我が家の阪神・淡路大震災の一年:その1

始めに
1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災は、身内・知人で犠牲になられた方、被災された方、被災され後も経済的・肉体的・精神的に打撃を受けられた方、その被害と今も続いているその影響は余りにも過酷過ぎます。ですから、三者的な私が断片的にブログでこの震災に触れることは余りにも事態が大きすぎ、不謹慎であると思い、今まで殆ど触れることはありませんでした。
しかし、直接被災したのではありませんでしたが、私に取って、私の家族にとって、この震災の年は忘れられない一年であります。震災後ほぼ10年以上を過ぎた今、何処かで、何時か話しておきたいと思う気持ちがありました。この記事を読まれて、当時のことを思い出されて、身勝手な話で憤り、気分を悪くされ、不愉快に思われる方がおられることは承知ですが、どうしても、記録に残しておきたい気持ちの方が強くあります。是非ともお読み下さり、
ご批判を頂けるることを念願しています。もう十年を過ぎて、記憶も薄れてきていて、間違った所も多々あると思いますが、宜しくお願いします。

阪神大地震が発生した1995年当時の我が家の状況について、まず話をします。私・妻・娘の3人家族全員がバラバラの状態で生活していたのです。
私は和歌山の本州最南端、串本で単身赴任でした。公舎は木造平屋建てで、一軒ぽつりと海岸近くに建っていました。築50年は経ち、庭が広いのではなくて、広すぎるのはよいのですが、シロアリの被害が激しくて、柱はボロボロでした。幾ら貧乏県とはいえ、最近はこんな公舎はありません。ua賃が安いことと職場に近いことだけが取り柄でした。串本周辺に転勤してきた職員の公舎ではなくて、私の勤務する職場の公舎でもあり、空き家でおいて置くことは問題もありました。台風・地震は不安が先立つ建物でした。地震・津波には本当に弱い環境で、心配でした。
妻はアルバイトの関係で、和歌山市内の自宅住まいでしたが、ここも我が国で最も大きい活断層、中央構造線の直下に近く、地震が発生すると大変なことになる所です。尤も、この中央構造線は滅多に動くことはないのですが、今にして思うと、阪神・淡路大震災もそうでした。
一方、娘は、前の年に就職して、神戸の「東灘」で一人暮らしでした。当時は地震を考えると、串本・和歌山市と比較して一番安心な所であると思っておりました。まさか娘がこの震災を経験することになるとは思いも寄りませんでした

娘は神戸での大学4年間寮生活をしていた。それが、大学入学の時の条件であった。3年になる時に、「このまま、寮にいると「寮長」にならなければならない。」「断ることは出来ない。」「下宿させて欲しい。」と言ってきた。「寮生と言ってもみんなが品行方正とは限らない。」妻も同情的であった。しかし私はダメだと言った。経済的なやりくりは妻がなんとかするであろうが、約束は約束である。その時の恨めしそうな娘の顔は今も思い出す。最後には「総寮長」までやった。嫌な経験であったと思う。
卒業は運の悪い娘であった。その前年までは就職に困ることはまだ無かったが、バブル崩壊が進み就職口はなかった。「どんな小さい会社であっても、キチンと勤めなければならない。」と言った。会社廻りに忙しい娘をこれも可哀想に思った。そうは思っても自分のコネは使わなかった。それで、同じ神戸の小さいが、特徴のある会社に勤めた。小さいながらもと言うか小さいからかも知れないが、娘のお気に入りの会社であったことは間違いない。時々帰省した時に仕事ぶりを聞くのは楽しみだった。卒業を前にして、寮住まいから、下宿住まいをしなければならない。娘と妻は、その準備に掛かった。二人で何軒か廻った。妻は娘の月給のことを考えて、「安い所が良い」と進めた。しかし、娘は既に決めていたのであろう。自分の希望を今度ばかりは通した。「まあ、環境は悪くない。」「仕方がない。」が妻の言い草だった。そこは鉄筋建ての階数の少ない「ワンルームマンション」であった。友達も住んでいた様だ。高さは余りなくて、横に長いガッシリとした建物であった。そんな神戸の娘への思いが歩きながら走馬燈の様に駆けめぐる。

