ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲百話―五百羅漢編 №10 <若冲連載29> 

2009-02-22 | Weblog
江戸時代の石峰寺五百羅漢「皆川淇園、円山応挙、呉春の梅見 前編」

 天明八年正月二十八日、当時の京を代表する儒学者・文人の皆川淇園(きえん)が石峰寺を訪れた。伏見に住む門人の寅こと米谷金城と、誘い合わせた画家の仲選、すなわち円山応挙や呉月渓らと連れ立って伏見に梅見に出かけたのである。途次、応挙の案内で、深草の石峰寺に伊藤若冲制作するところの石羅漢を見物した。ところで呉月渓とは画家の呉春である。後に応挙の円山派をしのぐほどの評価を得、四条派と称される。
 なおこの日、若冲は不在であったが、淇園が釈若冲と記しているのが興味深い。淇園も応挙も、若冲を出家者・僧とみなしているのである。釈は釈迦の弟子であり出家僧をいう。淇園の「若冲五百羅漢」感想記の大略は、

 境静かにして神清み、本堂後ろの小山の上に「遊戯神通」と扁した小さな竹の門があり、通りを過ぎると曲がりくねった小道があって、渓には橋を架け、その周囲に三々五々、みなその石質の天然を活かし、二三尺ほどの石に簡単な彫工を施している。その殊形・異状・怪貌・奇態、人の意表を衝いてほとんど観る者を倒絶させるような石羅漢が配置してあった。造意の工、人をして奇を嘆ぜしめざるものなしと、淇園はいう。
 この原文は、これまでほとんど紹介されていないので、長いが参考までに次回に掲載しよう。<皆川淇園著「梅渓紀行」>
<2009年2月22日 南浦邦仁>
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戦時中の動物たち №7

2009-02-15 | Weblog
 高島春雄著『動物渡来物語』昭和22年3月、日本出版社刊。(増訂版・学風書院刊・昭和30年3月発行)。現代語表記にあらためて、同書本文「猛獣渡来考」からの意訳再録です。

 平時でも動物は、動物園やサーカスから脱走する。実際のところ、手ひどい空襲を受けた場合に、トラ、ヒョウ、サイ、ゾウなどが、右往左往するひとびとの中に狂奔するようになっては一大事である。江戸市中の大火に逃げまどうひとびとの中に、クマが飛び出して騒ぎを一層大きくしたという話もある。
 ヨーロッパの動物園は戦時中、日本より早く空襲の危険にさらされていた。ロンドンの動物園に爆弾が落ちたが、落とした相手国のドイツ・ベルリン動物園などは、さんたんたる目にあった。ハンブルクの動物園は助からなかったにしても、ハンブルク郊外にある有名なハーゲンベックの動物公園など、どうなったであろうか。
 戦争のために犠牲になった動物たちの多くは、永年勤続して見物人のご機嫌を取り結んだ功労者である。しかしいずれも知らぬ他国の土となり、われわれに「警世無限の鐘」を乱打してくれる。
 二頭のアメリカ野牛を除けば、ほかの種類は戦後において、だいたいが補充はたやすい。第一次欧州大戦終了の後、敵味方の動物園の復興はわりあいに早かったという。
 命を捨てた捨身動物はいずれも巨体であったが、上野動物園では資材難を克服してその大部分を剥製に仕上げ、かつての猛獣舎に生きるがごとき姿で陳列し、ありし日をしのぶ資とした。これからは、猛獣はそうした死顔で我慢せねばならないのである。
 上野であの世に逝ったのは、ライオン3頭、トラ1頭、ヒョウ6頭、チーター1頭、ホッキョククマ1頭、ニホンクマ2頭、マライクマ1頭、チョウセンクロクマ2頭、ホクマンクマ(北満州)2頭、アメリカヤギュウ(野牛)2頭、インドゾウ3頭、アミノメニシキヘビ1頭、ガラガラヘビ1頭などの多数にのぼった。しかし巨獣でも、カバやキリン、そしてワニも陸上では運動遅鈍のためか、命が助かった。
<2009年2月15日 続く>

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戦時中の動物たち №6

2009-02-11 | Weblog
 高島春雄著『動物渡来物語』増訂版(学風書院刊・昭和30年3月発行)。現代語表記にあらためて、同書本文「猛獣渡来考」からの意訳再録です。

