスト、ローツェ

SSS ギャチュンカン K2
SS  ナンガパルバット アンナプルナ ガンケルプンズム
S   カンチェンジュンガ ミニヤコンカ ウルタルⅡ峰
A   ダウラギリ 梅里雪山
B   マカルー カメット
C   エベレスト ブロードピーク ローツェ マナスル

日本人エベレスト登頂者のべ200人
日本人K2登頂者50人

K2登頂した主な女性
ワンダ、ガリンダ、ジュリー、シャンタル、小松由香

ガリンダはエベレストも登頂してるが他は全員エベレスト敗退してるな
記憶違いでワンダは登頂してるかもしれないが
とくにシャンタルはK2一回目の挑戦で登頂したけどエベレストは5回くらい敗退したはず
一概にK2のほうが難しいとは言えない


 そのすべてに登頂した、初めての日本人がプロ登山家の竹内洋岳だ。

 5月26日、14座の掉尾を飾る、ダウラギリI峰(8167m)の登頂に成功。1995年のマカルー登頂以来、足かけ18年に及んだ挑戦に区切りをつけた。

 カトマンズで羽を休める竹内に、今の心境を訊いてみたい。受話器から聞こえてくる声は、軽やかに弾んでいた。

――改めておめでとうございます。快挙達成のニュースに日本中が沸きましたよ。

竹内 そうですか。いや、なんかね、こっちにいるとよくわからなくて。ヒマラヤには私以外にも14座のサミッターは普通にいて、珍しくないんですよ。

――世界で29番目とも言われる、14座完登者になりました。ダウラギリの山頂に立った瞬間は、何を思いましたか。

竹内 今回に限らずいつも思うのは、もう登らなくて良いんだってこと。そこから先は空しかないですからね。もちろん、今回が14座目の完登に間違いないんですけど、14座完登よりも、14座目の山に登れてうれしかった。ダウラギリに登れて良かったなあ、という思いの方が強かったです。



――遠征に同行したカメラマンの中島ケンロウさんが体調不良でリタイア。単独でのサミットプッシュになりました。山頂で竹内さんが撮られた写真を見て驚いたんですが、一番上にあんな大きな岩があるんですね。

竹内 実物はたいして大きくないんですけど、あの岩がダウラギリの頂上です。とにかく風が強くて、岩の上には乗っかったんですけど、立ってガッツポーズするなんてとんでもない。四つん這いになって、一番高いところに手をかけた。そんな感じでした。

――すると、喜びにひたれたのはBC(4600m地点にあるベースキャンプ)に下りてきてからですか。

竹内 まずBCに降りてきた時は「ただいまー」という感じで嬉しかったですね。それからBCを撤収して、車や飛行機を乗り継ぎながら、ようやくここカトマンズまで帰ってきたわけですけど、もうBCを離れた時からなんとなく「次はどこに行こうかな」という気持ちになっていたように思います。

14座を登っただけで山の神髄を究めたとは思えない。

――そんなに早く次の山に関心が移っちゃうんですか。なんだか、もったいない。

竹内 ハハハッ。でも、いつもそうなんですよ。たとえば一生に一度の記念でエベレストに登るとかだと喜びのピークがあるのかもしれないですけど、私はやっぱり毎年のように登山を続けてきて、好きな山をどれだけ続けていけるかということを考えてますので。

 14座というのは確かに山田昇さん('88年秋の時点で9座の頂に立った日本を代表する超高所登山家)を始め、偉大な先人たちが綿々と受け継いできてくれた魂の系譜で、それを結びつけられたことは本当に嬉しいし、誇りに思うんですけど、一方でこれだけ無数に山があって、14座を登っただけでとても山の神髄を究めたとは思えないわけですね。まだまだ他にも登りたい山はたくさんありますし、登った山でも別のルートから登ってみたい。だから爆発的な喜びや達成感を、あまり感じられないのかもしれません。

ビバーク中、地吹雪のような風が吹くと、「バカヤロー!」って。

 14座の頂は、宇宙に近い。

 標高が8000mを超えると、酸素は平地の3分の1ほど。雪崩や強風、寒さによる低体温化など、試練は次々に襲ってくる。

 竹内の登山スタイルは、酸素ボンベやシェルパの力に頼らない速攻登山。生身で生きて還る能力こそが、試される世界だ。

――下山時、大きな試練に直面しました。途中で日が沈み、C3(最終キャンプ)へのルートを見失ったと聞いています。

竹内 天気は良かったんですけど、風が強くて。予想以上に登頂までに時間がかかってしまいました。予定では14時に着くはずが、実際に頂上に立ったのは17時半でした。

――水なし、テントなし。酸素ボンベもない。それでも7536m地点でのビバークを選択しましたね。

竹内 ビバークというと、冬眠中の熊のようにじっとしているイメージがあるんですけど、そこは吹きっさらしの岩の上で、寒くてですね、じっとなんてしてられないんですよ。腰を下ろしてウトウトしても、パッと目が覚めて。体をさすったり、また少し歩いて別の場所を探したりと、休むというよりは明るくなるのをひたすら待っている状況でした。たまに地吹雪のような風が吹くと、「バカヤロー!」って。ハハハハッ。叫んでましたね。
コメント
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ジミン党がファシストの集まりだっちゅう事がよく分かる今日この頃。昨今、ジミン党に長年在籍できるという事は、そもそもマトモな人間でない証拠・・・。w

2017-03-22 06:10:01 | 世の中
安倍政権に残された唯一の対策は証拠品HDをドリルで破壊した小渕優子や賄賂による利益供与を行った甘利などの悪質な不正事件を強権で隠蔽し不起訴にしてしまったのと同じ、露骨な公権力による隠蔽しか残されていない
籠池は口封じで逮捕されるだろう
その後は数の力で批判無視、強権突破しかない

馬鹿な3代目が国ごとオモチャにして、勤労者は貧困にあえぎ、女子は体を売り、特権階級はパーリー三昧、国際社会からはDQNあつかい、それでも指導者を称える国営放送。と北朝鮮の話をしてたら、共謀罪で逮捕されるかな?

籠池証人喚問
自民党が目論んでいたWBC決勝中継によるスピン報道回避が不可能になり、全国民の注視のなかで行われる10時と15時からだが、犬HKは中継拒否 政権にまずいことは完全に隠蔽する露骨な忠犬報道局

100万円は官房機密費<本澤二郎の「日本の風景」(2552)<また墓穴を掘った心臓><官邸・自民党本部を知るプロの断定>

「世界幸福度ランキング」、日本は51位だった

本当に不思議に思うが、自公支持者という生き物は本当に人間らしい意識を持っているのだろうか?

【官僚制支配の劣化】かつては優秀な官僚が自民党議員になり、先輩―後輩関係で官僚支配が機能した。だが、小選挙区制で政治家は2世3世のボンボンばかりになり、アベ・スガ・イナダによる内閣府人事局創設で、劣化した政治家になびく劣化した官僚が昇進する。森友は劣化を表出させた疑獄事件なのだ。

非情に低レベルなファシストだよ。

かたや、犯罪の巣窟、カルトの化け物だよ。

何で支持できるのか?

不思議でしょうがない。

少子化を何とかしたければ、コイツらを焼き払うしかない。

自分自身の意識レベルと同等にしか相手を理解できないので、少し援助しただけで何倍もの見返りを要求したり、あるいは、まるで下僕のように絶対服従を強要する。

サイコパスの嘘つきファシスト、ジミんコウメいイシんその他の政治家。


福1の始末、核汚染はどうする?

知人のサーファー仲間さん。癌家系でないのに大腸癌に。かなり悪かったらしいのですがたまたま入っていた最新治療も対象の生保で最新治療を受けてなんとかもちなおしているとのこと。知人も取り敢えず煙草をやめたそう。でも海には入ってる。浜岡原発周辺。

スサノオノコさんが追加
amaちゃんだ @tokaiama
サーファーも亡くなる人が増えている 放射能汚染のひどい東日本太平洋側での入水はまさに入水自殺だ 
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/690.html …

311復興が本当にこんな有り様でいいと思っているのか?

この惑星の放射能は上昇していく。被曝リスクにさらされ膵臓を中心に臓器が痛んでいく。

それでも「もんじゅ」後継事業に公金を投じる無謀。

国民年金基金をジャンク債に投じる横暴。

今の世の中では、たとえば日本でも、私たちは、

「企業の利益を上げることが何よりも優先され、個人の苦痛や悲哀などはそれに比べると(あるいは人の死なども)どうでもいい」

という社会に生きていて、「企業はそれが当たり前」だと思うようになっています。

「見るといい。何もかも逆さまだ。医師は健康を破壊し、弁護士は正義を破壊し、大学は知識を破壊し、政府は自由を破壊し、主要メディアは情報を破壊し、宗教は精神性を破壊しているばかりだ」 – マイケル・エルナー(米国のエッセイスト)

歴史を見てみると、有名な石油界の大物ジョン・D・ロックフェラーは、競争相手を躊躇なく台無しにするような、「私のお金は神によって与えられた」というようなことを宣言したことが思い出される。ロックフェラーはサイコパスの気質を持っていた。ロスチャイルドや J.P.モルガンなど有名な投資銀行家は、ロックフェラーの財務状況を賞賛した。しかし、その財務は、破壊と苦しみを周囲にばらまいたものでもある。

これらの精神性は、アメリカ合衆国の環境に見出される。すなわち、その「自由」と「個人主義」においてだ。

経済的に繁栄する理想的な場所であるアメリカは、同時にこの(利益第一主義の)考え方を形作った。

つまり、自由の国アメリカの理念は、「貧しい人たちは彼らの過ちにより貧しいのだ」ということであり、そんな人たちを支援する価値はないという理念だ。

犯罪心理学者のロバート・D・ヘアによるサイコパスの定義

・良心が異常に欠如している
・他者に冷淡で共感しない
・慢性的に平然と嘘をつく
・行動に対する責任が全く取れない
・罪悪感が皆無
・自尊心が過大で自己中心的
・口が達者で表面は魅力的

「表面的にはとても魅力的で、無限ともいえる自己中心性があり、病的な嘘をつき、冷淡で、目的を達成するために計算し尽くす。衝動的で、自分の行動に責任を持たず、共感の心を持つことがなく、罪悪感がない、また、後悔もない。彼らの危険性は、犯罪的の行為の多様性や、強く他人を操作する能力などにより、他の人物によって強調されることだ。他人の意志を覆し、欺き、他人をコントロールする」

結局のところ、企業というものは、サイコパスの人格と類似しているかのように、利益目的のために他人を悪用して使うようにプログラムされている。これは大企業ではなくとも、現在のごく普通の一般の会社にも当てはまる。

彼らは、彼らのサイコパスとして定義される行動や言動が(企業利益の増加に伴い)現実として評価されるので、社会で「成功」していく。

最近はブラック企業とか、そういう言葉もありますが、厳密にいえば、

「全部がブラック企業であるべきなのが現在の資本主義の理想的な姿」

だと思われます。

人間は使い捨てにして、その使い捨てによる小さな企業収益を上積みさせて株主利益に還元する。それ「だけ」が「企業の正義」ということになります。ただ、そういうことは公にいうと問題になるので、「表では理念の逆のことを言えばいいだけ」という学習も欠かさずに企業は邁進していくというのが、知る限りの現在の企業の「正しい」姿です。

他の国はともかく、「どうして日本までこんな国になっちゃったんだろう」と、やはり思いはそこに行き着きます。

この数年で、私に「こんな社会なら存続するより滅びたほうがいい」と強く思わせるようになってしまった社会にどうしてなったのかと。

オギャーと生まれた赤ん坊にまで借金を押し付ける悪辣。

(テメエらの棒給だの恩給だの、天下り報酬で消えた借金はテメイらで弁済しろ)

福島原発事故はイスラエルのやったこと
安倍政権は支持してませんが、福島原発事故を起こしたのはイスラエルのモサドですよ。検索すればわかります。
アメリカも当然知ってるはずです。

地球規模・世界地図で見れば日本など‥‥ 取るに足らない小さな国。。

原爆投下による事態収拾しかないと各国首脳が判断したら‥‥ 確かに、有り得ないとはいえない‥??。。

そのために、日本国民に諦めてもらうために、ケムトレイルやワクチン害、放射能汚染放置=病人・突然死大量発生中なんですかね。。


地球上のトップが組織的犯罪者集団のボスなのかも知れませんね?
日本国民を虐待したい?滅びた国の王族達の吹き溜まりのような国に成ってしまったのかも知れませんね?

日本国のトップが地産地消の日本国民では無い悲劇なのでshowか?



一般会計のほとんどを身内の棒給で使い切り、絶対非公開の特別会計は暗闇祭り。


公金で利害を操り、水面下は暗闇の組織、国内外に迂回資金をバラまいて回収しては知らんフリ。

ハザールマフィアに忠誠を誓い、時の政治家におこぼれを分け与へ、その計算式から自前のお手当はしっかり天引き。



省庁縦割りの弊害は何十年も放置して、省益優先で地方自治はボロボロ。

天引きの次は、仕事をしない何とか法人をつくれるだけつくって天下り。


明治維新以来、どれほど国を誤らせ、一般国民を死地に追いやり、山野を穢し、産土を穢したか?



沖縄の海、珊瑚礁を埋め立てて、ただで済むと思っているのか?

三陸海岸をバカの壁で覆い尽くし、喜ぶのはゼネコンだけで満足か?

住民は1000年に一度の災害のために一生壁と向き合って暮らせと言うのか?


ウィルスにワクチン、殺人医療に殺人添加剤、許認可利権は誰が持っているのか?

野放しでいいのか?