地震
鈍感なために、通常、地震の揺れは殆どいつもは気付かないのですが、17日の早朝、串本の公舎でも異常な揺れがあり、起こされました。私の経験でも初めてに近い大きな揺れでした。平屋建てで、単身赴任ですので、家財道具なども殆どありません。例え倒壊しても命には関係ありません。しかし、この地方で大きな地震を感じると、まず津波を心配しなければなりません。住まいは海岸縁にあり、南海地震も近いと予想されていますので、右往左往しながらも、驚いてテレビのスイッチをまず入れて、布団を頭から覆います。
どうも、震源は神戸周辺当たりの様子です。しかも、相当大きな地震のようです。一番心配した津波は第一感無さそうです。私はホッとします。取りあえず、直ぐ近くにある職場の建物に被害がないか見に行きますが、これも外見・室内ともさしたる異常は無さそうです。家に戻って、テレビを再度付けます。最初の一報と違って、テレビの情報が全く要領を得ません。放送設備か、気象庁が被害にあったのか?回線・人が混乱しているのか?それだけ、大きな被害があったのであろうと想像します。そして、和歌山の妻・神戸の娘がここで漸く心配になります。

その頃妻から電話が有りました。和歌山の自宅でも多分串本よりも大きな揺れが有ったこと。大丈夫かどうか?お互いに大丈夫であることを確認します。お互いに相当慌てていたと思います。妻の電話で神戸に住んでいる娘から連絡があり、「無事逃げた。」「どうもない。」とのことです。これで一安心です。それを聞いてひとまず平常通り、出勤します。
その内に、事務所のテレビも被害の状況を放映しだしました。仕事どころではありません。被害が大きすぎます。即場の方々は娘のことを心配してくれます。昼頃、公衆電話から妻の居る自宅に再度電話をします。その後の娘の状況を聞かなければなりません。しかし妻は電話口に出ません。呼び出し音だけが空しく聞こえます。念のためと思い、妻のアルバイト先に電話をします。妻もいつも通り出勤しています。「娘からその後の連絡は?」「特にその後連絡はない。」「どうもない。心配ない。」「無事だったとの電話が有ったから。」。被害が益々大きくなって来ているというのに。物事に動じないと言うか、マイペースの妻に些か腹が立ちます。その時既に串本~和歌山の電話すら繋がりにくくなっていたのが印象に残っています。神戸とは関係がない回線だと思うが、影響があるものだと変な所に考えが及びます。

神戸の被害は、時と共に拡大しています。火事も発生しています。夕方、再度自宅に戻った妻に電話をします。第一報では無事との連絡がありましたが、その後が心配です。娘からのその後の安否連絡を尋ねます。やはり「連絡無し。」。おかしい。神戸の被害は益々広がっている。火事も発生している。娘の住んでいる東灘の被害は一番大きそうです。本当に無事なのか心配です。
上司に娘の事情を話して、最終列車で和歌山の自宅へ帰ることにします。被害は更に拡大しつつあります。和歌山の自宅も少し損傷が有った。しかしそれどころではない。そして、娘からの第2報は夜遅くなっても依然として有りません。明日朝迄に娘から連絡がなかったら、無理してでも、神戸まで行くことに決める。水とおにぎりの用意を妻に言う。

神戸へ
翌日朝になっても、やっぱり娘からは連絡はありません。神戸周辺の電車は全て不通ですが、阪急の「西宮北口」までは何とか行くことが出来ることを再確認します。そこから娘の住まいの東灘まで歩いて行くことにします。そこから、東灘までどれ位の距離があるのか、どのような道路事情か確かめる余裕はありません。リュックザックに水とおにぎりを出来るだけ沢山詰めて、相当歩くことを覚悟して、履き慣れない運動靴で自宅を出発しました。
JRで天王寺、天王寺から環状線で大阪、梅田から阪急に乗車します。通勤時間帯に近いのですが、阪急は思ったほど混んでいません。阪急の車窓からは建物の被災が有ったのかどうかも特に記憶にありません。車窓からの風景は印象に残らないものだと今も思います。電車の運行も取りたてての異常は無さそうです。ただ、車内はどことなくざわついていて落ち着かない雰囲気が漂っています。

