我が家の阪神・淡路大震災の一年:その2

記事の文字数制限に掛かり、二つに分けました。

娘は職場復帰
震災の数日後でした。仕事関係でよく知っている方の悲しい知らせが届きました。団体の職員の娘さんが、その地震で亡くなられた。娘さんは大学の4回生だった。例年なら、成人の日はゆっくりと取って、神戸へ戻るのだが、卒論の仕上げをするために、早々と神戸に戻っての被災であった。そのお母さんは、それまで本当に明るく、周りには笑い声が絶えない、賑やな方だった。しかし、以降、それはなくなった。そして、暫くして、勤めも辞められてしまった。私は娘さんのお葬式には参列できなかった。娘の無事を有り難く思うと共に、そのお嬢さんとお母さんのことを思うと、何とも言えないやるせない気持ちになってしまいます。

県でも、救援物資が続々と集まりつつあった。それらを選別し、運送する手筈も整いつつあった。被災地で本当に必要な物の仕分け作業も始まっていた。救援物資もさることながら、医療関係者などの援助人員の確保も進んだ。上司への報告電話で「娘は無事であること。」私自身の「足裏の水膨れ」を話した。上司は娘が無事であったことを喜んでくれた。「うちの船も救援物資等を運ぶために、和歌山港へ派遣する。」「君はそのまま和歌山に居て良い。」「連絡調整の仕事をしてくれればよい。」「急いで職場へ戻る必要はない。」上司の温かい配慮の電話であった。有り難く思った。輸送専用の船でなくても船は積める荷物が多い。何時目的地に到着するか分からない交通渋滞も海上ではない。航行上注意しなければならない紀淡海峡を越えると後は一直線だ。信号も渋滞もない。流木等で運航には細心の注意が要るが、一番良い輸送手段であった。調べでは、神戸の岸壁は大破しているが、底の浅い船なら、何とか接岸できる。しかし、県の船と言っても、輸送用の船ではない。救援物資と言えども、貨物を大量に積むのは違法である。救援に従事する人もある。搭載人員も規定では限られている。海保に一応の了承を得る。この非常事態に、合法も違法もない。緊急避難措置である。海保は「航海は十分に注意して下さい。」のような話であった。

和歌山の娘の友達から安否の電話や、来訪がある。娘は神戸の状況を電話で聞いている。娘の職場もボチボチと後片づけを始めた様だ。建物は特に大きな被害は無さそうだ。震災に遭ったため、娘の気持ちがその恐ろしさに負けることを私は恐れた。このまま自宅にいては、震災から立ち直れないと考えた。「いつまでも家にいてはいけない。」「職場も困っているだろうから。」と言って、無理矢理に近かったかもしれないが、職場へ早く復帰する様に言った。未だ精神的なショックも残っていて、完全に納得した訳では無さそうだったが、数日後には職場へ戻る決心もした様だ。

船長に無理を言って、救援物資と人の輸送船で娘を神戸まで送り届けて貰うことにした。私もそれに乗船した。余りにも酷い震災状態だとそのまま娘を連れて戻る必要もあった。目一杯救援物資と人を積んだ高速船は、重心が高くなり、操船もいつもと違う。少しの波でも変な揺れ方をする。ゆっくりゆっくりと航海した。船に慣れないためか、船酔いする救援担当者もいた。娘も気分が悪そうであった。船員があれやこれやと気遣ってくれた。流木に衝突しない様に最善の注意を払いながら航海した。神戸の港で、娘は降りた。ゴミっぽいだけでなく、歩くのも注意しながら、障害物を避けながら、歩かなければならない、その後ろ姿は船酔いだけでなく、何か心細げであった。「頑張れよ。」と心の中で言いながら見送った。娘は、友達の家々、上司の家、隣の会社の上司の家を渡り歩いて数ヶ月暮らした。交通手段は自転車だったそうだ。住んでいたマンションは無傷であって、いつでも入居できそうであったが、水道かガスが3月まで利用できなかった。そこでは日常の生活は不自由であった。

震災から、時は暫く経って、確か秋頃だと思うが、娘から妻に「会って欲しい人が居る。」との連絡があった。二人は自宅へ来た。用件は分かっている。しかし聞きたくはない。実は娘の姿・容姿とその性格から判断して、決して結婚はしないだろうと思っていた。それが親の悩みでもあった。それならそれで仕方がないと思っていた。二人が来た。その日は一緒に来た男性に私は「ビール」を飲まし続けた。四方山話ばかりした。肝心なことは聞きたくはなかった。その内に男性と娘は帰った。多分娘は「そんな筈ではなかった。」と思っただろう。作戦は成功した。
翌週か翌翌週であるが、再度二人が来た。私も心の準備が出来ていた。前例に懲りたのか、二人は来るなり、正座をして、用件を言った。「わかった。」と言った様に思う。余計な言葉は発しなかった様に思う。それからトントン拍子に話は進んだ。

その年の12月も押し迫った日の結婚式だった。場所は二人が生活の根拠にしている神戸であった。余りにも早すぎる様に、何故震災に遭った神戸でと思ったりしたが、色々と有りすぎた娘には、それが一番の日にちと場所であるかも知れない。
着替えの荷物もあったので車で行った。湾岸線は開通していた。市内の主要道路は通ることは出来たが、完全修復ではなかった。時々脇道案内掲示に従わなければならない道路もあった。渋滞は未だ未だ解消していなかった。道も探しながらの道中であった。途中行き着けるのか不安も感じた。
式は教会方式で、仲良しグループの最初に近い結婚であった。そう言うことも有ってか、聖歌隊・ブーケは友達がしてくれた。私はと言えば、バージンロードの晴れ舞台で、途中ステップを間違えた。
牧師さんは地震に触れながらも二人を、祝福した。賛美歌は知っているものだったので、少し声を出して歌った。式・披露宴の間中、私は地震のことを何回と無く思いだした。友達・同級生・後輩・同僚から娘達は祝福された。
余りにも慌ただしい結婚であった。我が家の慌ただしい阪神・淡路大震災に区切りをつける様に感じた。今は、本当に地震の面影もないほど街の中は立ち直っている。全て一角が新しい家であるのが気になる程度である。娘にも子供が出来た。妻ともども良い爺さん、婆さんをしている。時には、あの震災を思い出すこともあるが、平穏な毎日である。

終わりに
本当に慌ただしく過ぎ去った「我が家の阪神・淡路大震災」の記事はこれで終わりです。震災の翌日に訪れた神戸の一日は本当に忘れることが出来ない一日です。項目だけを書いて毎日1項目ずつ投稿しました。そのために、細切れになってしまった「我が家の阪神・淡路大震災の一年」を全体を通して記事にしました。かなり私には重たい記事でした。ただ、重たいだけで、本当の震災の不幸・悲しみを感じ取ったのではないが、矢張り重たい作業だった。
数日間更新を休もうと思います。2月7日(水)から投稿をしようと思います。
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