不正選挙のゴリ押し、その結果の偽政権、ジミンコウメイと結託、日本会議ならぬ朝鮮懐疑の悪意を汲んだ暴政は極刑に値する。

刑務所行き確定、生涯、廃炉現場で土砂運搬に従事せよ。



日本国民は、いい加減、コイツらのやりたい放題を見過ごすのを止めないと、子孫は皆殺しの憂き目である。


表向き政治家の配下に居るようで、実際はデイビットロックフェラー一派直属の従僕。表向き政治家の配下に居るようで、実際はデイビットロックフェラー一派直属の従僕。





「これから喰えなくなる職業」の筆頭は官僚である。

ついで、医療産業。



一昔前のパチンコが80兆だっけ。

医療産業は今や40兆円産業。


もちろん、お医者さんも減収減益だが、その実、製薬産業が一番儲からない。

医薬品の売り上げ突出と患者の増加が比例するなら、誰が見ても薬害が押し上げた数値である。

いくら何でも、そんなアカラサマな構図が右肩上がりで続いていい訳がない。

表向き平和主義の宗教団体。

だが、その出先機関のコウメイ議員は戦陣を切って子宮頸癌ワクチンのセールス。もちろん、お医者さんも減収減益だが、その実、製薬産業が一番儲からない。

医薬品の売り上げ突出と患者の増加が比例するなら、誰が見ても薬害が押し上げた数値である。

いくら何でも、そんなアカラサマな構図が右肩上がりで続いていい訳がない。

表向き平和主義の宗教団体。

だが、その出先機関のコウメイ議員は戦陣を切って子宮頸癌ワクチンのセールス。


最近はトンと名前がでなくなったが「松あきら」「松あきら」「松あきら」さんはご夫婦で大活躍だった。


アレから数年、可哀想に副作用で人生をメチャクチャにされた被害者続出。

それでも止めない抗老省。


ビルゲイツが私費を投じて人口削減計画を推進。

それでなくとも、モンサントはじめ化学合成による緩慢な毒殺の構図を野放しにできない。


そうは言っても、今でも医者は患者獲得に血眼である。

早期発見、早期発見、萌芽にもならない異常細胞を見つけたら青田刈り。

癌、心臓、脳、肝臓その他のフルコース治療へ持っていければ保険(税)が入る。



この構図はいわゆる保険金〇〇モデルである。

実際に死亡すれば実際の保険金〇〇成立。

人類の生命環境は医療産業の草狩り場と化した。



それが膨らみに膨らんで、国の財政を圧迫。

普通役人は削減に回るべきだが、一向にその気配なし。

今や、地町村レベルでも検診、検診。

複雑な医療事務も相まって利益は出るが自転車操業なのか?

もちろん、今が先途とけしかける製薬産業(いまだに油ダポチを止めれない組織の典型)の鞭が入る。


その昔(たった100年前)は、お医者さんなんて滅多にいなかった。

半数は祈祷師か呪術師、マトモなのは今で言う整体師。

もちろん病気によっては助からない。

だが、ガンも心筋梗塞も、まして糖尿病やパーキンソン病なんて滅多になかった。



それは基本、今でも事情は変わらない。

(人体のメカニズムがたった半世紀で変わる訳がない)



身体は物質の複合体、代謝と免疫力が日常的に動的平衡を繰り返し、その結果健康が保たれる。

それでは医療産業は儲からない。

なんとかして代謝と免疫力を弱体化する。

これでは自然治癒力が阻害され、治るモノも治らない。



お医者さんは自然治癒力は無視して毒には毒を。

意識は正常を保っても、物理レベルの肉体が悲鳴をあげる。

凄腕の整体師は、人間の身体はレベルの異なる振動(次元)複合体と見る。

代謝と免疫力を強化すべく[振動(刺激)を与へ]電磁気的に神経回路の調整をする。

これは自然治癒力を引き出すためである。

薬?

一切無用。

医療設備なんて何にも要らない。


だが、そんな凄腕整体師が声を揃えて言うのは、総じて今どきの重病患者はとてつもなく治りが悪いのだそうだ。

理由は簡単。

化学合成医薬品を大量摂取、リドックスできずに体が毒の貯蔵庫になっている。



しかし、それでも、患者の側が意識を切り替えたら流れは一変する。

死は自然治癒力の停止である。

誰でも自然治癒力を持っているから生存している。

以外にシンプルな真実が浸透するだけで、医療産業は急速に斜陽化する。



生命に関わる現場で、医者は点数、薬屋は利益率、官僚は天下り先を見つけるのに必死。

共通するのは患者は道具、金儲けの道具である。





早い話、地球規模で生命体次元上昇が起こり、一昔前の振動数とは違っている。

意識レベルで同調する人間の疾病の質も自ずと変化する。



一つ上のオクターブで調整したら下位の次元の現象は消えてしまう。

(昔のシャーマンや魔術師が用いた情報転写テクノロジーもそのひとつ。だが、水素水のようにすぐに紛い物カルト企業が参入するので要注意ではあるが・・・確かに水は情報を記憶するし、次元をまたいで自然治癒力を引き出す。当ブログ管理者は以前、その現場を見た事がある)



ケムトレイルや遺伝子組み換えウィルスを撒いても無駄。

エイズも噓、エボラも吹かし、パンデミックは起きない。



致死量撒いても自然治癒が理想。



20世紀型油ダポチ病院は閑古鳥。

時を同じく、トランプ大統領令で主な製薬会社に捜査のメス。

こすっからい油ダポチ製薬企業はさっさと身売りで難を逃れ、哀れ日本の会社がとばっちり?

東芝の製薬産業バージョン再び、そんな噂がチラホラ聴こえて来る・・・。



で、善は急げ・・・トランプ大統領令が日本に波及する頃には、医者は喰えない職業になっている。



早い話、医療産業の稼ぎを1/10にして、残り9割を生命環境の再生に回せば済む話である。

日本で言えば、住化のような化学合成毒物産業はお取り潰し。



もちろん、マトモな医者は生き残る。

丁度良い需給バランスなら、年間医療費は最大でも2~3兆円くらいではないのか?



健康保険税は大幅に引き下げ。


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スーパーヤマガール みなみやまりん

2017-03-20 19:32:54 | マラソン・駅伝関係
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2017.03.20 大倉バス停⇒焼山登山口⇒三ケ木14:26着

2017-03-20 17:08:21 | マラソン・駅伝関係


大倉尾根は乾いているが

塔ノ岳⇒平丸分岐まで


南側は田圃

北側は雪と氷

田圃は本格的で足を捕られます

高尾山方面とは大違い


渋沢駅2番バスでスタート

見晴小屋から後ろから来たトレランさんと一緒に頂上まで

その後は田圃道

焼山の下りは足が残ってなくてフラフラ

ロードもゆっくり

でも膝が痛くならなかったので一安心









2016
年末現在

 2566塔ノ岳2580

 1381丹沢山1394

 1216蛭ヶ岳1229

  634姫 次646

  157青根159

    6平丸7

  423焼 山430

  419焼山登山口426

  406三ケ木413

  291橋本駅北口291

   37大山38

    3大山三峰4



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 「非情の山」ともいわれるK2 青木 達哉 小松 由佳

2017-03-19 20:38:18 | マラソン・駅伝関係

 2006年8月1日16時50分。待ちに待ったその瞬間、東海大学K2登山隊ベースキャンプは歓喜と安堵に包まれた。東海大学K2登山隊の小松由佳隊員と青木達哉隊員というアタック隊が、世界の精鋭登山家にもっとも険しいと恐れられるK2の山頂を極めたのだ。
 しかもこの登頂は記録ずくめとなった。小松由佳隊員は「日本人女性初登頂(世界でも8人目)」、21歳10か月の青木達哉隊員は「世界最年少登頂」を成し遂げたのだ。
 登頂に成功したその瞬間を小松由佳隊員はこう振り返る。
「午前2時半にアタックを開始して、膝まで埋まるような雪や難度の高い岩場を超え、半日以上経った頃ようやく他の高みが見えない、ゆるやかな頂が見えてきたんです。それまでいくつかのピークを越えてきましたが、その頂が見えた瞬間、『ここがK2の山頂だ』と確信めいたものがあったんです。そのとき、先を行っていた青木が『先に行ってください』と気遣ってくれたんですが、もうそのまま行かせちゃいました」
 その山頂目前のやりとりを、青木達哉隊員は克明に覚えているという。
「ちょうど山頂まであと数歩――2mくらいのところだったと思います。自分でもどうして『どうぞ』って先に行ってもらおうとしたのかよく思い出せないんです。いろんな山で指導してくれた尊敬する先輩という気持ちがそうさせたんだとは思うんですが、山頂を目の前にしての達成感や、その反面『もう終わっちゃうのか』という寂しさ……。いろんなものがこみ上げてきたんです。ただ先に行ってもらおうと思ったら、『いいよ、行きな』って……。鼻をすするような音が聞こえてきたから、もしかして泣き顔を見られたくないのかなとも思いました」
 山頂に先にたどり着いた青木隊員は、最後の数歩を踏みしめるたび、脳裏にそれまでのことが次から次によぎっていた。現地スタッフや他国の登山隊の顔ぶれが浮かんでは消える。そして最後の一歩を登った瞬間、空と一体になって頭が真っ白になったという。アイスバイルをついて、無線でベースキャンプに連絡を入れた。デジカメで記録写真を撮影した。しかし、その時点で小松隊員は違うことを考えていた。
「私も登頂する瞬間は、サポートしてくれた方々への感謝の気持ちが大きくわき上がりましたね。青木と同じように、走馬燈のようにいろんなことが頭を駆けめぐりました。ただ、登頂前の本当に数秒だったと思います。登頂した実感も正直あまりなかったですね。むしろ『どう降りるか』ということに気を取られていたような気がします」
 山頂にいたのは1時間足らず。既にアタック開始から15時間以上が経過している。酸素の減りは予定よりも早く、下降中に切れそうだった。下山前に頂から下を見たとき、「数千メートルも下にすっぱり切れ落ちた斜面は底のない穴のように見えた」と小松隊員は言う。
 そして登頂報告の無線を最後に2人からベースキャンプへの連絡は途絶えた。




そもそも東海大学の登山隊がK2という山を目指すことになったのは、2006年が同大学の山岳部創部50年という区切りの年だったことも、その理由だった。それまでも、2001年にはクーラカンリ、2004年には中国・カラコンロンと6000~7000mクラスの山へ遠征し、実績を積んでいた。そして満を持して2006年、K2へのアタックとなったのだ。東海大学K2登山隊の出利葉義次隊長は、その経緯をこう語る。
「当初は世界最高峰のエベレストという話も出ていたんです。数字を求めるだけなら世界最高峰を目指すという選択肢もあったかもしれません。ただ、山岳の世界ではもっとも難しい山はK2だと言われている。ならば、登山家として、より高い目標を目指すべきではないかということになったんです」
 だが、決定したあとも不安はよぎる。相手は、世界の精鋭登山家たちが命を落としたK2という最難峰。登頂できるのか、いやそれどころか生きて帰れるのか……。だが、より大きな困難を乗り越えたときほど、達成感や喜びは大きくなる。目標は、登山家なら誰もが憧れるK2に定められた。
「しかし、東海大の山岳部は他の大学の山岳部に比べて歴史も浅い。足りない経験を補うための万全の準備が大前提となります。例えば、登るルートひとつとっても、どんなルートを選ぶか、そのルートは登山隊や隊員のスキルに適したものか……。他にも医療スタッフや通信手段、気象情報の収集手段など、考えるべきことは無限にあります。登山というのは、自然との闘い。強大すぎるほどの相手だからこそ、十分すぎるほど情報を集めなければならない。ベースキャンプという5000mを超える高所での根幹を担うのが発電機。全幅の信頼がおけるものでなければ選ぶことはできません」(出利葉隊長)
 2001年のクーラカンリ登頂以来、東海大学山岳部はHondaポータブル発電機に全幅の信頼を寄せている。文字通り、生死を賭した危険な挑戦だからこそ、Honda『EU9i』は、東海大学K2登山隊のベースキャンプにまで随行する唯一のポータブル発電機となったのだ。 


東海大学山岳部のターゲットはK2に定まった。現役・OB他、登山隊員8名がK2への道を目指すこととなった。そしてK2のような高峰を目指すにあたり、まず初期段階での重要な作業はルートの策定となる。ルート次第で登山の成否は決まると言っても過言ではない。
「ルートは、単に傾斜のきつさだけで決めるのではありません。例えば、他の登山隊が多く登ったルートでは、先行した登山隊が残していったロープをあてにして登ることもあります。しかし時間が経過してゆるんでいたりすると、思わぬトラブルに巻き込まれることもある。さらに、他の登山隊がすぐ前を先行しているときには、それに伴う落石も考えられる。自分たちが先行している場合には岩を落とさないよう、気を遣わなければならない。比較的登りやすいルートは、他国の隊も集中する。それより、山と隊が真っ向から対峙できるルートを選ぼうということになったんです」(出利葉隊長)
 検討に検討を重ねた結果、出利葉隊長率いる東海大学K2登山隊は南南東から登るルートを選択した。急な岩場や、氷と雪で固く締まった壁に覆われた難ルートである。
「南南東リブから入るルートは、確かに難ルートではあります。しかし、氷雪壁の登はんとなれば、日本の雪山で鍛えられた東海大学登山隊が得意とするところ。もちろんルートを決めた時点では、まだアタック隊はおろか、どんな人選で隊を組むかも決めていませんでした」(同)
 だがその段階でも、やるべきことはいくらでもあった。
「『EU9i』があれば電力は確保できる。となれば、登山に必要な情報テクノロジー用の電源はすべて網羅することができるのはわかっていました。ですから、まず最大限に情報を集め、解析できる体制作りから手をつけることにしたのです。まず、大学内の情報技術センターに支援を依頼し、ヨーロッパの気象衛星METEOSAT5号の衛星画像を加工・補正してもらい、パキスタン北部地域を網羅した衛星画像が送信される体制を整えました。さらに、この衛星画像をもとに、学内の気象学の専門家に予想天気図を作成してもらうことにもなりました」(同)
 すべての電気の源を司る『EU9i』については、2001年のクーラカンリ遠征と同様、オールホンダ販売に依頼し、メインジェットを高地用にチューニングした。電源を要としたハード面、そして日本からの情報支援については目算が立った。だが、出利葉隊長の目の前には問題が山積みとなっていた。

 ハード面では『EU9i』含め、可能な限り最高の準備の目算が立った東海大学K2登山隊だったが、何より最大の問題が控えていた。当然ながら、登山とは人が山を登るもの。だが、肝心の隊員の編成が最大の問題だった。
「大学登山隊は、基本的に現役で山岳部に所属する学生と、OBで編成されることになります。そこで中核となるのは、やはり経験豊富なOB隊員。ただし、ほとんどのOBは企業勤めをする会社員。休みの調整なども必要ですが、家庭や仕事の事情で断念せざるを得ない隊員もいるので、中核を担うOBの存在は本当に貴重なのですが……」(出利葉隊長)
 しかし、自然を相手に研鑽を積む以上、危険とは常に隣り合わせ。そんななか、出利葉隊長にとって頭を悩ませる事故が起きた。
「主力にカウントしていた中堅の隊員が2005年にヒマラヤで凍傷にかかってしまい、両手足の指を切断することになってしまった。隊の中核を担うには、回復までの時間が足りなかった。他の隊員も日程を調整し、学内からだけでなく学外からの支援も受けている一大プロジェクト。日程はどうにも動かせなかったんです」(同)
 戦力ダウンを埋めるため、山で荷運びをする高所ポーターを手配することになった。だが、ポーターはあくまでも隊を補助する存在。K2の山頂を目指す隊員の質の向上が急務となった。
「コンディションがよければ、アタック隊として山頂を目指せる人材を増やすことが急務でした。時間が限られているなか、学生ならば集中的に鍛えることができ、伸びしろも期待できたんです」(同)
 といっても、10名程度の学生のうち、K2にチャレンジできる力量までの伸びが期待できるのはある程度のキャリアがある上級生のみ。しかし、上級生ともなると就職活動も本格化する。そんななか、K2という最高峰に挑むための過酷なトレーニングに身を投じる者はほとんどいなかった。隊に参加した数少ない一人は、その動機をこう語る。
「いやー、僕は消防士になろうと思ってたんで。単位も間に合ってたから、『もうちょっと山に登ろうかな』と思って。K2なんて、滅多に行ける場所じゃありませんし」
 K2世界最年少登頂を達成した、青木達哉隊員が隊に参加することを決意したのは、そんな気軽な動機からだった。

