ふろむ京都・播州山麓

京都の西山&播州山麓から、気ままな雑話をお送りします。長期間お休みしていましたが、復活近しか?

幸福の歴史年表 後編 (20世紀以降)

2012-05-29 | Weblog
 この年表は、もとは5月6日付けの1本立てでした。加筆を重ねるうちにずいぶん長い文章になってしまい、そのため本日5月29日付けで、20世紀以降を<後編>にしました。ご興味あれば、あわせて前編もご覧ください。これからもこりずに加筆していくつもりです。なお問い合わせがありましたが、この文はどの宗教教団とも一切関係がありません。


1902年 ロシアの作家マクシム・ゴーリキー『どん底』
 「仕事が楽しみなら、人生は極楽だ! 仕事が義務なら、人生は地獄だ!」

1903年 ドイツの小説家トーマス・マン『トニオ・クレエゲル』 「幸福とは愛すること」

1905年 「幸(さいわひ)住むと人の言ふ」
 上田敏が訳詩集『海潮音』を出版。ドイツ詩人カール・ブッセの「山のあなた」が有名。

1906年 アメリカでラジオ放送がはじまる。1920年には映画トーキーが誕生。前世紀から大衆に普及した新聞と相まって、マスメディアが勃興期を迎える。アメリカでは大衆心理を操作し、消費意欲を刺激するビジネスシステムと捉えた。広告理論が発展する。一方、ヨーロッパではファシズム、ムッソリーニやヒトラーが政治での利用、大衆を動かすためのシステムとして発展させていく。

1908年 幸福の青い鳥
 ベルギーの作家メ―テルリンクが夢幻劇、チルチルとミチルの「青い鳥」を初公演。クリスマス用の作品を頼まれ書きあげたのは1906年。戯曲『青い鳥』出版は1909年。
 チルチルは劇のエンディングでこう語ります。幸福の鳥が飛び去って、ミチルに「いいよ。泣くんじゃないよ。ぼくまたつかまえてあげるからね。(舞台の前面に進み出て、見物人に向かい)どなたかあの鳥を見つけた方は、どうぞぼくたちに返してください。ぼくたち、幸福に暮すために、いつかきっとあの鳥がいりようになるでしょうから。」-幕ー
 メーテルリンクは1911年にノーベル文学賞を受賞。

1908年 米メリー・ベーカー・エディ「クリスチャン・サイエンス・モニター」紙創刊。彼女の癒しの理論、病気は心の幻想に過ぎず楽観を主義とする。その後アメリカ人のイデオロギーと化していく「ポジティブ・シンキング」の開祖ともよべる。

1912年 夏目漱石『行人』
 「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止(とど)まる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許してくれた事がない。」

1914年~1918年 第1次世界大戦。

1916年 ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミン「古代の人間の幸福」 「幸福な人間はあまりにも空虚な、中身のない殻でしかなく、自分自身の姿を見て恥じ入るほかないかのごとくなのだ。それゆえに、近代の幸福感覚には了見の狭さと密やかなさが同時に備わっていて、その感覚が幸福な魂についてのある特有の表象を生み出した。すなわち、幸福な魂は、たえず活動しながら、そして感情をわざと狭めながら、みずからの幸福を自分自身に対して否認する、という表象を。」

1917年 ロシア革命

1917年 チルチルの声
 宮沢賢治がメーテルリンク『青い鳥』から影響を受けた短歌がある。「雲とざす きりやまだけの柏ばら チルチルの声かすかにきたり」

1918年 ドイツの作家ヘルマン・ヘッセ『マルティーンの日記から』 愛されることは幸福ではなく、愛することこそ幸福だ。幸せである者とは、たくさん愛することのできる者である。

1924年 宮沢賢治
 イーハトーヴ童話『注文の多い料理店』、賢治生前唯一の童話集を刊行。広告を載せても1冊の注文も来なかった。同書には童話「かしわばやしの夜」(1921年最終稿)も収められているが、『青い鳥』の森の場面が再び登場する。
 後の『銀河鉄道の夜』は、「本当の幸福」を追求するのが大きなテーマになっている。「誰だって、ほんたうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。」「もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って……」。タイタニックの乗客だった青年は「神のお前にみんなで(列車に同乗してきた姉と弟と)行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。」「きっとみんなのほんたうのさいはい(幸い)をさがしに行くよ。」
 『農民芸術概論綱要』序論には「世界がぜんたい幸福にならないうちは幸福はあり得ない」

