せっけんの香の疎ましく覚ゆるは如月の陽のあたたかき故
「詠草」
麦秋という語はじめて目に見えて緑の中のそこだけが秋
水銀は里芋の葉の上にある水そっくりに肌をころがる
森の中木屑の散れり 其は抵抗の残骸のごと
命食むことなく死んでゆくいのち座れないほど熱された道
草刈りの終わった芝生ちくちくとちくちくここにいるなと告げる (☆)
「うたう☆クラブ」
会わずとも過ごせるものか本日も左右非対称の月影
横臥位でまぐわう猫の夢を見た顔から下はなにも無かった
鏡見ることなく髭を剃る風呂場 だあれもいないはどこでもいっしょ
閉まらなくなる冷蔵庫ひと一人入れるはずの肌ざわりして
振り向けば斜面いっぱいクローバー 何葉でももういいさ、7月 (☆)
(☆)のついているものが、取られた歌です。
休日の早朝、天気が良ければ近くの里山公園を散歩します。
歌集なんかを読みながらほっつき歩いていると、けっこう歌の原型がわき上がってきたりします。
この5+5首も、ほぼそんな形でできあがりました。
輪郭や意味が少々不明なのは、やっぱり寝ぼけているせいでしょうか?
二段跳びで震える足をさすりながら、さて次はどこへ行こうか、と思案します。
何しろ地図が頭に入っていないので、位置的に自分が今どこにいるのか全く分からない。
少々疲れたし、どこかで少し休みながら考えよう。
そういえば、バスを降りる直前に川を渡りました。ずいぶん賑わっていたけれど、ひょっとして……
道を戻って北大路橋に刻まれた字を見ると、ああやっぱり。ここが、加茂川。
折からの花見シーズンでずいぶん賑わっていますが、時間的にピークを過ぎたのか、うっとうしいというほどでもない。
河原に降りて、空いているベンチに腰掛けました。
考えてみれば、ここも『京都うた紀行』に出てくる歌枕の一つなのです。
来年もかならず会はん花棟岸辺にけぶるこのうす紫に
(花棟=はなあふち)
河野裕子
エッセイに添えられたこの歌のとおりには、残念ながらいかなかったのですが。
「加茂川」と「鴨川」が、厳密に言うと違うのも、この本から教えられました。
古今東西の本、歌、ミュージック等で「京都」と言えば必ず出てくる、加茂川。
歴史小説ファンである僕にとっても、この響きは特別です。
しかし、当たり前の話ですが、現在の加茂川は日本全国どこにでもある川の一つに過ぎません。
これくらいの流れと賑わいならば、うちの近所でもおなじみの光景です。
でも、だからこそ寛げました。
市民の憩いの場。花の季節になればブルーシートの青が目立ち、そこここでミニイベントが開かれ、ジョギングや散歩の犬が行き交い、恋人同士が肩を寄せる。
雨もすっかり上がり、陽のさしてきた加茂河原で、僕はゆっくりと本の頁を捲っていました。
ふと右手を見ると、山肌に大きく「大」の字。有名な大文字焼の火床でしょうか。
北大路 春大文字 加茂川の小滝のかみに鴨一羽浮く
僕にしては珍しく、実景歌です。
いや、駄洒落じゃなくて、ほんとに加茂川に鴨がいたんです。
おそらく流れてくる餌を狙っているんでしょう、小さな落ち込みの寸前で、しきりに首を水に突っ込んでいました。
もういいかな、と思いました。
京都に来てから名所らしいところは全然回っていないし、まだまだ行きたいところもたくさんあるけれど、ここで終わりにするのも あり なんじゃないかな、と。
そう思わせるような、のどかな加茂河原の遅い午後です。