少しすると車内の異変に気付いた。私より少し年取った男性がつぶやくと言うか、乗車客に訴えるというか、独り言の声が聞こえる。車内を夢遊病者の様にウロウロとしながら、「弟が逝ってしまった。」「家は滅茶苦茶や。」「嫁さんも、子供も死んだ。全滅や。」と何回も繰り返す。多分昨日に安否を気遣って弟さんの家に行ったのであろう。そして、その結果の余りの理不尽さにショックで放心状態であった。その男性に声を掛けるには憚れる状態であった。そう言う経験がない私にもその独り言を聞いて、その姿を見て、何か胸に込み上げてくるものがあった。頭の中でことの重大性を理解し始める。他の乗客もただただ心配そうにその男性を見守るだけだ。大震災が有ったのだ。人命も失われたのだ。人の心にも大きな被害を与えたのだ。しかし私はその男性の声を聞いても「娘は?」「無事でいて欲しい。」それが頭の中の大半を占めます。

西宮北口から、道に沿って神戸の方へ歩く。私だけではない。同じ方向へ何人もの人が歩く。黙々と歩く。ただひたすらに歩く。皆さん、リュックザックを背負って、運動靴だ。私と同様に、身内や同僚の安否を確認するため、探すために行くのであろう。未だハッキリと分かるボランティアらしき人は余り見掛けない。
音が五月蠅い。パトカーや救急車・消防車のサイレン、けたたましいクラクションが鳴り響く。大きく鳴り響くだけで、遅々として車は前に進まない。頭の中がその騒音で「ワーン」となる。無性に腹が立ってくる。「せめて、救急車だけでも何とかならないのか?」「こんな状態になる前に何とかならないのか?」「強権発動が出来なかったのか?」と苛立ってくる。
大きな建物はと言うと、少し斜めに歩道の方へ向かって建っている。窓ガラス等の建物の破片が道路にいっぱい落ちて、散らばっている。上を見ると、今にも落下物がありそうで恐ろしくなる。所によっては迂回しなければならない。危ないと思うが、ひたすらに前に進む。大通りから少し中を見ると、木造の民家は原型もなく倒壊している。一軒や二軒でない。一面に倒壊している。グシャッと倒壊した様に見える。段々とすれ違う人が多くなってきた。「彼らは無事だったんだ。」と思う。何とか命だけは無事で、それぞれ自宅や親類の家に避難するために私とは逆に「西宮北口」に向かう人達だ。若い学生風の女性が多い。その中を「娘が無事でいたらよい。」と思いながら、歩くが、余りにも多くて探しながら歩くことも出来ない。

驚いたことに、もう既に大学や研究機関の先生方が、学生を連れて被災調査に来ていた。倒壊した家屋・倒壊寸前の家屋周辺を計測したり、写真に撮ったり、メモをしたりしている。彼らの目的は物的被害だ。段々と歩き疲れてきたのか、そう言う人を見ると、初動調査が今後の防災のために必要であり、役立つことは分かりながらも、無性に更に腹が立ってくる。落ち着いてから、調査は出来ないのか?何故、人命救助も進まないこの時に。しかも、車には「調査団」のステッカーを貼って混乱する道路にデンと止まっている。「無神経だ。」と更に腹が立つ。最優先しなければならないのは「人の命でないのか?」「学問なんて後回し。」と思ってしまう。
歩く。歩く。途中でJR線を見失わない様に歩く。少し山の手へ廻ると建築中だったと思われる家も目に入る。「○○ハウス」のユニフォームを着た人がここでも計測し、写真を撮っている。立派なものだ。壁はまだ無いのに何とか倒れないで、柱が曲がりなりにも建っている。
山の手の方が被害は少なそうだ。水道だったか川の水だったか、数人が大切そうに水を汲んでいる。「生きるための活動をもう始めている。」何かそこに「力強さ」を感じる。

道を探しながらも漸く、実に変な話だが、線路脇に娘の電話を購入した黄色の質屋を見つけた。その家屋は損壊しているものの全壊ではない。「JR摂津本山駅」は間近だ。列車が通らないJRの踏切を渡って、娘宅に近い目印の駅まで辿り着く。駅周辺は損壊している建物もあるが駅そのものは思ったよりも、どうもない。そこから娘宅は近くだ。無事居るのか不安が募ってくる。そこから南へ少し行けば娘宅だ。
途中、立派な高層マンションがある。キチンと建っている。傾いていない。「損壊」もしていない。「さすが、住宅用」「頑丈に出来ている。」と思う。と同時にこの辺りは大きな被害がなかったのだと胸を撫で下ろす。ところが、それはとんでも無い間違いだった。近くでよくよく見ると、車がその中でペチャンコになっている。一階がない。一階がストンと見事にヘシャゲてしまっている。その隙間に車がペチャンコになっているのだ。信じられない風景だ。後々問題になった一階が駐車場・店舗の建物であった。その風景を目の当たりに見て、益々不安になる。本当に無事なのか?公園には既にテントらしきものが見える。公衆電話には人が長く行列している。