1925年 フランスの哲学者アラン(エミール=オーギュスト・シャルティエ)『幸福論』
「幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのだ」「人は幸福をさがしはじめるや否や、これを見いだしえない運命におとしいれられる。そしてここにはなんの不思議もない。ショーウィンドーのなかの品物のように、あなたが選び、金を払い、持ってくることのできるものではない。…幸福が未来のなかにあるように思われるときには、よく考えてみるがいい。それはつまり、あなたがすでに幸福をもっているということなのだ。期待をもつということ、これは幸福であるということである。」「幸福たらんと欲しなければ絶対に幸福にはなれぬということだ。それゆえ、自分の幸福を欲し、それをつくらなければならない。」

1926年 川端康成「一人の幸福」 紀州に暮す男が、満州で奴隷のような境遇で暮らす少年からの手紙を読む。姉の勝子にあてた文だが、男は満州まで行って、少年を紀伊に連れ帰ろうと決心する。「彼は嬉しかった。弟の世話をしてやっていれば、勝子とも生活が触れて行くことが出来る。それに自分の力で一人の少年を幸福にしてやることが実に明らかなのだ。一生の間に一人の人間でも幸福にすることが出来れば自分の幸福なのだ。」

1926年 お誕生日
 曲「ハッピー・バースディ・トゥ・ユー」が誕生。1930年代にはこの歌が家族のこころの支えになった。またこのころから育児書出版が増え「あらゆる面で、子どもに最大限の幸福を授けることが育児の目的」とする主張が主流になっていく。

1928年 米国作家ナポレオン・ヒル『思考は現実化する』 初期ポジティブ・シンキングの成功哲学本。全世界で7000万部の大ベストセラー。 

1929年 世界大恐慌がはじまる。

1930年 イギリスの哲学者バートランド・ラッセル『幸福論』
 「幸福な人とは、客観的な生き方をし、自由な愛情と幅広い興味を持っている人である。」

1936年 米国デール・カーネギー『人を動かす』 アメリカ社会で根強い思想であるポジティブ・シンキング。実際に幸せな気持ちでいるかどうかはともかく、誠実を装って、成功し幸福であるかのようにふるまえば、ものごとはうまく行き、まわりの人を動かすことができる。カーネギーはカーナギーだったが、実業家のカーネギーにあやかって改名した。

1939年~1945年 第2次世界大戦。

1941年日米英開戦直前 篠田正浩監督映画『スパイ・ゾルゲ』(2003年公開) ゾルゲ「人は幸福にはなれない。いつも戦争をしている。良いことをしたくても、いずれ死ぬ。仕方ない。」 

1944年 戦死遺稿 フランスの作家アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ『星の王子さま』
 キツネが王子に「友だちになろう」といった。そして「いつも、(王子が)おなじ時刻にやってくるほうがいいんだ。あんたが午後四時にやってくるとすると、おれ、三時には、もう、うれしくなりだすというものだ。そして、時刻がたつにつれて、おれはうれしくなるだろう。四時には、もう、おちおちしていられなくなって、おれは、幸福のありがたさを身にしみて思う。」
 またキツネは王子にアドバイスした。「さっきの(内緒の)秘密をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」
 そのあと、ぼくに出会った王子は、地球の「みんなは、特急列車に乗りこむけれど、いまはもう、なにをさがしてるのか、わからなくなってる。だからみんなは、そわそわしたり、どうどうめぐりなんかしてるんだよ……ごくろうさまな話だ……」

戦中のアウシュヴィッツ強制収容所 ヴィクトールE.フランクル 原題『強制収容所における一心理学者の体験』
 幸福の対極かもしれませんが、「とうてい信じられない光景だろうが、わたしたちは…鉄格子の隙間から、頂が今まさに夕焼けの茜色に照り映えているザルツブルクの山並みを見上げて、顔を輝かせ、うっとりとしていた。わたしたちは、現実には生に終止符を打たれた人間だったのにーあるいはだからこそー何年ものあいだ目にできなかった美しい自然に魅了されたのだ。」
 この世のものと思えない輝く夕焼けの空、たえず形を変えていく雲。「わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが言った。『世界はどうしてこんなに美しいんだ!』」
 フランクルは気のあう仲間たちと取りきめた。一日に少なくともひとつのジョークを考え、互いに笑いあうことを。ユーモアは「自分を見失わないため魂の武器である」(日本語訳『夜と霧』1956)

1945年死去遺稿 三木清『人生論ノート』「今日の人間は幸福について殆ど考えないようである」という時代であった。かつて古代ギリシャ、ストア派、アウグスティヌス、パスカルなどはみな「人間はどこまでも幸福を求めるという事実を根本として彼等の宗教論や倫理学を出立したのである。」「我々の時代は人々に幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸なのではあるまいか。幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか。」「人格は地の子らの最高の幸福であるというゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。幸福になるということは人格になるということである。」

