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06 ガラスケースの中の緑

 パリのアンドレ・シトロエン公園を特徴付けているものは、大小八つの温室である。いずれも最新の技術によるフレームレスのガラスが外壁を構成し、今までにない透明感の高いガラスケースが緑の上に被せられた格好になっている。

アンドレ・シトロエン公園/パリ/photo by m.yamagiwa

断片化され虚構化された自然
 1983年に開催されたラ・ヴィレット公園の国際コンペの2年後にシトロエン公園のコンペはおこなわれた。そこではラ・ヴィレットのコンペの様々な反省があったといわれる。ラ・ヴィレット公園のコンペの審査員だった磯崎新は、「植物を虚構として把握」した案を選んだ*01と述べている。都市という人工の空間に住まねばならなくなって以来の人類の自然回帰への願望、それが不能であることを今日の都市は証明してしまった。都市の内部に移植される植物は、結局は断片化され、虚構化された姿しか示していないというのだ。そうして選ばれたベルナール・チュミの案では、デジタル時代を先取りしたレイヤー手法と、偶発的な関係が自動的に発生するように仕掛けられた赤いフォリー*01が注目を集めた。

ラ・ヴィレット公園 赤いフォリー/パリ

 チュミは、“公園”を人間の活動のための空間と考え、それをどのように構築するかを考えた。それはたしかにそれまでの庭園概念を逸脱し、公園を建築、いやむしろ都市として構想したものであった。
 それまでの公園は、少なくとも自然と人間が主役であった。われわれは、普通に“公園”を考える時、そこには何らかの形で公園に導入された“自然”があり、その自然と人間との関係性について考えることからはじめる。しかしチュミは、“自然”を都市におけるそれと同じく、公園を構成する様々な要素(パーツ)のひとつとして扱った。“自然”をも人間の活動が偶発的に発生するためのひとつの仕掛けとして発想した。その結果、伝統的な庭園パターンの借用と、それに重ねられた複数のシステムにより、“自然”は分断され、断片化された。さらにそこに見本市に出展する様々な出展者(建築家や芸術家)の手になる作品*02として“自然(植物)”が展示された。そこでの植物=自然は、磯崎が意図したとおり、断片化され、虚構化された姿としてあった。
 この自然の扱いの矮小化がコンペに参加した造園家たちの猛反発を招いたといわれる。しかし彼らとてチュミの提示した虚構化された自然という強烈なメッセージは無視できないものであった。その反発、反省からおこなわれたのがこのシトロエン公園のコンペなのである。建築家と造園家のチーム2組の合作であるシトロエン公園は、“自然と人間の関係性”の追及に立ち返っている。都市軸や景観軸の重視という点でも従来のオーソドックスな公園作りに戻っている。そのせいかシトロエン公園の方が圧倒的に居心地がいい。パリ市民にもより愛されているようだ。ではチュミの発した虚構化された自然というメッセージはどのようにこの公園に反映されたのか。その答えが八つのガラスケースの緑に示されている。

人工環境のなかにある自然、その関係性の可視化=ガラスケースの緑
 都市の中にあって、人工的環境の中にある自然は人工にとらわれた自然である。都市の中の自然とは、いかに“人工”の反対概念としての“自然”に見せようとも、人工の手の平の上に載る自然であり、その意味で“虚構”であるといえるのだ。そうした人工と自然との関係性を可視化したもの、それがガラスケースの中の緑であり、その象徴がシトロエン公園の小さなガラスの温室である。緑という自然に、透明なガラスケースを被せたもの、その透明なガラスケースが都市という人工環境の中での“自然のあり方”を象徴している。→19 ウィンターガーデンの幻想
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シトロエン公園 小さな温室/パリ

*01:なぜ日本勢は振わなかったか/イメージゲーム異文化との遭遇/磯崎 新/1990.11.30、鹿島出版会
*02:ベルナール・チュミ「ラ・ヴィレット公園」/Archi Review 第8回/山崎亮/2003.10.11
   ■チュミはマスター・プランナーとして多くの建築家や芸術家を招聘した。

イメージゲーム―異文化との遭遇
磯崎 新
鹿島出版会

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