娘の住まいが見えてきた。確かに大きな損傷は無い。しかし何処かおかしい。娘の住まいはいつもならこの辺りからはキッチリと見えないはずだ。周辺の木造住宅はどの家屋も完全に倒壊している。それで見通しが良くなっているのだ。
マンションは無事であった。一安心。しかし、そこへ行く道がない。倒壊した家々で、塞がって道がない。近くに高校生らしい男の子が居た。「あの建物へ行くのはどう行くの?」と聞く。その高校生は突っ慳貪に「そんなモン 知らん。」と言う。横にいたお姉さんらしい女性がその高校生に諭す様に注意する。「そんなものの言い方をするんじゃない。」「あの方も困って来て居るんだよ。」「親切にしないと」そこで初めて私の質問が状況を全く把握していない、場違いなことを知る。彼らの家も崩壊しているのだ。「ご両親・ご家族は無事だったのだろうか?」漸く気付く。時も弁えない私の質問。弟のその物言いも当然だ。申し訳なく、そして、弟を強い口調で窘めた「こんな災害を受けても人にあたることを戒める」姉さんを辛く今も思い出す。

通り道を探しながら、随分と遠回りをして、大通りに出た。山王神社の鳥居・社務所も完全に倒壊している。そこの端からやっとマンションに辿り着いた。途中で見たビルなどの様に傾いても居ないし、損傷はない。娘の部屋の二階へ上がる。階段も異常はない。しかし驚いた。全てのドアーが開け放されていた。「用心が悪い。」「盗まれたらどうする?」「余ほど慌てて逃げたのか?」と思うが、これも未だ大震災の事情がよく飲み込めていない。後で娘の話では、隣の女性が逃げる時に「ドアーは開けたままに!!」「閉めてしまうと、戻って来ても、部屋に入れなくなる。」と言ってくれたそうだ。「土足でよいのか?」なんて実に下らないことが気になる。矢張り事情をもう一つ理解ししていない。娘の部屋へ恐る恐る入っていく。「○○子」と声を掛けながら、恐る恐る入っていく。冷蔵庫が部屋の真ん中にある。転がっては居ない。少し安心する。「倒れて下敷きにならなくて良かった。」と思う。服とか紙とかありとあらゆる物が部屋中散らばっていて足の踏み場もない。整理整頓が得意でない娘でも異常すぎる。娘は居ない。「電話の通り、無事部屋からは逃げたのであろう。」と自分を慰める。そして、避難所へ向かうことにする。

途中に通った公園には娘は居なかった。次は「避難所」探しだ。何人かに聞いて、避難所を探す。学校だ。避難所は混雑していた。どう見ても先生らしい方が世話をしている。こんな突然の災害にあっても集団の扱いは慣れている様だ。外では焚き火で暖を取っている人もいる。講堂の中では、もう既に一人一人か家族ごとの根城というか段ボールで囲いをしている。夫婦・家族が所狭しと座り・寝ている。よほど寒い一日であったのだろう。もう既に毛布なども配られている様だ。トイレは汚物で満タン。全くその用をなさない。
係らしき人に事情を話す。大きい声で「和歌山の○○さん!!」「お父さんが見えてまーす。」と何回と無く言って貰う。避難している方々は振り向くが、返事がない。娘らしい姿も見えない。係の人は事情を聞いて、「無事の一報連絡が入ったのであれば」「今朝、帰られたのでは無いでしょうか?」「ここでは、若い女性一人は大変ですから。」「帰れる人はそう進めています。」「本当にそうであれば良いが・・・。」万が一のこともあるので、来たことを知らせるメモを張り出して、次の避難所へ急いで向かう。そこでも同じことを繰り返す。矢張り、娘は居ない。
持参した水とおにぎりは最初の避難所に置いてきた。役に立つかどうか分からないが、私が出来る唯一のことであった。と言うよりも、とても水・おにぎりを食べることが出来ない私、それにリュックが重たく感じている私だった。