1945年 柳田国男『先祖の話』 御先祖様の霊魂によって、現在生きているわたしたちはみな守られている、とかつての一般的な日本人は信じていた。幸福は各個人の努力だけで築けるものではなく、先祖が家族、イエや村を見守り助力してくれてはじめて実現する。盆になれば祖霊は帰ってくるしさらには正月にも、年に「二度、もしくは春秋の彼岸の中日その他、別に定まった日が有った…戻って来て子孫後裔の誰彼と、共に暮らし得られるのが御先祖であった。」

1946年 坂口安吾「堕落論」正続 戦争末期「私は疎開をすすめ又すすんで田舎の住宅を提供しようと申し出てくれた数人の親切をしりぞけて東京にふみとどまっていた。」すべての友達が東京から去ったが「然し廃墟に生き残り、何か抱負を持っていたかと云えば、私はただ生き残ること以外の何の目算もなかったのだ。」
 そして占領後、「米人たちは終戦直後の日本人は虚脱し放心していると言ったが、爆撃直後の罹災者達の行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直な運命の子供であった。」
 「生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。…ただ、少しずつ良くなれということ」

1946年 日本国憲法第13条「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

1946年 パラマハンサ・ヨガナンダ『あるヨギの自叙伝』(日本語版1983年) 「外のものばかりを追い求めていると、いつの間にか内なるエデンの園から迷い出してしまう。外のものは、魂の幸福をまねた見せかけの喜びしか与えてくれない。」

1948年 太宰治「家庭の幸福」 「家庭の幸福は、或ひは人生の最高の目標であり、榮冠であろう。最後の勝利かも知れない。…家庭のエゴイズム、とでもいふべき陰鬱な観念に突き當り、たうとう、次のやうな、おそろしい結論を得たのである。/曰く、家庭の幸福は諸悪の本(もと)。」

1949年 ドイツの作家ヘルマン・ヘッセ「幸福」 「かつてあの伝説上の『幸福な』人たちが本当にいたとしても、あるいは嫉妬をもってたたえられた幸運児や太陽の寵児、そして世界支配者も、わずかに時折、ただ恩寵に恵まれた華々しい時または瞬間には大きな光に照らされたにしても、彼らは別の幸福を体験することや、別の喜びの分け前に与ることはできなかった。完全な現在の中で呼吸すること、天空の合唱を共に歌うこと、世界の輪舞を共に踊ること、神の永遠の笑いの中で共に笑うこと、それこそ幸福に与ることである。」

1953年 米国レイ・ブラッドベリSF小説『華氏451度』 読書それ自体が禁じられた社会。焚書という仕事に疑問を持つ主人公に上司は「国民を不幸にしたくなければ、すべての問題にはふたつの面があることを教えてはならん」。悩まず幸福に生きるには、多様な考えに触れることは邪魔だ。
   
1958年 フランスの思想家ジョルジュ・バタイユ「純然たる幸福」 「純然たる幸福は瞬間のなかに存在する。…私は、私の幸福について語りたいし、語らねばならない。だがそれが原因で、何とも理解しがたい不幸が私を訪れる。…今の私においては、幸福について語りたいとする欲求が苦痛になっている。言語はけっして純然たる幸福をめざさない。言語は行動をめざす。行動の目的は失われた幸福をもう一度見出すことだ。しかし行動そのものはこの幸福に到達することができない。というのも幸福であったら私はもはや行動しないであろうからだ。」

1960年代 コンシューマリズム
 あらゆる業界の広告宣伝担当者たち(あらたに確立された職業)は、製品と幸福を結びつけることで、売上が飛躍的に伸びることを発見した。幸福文化が20世紀半ばに一般化し、その後ほぼそのまま現在まで継続している。

1963年 ニコニコマーク
 黄色地に笑顔がかわいい「スマイリー・フェイス」をアメリカの広告会社経営者ハーベイ・ポールが作った。幸福ブームに便乗した成果である。爆発的にヒットし、10年足らずでライセンス収入は5000万ドルを突破した。
 このころTVやラジオ番組に挿入される効果音の笑い声「ラフ・トラック」が考案される。多少つまらない番組でも、視聴者は間違いなく楽しい気分になれるようになった。アメリカABCテレビドラマ「奥さまは魔女」(1964~1972)、日本テレビ「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」(1969~1971)など。また写真を撮るときに、笑顔のポーズをとるのが流行になる。

1968年 ロバート・ケネディの演説
 アメリカのGNP(国民総生産)は「大気汚染やタバコの広告、幹線道路から死体を取り除くための救急車を計算に入れています。自宅の扉や監獄を破られないための特殊な鍵を計算に入れています。……しかし、我々の子どもたちの健康や教育の質、遊びの楽しさは含まれません。」