お楽しみは次の機会に取っておいて、今回は予定の新幹線に間に合う時間まで、ここに腰を落ち着けることにしました。
ちょっと風が冷たくなってきたので、インナーのフリースを着込みつつ。
さて、そうと決まれば『京都うた紀行』の続きでも読みましょうか。
次に来る時のお目当てを、探すためにも。
(おしまい)
三月書房にて多大なる戦果をあげ、さて今度はどこへ行こうか、と京都市役所のあたりをうろうろしていると、『北大路バスターミナル』と行き先を掲げたバスが通り過ぎていきました。
北大路……
ふと思いついて、家から持ってきた本の頁を捲ると、あったあった。
よし、ここでこの地名を見かけたのも何かの縁だ。名所でも何でもないけど、次は「あそこ」へ行ってみよう。
そう思った僕は、さっそく最寄りのバス停を探したのでした。
「地図やガイドブックのたぐいは一切持ってこなかった」
と先に言いましたが、実は一冊だけそれに類する本を持ってきていました。
『京都うた紀行』(京都新聞出版センター)。
歌人の永田和宏と河野裕子が、京都・近江の近現代歌枕を訪ねるエッセイ集です。
まだ読み始めたばかりですが、名所旧跡ばかりではなく、大学キャンパスや道、橋など何でもない所も取り上げており(先の三月書房も、もちろん選ばれていました)、とても興味深い一冊です。
その中に挙げられた一首。
階段を二段跳びして上がりゆく待ち合わせのなき北大路駅
言わずと知れた、梅内美華子の名歌です。
河野裕子は言います。
「待ち合わせがあろうが無かろうが、周囲の目なんか気にせず、思い切りありのままの勢いで階段を駆け上がってしまう。ああ、と溜め息が出るような若さ。」
僕も、この留保の無い躍動感に魅せられた一人です。
こんな歌を詠ませる駅って、どんな姿なんだろう。
京都まで来ておいて寺社仏閣も巡らず、酔狂なことだ、と自分でも思いますが、不思議なほど迷い無く、次に来たバスに乗り込みました。
バスは立錐の余地も無いほど混んでいましたが、車内にあふれる京都弁やスペイン語(外国人旅行客も乗っていたんです)を聞きながら見る車窓の風景は、思いのほか新鮮でした。
京都って、ほんとに道がまっすぐなんだなあ、などと妙な感心をしながら揺られること20分ほど。
『北大路駅前』という、まさに目的どおりの停留所に到着しました。
が、降りてみると、それらしき駅舎も見えないし、線路も見当たりません。
おっかしいなあ、少し離れてるのかな?とあちこちうろうろして、やっと見つけました。
―――『北大路駅』という看板と、その下の、地下へともぐる階段を。
恐ろしいのは、先入観と思い込みです。まさか、『北大路駅』が地下鉄の駅だとは思いもしなかった。
僕はあの歌を、電車に乗り込むべく改札への階段を駆け上る歌だ、と勝手に思っていたのです。
しかし、地下鉄駅だとすると、風景は全く逆で、電車から降りた少女が一気に地上へと駆け上がっていくことになる。
なるほどなるほど、あの歌の爽快感は、地下の息苦しさから一気に解放されようとしている喜びでもあったんだなあ、とやっと思い当たりました。
しかし、そうなるとちょっと具合が悪い。
僕は、せっかく来たんだから『北大路駅』の階段を二段跳びで駆け上がってみようかと思っていたのです。
駆け上って、改札口のあたりで情報を集め、次なる目的地を決めようかと。
しかしこれだと、いったん階段を降りたあと、改めて地上に向かって駆け上がるという、少々まぬけな構図になります。
で、どうしたか?