K2登山隊への参加を決めた青木隊員だったが、K2へ向かうためのトレーニングは過酷を極めた。標高4000m相当の低圧・低酸素室で高所順応トレーニングを行った。週に4回、1回につき6時間。プロのアスリートよりも過酷なトレーニングともいえる。
「もともと体を動かすのは好きだったんです。山岳部に入ったのは、新人勧誘で『ロッククライミングができるよ』って誘われたから。なんだか楽しそうだと思ったら、入部早々登った雪山がすごく過酷で『なんで、こんなことしてるんだろう』ともう苦しいったらありませんでした。でも、山頂まで登ったら今まで知らなかった爽快感を味わうことができた。それからすっかりハマることになっちゃいましたね」(青木隊員)
 以来、山の魅力に惹かれ、国内の山を次々に登った。2年生の時にはカラコンロン山脈へと赴いた。
「そのカラコンロンで、先輩の小松さんたちと同じ宿になって、いろいろ話す機会を持つことができたんです」(同)
「小松さん」というのは、K2アタック隊でコンビを組んだ小松由佳隊員のこと。当の小松由佳隊員は当時のことをこう振り返る。
「青木君に限らずですが、彼らの代の子たちとはいろいろ話はしましたよ。詳しくは差し障りがあるので言えませんが、それこそ話し合いの過程で殴り合い寸前になったことも(笑)。私の代も彼らの代も人数は少なかったから、似たような苦労もしているんですよね」
 小松隊員は、高校時代から山岳部で競技登山を行っていた。
「インターハイや国体での競技登山は、あくまでも点数を競うもの。山という雄大なフィールドの中なのに、誰が何秒早く到達するかという競い合いになる。向き合うべきは、山のはずなのに……。ルールに縛られるのではなく、純粋に山と向き合いたいと思ったんです。もっとも、根っからの冒険好きでインディージョーンズみたいな世界観を味わいたいな、考古学も学びたいな、と思っていたら、最先端の登山はパソコンや衛星通信も使っていた。驚きましたね」(小松隊員)
 現代の登山シーンにおいては、『EU9i』のようなポータブル発電機は、もはや必携アイテムになっていたのだ

高校時代から数えて、もう10年山に登っているという小松隊員だが、2006年にK2に挑む直前には、登山を続けるかどうか悩んだこともあったという。
「山は基本的に男社会。もちろんどんなに鍛えても、筋力ではかなわない。女性がリーダーとして隊を統率するのは難しい面もあるんです。他にもいろいろな悩みが積み重なり、2005年頃には『もう山をやめようかな』と悩んでしまっていた。それまでは、生活の90%が“山”だっただけに、抜け殻みたいになっていたんです。そんな頃でした。出利葉さんから『K2に行かないか』と誘われたのは」(小松隊員)
 険しい山になればなるほど隊は大編成となり、チームワークも必要とされる。そんなチームを率いるには、個人として山に向かうのとはまた異なる資質が必要になる。その資質は、“山男”なら誰もが持っている資質というわけではない。個人それぞれが山と向き合うことと、チームとして山と対峙することは根本的に異質なもの。その双方を兼ね備えたリーダーは決して多くはない。様々な経験を重ねたが故に、当時の小松隊員は出口のない迷路に入り込んでしまっていた。そんな彼女を救ったのが、出利葉隊長からのK2への誘いだった。
「誘いを受けた後、大学に出向いて何回も話をして『この人がリーダーのチームなら、きっとまた登れる』と思えたんです。世界中に数ある登山隊には、リーダーが独善的だったり自分の考え方を押しつけるような隊もあるんですが、出利葉さんは、チームを意思統一できるリーダーとしての厳しさはありながらも、隊員ひとりひとりの考え方も受け止めてくれる。私が考える登山隊像に合っていたんです。声をかけてくれたのが出利葉さんだったから、『また登ろう』とやる気になれたんです」(同)
 小松・青木両隊員だけではない。東海大学K2登山隊に参加したメンバーの数だけドラマがあった。そして、2006年6月5日、先発隊として出利葉隊長以下、小松・青木の両隊員が成田を発った。3か月前に船便で出発した『EU9i』をはじめとした、荷物が待ち受ける大陸へと向かって。

先発隊の3人がパキスタンに入った数日後には、医師や看護師なども含め、隊に参加する全員が集まり、6月14日にはキャンプ地を目指し行軍を開始した。だが、初夏のパキスタンは厳しい暑さでも知られる。地域によっては平均気温が8月よりも高くなり、最高気温が40℃を超えることもしばしば。行軍は、早朝の涼しいうちに開始され、現地のポーターたちと合わせ約20名のチームはベースキャンプ(BC)へと向かった。行軍の様子を出利葉隊長はこう語る。
「猛暑のなかで1トン以上の荷物を背負っての行軍でしたが、BCまではほぼ順調に行程をこなすことができました。途中、ポーターに一人50ルピーのチップを出すと伝えると、もの凄い勢いで進んでいったのが印象的でした(笑)」
 6月20日にはBCに到着。その後、約1か月をかけて、C0、C1、C2と設営していった。昼はキャンプの設営、夜は機材の整備などに追われた。
「BCでの食事は現地のコックが作る料理と、日本から持ち込んだフリーズドライの食品が中心でしたが、現地のコックが作るのは当然パキスタン料理。何を作っても全部カレー味。補助的な食品として、現地でクッキーを買い込みましたが、さすがにカレー味のクッキーは不評でした(笑)」
 出利葉隊長は、笑い話としてBCでの様子を話すが、ほとんどの日程で設営は夜にまで至った。連日、登はんが終了するまでの18時から21時までの間、Hondaポータブル発電機『EU9i』はフル稼働していた。医師として隊に参加しながら、発電機のメンテナンス担当となった小林利毅隊員はその様子をこう語る。
「BCでの1か月半、ほぼすべての電源を発電機から供給していましたね。持ち込んだガソリンには限りがあるので、1日数時間しか稼働させられない。その間にすべての電源を確保する必要がある。『EU9i』を一次電源として、車載用の大容量バッテリーや汎用電池パック、パソコン、デジタル音楽プレーヤーなどの充電まで行っていました。もちろん、夜間の照明等の電源にも使用しましたが、最後までトラブルもなく快調でした。むしろ、他国の隊が使っていた他メーカーの発電機のメンテナンスに追われることの方が多かったかもしれません(笑)」
 海外のガソリンは地域によっては、高品質とは限らない。ゴミなどの不純物の混入を避けるため、給油は婦人用のストッキングをネット代わりに濾過して行われた。出利葉隊長は、そんな小林医師の様子をこう振り返る。
「二足のわらじというか、ほとんどエンジニアのようでしたね。私を始め、他の隊員から『小林モータース、今日もロシア隊に出張してるなぁ』なんてからかわれていました(笑)」
 そうしてEU9iがフル稼働している間に、C0~C2までの設営は着々と進んでいった。



 C0~C2までの設営が着々と進むなか、同時にアタック日の選定が慎重に行われた。ヨーロッパの気象衛星からの情報の解析結果が日本の東海大学を通じてBCに送られ、その情報をもとに、アタックの詳細が決定された。そのアタック隊に選ばれたのは、1978年生まれの蔵元学士隊員、1982年生まれの小松由佳隊員、そして現役の学生である1984年生まれの青木達哉隊員という3名。その決定理由を出利葉隊長はこう語る。
「衛星通信を介しての情報をもとに、慎重に検討した結果、8月1日頃の天候がいいと予測できた。パソコンや衛星回線を介して、あらゆる情報を検討できたからこそ、精度の高い予測ができたんです。K2では、毎年遭難者が少なからず出ていますが、やはり天候などの情報を得ずにアタックする隊は遭難の率が高い。しかし、どんなに万全の準備でのぞんでもK2という山は甘くない。比較的若い隊員を選んだのは、不測の事態が起きたとき、体力・気力の充実が欠かせないと考えたのです。他の山ならば、私も一緒に登りたいところですが、K2相手となれば、わずかな隙が命取りになりかねません。私が登るという選択肢はありませんでした」(出利葉隊長)
 そして、7月29日の未明、アタック隊として選ばれた蔵元、小松、青木隊員が第一回目のアタックを目指し、BCを出発した。
 ところが、アタック隊はBC出発直後にアクシデントに見舞われる。アタック隊のリーダー格でもあった蔵元隊員が激しい腹痛に見舞われ、隊からの離脱を余儀なくされたのだ。腹痛の原因は急性の虫垂炎だったという。
「BC出発から数時間後のことで、まだC1にもたどりついていない頃でした。本人は無念だったでしょうが、我々が見たのは脂汗を流しながら体を『く』の字に曲げて降りてくる蔵元の姿。本人は無念だったでしょうが、我々も『なぜこんなときに……』と無念の思いでした。それまでは、常に先頭に立ってルートを切り開き、アタックキャンプになるC3予定地にも最初に到達した。高所経験も豊富で、彼がいたからこそ小松、青木と3人でのアタック隊を編成したんですが……」(同)
 予定通り、7月29日に小松、青木両隊員はC1に、翌30日にはC2に入った。そしてその夜、出利葉隊長はC2にいる2人と無線で話し合いを持った。
「アタック目前の彼らは、当然『行きたい』という。蔵元が降りていく後ろ姿に感じるものもあったのでしょう。ただし若く、高所の経験が豊富ではない彼らだけで行かせていいのかという不安もありました。迷いましたが『絶対に無理はしない』という約束をさせた上で一度だけチャンスを与えることにしたんです。とはいえ、実は勝算もあった。あの2人は、どんな山でも山をナメるということをしない。国内の山でもどんな登山者よりも早くに出発し、どんな簡単な場所でも基本に忠実に登っていく。だから後ろからの登山者にどんどん抜かれるんですが、登山とは他者との競争ではなく、『生きて帰ってくること』こそが登山だということをよくわかっている。だからこそ、行かせることにしたんです」(同)
 そしてアタック日は8月1日に決定した。


8月1日午前2時30分。前日の7月31日にはC2からアタックキャンプであるC3へと入っていた小松、青木両隊員はアタックを開始した。朝食は紅茶と堅いパウンドケーキ。小松隊員の「後悔のないようやれるだけやろう。最高の一日にしよう」との問いかけに短く「はい」と答える青木隊員。初めての8000mラインへの挑戦が始まった。
「下の方を見ると、小さな光が暗闇にぽつんと浮かんでいる。BCのみんなが激励のために、たき火を焚いていてくれたんです。あぁ、登っているのは2人だけじゃない。みんなで登っているんだと胸が熱くなりました」(小松隊員)
 何も聞こえない無音の世界のなか、聞こえるのは、自分たちの息づかいと雪を踏みしめる足音のみ。世界のなかで自分だけがぽっかりと浮かんでいるような不思議な感覚に2人はとらわれた。膝まで埋まるような新雪の急斜面かと思えば、ガチガチの固い氷が露出した氷壁もある。足下の変化を一歩ずつ感じ取りながら、慎重に進まなければならない。8000mという高度による疲労も容赦なく2人を襲う。
「4歩歩いて一休み、の連続でした。以前カラコンロンのときに6000mを体験し、今回7000mのC2で高度障害を起こして、高所の恐ろしさは知っていたつもりだったんですが、8000mは一気に体が重くなってくる。あのヤバさは別物でしたね」(青木隊員)
 午前2時半にC3を出発し、あっという間に12時間以上が経過した。当初、午後3時になっても到達できなければ引き返そうと決めていたが、その頃にはもう山頂が目の前に見えていた。山に魅せられた者が、山頂を目の前にして引き返すことなどできるわけがない。
「8000mには7000mまでには気づかなかった“空気の匂い”がありました。単純に鼻で感じる匂いというより、頭というか体全体で匂いを感じるような感覚。太陽の光、雲、風……。すべてがダイナミックでギラギラして体にダイレクトに突き刺さるような感覚。すべての感覚がすごく鋭敏になった記憶があります」(小松隊員)
 とはいえ、そうした感覚にばかり溺れるわけにはいかない。午前3時半にBCに報告の無線を入れて以来、無線を入れようとしても圏外をあらわす音が鳴るばかりでBCとの交信も途絶えていた。繰り返し交信を試みるが、いっこうにつながる様子はない。そのときのBCの様子を出利葉隊長はこう語る。
「BCで待機している我々は、まったく状況がわからない。登頂したのかもしれないし、万が一ということもあり得る。16時を回り、不安が頭をもたげ始めた16時50分、無線が入ったんです」
 一瞬にしてBC内の空気が変わった。緊張で息をのむBCの隊員たちの耳に聞こえてきたのは、『BC聞こえますか! 私たちは今、ついにK2の山頂に到達しました!』という小松隊員の声だった。一瞬の静寂の後、BC内は歓声で埋め尽くされた。言葉がわからないはずの現地スタッフたちも喜びを爆発させる。無線でしかつながっていないはずのK2の山頂にもその感動は伝わっていた。
「出利葉さんの『よくやった!』と興奮する声と、BCの緊張と興奮が無線を通じても痛いほどに伝わってきました。感無量でしたが、心配かけて申し訳なかったなという思いや喜び、そして下りへ向かう緊張感。様々な気持ちがないまぜになっていました」(小松隊員)
「無線では何を話していいかわからなくて、最初に『青木です』と言った後は、ひたすら『よくやった!』『ありがとうございます』という会話を繰り返していました(笑)。K2の山頂はまるで天空にいるような不思議な感覚でした」(青木隊員)
 周囲を見回しても、ここより高い場所は見えない。8068mのガッシャーブルムも8047mのブロードピークも眼下に見える。そんな世界で2番目に高い場所に2人は約1時間、たたずんでいた。