1974年 イースタリンのパラドクス
 米国の経済学者リチャード・イースタリンが「イースタリンの逆説」を提唱。国民の幸福度に関する意識調査の結果は、ひとり当たりの所得とあまり相関しないという。しかし反対論や異論も多い。

1976年 GNH(国民総幸福量)
 ブータンのワンチュク前国王はGNHを提唱した。

1977年 幸福の黄色いハンカチ
 山田洋次監督の映画「幸福の黄色いハンカチ」公開。高倉健・倍賞千恵子・渥美清・武田哲也・桃井かおりほか。ストーリーのヒントは「ニューヨーク・ポスト」紙に1971年掲載のコラム「G o i n g H o m e」。物語の展開は、米映画「シェーン」(1953)から山田は得たという。(京都在住の野田さんからこの件で指摘がありました。「下敷きになったのは、アメリカのポピュラーソング『幸せの黄色いリボンでは?』。調べてみます。ありがとうございました。)

1987年 ブータン
 英国経済紙「フィナンシャル・タイムズ」がG N Hを大きく取り上げた。それ以降、「幸福」巡礼者がブータンに長蛇の列をなすことになった。

1991年 ソヴィエト連邦崩壊

1992年 小平『南巡講話』発展しつつある新玔特区で「社会主義の道は、共同富裕が最終目標だ。条件のある地区が先に豊かになるようにしたが、貧富の差が広がり、両極分化が生じるかもしれない(当時は現在と違って貧富差が少なかった)。解決法は、豊かな地区が多くの税を納め、貧困地区を支援することだが、早くやりすぎ、発展地区の活力を弱め、後進地区の『大釜の飯』(国への依存)を促してもいけない」。翌年には実弟につぎのように語った「富をどう分配するかは大問題で、この問題の解決法は発展を図るよりむずかしい。一部のひとが富を得て、大多数が持たない状況が進めば、いずれ問題が起きるだろう。」先富論の生んだ格差拡大と腐敗蔓延はその後、深刻化している。

1997年 辺見庸『もの食う人びと』角川文庫あとがき
 「一切の価値も意味も商品化と消費にしか還元しないがゆえに、人が食いかつ生きることの本来の価値と意味のすべてをぼろぼろと剥落させてしまったこの(日本)列島では、身体性の回復というアイディアさえもが商品化可能なフィクションでしかない。」

1999年 ダライ・ラマ14世『幸福論』(日本語版は翌年刊)
 物欲や財欲、また感覚のせっぱつまったその時の「欲求を満たしたときの一瞬の高揚感は、麻薬中毒者が欲求を満たしたときに感じるものとそう違わないかもしれない。一時的には救われたように思っても、またすぐにもっと欲しくてたまらなくなる」
 本当の幸せとは「心の平和」である。他人の幸福を考えて行動することで、心の平和は得られる。消えることのない幸せと喜びは、すべて思いやりから生まれる。

2000年 村上龍『希望の国のエクソダス』 「この国には何でもある。だが、希望だけがない」エクソダスは脱出。

2001年~2009年 米国ブッシュ前大統領
 アメリカに深く根付いたポジティブ・シンキングという異形な幸福論。典型がブッシュ前大統領である。「彼がたえず口にしていたことは『ポジティブ(楽観的)であれ』ということだった。彼の外交政策の信条は、なんと『楽観的であれ』ということだったのです。彼のもとで働いていたライス国務長官(当時)は『大統領は楽観的であることを要求してくる』といっていたそうで、外交上の様々な懸念があってもそれを口に出せなかったようです。この『ポジティブネス』(広く情報を集め、深く考えることの欠如)がイラク戦争をまねいたとすればとんでもない話で、…アメリカではポジティブであることは、個人の気分や状態というよりもイデオロギーになっている…科学主義・実証主義と手を携えて、『幸福の心理学』や『幸福の社会学』や『幸福の経済学』などを生み出している。何事もいったん思い込んだら、ことごとく『科学』にしなければ気が済まないアメリカ人らしく、いたるところに『幸福の科学』が登場している。(佐伯啓思『反・幸福論』)