 戦争中、動物園のみなさんの悩みは、飼料ばかりでなく、飼育場の拡張も鉄柵を必要とするものなどはできなくなってしまった。軍への金属優先供出のためである。そのためある動物では、飼育制限がおこなわれた。上野動物園でカバのオスとメスとが同じ水槽にいない理由はここにあった。
 ライオンの子どもも、ある大きさまで育てば、ほかの動物園やサーカスなどに身売りされてしまう。しかしそうかといって、動物園がだんだんさびれていってはならない。動物園は科学教育機関として、また厚生施設として、おとなにも子どもにも、活発に利用されるべきものである。
 いまの時世にあっては、外国との動物の交換、あるいは購入も望めない。東アジア諸国との動物の交換なり融通は、戦争初期にはおおいに期待されたが、戦局の悪化とともに、運輸上の困難でなかなか実現することが困難になってしまった。ことに昭和18年の夏からは、南方の猛獣を期待することは、不可能になったのである。
 戦後のいま(昭和20年暮れ)、これからの各種動物の収集方法としては、動物園や水族館ごとに、積極的に交尾繁殖を計って各園の交流を促し、動物によっては、たとえばアシカやオットセイなど、共同で購入できる方法を考えるべきであろう。
 動物補充の困難な現在、多数の園の人気者を失ってしまった動物園、水族館のみなさんのこころは、まさに秋風落莫たるものがあったであろうと、同情にたえない。
 われわれにしたところで、何年か飼った犬や猫の死にあえば、悲しいに決まっている。昭和18年5月の日本動物園水族館協議会開催のころには、非常措置にふれる必要がなかったのに、その後の戦局悪化のため、来園者に評判の猛獣や大型動物たちを、園では自らの手で死に至らしめることを強行せねばならなくなった。
 温和や遅鈍な動物ばかりが残って、これからの動物園は当分、井之頭自然文化園のようなやりかたをせざるを得ないであろう。また熊本動物園のように珍奇な鳥獣を多く持ち、飼育状況の良好な動物園は、なんとか原状が維持できるであろう。また一法として、ほかの園より珍しい動物を一時、移転借用するという措置の実行を熱望する。
<2009年2月11日>
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若冲 五百羅漢 №9 <若冲連載28>

2009-02-08 | Weblog
江戸時代の石峰寺五百羅漢「天明七年石峰寺図」

 石峰寺の五百羅漢についてのもうひとつの古い記述は、天明七年(一七八七)の小川多左衛門の書付です。石峰寺が所蔵する掛軸画「天明七年石峰寺図(仮称)」の裏面に貼られていました。「洛南深草石峰禅寺/有石佛五百羅漢/予命画師令寫祈置也/山科梅本寺主俊類和尚依需/為亡息悦堂祖閣居士/菩提喜捨正与者也」。子息の菩提を弔うために、画師に依頼して石峰寺の五百羅漢を描かせ、山科の梅本寺に寄進したものであるという。
 天明のはじめに釈迦牟尼を五百羅漢たちが取り囲む景観が完成した後、わずか五年か六年ほどにして、壮大な数え切れないほど多数の石像群が、後山を覆っています。この図はたぶん、将来計画を含んだ設計図を参考に、若冲工房の弟子のだれかが描いたのではないかと思います。もっと検討が必要ですが、おそらくこの画に近い無数の石像群の景観が、石峰寺裏山に出来上がっていたのでしょう。
 ところで石峰寺では毎年、九月十日に若冲忌を開いておられます。若冲の命日には二説あり、九月八日か十日のいずれか結論が出ません。しかし筆者が同寺で確認した過去帳は寛政十一年改稿と記され、翌年の十日の項に「壽八十八歳 寛政十二庚申 斗米翁若冲居士 九月入祠堂」とあります。亡くなる前年に新調された過去帳です。また彼が埋葬されたのはこの寺なのです。九月十日に入寂したに間違いありません。八日か十日かの論争は、これで終結しました。
 今年の若冲忌には、画軸「天明七年石峰寺図」をぜひに披露していただこう。ご住職の阪田良介和尚とご母堂の育子さんに、お願いしようと考えています。
<2009年2月8日 南浦邦仁>
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戦時中の動物たち №5

2009-02-07 | Weblog
 連続で紹介しています高島春雄著・現代語訳『動物渡来物語』ですが、先日手に入れた増補版(昭和30年4月刊)の「はしがき」を現代語にかえて紹介します。なお片瀬の連載が長い間、更新されず(更新せず)、なまけ癖には辟易しております。「自由」きまま尊重ですので、ご容赦を。

「本書第一版は昭和22年という緒物資欠乏、人心なお落ち着かぬ時代に出版されたので、表紙はこのうえなく簡素、本文用紙はいたってお粗末であったが、著者としては出たことだけで十分の喜びであった。この第一版は昭和24年までにあらかた売り切れてしまい(その間に表紙だけは美しくなって発売されたようであるが)、発行元の日本出版社に損失をかけずに済んだのは、著者としての喜びであった。
 発行後、多くの同好諸君からいろいろご教示をいただいたのは感謝にたえない。戦災により動物渡来関係の資料をすべて失ってしまったわたしは、意気消沈して、この関係の調査を再開するこころが容易に起きなかったのであるが、次第に世のなかが落ち着いてくると、妙なものでペンギンあたりを手はじめに、またもこり出し数編の考察を書いた。
 昭和22年にわたしは、東京文理大から山階鳥類研究所に移り、24年には慈悲深かった父をうしない、それから転居したり身辺に異変が相次いだ。思いがけずこの夏、わたしと最も関係深い出版社・学風書院から本書の増訂版を出したいとの相談を受け、いま面目を一新して江湖の各位に見えるを得たのは、わたしにとり深い喜びである。また発行所が学風書院であることを、亡き父もさぞや満足しているにちがいない。」[後略]
 昭和29年11月3日 文化の日
<2009年2月7日 みずのと・ひつじ 旧暦1月13日>
コメント (1)
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