 遂にK2山頂にたどり着いた2人だったが、山頂から下を見ると、数千メートル下まですっぱりと切れ落ちた底のないような穴に見えた。
「『ここを降りるのか』と改めて、今、自分たちがいかに危険な場所にいるかを再認識して『とにかく生きて帰るんだ』と気を引き締めました」(小松隊員)
 登りで時間がかかった分、酸素ボンベの残量も限られていた。下りる間に、酸素ボンベの流入量を毎分2Lから1Lに、さらには0.5Lに切り替えた。「下りこそが危険」というのは、山の常識でもある。登りは2人同時に登った箇所も、下りでは片方が確保を取り、ロープでつながれたもう一人が下りるという、より安全なやり方を採用した。
「スピードが安全につながるという面もあるのですが、とにかく生きて帰ることだけを考えたら慎重に進まざるを得なかったんです。ただ時間の感覚がどうにもおかしくなっていて、21時頃かと思ったら、あっという間に翌日の午前2時半になっていました」(小松隊員)
 頂上アタックを開始してから、もう丸1日行動し続けていた。興奮状態で、疲労を感じにくくなっているとはいえ、2人の体力は限界に近づいていた。
「高度障害に疲労、そして酸素不足もあって、下りは本当にしんどかったですね。ボクがロープを確保して小松さんが下りてくるのを待っているときに立ったまま、まぶたが落ちてしまったこともありました」(青木隊員)
 立ったまま、寝たり起きたりを繰り返した。空の酸素ボンベやヘッドランプも手につかない。手から滑り落ちたそれらは、あっという間に視界から消えていく。
「疲労が極限に達し、ビバークを決意しました。8200mという高所でビバークするか、このまま下り続けることのどちらが危険かと考えたとき、ビバークを選択せざるを得ないような状況でした」(小松隊員)
 もう酸素は残っていない。凍った斜面をアイスバイルのブレードで削り、2人がようやく腰を下ろせるだけのスペースを作った。午前3時、確保を取りながら、手持ちのものをすべて着込んだ。さらにその上からシートをかぶり、2人はつかの間の眠りについた。「寝たら、もう目が覚めないなんてことはありませんよね?」との青木隊員の問いに、小松隊員は「大丈夫」と答えたが、小松自身8000mを超える高所でのビバークは初めてだった。




朝になってもC3に姿を見せない2人に、出利葉隊長をはじめとしたBCは焦りを感じ始めていた。
「夜間ということもあり、頂上からアタックキャンプのC3まで下りてくるのに約5~6時間かかると見ていました。ところが17時50分の無線連絡以降、またも無線が不通になり消息がしれないまま夜明けを迎えてしまった。スコープで覗いてもC3に姿も見えない。無線も通じない2人を案じながらも、すべての可能性を考え、午前10時の段階で日本の大学に連絡を取りました」(出利葉隊長)
 山ではどんな悲劇が起きても不思議ではない。明るくなっても無線は入らず、BCから目視できるはずのC3にも2人の姿が見えない。最悪の事態が脳裏をよぎった。
「『遭難の可能性あり』と、何時の時点で判断し、どのタイミングで発表するかも含め、大学側との協議を開始しました。単に下山が遅れている可能性も考慮しましたが、万が一の可能性もある。ただし、日本時間の夕方に発表してしまうと、夕方の報道番組や夜のニュースで流れてしまう。混乱のさなか、マスコミから家族に伝わるという最悪のケースは避けなければならない。協議を繰り返した結果、パキスタン時間の15時、つまり日本時間の19時までに2人を確認できなければ、まず大学側から家族に一報を入れようということになりました。マスコミへの発表はその後ということに。ただ、大学の広報はメディアからは『いつコメントは出せるのか』、『いつ帰国するのか』という問い合わせが殺到する裏で、こちらとのやりとりも行うという本当に大変な状況だったようです」(出利葉隊長)
「遭難の可能性あり」と判断を下すまで、残り3時間となる現地時間の12時になっても2人は戻らない。出利葉隊長は、パキスタン軍にヘリコプターの出動を要請した。午後に要請すると、手続き上ヘリコプターの現地到着が2日後になってしまうからだ。翌日にヘリコプターを現地に入れるためには、昼までに当局に出動要請を行う必要があったのだ。
 午後になっても2人の姿は見えない。焦燥の色が濃くなっていくBC。そんな午後12時30分、BCの無線機が鳴った。「いまC3に戻りました。2人とも元気です!」との小松隊員の声が無線機に流れ出した。登頂時をも凌駕する歓声がBCを包んだ。誰もが声にならない声を上げ、ボロボロと歓喜の涙を流していた。







 その数時間前、小松隊員はほほに強烈な光を感じて、目を開けた。時計は午前6時を指していた。眼下に雲の海が広がり、彼方から昇る太陽は見たことがないほど美しかった。
「まるで『生きなさい』と言われているかのような美しさでした」(小松隊員)
 1時間ほど日の光を浴びて体を温めた後、2人は再び下降を始めた。BCが心配しているだろうことは痛いほど想像できたが、無線はつながらない。仕方なくそのまま下降を続ける2人だったが、眠気は去ったものの今度は襲い来る落石の恐怖との闘いとなった。
「ロープにぶら下がっていて避けようのない状態で、1メートルクラスの落石がすごいスピードで体のすぐ横を通過し、奈落へと落ちていく。しかも、岩肌でこすれたのか、焦げたような匂いまで漂ってくる。当たらなかったのは、本当に幸運でした」(青木隊員)
 8200mという高所で無酸素状態でのビバークを経て、体力を使い切った2人がC3に戻ったのは午後12時30分。C3の緑色のテントが見えたときには、前日の未明に出発したとは思えないほど、時間が経過しているように感じたという。BCに無事を伝える無線を入れ、凍傷のチェック、水分などの栄養補給をすると2人は体を横たえた。疲労の極限にあった2人は、その日は体力回復のためC3にて一晩を過ごすことにした。そしてその日の午後と夜の2回、“訪問客”があったという。
「テントの中で休んでいると、下の方からザクッザクッという足音が近づいてきて、テントの近くで何やら話している。そのときは疲れていて外を覗く気にもなれませんでしたが、あとで外に出ても、足跡ひとつないんです。最初は自分の聞き違いかとも思ったんですが、青木に確認しても同じタイミングで同じ声を聞いている。正直ゾッとしました」(小松隊員)
 東海大学K2登山隊がC3を設営した近くには、雪に埋もれたテントに過去の遭難者の遺体が何体も眠っているという。
第十一章 精霊の訪問 「ボクも男性の声と足音は、はっきり聞きました。ただ、小松さんと違って怖いという感覚はありませんでしたね。むしろ伝説のクライマーがK2の精霊となって会いに来てくれたのかもしれないと、うれしさすら感じました。後で、出利葉さんには『幻聴じゃないのか?』と笑い飛ばされましたが、確かにそこにいたんです」(青木隊員)
“精霊”に触れた2人は、その晩泥のように眠った。そして翌日早朝、登山隊のメンバーが待つBCへ向けて出発した。



8月3日の早朝にC3を出た2人がBCへ戻ることができたのは、4日の深夜0時を回った頃だった。遠くに見えるBCのテントの外にヘッドランプの光がちらちらと見えた。隊員が出迎えてくれていたのだ。「やっと帰ってきた」という思いで近づくほどに早足になる。
 BCで爆発する歓喜、そして嵐のような抱擁と握手が2人を待っていた。
「BCで調理を担当してくれた現地のコックさんに至っては、2人の肩を抱きながら『ウワァーン』と声を上げての号泣とともに迎えてくれたんです。何も言わず、骨が折れそうなほど強く手をギュッと握りしめてくれた隊員もいれば、ひたすら『よかった』を繰り返す人もいた。表現は違うものの、誰もが万感の思いで出迎えてくれたのを痛感しました。同時に仲間って本当に温かい存在なんだと、ありがたさと申し訳なさで改めて胸が熱くなりました」(小松隊員)
「振り返ってみればたった数日でしたが、すごく久しぶりに小松さん以外の人の声を聞いたような気がして、『やっと生死の狭間から帰ってきたんだ』という安心感でいっぱいでした。みんなと抱き合って、握手して、笑い合った。頂上よりも素晴らしい場所があることを知った瞬間でした」(青木隊員)
 それから数日間は、休養に充てられた。PCを使ってのHPの更新作業は急ピッチで進められた。食堂テントではDVDで映画を見たり、小松は持ち込んだデジタル音楽プレーヤーで好きなエンヤを愉しんだりもした。
「それらすべての電源の源はすべて『EU9i』でした。以前のクーラカンリのときもそうでしたが、現代の登山において電源はすべての根幹です。アタック日の選定ひとつとっても、学内の総力を結集して得た情報を衛星回線で手に入れられるから、風のない日を選んでアタックできた。8200mでのビバークやC3から無事帰還できたのも、天候のよさに救われたという面もある。他にも、アタック前後に彼らが口にした堅いパウンドケーキは、プロスキーヤーの三浦雄一郎さん率いるミウラ・ドルフィンズから差し入れていただいた手作りのもの。ナッツ類や香辛料も豊富でカロリー補給という面からも本当に助けられました。他にも、各方面から様々なサポートをいただいたからこそ、K2登頂をなしえることができた。隊員として名を連ねた者だけでなく誰ひとり、持って行った何ひとつ欠けても、今回のK2登頂はなしえなかったはずです」(出利葉隊長)
 2006年の東海大学K2登山隊の挑戦は、記録ずくめの偉業となった。そしてその偉業は、チームを中心とした、そこに関わるすべてのものの偉業でもある。
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私の敬愛するヒマラヤニスト その1 山田昇氏

2017-03-19 20:12:36 | マラソン・駅伝関係
山田さんは登山センスの他にも、ヒマラヤ登山に不可欠な高所順応力がずば抜けていた。これは8000m峰にチャレンジする上で大きな力になる。
その後、多くのヒマラヤ登山隊に参加した山田さんはヒマラヤで活躍した。

1978年秋 ダウラギリⅠ峰南東稜より初登攀(群馬県山岳連盟)・・・世界初
1981年春 カンチェンジュンガ主峰登頂(日本ヒマラヤ協会)
1982年秋 ダウラギリⅠ峰北面ペアルート初登攀(カモシカ同人)・・・世界初
1983年秋 ローツェ(8511m)西壁より登頂(カモシカ同人)
1983年冬 厳冬期エベレスト(8848m)南東稜より第3登(カモシカ同人)
1985年夏 K2(8611m)南東稜より無酸素登頂(日本ヒマラヤ協会)
1985年秋 エベレスト無酸素登頂(映画「植村直巳物語」撮影隊)
1985年冬 厳冬期マナスル無酸素登頂(斎藤安平氏と2人でのアルパイン・スタイル)
1987年冬 厳冬期アンナプルナ南壁無酸素初登攀(群馬県山岳連盟)・・・世界初
1988年春 エベレスト南北の初縦走(日本・中国・ネパール3国友好登山)・・・世界初
1988年秋 シシャアンマ主峰・チョーオユーをアルパイン・スタイルで継続登頂(日本ヒマラヤ協会)

1985年と1988年にはハットトリック(1年で8000m峰を3回登る事)を記録している。
その他にも7000m峰で2座を初登頂した。
ヒマラヤ登山22回、8000m峰14座中、9座に登頂

この中で特筆すべき記録をまとめると
エベレスト三冠王(春・秋・冬) 無酸素登頂 南北縦走
K2無酸素登頂 厳冬期マナスル無酸素登頂
バリエーション・ルートでは ダウラギリⅠ峰南東稜・ペアルート、アンナプルナ南壁の無酸素登攀

現在でも日本人の登山家でこれほどの記録を持っている人はいない。日本最強の登山家と言われる由縁だ。
1980年代当時、世界の登山界では世界初の8000m峰14座全山登頂を成し遂げたオーストリアの超人ラインホルト・メスナー、それにつづくポーランドのイエジ・ククチカが人並み外れた登山記録を持っていたが
山田さんはこれに匹敵する様な登山を実践した。

私が尊敬するヒマラヤ登山家に山田昇という人がいる。未だにあこがれている。故人となってしまったが。
1989年2月に他の2名の日本人登山家とアラスカのマッキンリーに登山中に遭難、3名とも遺体で収容された。
登頂後の下山中に5200mのデナリ・パス付近で強風で飛ばされて滑落したものと思われる。
その6年前の1983年2月に冒険家・植村直巳さんもここで消息を絶ち、未だに不明のままだ。
北米大陸の最高峰マッキンリーは6000m少しの標高だが、厳冬期になると風速60m/秒を超える強風が吹き、北極に近い高緯度にある事が重なり、
その厳しさが厳冬期エベレストと同等か、それ以上と云われる。日本が世界に誇る冒険家・植村さんと、日本最強の登山家と云われた山田さんが奇しくも
同じ山で帰らぬ人となった。

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竹内洋岳 田辺治 

2017-03-19 20:05:40 | マラソン・駅伝関係
ローツェは世界最高峰エベレスト(8848m)の直ぐ隣に聳えている。
世界第4位の高峰でありながらエベレストの隣にある為、あまり注目されない山だが、その山の南面である南壁は麓から3300mの高度差で頂上まで突き上げている。その壁の巨大さと8000m以上での岩壁登攀の困難さから、かつて8000m峰14座全山登頂を世界で初めて成し遂げたラインホルト・メスナーは「ヒマラヤの21世紀の課題」と言った。その壁が初めて登られたのが1990年の旧ソ連隊によってだった。その後の挑戦も続いたが、なかなか登れる壁ではなかった。同じく1990年にスロベニアの登山家 トモ・チェセンが単独登頂に成功したとの知らせもあったが、その後に事実の信憑性からこの登攀は疑惑の登攀(登っていなかった)と言われ、正式な記録として認定はされていない。

登山でその山の同じルートをコンディションのいい時期とそうでない時期に登るのとでは、困難の度合いに大きな差がある。
最大に困難なのは厳冬期(12月から1月)だ。ヒマラヤでは11月後半から高層のジェット・ストリームが降りてくる。その風速は高度8000m以上で風速50m以上、気温は-50℃以下で、
その条件下で登山をするとなると体感温度は-100℃以下になり。空気中の酸素は平地の3分の1、薄い酸素と寒気で油断をすればすぐ手・足が凍傷になってしまう。
強風の為に岩壁に付いている雪が飛ばされて、岩がむき出しになり、アイゼンを使った登攀がしにくくなる。
また寒気から身体を守る為に、ウエア等の装備も重装備になる。更に冬期により日照時間が短くなるので、昼間の行動時間が短くなる。
等、厳冬期でのヒマラヤ8000m峰登山は最大限に困難な登山となる。

日本の厳冬期8000m峰のバリエーション・ルートでの登山は群馬県山岳連盟が1987年12月にアンナプルナⅠ峰(8091m)や1993年12月に世界最高峰エベレスト(8848m)南西壁での世界初の厳冬期初登頂に成功している。(バリエーション・ルート登山は一番登りやすい通常ルートではなくて、より困難な難しいルートより登頂する事。)
世界最高峰エベレスト(8848m)南西壁の高度差は2200m、ローツェ(8511m)南壁は3300m。山の高さはエベレストより低いが、壁の高さは約1.5倍。
これを厳冬期に登るとすると両者で同等の困難さになると予想された。