2002年~ 47人の幸福「月刊PHP」連載 五木寛之「幸せの基準を低くする」 山田太一「自分が心地よい幸福のサイズこそ」 田辺聖子「面白いことをかき集めて人生を楽しむ」 森光子「一緒の輪の中で、皆が微笑んでいる」 羽生善治「勝負も人生も、苦しさの後にこそ幸福がある」 島倉千代子「それでも笑って生きる」 小椋佳「幸福は見つけるものではなく、創り出すもの」 村田兆治「本物に触れること」 加藤登紀子「自分自身のやり方で、ゆっくり歩いていきたい」 浅井愼平「人は誰でも、幸福の種を持っている」 阿久悠「皆の幸せの先に、個人の幸せがある」 三浦雄一郎「人生は、ゆっくりと眺めながら歩くほうがいい」 内館牧子「すべてが手に入るという幻想を捨てる」 朝田次郎「仕事に集中し、遊びにも集中する」 堀田力「笑顔こそわが人生」 佐藤愛子「楽天的に生きる」 稲盛和夫「自分の中の美しい心に目覚める」 堀場雅夫「本気でやれば、すべては必ずおもしろくなる」 櫻井よしこ「物やお金から、心を解放させる」 藤本義一「心地よい疲れと嫌な疲れの差は大きい」 陳俊臣「喜びも、悲しみも、ほどほどがいい」 森本哲郎「幸せは必ず足元にある」 河合隼雄「道草の途中に落ちている幸せ」 曽野綾子「幸せと不幸せは、いつも半々」 黒鉄ヒロシ「幸せという言葉の幻想に惑わされない」 瀬戸内寂聴「互いを思いやる気持ちこそ」 養老孟司「世間の奇妙な常識にとらわれない」 中坊公平「心に残る思い出の中にこそ」 谷村新司「心の命ずるままに」 紫門ふみ「とにかく、やりたいことをやってみる」 秋元康「あなたはもう、幸せに満ちている」 黒柳徹子「大人が子どもの夢を奪わないこと」 柳田邦男「人は、不幸を受け入れながら幸せになる」 玄侑宗久「思い通りにならない人生だからこそ」 さだまさし「幸福は、すでにあなたのポケットに入っている」 大林宣彦「人生に降る雨が、幸福に気づかせてくれる」 夢枕獏「とりあえず二番目の幸福を目指してみる」 中村メイコ「精一杯走る幸福・ふと足踏みする幸福」 桂三枝「幸せは、人が発する熱とエネルギー」 九重貢「自分に負けたら、幸せはやってこない」 安藤忠雄「幸福は、無我夢中の中にある」 仲代達矢「個性を磨いて人生の主役を演じる」 萩本欽一「ずっと僕は、幸せだった」 堀江謙一「ヨットマンの幸福」 喜多郎「変わらないこと、知らないことの幸せ」 水木しげる「人生を、いじくり回してはいけない」 山田洋次「幸福の原点は、身の丈に合った生活の中にある」(『幸福論』2006年刊)

2006年 米ロンダ・バーン『ザ・シークレット』 古代から中世錬金術、そして現代にいたる「引き寄せの法則」によると、欲しいものを常にイメージし考え続ければそれら願望は実現し手に入る。宝くじの当選番号も、自分をまったく知らない他人でも、その思考によって操れる。アメリカを代表するポジティブ・シンキングの大ベストセラー。わずかの期間で、本とDVDあわせ400万部をこえた。

2009年 米バーバラ・エーレンライク『BRIGHT-SIDED』(日本語訳『ポジティブ病の国、アメリカ』2010年刊)
 アメリカ人は陽気で、快活で、楽天的で、浅薄である。アメリカン・イデオロギーと化したポジティブ・シンキング(楽観思考主義)の現状と問題点を理解するための好著。

2011年3月11日 佐伯啓思『反・幸福論』 「命も財産もそして築きあげてきた幸福もすべて自然の威力の前では意味をもたないのです。人間がその存在の意義をいっきに否定されること、そこにこそ今回のような大災害の意味があるのです。」「災害のもたらす死への<恐れ>ではなく、死への<畏れ>と<おののき>こそが<宗教的なもの>へと触れる瞬間をもたらすのです。」

2012年 「ハーバード・ビジネス・レビュー」2012年5月号「幸福の戦略」特集
 同誌ディレクターのジャスティン・フォックスは「幸せはお金で買えない。しかし、幸せを測定する能力は買えるかもしれない」と述べている。

2012年 米ハーバード大マイケル・サンデル『それをお金で買いますかー市場主義の限界』 企業は活動の目的を、利益の最大化から、人々がともにより良く生きるための「公共善」「共通善」の追及へと広げるだろう。新自由主義経済学は、企業の唯一の目的は株主価値の最大化であり利益の追求としてきた。しかし企業にとっては、株主以外にも顧客や取引先、従業員さらには地域社会も重要である。 

<2012年5月29日 訂正加筆中>

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タイタニックの日本人(2)