その避難所を探して歩いている途中、消防署の救護班らしき数人が急ぎ足で道を走っている。彼らを呼び止める人が居た。私の足も自然と止まった。倒壊した自宅を指さしながら、消防署員を拝む様に、「この中に私のお婆さんが。」「助けて下さい。」とせがむ。見るとその家は完全に倒壊している。崩れ落ちた土壁と瓦しか見えない。「生存していますか?」「呼んでも、叫んでも、返事は有りません・・・」「お婆さん一人ですか?」「はい一人です。」そこまで聞いた消防署の隊長らしき人は「ゴメン。」「申し訳ない。」「この先に救助を待っている人が居ます。」と言って、頭を深々と下げながらも、先を急ぐ。助けを求めた人は頷くでもなく、怒るでもなく、あきらめ顔でその倒壊した壁を一人、手で取り除く。ゆっくりした動作だ。その人はお婆さんの生死に関わらず一刻も早く倒壊した家から救出して上げたいだろう。当然の願いだ。消防署の方も何とかしたいであろう。救助したいであろう。しかし、彼らには、多数の未だ生存の可能性がある人を救うのが第一の任務なのだ。辛い判断を強いられていた。その光景は今思いだしても涙が出て来る。

ボチボチと日も暮れかかってきた。探しても娘は居ない。避難所にも居ない。住まいから明らかに逃げた様子だ。大きな火事も周辺では無さそうだ。避難所の人が言う様にキッと入れ違いに娘は帰路についたのだろうと思いながら、再び歩いて戻り始めた。その頃、慣れない靴と長時間の歩きで、右の足裏は水膨れになっていた。足を引きづりながら、トボトボと歩く。行きの元気と気持ちの張りはもう無い。途中、誰も順番を待っていない公衆電話を見つけた。ラッキーと思いながら、妻に電話をしようとした。ダイヤルを廻すが、全く応答がない。その公衆電話は回線が切れているのだ。長い長い列が続いている公衆電話だけが繋がるのだ。並んで順番を待つには遅すぎる。帰途を急ぐ。梅田で漸く空いている電話があった。
そこで、娘は無事に帰宅していることが分かった。入れ違いになったのだ。足の裏の水膨れは段々と大きくなり足裏全体に広がっていた。しかし、もうそんなに歩くこともない。本当に気が抜けた様にホッとして、帰路に向かった。

帰宅して、娘の元気な姿を見た。外傷はない。まあ元気そうであった。安心した。本当に安心した。一番の重傷は私の右足裏の水膨れであった。地震の様子を聞いた。
「何が起こったのか分からない。」「咄嗟に動くことも出来なかった」「大きな揺れで部屋の中は無茶苦茶になった。」「直ぐには外へ出られなかった。」「未だ暗かった。」「周囲の状況はよく分からなかった。」「住まいの通路へ出ると、普通なら、外でみんなで騒々しいものだ。」「地震談義をしているものだ。」「しかしその時は違っていた。」「シーンとしていた。」「これは本当に大変な事態だと思った。」「何人死んだか分からんと思った。」「隣の友達と行動を共にした。」「近くの公園で一晩焚き火をして過ごした。」「こんな時に、焼き芋一つ千円で売る人が居た。」「信じられない。ただで配るもんやろ。」「翌日、西宮北口まで歩けば、帰れると聞いたので、帰ってきた。」「しかし、こんな親は居ないだろう。」「娘が震災に遭っているのに、」「一言無事の声を聞いて、仕事に行くなんて。」「昼に二時間ほど並んで」「やっと電話の番が回って来て、電話するけど。」「出えへん。」「せめて、留守電ぐらいにしとくのとちゃうか?」よほど腹が立っていたのであろう。「尤もだ」しかしその小言も無事であることを噛みしめながら久し振りの一家団欒となった。しかし、一寸した、妻も私も全く気付かない極小さな余震でも「地震や」と怯えて身構える娘が可哀想であった。その後遺症が続けなければと思う。妻と私は「娘の言う通りのマンションにして良かった。」「本当に良かった。」と慰め合った。

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