日本の登山界にとって群馬岳連の厳冬期エベレスト南西壁以来久々の快挙だと思っていた。
田辺さんは厳冬期エベレスト南西壁にも参加して、2次隊で見事に登頂している。
ローツェ南壁と合わせて、その実力は今の日本でも最高のヒマラヤニストの1人だと私は思う。

厳冬期ローツェ南壁初登攀の快挙に対して、日本の新聞・マスコミは「頂上に登れなかったから、登山は失敗」というニュアンスで報道した。

田辺 治は、日本の登山家。元日本ヒマラヤ協会理事。元日本山岳会東海支部長。 ウィキペディア
生年月日: 1961年1月4日
生まれ: 愛知県 名古屋市
死没: 2010年9月28日
 JAC東海支部でローツェ南壁を初登攀した田辺治さんがダウラギリで雪崩に遭った、との報道に驚く。これまで困難な登攀を危なげなくパスしてきたアルピニストだけになぜ?と思う。
 雪崩に遭ってもしばらくは生きているものらしい。しかし高度が高いだけにわずかな呼吸困難でも窒息するかもしれない。場所が場所だけに救助活動も思うに任せないだろう。
 奇跡を信じたい。いやーご心配をおかけしました、と帰ってきて欲しい。関係者のみなさんがそう思っている。何も協力できないが祈るしかない。

東京新聞からコピー

ヒマラヤ遭難、現地と捜索協議 登山家3人の家族や協会
2010年9月30日 12時55分

 ネパール・ヒマラヤの高峰ダウラギリ(8167メートル)で雪崩に巻き込まれた日本人登山家3人が行方不明になった山岳遭難で、パーティーの隊長を務める名古屋市中区の田辺治さん(49)が所属する日本プロガイド協会(愛知県刈谷市)や家族は29日夜から30日にかけ、今後の捜索活動について現地と連絡を取り合うなど対応に追われた。

 同協会によると、自力で脱出し無事だった兵庫県芦屋市の島田和昭さん(37)がベースキャンプに滞在。同協会は島田さんと協議し、捜索活動などについてネパール当局と検討する。

 協会事務所がある登山用品店「穂高」には、行方不明になっている長野県白馬村の本田大輔さん(32)の両親らが集まり、現地からの情報を待った。島田さんから29日夜、衛星電話で「自分は無事。田辺さんたちの捜索に加わる」と連絡があったという。



厳冬期、困難なルートを選びながらも「人を死なさない隊長」として知られていたが、ダウラギリのノーマルルートの下部キャンプ移動中に雪崩の直撃を受けて遭難。 遺体は未だに発見されていない。

全14座制覇の竹内洋岳氏が薫陶を受けた先輩。

竹内さんが初めて登頂した8000m峰は1995年、マカルー北東稜西稜初登攀でしたが、当時中堅登山家だった田辺治さんもその登山隊の隊員でした。竹内さんにとって田辺さんはヒマラヤの先輩に当たる人です。






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日本の要所に「核」を仕掛けておいて、「占領」を続けるアメリカは、

2017-03-18 17:31:05 | いろいろ
 日本の「政治経済」を取り仕切っており、日本には何の「拒否権」もないと承知しているのに世界に向けては「日本が第一の標的」などと公言する・・・!!

 内閣改造をして、人選するときには候補者名簿を「ワシントンDC」に送り決済を仰いで決済が下りた後、内閣改造を発表するのです。

そして、国民は戦場に駆り出されるのです!!

 アメリカにとって、日本国民は「消耗品」と成り果てているのです!!

 国防で、侵略者と闘わずに他国を攻めるとは異な!!

上院の公聴会で、

「米国の農産物輸出を増やす市場として、日本は第一のターゲットになる」

とかたり、日本側に市場開放を促す意向を示した。

 劇薬を使用したり、遺伝子操作作物が氾濫するアメリカの「農作物」を引き受ける国が少ないために日本に買わせようという魂胆なのだ!!

このうえアメリカの「劇毒農産物」を、日本の家庭の食卓に乗せてしまうと日本人は健康を害して「病人」ばかりに成ってしまうというのに・・・・。

 アメリカは、徹底して日本人を苛み「富」を奪い去るつもりなのだ!‼

 これに反対する安倍晋三を失脚させて、アホの麻生太郎に総理大臣をすげ変えてしまいアメリカのやりたい放題にしようというのだ!!

正常な国体を取り戻し、日本国民が「安心」して、「安全」で、「豊」に暮らすためには国内から「侵略者」と「不穏分子」を放逐しなければ、この日本国という国家に明日はない!!

 國とは、「土地」と「民」を戈で守るという事であるが、國は「土地」と「民」を守ってはいない!!

 泥沼化する自由民主党は、「売国奴」だが、選んだのは国民であるから、ややこしい!!


地球は何度も壊滅的な被曝を経験している。

彗星の衝突。

それに水爆が仕込まれていた?







ツングースカの隕石大爆発。

現在の中国北部、モンゴル付近でも・・・。

ユカタン半島ではインカ帝国壊滅。

古代アマゾン文明の滅亡・・・。







日本ではその規模に匹敵する隕石や核爆弾投下はなかった。

だが、広島、長崎はまぎれもない核汚染。

そして、福1原発の核爆破。



アメリカネオコン勢力とCIA、イスラエル、日米中央集権の一部の中の人はみな知っている。

まぎれもないカバール(とお仲間のお歴々)が下手人である。

では、広島長崎は?

下手人は同じ。







911は?

下手人は同じ。



その他にも311、熊本、阪神淡路、新潟、いくつかの火山爆破・・・。

みな、同じ連中の犯罪。



彼らは凶暴罪で宇宙追放の刑。







ジミン党の創成期、岸主要以下歴代田布施人脈がCIAスパイの正力松太郎などなど、当時の主力最新攻撃兵器(核弾頭)製造を日本で行うために、原発をつくり始める。

詳しいことは分からないが中曽根内閣あたりで基盤整備は終了。

表向き発電と称する裏側で純度99%超えのウルトラ・プルトニウム精製を目指した。

とは言え、当時の技術では純度がまだまだ低かった。





左から三菱重工・宮永社長、東芝・綱川社長、日立・東原社長



偽総理は第一次安倍内閣当時、アメリカ、イスラエルとの三角貿易で期限切れ核弾頭(純度99%)を購入しかけた。

日本がカネを払う。

イスラエルが一端引き取ったカタチを取り、後に改めて日本へ輸送する。



日本は非核三原則、アメリカにも容易に核兵器原料を持出せない法律がある。

だが、そこはゴロツキども、法なんて守るつもりはサラサラない。



だが、イスラエルは一端持ち込んだ核原料を純度の低い他の原料と差し替えた。

日本はニセモノを掴まされた。



だが、こんなヤバい話表には出て来ない。



マトモな人間なら、なぜ廃炉廃炉技術もロクに確立しない原発にこだわるのか理解に苦しむ。

だが、マトモでないお歴々の頭の中は核兵器原料が飛ぶように売れる幻覚がクルクル回っている。

だから、持てる予算のあらん限り、純度にこだわって製造を続けたいのである。



で、今日、悪夢再び・・・である。





子孫が死んでも再稼働



人間はつくった武器を試したがる生き物である。

特にサイコパスには歯止めがない。



北朝鮮はマジでヤバい。

偽総理一派は(明治維新勢力)は、この争乱に一枚かんで、漁父の利を狙う。



彼らの悲願はこのまま日本支配を継続すること。

しかし、頼みのカバール勢力は駆逐されつつある。



明治維新勢力は発足以来、カバールにおんぶに抱っこ。

急遽宗旨替えをして、何はともあれ日米同盟の表向きの体裁を整えることには成功したかに見える。



だが、それだけではいかにも不安。

なんとしても北朝鮮争乱に乗じて自衛隊を大規模に動員したい。

何となれば秘密に蓄えた核装備を実践で使い、自前の技術のお披露目をしたい。



既に訓練は始まっている。

アメリカにしても、トランプ大統領に忠誠を誓いつつ、実際は軍部独走でカバール復権を狙う勢力が皆無ではない。



沖縄を自衛隊(帝国軍復活)の要塞にしたい明治維新勢力があらゆる民意を無視するのはそのためである。



第二次偽総理内閣が国外へ大盤振る舞いした資金は、予定通りなら特別会計に還流して来る。

この財源を使いながら引き続き国内を統治、できることなら南北朝鮮統合利権に喰い込みたい。



元々は中国を刺激して中間戦争、中日緊張が望ましいが中国はそれほど間抜けではない。

こうなれば朝鮮半島(明治維新勢力に取っては故郷)で大暴れするしかない。



そのために、偽総理は共謀罪とか、その他モロモロの国民主権剥奪法案の成立に血道を上げてきた。

さすがに核原料の需要期が既に過ぎ去ったことくらい学習して欲しいものだが、一度入ったスイッチが石頭の中で固まっている。



日本の支配権だけは何としても手放す訳にはいかない・・・ジミン党の悲願?

その絶好のチャンスを目前にして、籠池問題で揺さぶられている場合ではないのである。



ところが、もはや八方ふさがり・・・。w





日本の民族心霊(カラス天狗)がモデルか?

怪獣ガッパ・・・中央集権、踏んづけちゃってください。



ま、冗談はホドホドにして欲しい、命脈はとっくに終わっている。



随分前から、世界は次世代とつながる6次元主導のタイムラインに入っている。

ある意味、役に立たない(足手まとい)のアストラル体の処分は終わっている。



連中の霊性の活性は著しく低下し、良いことも悪いことも区別すらつかない状態で生きている。

それが永田町や霞ヶ関辺りに固まって生息している。



日本は何処に逃げてもある程度の被曝は避けられないが、元々霊性の活性が低い生命体は、被曝によってアストラルレベルが真っ先に壊れる。

なぜなら、被曝程度はメタボリズム(代謝力と免疫力)次第である。

同じ条件で被曝しても、人によってダメージが違う。

ま、若いほどメタボリズムが健全なのはいうまでもない。

そして、それは霊性の健全性とリンクしている。

今のところ、これを証明できるソースはないので、当ブログ管理者の独断ではあるが・・・。



いずれにしても、明治維新勢力の日本支配なんてつまらない野望は1ミリも価値がない。

そんなモノにいつまでもつきあうのは時間の無駄である。



ジミン党的存在そのものが凶暴罪。

死んでから分かっても手遅れ、生きているうちに自首するくらいの了見があれば、そもそもジミン党なんて止めている。



悪い奴ほどよく眠るは噓。

悪い奴ほど自滅する・・・が、正しい。

ま、中央集権、官僚共々、さっさと消えて欲しい。
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竹内洋岳 ヒマラヤ8000メートル峰全14座を登りきる 山でもらった命だから山で使う。竹内は穏やかな表情でそう言い切った。

2017-03-17 19:17:55 | マラソン・駅伝関係
2012年5月26日、夕暮れの迫る17時30分。竹内洋岳は標高8167メートルのダウラギリ山頂に辿り着いた。1995年に24歳で8463メートルのマカルーの頂に立ってから17年の年月をかけて、ヒマラヤ山脈の8000メートル峰14座すべてを登りきった瞬間。世界では14座の登頂は30人近くが達成しているが、日本では最強の登山家と言われた山田昇も9座目に登った後で遭難死、この志を継いだ名塚秀二も10座目のアンナプルナで命を落とすなど、これまで10座の壁に阻まれてきた日本の山岳界にとっても呪縛から解放された瞬間だった。

竹内洋岳(たけうちひろたか)は、日本人で初めて8000m峰の全14座に登頂したプロ登山家である。2012年5月26日にダウラギリ(8167m)に登頂したことで、地球上にある8000m峰全14座を登り切ることに成功した。竹内は『日本人初の8000m峰全14座登頂の記録』について、9座まで登頂した後に亡くなった山田昇(やまだのぼる,1950-1989)・名塚秀二(なづかひでじ,1956-2004)に続いて全14座を登ろうとした日本人がいなかったことが、自分が初になれた最大の理由だと語る。また、現代の軽量かつ高性能な登山の道具や世界の高山に関する豊富な情報があったからこそ、自分は全14座登頂を成し遂げられたのだと謙遜した口調で語っている。

登山の行為のうち、この14座登頂がいかに偉業かというと、それはあのローツェ南壁登攀の次くらいの難易度といえばその凄さが容易に分かると思う。…分からんか。

竹内洋岳という登山家の異常なまでのタフネスと身体能力の高さ、高度順化のスムーズさが印象的であり、6000~7000メートルくらいの高所で阿蘇・中島が『高度順化による体調不良』に喘いで寝込んだり苦しんだりしている時に、竹内氏だけはピンピンとして元気な様子なのである。
中島氏から見た竹内洋岳の最初の印象は、『普段は何もトレーニングをしてなさそうだし、見た目もヒョロヒョロしているし、本当に山に登れるのだろうか?』というものだったそうだが、実際にチョー・オユー登山を一緒にしてみると『竹内氏の高度順化の早さ・歩く登る速度の速さ』が超人的に並外れていて驚かされている。チョー・オユーの頂上はだだっ広い台形上でどこが頂上なのか分からないくらいの広さだというが、竹内氏は頂上からC2へ降りる途中で『道迷い』をしてしまう。8000mの高さでの道迷いだから、下手をすれば死んでしまう致命的なミスであり、実際、竹内氏は丸二日間、若干の睡眠を取りながら歩き続けてバテバテになってC2に帰ってきた。
仮眠を取っていた場所で顔見知りのシェルパに会って下山を急かされなければ、竹内氏は落命していた可能性もあるが、ここで竹内氏を救ったのは『偶然の幸運』と『400mを登り返すという判断』だった。竹内氏は道に迷って何度も幻覚に襲われて、右足が凍傷になりながらも、何とか生還して最後のダウラギリに挑むことになった。普通の登山でも自分が道迷いをしたかもしれないと思って、来た道を引き返してもう一回登り返すというのは『面倒できつい判断』であり、ついつい『もう少しこの道を歩いたら降り口が見つかるんじゃないか』という甘くて楽な判断に傾いてしまう。しかし、この時の竹内氏がその甘くて楽なほうの判断をしていたら、それ以上進めない場所で行き詰まってしまい命を落としていた可能性が高いだろう。