2012-05-27 | Weblog
 タイタニックに乗船していたただひとりの日本人、細野正文(1870~1939)は最後の最後に救難ボートに乗り移った乗客です。20隻あったボートの最終の1隻です。ボートを操る船員が叫びました。「あとふたり!」。ふたり目に艇に向って飛んだのが細野です。船からボートに乗り移ったほんとうに最期のひとりでした。
 正文の孫はミュージシャンの細野晴臣氏。彼の父は祖父の帰国後に生まれました。もし正文が水難死しておれば、現在活躍中の細野晴臣は存在しなかったのです。また生まれたのは1947年。祖父の死の8年後で顔も知りません。

 晴臣はつぎのように語っています。祖父が「生還して、鉄道局の同僚も家族も喜んで迎えてくれましたが、やっぱり軍国時代で世間体があったんでしょうね。帰国後役職から降りて、以来嘱託として勤めていたそうです。男のくせに助かって、なんで生きて帰ってきたんだ、死んでこい、と。執拗に攻撃されたこともあったみたいです。」

 祖父の細野正文がもし生還していなかったら、いまの細野晴臣はなかった。彼はいつもこの問題にさらされているという。「うちの父自身が祖父が帰ってきてから生まれた子供なので、父自身がそういう気持ちだったんでしょうね。」
 「普通の人でもなぜ生まれてきたんだろうと考えることはあるでしょうが、こういう事実として生まれてきたかどうかっていうことを突きつけられた…でも、生まれのことはどうしようもない。それは宿命だから。運命は自分で自由に出来るけど、宿命はどうしようもない。…ですから、僕の宿命は祖父の運命が作ったものなんです。だから責任を持ってくれよって言いたくなっちゃうんですよ、祖父にも。ほんとに正しかったんだろうな、信じてるからなと。」
 晴臣はタイタニックが沈んだ現場に行きたいという。「そこに行って、決着をつけたい。生きてきた家族としては、亡くなった方々に対して、そこでお祈りを捧げておかないと落ちつかない」
 彼がいちばん思うのは、沈んだ人はもちろん、生き残った人にとっても、とてつもなく大変な事件だったということである。
 それはある意味、東北の大津波も同じではないか。死者はもう悩み苦しまない、しかし生者はつねにつねに抱き続けている。

 細野正文がボートに乗り移ったときの様子を、彼の手記からみてみます。タイタニックに20隻あった救命ボート、その最後の1隻の物語です。これに乗らなければ、彼の生命はまずない。指揮員がボートに乗った人数を数え、定員まで「あとふたり」と叫んだ。すると甲板から男性ひとりが、吊り下げられたボートに飛び降りた。あとひとり乗れる。細野も思わずボートに向かって飛んだ。そして飛びこむと同時に、ボートはするすると降りて海に浮かんだ。以下は手記原文です。

 生命モ本日ニテ終ルコトト覚悟シ別ニアワテズ、日本人ノ恥ニナルマジキト心掛ケツツ尚機会ヲ待チツツアリ。此間船上ヨリハ危急信号ノ花火ヲ絶エズ上ゲツツアリ、其色青ク其声スゴシ。何トナク凄愴ヲ感ズ。船客ハ流石ニ一人トシテ叫ブモノモナク皆落付キ居レルハ感ズベシ。ボートニハ婦人連ヲ最先ニ乗ス。其数多キ故右舷ノボート四隻ハ婦人丈ニテ満員ノ形ナリ。其間男子モ乗ラントアセルモノ多数ナリシモ、船員之ヲ拒ミ短銃ヲ擬ス。此時船ハ四十五度ニ傾キツツアリ。ボートガ順次ニ下リテ最後ノボートモ乗セ終リ既ニ下ルコト数尺、時ニ指揮員人数ヲ数ヘ今二人ト叫ブ其声ト共ニ一男子飛ビ込ム。余ハ最早船ト運命ヲ共ニスルノ外ナク最愛ノ妻子ヲ見ルコトモ出来ザルコトカト覚悟シツツ凄愴ノ思ヒニ耽リシニ今一人ノ飛ブヲ見テ責メテ此ノ機ニテモト短銃ニ打ルル覚悟ニテ数尺ノ下ナル船ニ飛ビ込ム。幸ナル哉、指揮者他ノ事ニ取紛レ深ク注意ヲ払ハズ且暗キ故男女ノ様子モ分ラザリシナランカ、飛込ムト共ニボートハスルスルト下リテ海ニ浮ブ。

参考 細野晴臣談「編集された『事実』」 筑摩書房『タイタニックの最期』所収解説 1984年(ウォルター・ロード著原書1955年)ちくま文庫
<2012年5月27日 この稿つづけます>
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タイタニックの日本人 (1)