やりましたよ。ほとんどそのためにここに来たんだから。
せめて同じ階段の往復はしないように、上りは改札口からすぐの階段を選びました。だぶん、梅内美華子もこの階段を上ったんだろう、と信じて。(ちなみに、周囲の視線は「無い」ものとしました。)
結果。
慣れないことは、やるもんじゃないです。一段抜かしならよくやりますが、二段を跳ばして駆け上がるというのは、四十半ばのおっさんには想像以上に困難でした。危うく、ふくらはぎが痙攣するところだった。
まあしかし、こういうことは「やった」という事実が大切なのです。
こうして、なんの変哲もない地下鉄駅は、僕にとって忘れられない『歌枕』になったのでした。
烏丸の「る」を聞き落とし取り零しかけあがるには北大路駅
(烏丸=からすま)
そんなこんなで、奈良から京都に上京(でいいんだよな?)できたのは、正午も大きく回った頃でした。
適当な店で腹を満たしてから、さてお目当ての第三弾は、あの「三月書房」です。
いつ来ても光も音もひそかなり寺町二条三月書房
辻善夫
歌人の中でも知る人ぞ知るというこの書店。あちこちから噂を聞くたび、どうしても行きたい場所となりました。
実はここだけは、行き方をインターネットで調べておいたのです。
京都市役所前から歩いて五分、そのお店は本当にこぢんまりとそこにありました。
すでに何人か先客が居ましたが、妙に靜か。それぞれ書棚を眺めたり、気になる本の頁を捲ったりと、思い思いの時を過ごしています。
僕もとりあえず、右側の棚から眺め始めましたが、すぐにその品揃えに圧倒されました。
小説の他に思想書がある、哲学書がある、宗教、ノンフィクション、マニアックなチョイスのマンガがある、俳句がある、詩がある、それらの論考書がある。
ちょっと待て、全部ツボに入りすぎる品揃えだぞ。
あ、こんな写真集出てたんだ。このマンガ、噂には聞いてたけど。この作者、こんな本も出してたんだ。
そして、聞いていたとおりに店の奥に店主とおぼしき年配の男性が座し、その右と上には歌集歌書が。
おおおおお。
これは、長い間探していたけど手に入らなかった、あの。これは高いのを承知でネット古書で買おうかと思っていた。このシリーズでこの歌人のも出してたんだ。え、こんな復刻版出てたのかよ!
――あとから思い返してみると、不気味な客だったでしょう。
店番が途中で、店主からおばさんに代わったのは、僕のせいではない、と信じたい……
結局、欲しい本すべてを買うと、金額もさることながら物理的に持ち歩けないことが判明したので、泣く泣く八点に止めました。
おばさんが紙袋の手提げを二重にしてくれたのが嬉しかった。
「おおきに」
という、店を出る時の言葉は、関東モンにとっては旅情をくすぐる最高のプレゼントでしたが、この旅の中、初めてこの言葉を聞いたなあ、と、ふと思ったことでした。
「おおきに」の抑揚真似る店のそと三月書房雨あがるころ
さて、名残を断ち切り、次に向かったのはお隣の中宮寺。
ここには、有名な「弥勒菩薩半跏思惟像」があります。
二十年ほど前、一人でここに来たとき、この像に惚れたことがあります。
そのときは、シーズンオフの朝一番ということもあり、参観者は僕一人。
それをいいことに、一時間近くこの像の前にいました。
眺める眼は、尊い仏や美術品を見る目ではなく、間違いなく「惚れた女」を見つめるものだったと思います。
あの感覚をも一度味わいたい。そう思って足を運んだのですが。
像は(当然ですが)何の変わりも無くそこにおわしました。
が、妙な違和感がありました。
こんなに、像と隔てられていただろうか?