 8000mを越える高さは、「デスゾーン」と呼ばれ、酸素濃度は平地の3分の1だし、低温、気候等、とうてい人間はおろか生物の存在できるところではない。
 それでも、先鋭的登山家は自然の摂理を無視して、デスゾーンを突破して8000m級の山の登頂に立つ。
 当然に危険極まる行為であり、死の危険が高い。
 8000m級の山に挑戦したさいの死亡率は、wikipediaに詳しくのっているけど、(→ここ)、登山術が発達した1990年以後の記録では、死亡率の高い順に、カンチェジュンガ 22% アンナプルナ 19.7% K2 19.7% と5人に1人が亡くなるというハード極まる山が並ぶ。近年観光化されフィックスロープが張り巡らされたエベレストでも4.4%の死亡率だ。
 確率計算でいえば、14座登って、命を失わずに下山できる可能性は約20%。10人トライして、2人しか成功しないという低い確率。しかもここでの失敗は、すなわち死ということであり、あらゆるスポーツでも死亡率80%なんて無茶な競技はこの「ジャイアンツ14座登頂」くらいなものである。しかもそれに挑む者はトップレベルのクライマーばかりなのであり、その10人のうちの2人しか成功できないというのは、とんでもない難事業なのであって、これを達成できたことは、すなわち国家表彰レベル、国民栄誉賞を与えていいくらいの偉業なのである。
 じっさい、竹内氏のパートナーで一足先に14座登頂を達成したラルフ・ドゥイモビッツ氏は表彰を受けている。

 ところで、竹内氏は日本人初のジャイアンツ14峰登頂者である。

14座 竹内洋岳
 9座 山田昇 (故人)
     名塚秀二 (故人)
     田辺治 (故人)
     近藤和美
 8座 加藤慶信 (故人)
     谷川太郎
 7座 山本篤
 6座 尾崎隆 (故人)
     宮崎勉
     後藤文明
     三谷統一郎
     高橋和弘
     北村俊之
     天野和明


Hirotaka Takeuchi

竹内洋岳は、『マカルー→エベレスト→K2→ナンガパルバット→アンナプルナ→ガッシャブルムⅠ峰→シシャパンマ→カンチェンジュンガ→マナスル→ガッシャブルムⅡ峰(雪崩遭難に見舞われて背骨・肋骨を骨折する大怪我をしたが1年後に再度挑戦して登頂)→ブロードピーク→ローツェ→チョー・オユー→ダウラギリ』という順番で8000m以上の高山の全14座に登頂している。

ピンキリである8000メートル以上の高山の登山費用についての話も興味を惹かれるが、無酸素でシェルパを使わず、特別な道具も新たに調達しないという条件であれば、“100万円前後”くらいで8000m峰にチャレンジできるのだという。

13座目のチョー・オユー登山では、それまで長年パートナーを組んでいたラルフ・ドゥイモビッツ(1961-)とガリンダ・カールセンブラウナー(1970-)が既にチョー・オユーとダウラギリに登っていた事もあって、ブログで新たに別のパートナーを募集することにした。ネパールの首都カトマンズに集合・解散で、年齢・性別・経験は不問、資金はなければ貸し付けも可能という条件で、竹内洋岳はチョー・オユー登山のパートナーを募集したのだが、8000m峰でこういったパートナー募集は異例の試みだろう。

無論、竹内洋岳氏らが挑戦している低コストのアルパインスタイルの8000m峰の登山は、一般的な登山家が容易に真似できるものではない、シェルパもつけず酸素ボンベも持たないという厳しい条件だと、日本の3000m峰の冬山にある程度登り慣れている人でも恐らく無理なのではないかと思う。



 14座を狙っていた日本のクライマーには、山田昇、田辺治といった世界に誇るモンスター級の登山家がいた。山田昇は「史上最強の登山家」が代名詞であったし、田辺治はローツェ南壁の登攀成功者である。彼らは14座登頂の十分な資格者だったはずなのだが、残念なことに9座登ったところで、遭難死を遂げてしまった。
 9座というのは、日本の山岳会にとって嫌なジンクスとなり、この二人に加え、9座を登った名塚秀二も、9座登ったところで遭難死しており、そして竹内氏も10座目に狙ったガッシャブルムII峰登山中に雪崩に会い、瀕死の目にあっている。
 しかし氏は、破裂骨折した脊椎にボルトを埋め、懸命のリハビリを行い、1年後に同峰登頂のリベンジに成功している。まさに不屈の精神の持ち主だ。

 8000mを越える山の世界では、猛威を振るう大自然の前に、人間などほんとうにちっぽけな存在である。大自然のほんの気まぐれで、あっさりと人間は死んでしまう。じつに過酷な世界だ。
 けれども、それを当然のこととし、それでも己の精神と肉体を鍛えに鍛え、その神々の領域の世界に挑み、そして神の世界に届くような難行を成し遂げる人間がいる。



――達成感や満足感に浸ることはない、ということですか?

 「ダウラギリの頂上は、そうですね、このテーブルくらいかな」

 竹内が指したテーブルは、ほぼ畳一畳分くらいの大きさである。

 「風が強かったし、頂上にいたのは2、3分くらいだったと思います」

 最終キャンプから頂上まで15時間以上かかっているのに、たった2、3分?

07年、竹内自身、まさに日本にとっては鬼門の10座目のガッシャーブルム2峰で、雪崩に遭い300メートル流され、背骨の破裂骨折、肺が潰れ、肋骨5本骨折という瀕死の遭難事故を経験している。300メートルといえば東京タワーのてっぺんから落ちるようなもの。生還が奇跡のような大事故で、この時、一緒に登っていた2人の仲間が命を落としている

プロの覚悟を定めた翌年にガッシャーブルムでの大事故に見舞われたわけだが、その覚悟に揺るぎはなかったという。だから、治療法も再び山に登れる可能性に賭けて最先端手術を迷いなく選んだ。そして、1年後に同じガッシャーブルム2峰に挑んでいる。事故の記憶が生々しい山は後回しにすることもできたのに、あえて同じ山に同じルートで登る。

 「僕の山登りは、自分の足で登って自分の足で下りること。本来、自分の足で下りてないことは死んでるということなのに、自分の足で下りてないのに生きていることがどうしても納得できなくて。体も痺れが残っていて十分ではなかったけれど、這ってでもいいから事故現場までは行きたかった。身勝手な決着のつけ方ですが、そこからもう一度自分の足で下りる。同時に、雪崩をなぜ避けられなかったのかわかるのではないか、亡くなった二人の仲間を感じることができるかも、そんな思いもありました」

ガッシャーブルムを後回しにすることはできなかった。でも、登り直しても何も変えられないという山の現実の中で、いくばくかの期待も感傷も打ち砕かれて、竹内の覚悟は強靭さを増したと言えるのかもしれない。自分が今生きている不可思議さは、遭難した時に近くにいた各国の登山隊を初め多くの人たちが、自らの危険を顧みずに救助活動にあたり、ヘリでの輸送や帰国までのすべてに力を尽くして命を繋ぎ止めてくれた結果なのだと改めて実感することで、素直に受け止められた。

 「彼らは“ミッション”だと言いました。普段軽く使っちゃいますが、まさに使命。命と引き換えなんですよね。自分は本当はあの時に死んじゃってて、みんなから命を少しずつ分けてもらったんだと思いました。助けてくれた方々へのお礼は、14座を登りきることでしか返せない、ああ、あの時のアイツ、山をやめずに登ったんだなって見てもらうしかない」


 「8000メートル級の山の頂上って本当に生命感のない、非常に危険だということがヒシヒシと伝わってくるところなんですよ。頂に到達した時に最初に思うことはね、その先には空しかありませんから、ああ、もう登らなくていいんだという安堵感。で、次に感じるのは恐怖感です。明らかに生き物が生きていける場所じゃない。生き物の自分がそこにいることがあまりに不自然に思えて、怖くなってくるんです。だから早く下りたいと思う」

ダウラギリはとてもいい山で、昔から登りたかった山でもあります。何といってもカッコいい。でも、到達したら、早く離れる。生命の危機を感じる者こそが、頂上から帰って来られるのではないでしょうか。「クライマーズ・ハイ」という言葉がありますが、達成感や満足感が頭のなかに涌き出たら、正確な判断のできない危険な状態だと私は思います。
いまのところはそういうことがなくて、それゆえに私は登れたのではなく、降りてこられました。ベースキャンプへ帰ってこないと、そこまで降りてこないと、次の山には登れません。登って降りる、を繰り返していかないと、14座は登り切れない。ですから、登れたのではなく、登って降りてこられた、というのが私の感覚です。


生と死が隣り合わせる極限の世界で、竹内洋岳は挑戦を続けてきた。自らの限界に挑み、逞しくも笑顔で乗り越えてきた。
今年5月、世界に14座ある8000m峰──そのすべてがヒマラヤにある──の完全登頂を、竹内は日本人で初めて成し遂げた。1995年のマカルー登頂から18年に及んだチャレンジはついに幕を閉じ、地球上で29人目の〈14サミッター〉が日本から誕生したのだ。
竹内が成し遂げた快挙は、登山界はもちろん日本中を駆けめぐった。興奮と感動を巻き起こした。
ところが、本人は意外なほどに冷静なのである。
「日本人初ということには、意味さえ感じません」と語るのだ。
プロフェッショナルマウンテンクライマーの胸中で、いま膨らんでいる思いとは。

 日本山岳界の悲願ともいうべき世界の8000メートル峰、最後の14座目を目指していたプロ登山家の竹内洋岳(ひろたか、41歳、ICI石井スポーツ所属)が26日、ネパール北部のヒマラヤ山脈のダウラギリ1峰(8167メートル、第7位)登頂に成功し、超人ラインホルト・メスナー(イタリア)以来、世界で29人目の「14サミッター」に、日本人として初めて名を連ねた。 

 今年のヒマラヤは天候が不安定で、長くBC(ベースキャンプ=4700メートル)に停滞を余儀なくされたが、それから解放されるかのように、23日早朝、竹内洋岳とカメラマンの中島ケンロウが元気に出発した。

■足かけ18年、世界29人目の快挙

 途中C2(キャンプ2、6600メートル)からC3(7200メートル)に向かって6800メートルにさしかかったところ、中島が体調不良を訴え、チョー・オユーに続く登頂はならず、下山した。

ここからは竹内が単独で頂上を目指すことになった。C3に25日14時20分到着。山岳気象のスペシャリスト「ヤマテン」の猪熊隆之から「26日の風はこの数日でもっとも弱い状態になる」との朗報が入っていた。

 竹内は順調に高度を稼いで26日についに頂上に立った。C3を午前1時半に出発し、頂上にたどりついたのが午後5時半。16時間がかりのアタックだった。14座目の頂上は風が強く、視界が悪かったという。

 1995年のマカルー1峰登頂から足かけ18年、14座最後となるダウラギリ峰の無酸素登頂を果たし、感激もひとしおだろう。

14座登頂の意味

――14座完全登頂というのは、やはり大きな意味を持っていますか?
記録としては、すでに「いまさら」のものです。イタリア人のラインホルト・メスナーが14座完全登頂を初めて果たしたのは、いまから25年近く前の1986年です。世界中で30人近い登山家が達成していて、記録としての珍しさもない。私自身、14座を達成した登山家を、何人も間近で見てきました。私はすべて無酸素での登頂ではありませんし、記録としては平凡です。
1989年に亡くなられた山田昇さん※が達成していたら、年代的におそらく世界で3、4人目になっていたと思います。私の記録より、もっと大きな意味があったはずです。しかし、すでに多くの人が達成しているいまでは、日本人初という意味さえあまり感じません。すべて人間がやることなんですから、国籍をどうこう言うようなものでもない気がします。
しかし、日本人にとってはすごく、すごく特別な記録であることは確かです。世界的には「いまさら」な記録を、日本人がいまだに達成していないのはそもそも大問題で、私はそれが悔しくてしかたがなかった。マナスルを初登頂したのは日本隊なのに。14座に挑戦できる環境に身をおいているゆえに、本当に悔しかったのです。

いまとなっては、山田さんや名塚秀二さん※らの14座を目ざして命を落とした皆さんのことも、忘れられてしまうような気がしていました。命を賭けるというのは、崇高なことだと私は思います。山田さんや名塚さんの功績が忘れられ、それどころか日本人が14座を達成していないことから目を背けるような様子が、私には悔しくして腹立たしくてしかたがなかったんです。ならば私が、と思ったのは事実です。

※山田昇…1950年生まれ、ヒマラヤ登山家。8000m峰9座に12回登頂。1989年に冬季マッキンリー登攀中に遭難死。
※名塚秀二…1956年生まれ、ヒマラヤ登山家。8000m峰9座に登頂。2004年、10座目となるアンナプルナⅠ峰に挑戦中、雪崩により死亡。
――最初から14座を目指していたわけではなかったのですね?
最初から、ではありません。違いました。ドイツ人のラルフとオーストリア人のガリンダというパートナーに出会い、「3人で14座達成しよう」と決めたときに、日本人初の14座サミッターになり、山田さん、名塚さんらの先人の功績が少しでも振り返られる状況を作りたい、と。そういうことも含めて、14座というのは、私にとってすごく大切な、特別なものです。それが、やっと、終わりました。

――2007年にガッシャブルムⅡ峰で、雪崩に巻き込まれて背骨を折る大ケガを負いました。それでも14座への挑戦を続けた原動力とは?
いや、特別な原動力はあまりないですよ。本当なら私はガッシュブルムで死んでいたわけです。たまたまそこにいた多くの人たちが助けてくれたから、いまもこうしてここにいる。私の命は、彼らに新しくもらったもの。山でもらった命です。だから、山で使い切っていいと思うんですよ。

――それにしても、再び山と立ち向かう際に、恐怖心はなかったのですか?
いやあ、ないですね。人間ですからどこかにあったかもしれませんが、それを上回るぐらいに登りたい意思があったと思います。自分で登って降りてこないと、山登りにならない。ガッシャブルムは、自分で降りてきていない。私が考える登山になっていなくて、それが気持ち悪くて腹立たしかった。
自分なりの勝手な決着のつけ方ですが、せめて事故があったところまで行って、自力で降りてこないと、どうにも納得がいかなかったんですね。それをしないで生きていくのはおかしい、と。それだけに、ガッシャブルムを登り直した際には、得も言われぬ感情が沸き起こってきました。

――どんな感情が爆発しましたか?
泣きました。涙が出た理由はひとつではなく、悲しい、痛い、悔しい、嬉しいといった感情の発露として泣いたわけでもなく、いっぱいになった頭のなかを整理するために、泣くという行為をしたのかしれません。