2012-05-22 | Weblog
 ちょうど100年前の1912年4月15日、豪華客船タイタニックは沈没しました。このブログで4月に2度、タイタニックのことを書きました。
 ひとつは「タイタニックと宮沢賢治」。童話『銀河鉄道の夜』に、同船に乗って犠牲になった3人、家庭教師の青年と姉弟が登場します。
 それから「タイタニックとマッカーサー」です。マッカーサーが愛した詩に、サムエル・ウルマン作「Youth」<青春>がありますが、この詩にもやはりタイタニックの無線電信のことが出てきます。

 タイタニックには日本人がひとりだけ乗っていました。生還した細野正文(1870~1939)です。彼は後の国鉄、鉄道院の官僚ですが、留学でロシア・ドイツ・フランスをまわり、帰国のためイギリスからタイタニックに乗り込み、アメリカ経由で日本に向かっていました。
 細野の長男は日出児(新潟県中蒲五泉実業高校教諭)、二男は日出男(中央大学名誉教授・交通学)、そして六男の子がミュージシャンの細野晴臣さんです。晴臣氏はなんと、アニメ映画「銀河鉄道の夜」(1985年)の音楽を担当しました。タイタニックからと思われる無線電信のことが、アニメ「銀河鉄道の夜」には出てきます。讃美歌が電信されてきましたが、宮沢賢治の原作にはこの話しはありません。
 タイタニックに乗船したただひとりの日本人の細野は、婦女をさしおいて生き残ったとして受けた非難中傷。また「銀河鉄道の夜」のこと、そのようなことを数度記したいなと思っています。まず第1回はタイタニック沈没時の様子です。乗客総数2207名。死者1500名以上。

 1912年4月14日午後11時40分。タイタニックは氷山に衝突し、わずか10秒ほどで90メートルもの長さの亀裂が生じ浸水がはじまる。

 翌15日午前0時5分。スミス船長は救命ボートの準備と船客(1等と2等客)を甲板に集めるように指示。救命ボートは16隻、折りたたみ式ボート4隻、合計20隻のみが備えられていた。本来、不沈が信じられていたタイタニックには不要なボートである。

 0時15分より、無線係のフィリップスは救助信号CQDと、タイタニックを意味する符号MGYを、繰り返し繰り返し打った。その後0時45分より、当時最近の国際会議で定められていた新救助信号のSOSのことを知り、旧規格のCQDから切り替えた。

 0時30分。「ご婦人と子どもさんは、ボートにお乗りください」とアナウンスされた。乗客の緊張を緩和するために、船のバンドはジャズを演奏していた。

 0時45分。はじめてボートが海面に着水した。しかし乗ったのは定員の半分以下。まだ乗客の危機感は緩く、夫婦連れや独身男性の移乗も認められた。以降、続々とボートが降ろされた。

 0時45分から、急難花火信号を打ち上げる。

 1時。船首から沈みかける。甲板ではバンドが曲「ラグタイム」を演奏した。船尾では3等室の移民たちが押し合いへし合いし、先を争って残ったボートに乗ろうとした。乗務員は空に向って銃を発射した。

 1時20分、それまで定員以下のボートが多かったが、残った艇は定員以上に乗せ出した。

 1時30分、ボートが海面に降ろされると、運転士のひとりが小銃をつきつけて、3等客の移民たちの割り込みを防いだ。

 ある婦人は、愛犬を連れてボートに乗り込もうとして同乗を拒絶され、船に戻って愛犬と運命をともにした。
 デパート王として有名なストラウス夫妻の妻が乗舟を断った。「私はいままで、主人のそばを離れたことはありません。どうして、いま離れなければならぬのでしょう」。夫は乗舟を懇願したが、妻は強く拒み通した。
 アリソン夫妻は、幼いロレーヌと親子3人で船に残った。夫と別れることを拒んだ妻は娘と夫を抱きしめた。1・2等船客の子ども30人のうち、亡くなったのはただひとり、ロレーヌだけである。

 1時45分、前甲板はすでに海中に没し去った。

 2時、タイタニックは船首を海中深くに沈め、船尾は空高く突出していった。

 2時5分。最後のボート、折りたたみ式D号が海面に向って降りていった。2等船客だった細野はこのボートに奇跡的に助けられた。漂流ののち救助船カルパシア号に収容されたとき、生々しい印象の消えない内にと、偶然上着ポケットに入れていたタイタニック備えつけ反故の便せん2枚に当時の模様を書きつけた。ペン書きの細字で、4000字あまりをぎっしりと綴った。このタイタニックのマーク入り便箋は、いまも細野家に保管されている。