手を伸ばせば触れられそうな距離だった記憶があるのですが、仕切りや様々な供え物によって、なんだかとても遠いものに見えました。
係のおばさんが、説明のテープを流してくれるのも、正直わずらわしかった。
像の履歴(昔は違うところにこの寺はあったとか、半跏思惟のポーズは衆生を救うため悩む御仏の姿だとか)なんか、この不信心者にはどうでもいいんです。
この女、じゃなかった像の美しさに再び会うためだけに、僕はここに来たのだから。
それでも、やはり美しいものは美しい。
かなう限り近づき、いろいろな角度から像を眺めました。
本当ならずっと居たかったのですが、他の参拝者に迷惑です。
五分ほどでその場を退きました。
またシーズンオフの朝一番に来れば、あの親しさを味わうことが出来るでしょうか。
みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の あさ の ひかり の ともしきろ かも
会津八一
三月から四月にかけて、仕事や本来仕事でない仕事が見事に重なり、ろくに買い物すら出来ない日々が続き、ついに体内で何かが「ぶつん」と切れる音がしました。
「そうだ、京都と奈良行こう」
で、奇跡的に丸一日時間が空いた(と言うより半ば無理矢理もぎ取った)四月九日土曜日、発作的に始発の新幹線に飛び乗りました。
関西におられるお友達にも、そういった理由で連絡も出来ませんでした(すぎんさん、ワンコさん、ごめん)。
京都、奈良に行くのはほぼ二十年ぶり。発作的なのでガイドブックのたぐいも一切持たずの旅立ちです。さて、どうなることやら。
まず、お目当てのひとつ、奈良斑鳩、法隆寺の夢殿。
JRと近鉄を見事に乗り違えつつ、やっとたどり着きました。
あいにく小雨交じりですが、風は無し。かえって風情が増します。
天候のせいか、宝物が公開時期でなかったためか、夢殿は人影もあまりありませんでした。
ほぼ正方形の敷地の一隅にひっそりと立つ、満開の枝垂れ桜。
振り仰ぐ、と言うほど大きくはありませんが、幹が苔生す、見事な古木。純白の花びらが、触れずとも落ちかけていました。
ほとんど、これに会うために奈良に来たようなものです。
さだまさしに『夢しだれ』(アルバム「あの頃について」所収)という曲があります。
ライナーノーツによると、故 山本健吉が俳句仲間との花見の席で角川春樹に
「この花に名はありますか」
と問われ、ぽつりと答えられた、とのこと。
「夢枝垂」
満開のこの木に、どうしても会ってみたかった。
正方形のもう一方には、指が染まりそうな桃色の枝垂れ桃。
挟まれるように、名を知らぬ白い花の桜木が、これも花をたたえています。
これらの花に囲まれ、夢殿はあくまで静かにたたずんでいる。小糠雨に濡れながら。
まさに夢のような風景。
係の人に不審な目で見られるのもかまわず、数十分間見惚れていました。
夢殿の花の枝垂れに掌をやれば付き来る弁の白さに詫びる
(弁=ひら)
「そうだ、京都と奈良行こう」
で、奇跡的に丸一日時間が空いた(と言うより半ば無理矢理もぎ取った)四月九日土曜日、発作的に始発の新幹線に飛び乗りました。
関西におられるお友達にも、そういった理由で連絡も出来ませんでした(すぎんさん、ワンコさん、ごめん)。
京都、奈良に行くのはほぼ二十年ぶり。発作的なのでガイドブックのたぐいも一切持たずの旅立ちです。さて、どうなることやら。
まず、お目当てのひとつ、奈良斑鳩、法隆寺の夢殿。
JRと近鉄を見事に乗り違えつつ、やっとたどり着きました。
あいにく小雨交じりですが、風は無し。かえって風情が増します。
天候のせいか、宝物が公開時期でなかったためか、夢殿は人影もあまりありませんでした。
ほぼ正方形の敷地の一隅にひっそりと立つ、満開の枝垂れ桜。
振り仰ぐ、と言うほど大きくはありませんが、幹が苔生す、見事な古木。純白の花びらが、触れずとも落ちかけていました。
ほとんど、これに会うために奈良に来たようなものです。
さだまさしに『夢しだれ』(アルバム「あの頃について」所収)という曲があります。
ライナーノーツによると、故 山本健吉が俳句仲間との花見の席で角川春樹に
「この花に名はありますか」
と問われ、ぽつりと答えられた、とのこと。
「夢枝垂」
満開のこの木に、どうしても会ってみたかった。
正方形のもう一方には、指が染まりそうな桃色の枝垂れ桃。
挟まれるように、名を知らぬ白い花の桜木が、これも花をたたえています。
これらの花に囲まれ、夢殿はあくまで静かにたたずんでいる。小糠雨に濡れながら。
まさに夢のような風景。
係の人に不審な目で見られるのもかまわず、数十分間見惚れていました。
夢殿の花の枝垂れに掌をやれば付き来る弁の白さに詫びる
(弁=ひら)