――ケガからほぼ1年後の登頂は、「奇跡的な回復」とメディアに伝えられました。
それは大げさです(笑)。翌年にもう一度ガッシャブルムへ行くとなると、必然的に時期は決まります。登山ができる時期は、限られていますから。リハビリが間に合わなくても、日本を出ちゃおうと思っていました。1年でパーフェクトな身体になるとは思っていなかったですし、這ってでも行くつもりでしたので。
まずはとにかく、ベースキャンプまで辿り着く。ベースキャンプへ着いたら、次はキャンプ1を、その次はキャンプ2を目ざす。山頂への過程も含めて、リハビリという理解でした。
事故のダメージがちゃんと抜けたのは、去年ぐらいでしょうか。ただ、事故前の身体とは違います。日常生活に支障はなく、山でも特別な問題はありませんが、指先まで神経が通っている感覚は、右足と左足では異なります。背骨の骨折とは別に、肋骨が変形治癒しているのもありまして……(といってシャツをめくり、右手で肋骨を示す)。

――あっ、左側の肋骨がポッコリと浮き上がっていますね。
飛び出しているような感じでしょう? 息が荒くなると痛んでくるんです。事故翌年のガッシャブルムではあまり気にならなかったんですが、09年のローツェは標高がガッシャブルムより500mほど高いので、どうしも呼吸が乱れるんです。そうすると、痛くて、痛くて。手で抑えて胸が開かないようにしたら、余計に苦しくなったり(笑)。

――苦しみという意味では、今回のダウラギリではビバークをしましたね。下山時に日が沈み、キャンプ3へ戻るルートが見つけられなかったそうで。
キャンプ3から頂上を目ざしているときから、たとえ遅くなっても今日のうちに山頂へ行き、帰りはビバークも有り得ると覚悟を決めました。ですから、登る途中でビバークできそうなところをいくつか探しておきました。山登りは想像のスポーツで、色々なことを想像して楽しむんですね。いかに他方向に、多重に想像できるかを山のなかで競い合う。いっぱい想像した者が、いっぱい楽しめる。
大きくいえば、あの山のあのルートを、あんなふうにして登りたい、という想像からすべてが始まっているのかもしれません。誰も登っていない山の、誰も登っていないルートを、誰も登っていない方法で登る。それを思い描けた者が、実際に行ける。想像力を競争している、ともいえるでしょう。

日本の登山は14座の呪縛から自由に


ダウラギリのC2、6600m付近。撮影:中島ケンロウ


――これからの目標も、すでに描いているのでしょうか?
どこまで登山を続けていけるのかに、私は挑戦しています。そのなかにきっと、14座があったんです。死なずに続けられたからこそ14座に到達したのであって、14座を登り切ったとは思っていない。地球上には無数の山があるわけで、裏返せばまだその14コしか登っていません。登り切ったとは、とてもじゃないですが言えないですよ。いままでも好きな山に登ってきたので、これからも好きな山に登るのかなあ。いずれにしても、ここから先は新しい登山のスタートです。

――と、いいますと?
14座をやり残してきたがゆえに、日本には“古い登山”が残ってしまっていたと私は考えています。古いものが混じった増築の登山ではなく、これからは新しい登山、新しい14座がスタートしていいでしょう。
たとえば、私はマカルー、エベレスト、K2で酸素を使っていますから、次はすべて無酸素の14座に挑むとか、ノーマルノートではなくバリエーションルートで14座を目ざすとか、そういうことをやってみたいと思う人が出てきたらいいですね。
私はこれで、過去の人間になっていきます。古い時代は終わりました。「竹内洋岳」ではなく、14座とかヒマラヤが、人々のなかに残っていけばいい。地図帳でしかみたことのなかったヒマラヤに行ってみたい、せめてカトマンズの街まで行ってみたい、できたら自分も登山をしてみたい、といった人が少しでも増えてくれたら、というのが私の願いです。
今回こうして取材を受けているのも、私がヒマラヤの話をすることで、8000mの山々を立体的に感じる人がいるかもしれない。私は幸運にも14座への挑戦を続けることができました。恵まれた環境にいるわけですから、これは義務でも使命でもなく、続けられた者がなすべき役割だと思っています。

――そうした啓蒙的な活動と並行して、登山も続けていくわけですよね?
組織に属していないといけない、お金がないと行けないというのが、1990年代までの古い登山でした。でも、実際には来週行くことだってできるんです。サッカーだって、国内を飛び出して世界でプレーしている選手がいるじゃないですか? あれと同じです。現代の登山は、ずっとずっと自由です。だからこそ、どんどん行ってほしいと僕は思っています。
ベースキャンプなんて、壮大な秘密基地ごっこですよ。何を持っていこう、何をして遊ぼう、テーブルクロスは何色にしようかなあ、どんな絵を飾ろうかなあ、なんて考えるのは、最高に楽しいじゃないですか!






世界8000m峰完登者一覧
 全ての8000m峰の登頂に成功した最初の人物はラインホルト・メスナーで、1986年10月16日に達成した。その1年後、イイジ・ククチカが2人目の達成者となった。日本人では2012年5月26日、竹内洋岳が世界で29人目の日本人初の達成者となった。
名前 達成年 国籍
1 ラインホルト・メスナー 1970-1986 イタリア
2 イイジ・ククチカ 1979-1987 ポーランド
3 エアハルト・ロレタン 1982-1995 スイス
4 カルロス・カルソリオ 1985-1996 メキシコ
5 クシストフ・ヴィエリツキ 1980-1996 ポーランド
6 フアニート・オヤルサバル 1985-1999 スペイン
7 セルジオ・マルティーニ 1976-2000 イタリア
8 朴英碩(パク・ヨンソク) 1993-2001 韓国
9 厳弘吉(オム・ホンギル) 1988-2001 韓国
10 アルベルト・イニュラテギ 1991-2002 スペイン
11 韓王龍(ハン・ワンヨン) 1994-2003 韓国
12 エド・ベスターズ 1989-2005 アメリカ
13 シルビオ・モンディネッリ 1993-2007 イタリア
14 イバン・バレーホ 1997-2008 エクアドル
15 デニス・ウルブコ 2000-2009 カザフスタン
16 ラルフ・ドゥイモビッツ 1990-2009 ドイツ
17 ベイカー・グスタフソン 1993-2009 フィンランド
18 アンドリュー・ロック 1993-2009 オーストラリア
19 Jo?o Garcia 1993-2010 ポルトガル
20 Piotr Pustelnik 1990-2010 ポーランド
21 エドゥルネ・パサバン 2001-2010 スペイン
22 Abele Blanc 1992-2011 イタリア
23 Mingma Sherpa 2000-2011 ネパール
24 ゲルリンデ・カルテンブルンナー 1998-2011 オーストリア
25 Vassily Pivtsov 2001-2011 カザフスタン
26 Maxut Zhumayev 2001-2011 カザフスタン
27 Jae-Soo Kim 2000-2011 韓国
28 マリオ・パンツェリ 1988-2012 イタリア
29 竹内洋岳 1995-2012 日本
30 金昌浩(キム・チャンホ) 2005-2013 韓国
31 ラデック・ヤロス 1998-2014 チェコ
<参考>
 代表的な日本人登山家
 ・山田昇   8000m峰9座に延べ12度登頂
 ・名塚秀二 8000m峰9座登頂
 ・田辺治   8000m峰9座登頂
 ・小西浩文 8000m峰のうち6座を無酸素登頂
 ・戸高雅史 8000m峰のうち5座を無酸素登頂

もっとも、18年かかったといっても、竹内の意識のなかでは、2001年の4座目のナンガパルパットから彼の本来の登山が始まっている。

 10人ばかりの国際公募隊に誘われて参加した。費用をシェアし、お互いをファーストネームで呼び合うフランクな関係に竹内は組織登山にはない喜びと自由を見いだす。

ここで山岳会などの大がかりな組織登山と「離別」した。無酸素登頂も彼らのスタイルでは当たり前で、ここからすべて無酸素登頂となる。

 オーガナイザーのラルフ・ドゥイモビッツ(50、ドイツ)は、竹内の実力をすぐに認めパートナーとして欠かせない存在となる。

 彼らとパーティーを組む。「メールが来て、山が決まり、カトマンズでの集合日時だけで、それで出発」。ヒマラヤは遠いところでなく、来週行こうと思えば行ける山だという。そうして先鋭的登山に生まれ変わり、彼らの中でもまれて共通の目標が「14サミッター」となったのだ。

 そのラルフは09年に達成、彼の妻のガリンダ・カールセンブラウナー(41、オーストリア)も昨年達成した。

■「『征服』と言わないでください」

 「14座を征服した竹内」と書きたいところだが、竹内はそれをよしとしない。

 「征服などという言葉には、自然に対して人間の増長した気持ちが込められている。私はそんな気持ちで登っていない」と。だから、「頂上に立ったと書いて下さい」と真面目な顔で注文されるのだ。

冷静沈着、素直で純粋な心を持ち続ける面は冒険家植村直己のようである。半面、軽妙快活なブログにファンは多く、愛されるプロクライマーとして新しいスタイルを築いている。

 シェルパも酸素も使わない少人数の先鋭的なスタイルは一度の遠征で複数の山頂を狙う「高峰継続登山」などを可能にしている。目指すのはよりコンパクトでシンプルな究極のスポーツ登山だ。

 07年、10座目となるガッシャーブルム2峰の7000メートル地点で雪崩に巻き込まれ300メートル落下した。腰椎と片肺がつぶれ、肋骨も5本折れた。生還したのは奇跡と言うしかない。

 10座目は日本人にとって大きな壁となって立ちはだかっていた。最強のアルピニストといわれた山田昇、名塚秀二、田辺治が相次いで10座目にたどり着かず命果てている。竹内が、「14」をあえて意識するようになったのは、彼らの悔しさを引き継ぐ決意をしたこともある。

 東京に搬送され入院1カ月。パートナーの2人も巻き込まれ亡くなったことで「なぜ私が生き残って彼らが死んだのか」と苦しみ抜いた。

■300メートル落下の事故乗り越えて

 翌年、「自分の心を拾い上げ、そこから一歩踏み出す」ために、再度、落下した同じ山に挑み、連続で11座目のブロードピークにも立っている。

 頂上で相棒のフィンランド人のベイカー・グスファッソンと抱き合い号泣した。「私だけの登頂ではない。いろんな人が押し上げてくれた」という感謝の思いがこみ上げて山で初めて涙を流した。14座達成時も思いは同じだろう。

 竹内の成功の陰には山岳気象を専門とする「ヤマテン」代表の猪熊隆之の存在がある。天候不順のため登頂予定が二転三転したが、「5月にこれだけ強いジェット気流が長く停滞するのは異例。当初の25日はおすすめできない」と判断。28日以降も考えられたが、それは「気温上昇によるルート崩壊等のリスクもある」ため、26日を選んだ。

 その日は、強いジェット気流も弱まるという予想。ヒマラヤの天候をピンポイントで予報するその能力に、登山家の絶大な信頼が寄せられている。世界にも誇れる異能の二人三脚でさらにスピーディーで新たな冒険の世界が開けるだろう。


たけうち ひろたか 1971年生まれ、41歳。東京都出身。立正大卒。プロフェッショナルマウンテンクライマー。ICI石井スポーツ所属。身長180センチ、体重65キロ。祖父の影響を受けて幼少からスキーと登山に親しむ。高校、大学で山岳部に所属、登山の経験を積み、20歳でヒマラヤの8000メートル峰での登山を体験。95年にマカルーの新ルート、東稜(りょう)下部初登はんで頂上に。96年はエベレスト、K2の連続登頂などで力をつけ、2001年からは各国の少人数の国際隊を組み、酸素やシェルパを使わずにアルパインスタイルを積極的に取り入れた速攻登山で8000メートルII峰を攻略していった。しかし、07年のガッシャーブルム2峰で雪崩に巻き込まれ腰椎破裂骨折の重傷を負った。再起も危ぶまれたが、1年後に同峰に再び挑み登頂に成功した

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彼らの免疫力は最強。 まかり間違ってもアレルギーなどあり得ない。

2017-03-14 19:22:35 | いろいろ

多くの日本人がアレルギーで苦しんでいる。

無理もない、衛生観念が逆さまである。



彼らは当たり前の常識を無視して、サイコパスの言うことを忠実に守る。

マスゴミや人殺し企業の宣伝文句にコロッと騙される。

その扱いやすさはまるでカルト信者。



除菌殺菌環境は最も不潔。

除菌殺菌が衛生的とはヘソで茶が沸くお話なのだが・・・。



家中のバイ菌を駆除できると本気で信じるのか?

カビは?

ダニや目に見えないサイズの生き物は?

完璧な駆除は不可能。



それどころか、酸性環境に強い微生物界のサイコパスを純粋培養しているようなもの。



なんとなれば無菌室で暮らす?

でも、二度とそこから外界には出られない。

それでは死んでいるのと同じ。













フィリピンの山村には、およそ半世紀前の日本が残っていた。

それは子どもの暮らしを見るとよく分かる。



どんな遊びをしているか。

どんなものを食べているか?

家族や兄弟、親戚やコミュニティーの様子。



もちろん、裕福な家族もいればかなりギリギリの家族もいる。

ずっとそこに住んでいる人もいれば、別の場所から流れてきた家族もいる。



マニラ首都圏から南へ百数十キロ。

都市化の波がちょうど停滞するボーダー上に位置する。



普通の日本人の感覚でいえば、恐怖を感じるレベルの衛生環境(かも知れない)。

もちろん、これも個人差があり、東京の人は尻込みするが地方の人は当たり前。

丹波篠山から来た若い女子大生は初めてにも関わらず、まったく躊躇なく地元の子どもと遊びだす。

水牛や豚は普通に泥水のプールでご休憩。

周囲の泥水は糞尿まみれ。

もちろんケモノの匂いがプンプン。







乾期は粘土質の砂埃が舞う。

雨期は膝まで泥沼。



午後二時頃、早速、酒盛りを始めるオヤジ連中の足下には犬、猫、鷄が屯する。

酒の肴をポイポイ捨てるので、そのご相伴にあずかりにくる。



なんてお行儀の悪い、なんてモノの見方は菅監房腸管。

「そのご指摘は当らない」。

残った食べ滓もみな、ポイ捨てするがトカゲや昆虫が片付ける。

それを目当てに鳥や肉食昆虫がやってくる。

翌朝、その場所はキレイに片付いている。



朝早くから農作業。

学校へ行かない子どもが一番キツい仕事をしている。

糞尿まみれの土ぼこりを吸って午前中一杯ヒーヒー言って働く。

終われば飯がたらふく喰えて、こずかいが貰える。



心得たもので彼らは井戸水でキレイに身体を洗い、先に洗って小枝に干しておいた生乾きのボロボロのTシャツを着る。

みな痩せているが、引き締まったいい身体をしている。



草刈り、防除のための野焼き、水まき、家畜の世話・・・。

どれもこれも実際やれば分かるが、相当な重労働である。



彼らの免疫力は最強。

まかり間違ってもアレルギーなどあり得ない。


自分さえ良ければ他人はどうなってもいいサイコパスは、役に立たない人間に苦しみを与える。



道具には事欠かない。

インフラ依存、農業を汚染し、都市をバイ菌の天国に改造。



そして、お手軽なバイ菌信仰を広める道具のひとつが化学合成洗剤。

花王、ライオン、その他モロモロの化学合成企業がグングン成長した。



アレルギー、アトピーがビジネスになる。

当然の帰結、何処で免疫力を鍛えればいいのか?



田んぼは農薬、畑は除草剤、山川は危険が一杯、海も汚染されている。

治療と称して、むしろ症状を悪化させるマッチポンプ。



学校と塾と家庭、室内遊びが子どもの世界?

衛生的な食品には緩慢な毒殺因子が混ぜ込まれている。

免疫力を阻害する要因には事欠かない上に加えてワクチンまで・・・。w



ま、それ以外の成人病も似たようなものだが、肝心要の免疫力が脆弱なら、何をやっても体調が優れなくて当然である。



除菌殺菌はサイコパス発想。

これに順応した人間はサイコパスの下僕。

まさに植民地奴隷の鏡の人生を送るハメになる。



中性洗剤は使わない。

ファブリーズ?

以ての外。



頭の黒いサイコパスを退治したいなら、遠回りなようでも足下からライフスタイルを見直すことである。



免疫力は子ども時代に培われる。

泥遊び、川遊び、海や山の野外キャンプ。



ところがどっこい、今の日本、おいそれとそれが出来ない環境に囲まれている。

これを何とかするのが大人の仕事(生命環境の再生)である。
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Gerlinde Kaltenbrunner、女性初の無酸素で8000m峰全山登頂

2017-03-01 20:03:21 | マラソン・駅伝関係

オーストリアの Gerlinde Kaltenbrunner が 8月 23日に北陵から K2 に無酸素で登頂し、女性として初めて全ての 8000m峰に無酸素で登頂した女性になりました。彼女は竹内洋岳さんとも過去に何度か登っています。


また、今回は 4人パーティで登っていますが、他の 3名、Vassily Pivtsov、Maxut Zumayev、Darek Zalusk も無酸素での 8000m峰全山登頂を達成しており、これにより 8000m峰全山登頂者は 26名になりました。このうち半分の 13名が無酸素で達成しています。

彼女は K2 へは 4回目のトライとなり、昨年の遠征ではツアーメンバーを亡くしています。ちなみに旦那の Ralf Dujmovits も 8000m峰全山登頂を達成しています。
関連リンク

ゲルリンデ・カルテンブルンナーはオーストリアの登山家。女性として初めて8000メートル峰全14座の無酸素登頂に成功した。酸素ボンベ使用下での8000メートル峰全14座の登頂者としても、2人目の女性登山家となる。名前はガリンダ・カールセンブラウナーと表記されることもある。 ウィキペディア
生年月日: 1970年12月13日 (46歳)
生まれ: オーストリア キルヒドルフ・アン・デア・クレムス

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スーパークライマーを目指せ  ウーリー・ステック 「スイスマシーン」

2017-02-23 16:35:18 | マラソン・駅伝関係
ウーリー・ステック(Ueli Steck、1976年10月4日 - )は、スイスの登山家。
アルプス三大北壁の最速登頂記録を持つ[1]。卓越した登攀技術と常人離れした高所耐性から、「スイスマシーン」の異名をとる。名前はウエリ・シュテックと表記されることもある。

主な登頂記録[編集]
2001年 プモリ西壁初登頂
アイガー北壁"The Young Spider"初登頂
2006年 ガッシャーブルムII峰北壁初登頂
2008年 アイガー北壁ソロ 最速登頂記録・2時間47分33秒
グランドジョラス北壁ソロ 最速登頂記録・2時間21分
2009年 マッターホルン北壁ソロ 最速登頂記録・1時間56分
2011年 シシャパンマ南西壁ソロ 10時間30分
2013年 アンナプルナ南壁ソロ
2015年 アイガー北壁ソロ 最速登頂記録更新・2時間22分50秒[2][3]



2008年2月13日、ほとんどのクライマーがチームを組んで、二日はかけて登頂するアイガー北壁(高さ1800m)に、単独、命綱無しで、わずか2時間47分33秒という驚異的なスピードで登頂した。
2008年5月、アンナプルナを登山中にスペイン人登山家イニャキ・オチョア・デ・オルサ隊の遭難事故が発生した際には、自らのチャレンジを捨て遭難現場に急行。二人のうち一人は救助の甲斐なく死亡したものの、ウーリーの迅速な対応により一名は生還を果たした[4]。この救出活動は後に映画化され、日本でも2014年9月に公開された(「アンナプルナ南壁 7,400mの男たち」)[5]。この活躍が評価され、チームメイトのシモン・アンターマッテンとともに「プリ・クラージュ(Prix Courage)賞」を受賞した。
2012年5月にはエベレストの無酸素登頂に挑戦。登頂予定日には異常高温によるルート崩壊で待機していた登山家の大渋滞に巻き込まれ、デスゾーンで予定外の待機を余儀なくされるアクシデントが発生。同行のシェルパが力尽き撤退する状況の中、ウーリーは登頂に成功して生還を果たした[6]。
2013年4月、エベレストでシモーネ・モロ、ジョナサン・グリフィスと共にシェルパと乱闘事件を起こし、登頂を中止し下山することになった[7]。



トレイルランニング、スカイランニング、あるいはマウンテンランニング。いや、この際呼び名はどうでもいい。山という舞台におけるスピード志向の人たちのあいだで、全世界的にその名を轟かせる人物がいる。



 ウーリー・ステック、39歳(写真=永易量行)。
 あえて肩書を記すならば、ウーリー自身は自らを「アルピニスト」と名乗っている。そしてアルピニズムの世界では当代最強の人物と目されている。だが、そのスタイルは20世紀的なアルピニズムからするとかなりの「異端」だ。ウーリーのスタイルはスピード登山などと呼ばれており、例えば……。

 アイガー北壁。標高4000m近くの高所で、標高差は1800m。マッターホルン北壁、グランドジョラス北壁と並ぶヨーロッパ三大北壁のひとつで、初登攀までに8人もの命を呑みこんだ難関として知られる。1938年に初登攀された際は、都合4人がかりで3日もかかった。それをウーリーは昨年、2時間22分50秒で駆け登った。命綱なしのソロスタイルで。もちろん最速記録である。

 繰り返しになるが、十分な装備を持った登山家がパーティを組み、時間をかけて臨んだとしても、一歩間違えれば命を落とす危険な壁だ。そこをアルパインクライミングの常識からすると圧倒的に少ない装備とウェアで挑む。当然、比類なきテクニックとスピードがなければ成しえない。ピンと来ない人は、Youtubeなどの動画を見てほしい。ウーリーの凄さは、山の素人が見てもすぐ感じ取れる。



 垂直スピードは750m/時を超す。これはトレイルランの登りに遜色のないハイスピード。この速さで、雪と氷に覆われた岩壁を攀じ登るのだ。



「アイガーには今までに40回以上登っています。自分の裏庭のようなもので、遊び場です。昨年の記録達成時は、いちおう記録を狙ってはいましたが、大きなリスクは負わないと決めていましたし、心拍数も最大で165、平均で155ほどでした。しっかり調整して、天候にも恵まれれば、2時間を切れる感覚もあります。
 でも、私は各々の挑戦や達成にランクを付けて、優劣を比べるようなことはしません。例えば去年は他に『82サミッツ』の最短記録を成功させました。これはヨーロッパの4000m峰すべてを、歩き・クライミング・自転車・パラグライダーなど人力移動のみで一筆書きするチャレンジです。このような大きなプロジェクトも、近所のランニングも、そう変わりません。各々で何を感じ、楽しんで、ハッピーになれるかが大事なのです」



「もちろんハードなトレーニングは不可欠です。真剣に準備しますが、どこかでfoolishにもなることが大事です。シリアスになりすぎない、と言えばいいでしょうか。私個人の挑戦が成功しようが失敗に終わろうが、“世界”は変わりませんし、地球は回り続けます。成功しても失敗しても学べることがあります。このような姿勢が困難な挑戦を助けるんです。私は自分の中で一番強いフィジカルパーツは“脳みそ”だと思ってるんですよ(笑)」


 主だった岩壁の初登や名峰のピークはとうの昔に攻め落とされているし、より困難なルート、バリエーションルートからの登攀も、あらかた終わっている。では、現代を生きるクライマーに残された挑戦、冒険は何になるのか。その一つの答えが「スピード」という切り口になるのかもしれない。
 それは、スピーディに山を楽しむアクティビティ=トレイルランニングシーンの盛り上がりとどことなく通じ合うのではないだろうか。実際、ウーリーは2015年にUTMBの姉妹レースのひとつ、OCCの50kmを22位で完走している。欧州のメジャーレース「アイガーウルトラトレイル」ではアンバサダーを務めてもいる。



「トレーニングではトレイルランニングなどの有酸素運動も重視しています。もちろんクライミングスキルを磨くことも重要ですが、近年はランに割く割合を増やしています」と語るが、彼のように「走る」ことを本格的に取り入れているアルピニスト、クライマーは欧米でも少数派だ。でも、それがウーリーのスタイルを支えている。
 そしてあのキリアン・ジョルネとも友人で、モンブランやマッターホルンなどの山に一緒に入る仲だという。

「彼とは気の置けない友人です。麓から一緒に走って、谷を駆け上がり、北壁をクライミングして、また降りてくる、といった遊びをしたりしています。彼にはより優れたランの力があり、私にはより優れたクライミングのスキルがあります。だからお互い刺激し合えますし、年齢は離れていますがシンパシーを感じるんですよ」



ウーリー・ステック
1976年、スイス生まれ。卓越した登攀技術と常人離れした高所耐性から”スイスマシーン”の異名をとる。08年にアイガー北壁ソロを2時間47分33秒という驚異的なスピードで登頂し、一躍注目を集める。同年~翌年にかけてヨーロッパ三大北壁すべてでのソロ登攀最速記録を樹立。近年はエベレストやアンナプルナなど高峰でも活躍。14年、ピオレドール受賞。



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うおお!バン・ニーキルク世界新!!400m43秒03ておい!!100mを10秒75でいく計算!

2017-02-08 21:24:08 | マラソン・駅伝関係

陸上界の新たなスター、ウェイド・バンニーキルク!

100m9秒台 200m19秒台 400m43.03←世界記録

8レーンの配置が好記録につながったのか、シードレーン(4~6レーン)だったら42秒台は達成されたのか!陸上はタラレバがつくスポーツですが、42秒台が現実的になった物凄いレースでした!

リオオリンピックでマイケル・ジョンソンの永久不滅と言われた世界記録を破り、43秒03という驚異的な世界記録で金メダルを取った南アフリカ共和国の「ウェイド・バンニーキルク」選手。

日本のテレビではあまり大きく取り上げられませんでしたが、陸上関係者(特に400mスプリンターの皆さん)の間では、まさに衝撃的ニュースとなりました。

個人的にはウサイン・ボルト選手の9秒58並に衝撃の記録だったと感じているのですが、いかがでしょうか?


世界の他の400m選手と比べても、短い距離でのPB記録が圧倒的に速く、世界で唯一9秒台、19秒台、43秒台を達成した選手です。

これは2016年現在現役である選手だけが対象でなく、これまでの陸上史の中で見ても彼しかなし得ていない大偉業となります。

あのマイケル・ジョンソンですら100m9秒台は持っていませんし、世界最速のボルトですらなし得ていないことです。

それだけ圧倒的優位なスピードを持っているバンニーキルク選手ですが、ただ短い距離が速いだけでも43秒03という記録を出すことはできません。

バンニーキルク選手は9レーンという不利なレーンでのレースの中、序盤から自身のスピードを活かして積極的に攻めていきます。

300m地点では一度メリット選手やキラニ選手と並びかけますが、前半あれだけ飛ばしたにも関わらず、ラスト100mで他の選手をさらに引き離していきます。

ラスト100m、バンニーキルク選手を追うメリット選手とキラニ選手は一生懸命腕を大きく振って前に進もうとしますが、それが逆に力みとなり、思ったように前に進んでいません。

一方のバンニーキルク選手、ラスト100mの粘る場面になっても腕の振り方はコンパクトなまま、リズミカルにうまく重心を移動させて大きく前に進んでいっています。

最初飛ばして後半もスピードが落ちない、非常に理想的なレース展開ですね。



このレース展開に関して、バンニーキルク選手はかなり緻密にレースプランを研究したと思われます。

スピード型400m選手らしい、実に理想的なレース展開。

このレースプランを普段の練習からしっかり意識しているため、前半はスピード型の「パー」の腕振り、加速局面を過ぎてからはエコに走ることができる「グー」の腕振りを自然に行っているのだと思われます。

非常に小さな違いですが、こういった小さな違いを普段から意識しているからこそ、オリンピック本番であれだけ素晴らしいレースを行うことができるのでしょう。



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2017 元旦  大倉バス停⇒焼山登山口⇒三ケ木12:56着

2017-01-01 15:29:34 | マラソン・駅伝関係

一年の幕開けに相応しい素晴らしく穏やかな晴天でした

新年の最初に聴く音楽はシューマンのユモレスクと献呈は河村尚子の盤で

なんとなく2017はシューマンで幕開けです

ブレンデルのシューマンピアノ協奏曲と幻想曲作品17と続きます


そして夜の楽しみはニューイヤーコンサートはウインナーワルツで

昨晩の内山高志選手と総合格闘技は好かったです

そして、今日の山は

好い出会いもあり、足の切れが好く、楽でした

ポイント練習区間も1:21:45,35:16

2016
年末現在

 2566塔ノ岳2567

 1381丹沢山1382

 1216蛭ヶ岳1217

  634姫 次635

  423焼 山424

  419焼山登山口420

  406三ケ木407

  291橋本駅北口291



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12/30 大倉バス停⇒焼山登山口⇒三ケ木14:12着

2016-12-30 17:05:34 | マラソン・駅伝関係
2015
年末現在

 2484塔ノ岳2566

 1302丹沢山1381

 1138蛭ヶ岳1216

  558姫 次634

  364焼 山423

  361焼山登山口419

  350三ケ木406

  263橋本駅北口291




明日このコース取りで日帰りされる方へ

馬の背の一部

塔ノ岳北面、丹沢山つるべ落とし、蛭ケ岳北面

ランニングシューズにチェーン・スパイクあった方が神経衰弱にならずにすみます

意外と白いものがあり

人が好く入っているのか圧雪されています

私は寒さで両膝が痛くなり、時間がかかりました

コンドロイチンやセサミンも摂取しないと駄目かもしれません

階段の登りが痛い、焼山の下りで痛い方の足を庇う

ロードの下りはゆっくりでないと駄目

2016.6までは完璧でしたが、肉離れから膝に来てしまった2016の総括でした



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