 2時10分、甲板ではバンドが讃美歌「主よ、みもとに近づかん」を演奏し始める。「うつし世をばはなたれて、天がける日きたらば、いよよちかく、みもとにゆき、主のみかおを あおぎみん」
 バンド・マスターのハートレイは、仲間とつぎに讃美歌「秋」を演奏した。「友という友はなきにあらねど、たぐいあらねど、たぐいもあらぬは、主なるイエスきみ、うから同胞もおよびはあらじ、誰かわがためにいのちを捨てし。」甲板の上のひとびとは、つぎつぎと極寒の海に放り出される。

 2時17分。タイタニックからの救難信号が終わった。讃美歌の演奏はまだ続いていた。「波ほえたけり、雲きりたてど、ゆく手をさやに示させたまえ。みひかりみつる、とこ世の国へ、わが主イエスよ、ともないたまえ。主よ、主よ、あらしになやむ、この身をつねにみちびきたまえ。」

 2時18分、タイタニックの灯火がすべて消えた。

 2時20分。不沈船とみなが信じていた世界最大の鋼鉄豪華客船が、永久にその姿を消した。

参考『タイタニック号の最期』ウォルター・ロード著 1998年 ちくま文庫
 『海の奇談』庄司浅水著 1961年 現代教養文庫
<2012年5月22日>
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鯰江さん考(2) 「三井家と鯰江氏」

2012-05-17 | Weblog
 このブログをはじめて、もう5年近くになります。延々と駄文を積み重ねてきたものと、羞恥とともに感心してしまいます。ところでこれまででいちばん閲覧の多い記事は、どうもタイトル<珍しい姓、「鯰江」さんとか>のようです。書いたのは2009年9月27日でした。熱心な読者からのお声もあり、これから何度か鯰江さんのことをまた書いてみようかと思っています。とりあえずのテーマは財閥の三井家と鯰江氏の関係です。

 三井家の始祖とされるのが三井高利です。寛文13年(1673)、江戸日本橋と京都室町に相次いで呉服店「越後屋」を開店しました。高利の父は高俊、祖父は高安。三井氏のルーツがはっきりするのは、三井家遠祖とされる高安からのようです。
 『三井家奉公履歴』には「三井越後守高安は江州<鯰江>より伊勢に移り、その子三井則兵衛高俊、元和年間(1615~1623)松坂に居り、醸酒の業を営む。人呼んで越後殿の酒屋という」。江戸と京の呉服店を越後屋と称したのは、祖父の三井越後守、そして父の造酒屋「越後殿」から来ています。

 『三井家家伝』では、三井備中守鯰江高久から五世の後が越後守高安。天正年中、佐々木氏の滅亡とともに高安は伊勢に流浪し、その子高俊に至って、はじめて松坂に居住した。その妻は殊法大姉。
 三井家始祖高利の祖父は、鯰江城で織田軍と戦った高安。父は伊勢で生まれた高俊。母は商才にたけた法名「殊法」です。

 三井一族はそもそも藤原道長の六男の長家からはじまるともいいます。三井家伝『宗寿大居士行状』には「三井家は藤原氏に出ず。御堂関白道長五世信忠の子信生(のぶお)始めて三井氏を称す。その十一世の孫乗定に至り子なし。佐々木満経(満綱)の二男を養って嗣と為す。之を三井備中守高久と称し、一城の主たり。是より源姓を称し」
 平安末期、京から湖国に移った三井家の祖先は武家となり、戦国時代になると近江最大勢力の佐々木氏の傘下に入る。その後、三井一族の当主、三井出羽守乘定に子がなく、佐々木満綱の二男を養子に迎えた。佐々木高久である。高久は東近江の鯰江庄に鯰江城を築き、三井備中守鯰江高久と名のる。鯰江氏のはじまりは、どうも高久からのようです。彼は本家佐々木氏の七手組旗頭として鯰江城主をつとめ領地をおさめた。佐々木氏に習って、このとき藤原氏から宇多源氏にあらためている。

 安芸浅野藩の家臣だった鯰江氏所蔵の史料がある。家臣の鯰江又右衛門について、次のように記されている。
 「其先宇多源氏にて佐々木六角大膳大夫満綱より出づ男備中守高久 三井出羽守乘定の養子となり 近江國愛知郡鯰江に城を築きて居る之より藤原姓を冒し鯰江を称す 其六代の孫備前守定春の弟三井出羽守従五位下鯰江又太郎 織田信長に仕え三千八百餘石を喰む 天正二年長島一向一揆討伐の際戦死せり 其二男を又右衛門と為す」

 ここに出る備前守定春は前にみました、鯰江定春です。1573年の鯰江城落城のとき、最後まで織田の大軍と戦った人物です。彼はその後、森そして毛利と改姓し、豊臣秀吉の家臣として大坂の河川整備に尽力し、現在では大阪市立鯰江小中学校や公園などにその名を残しています。
 定春の弟は数名いました。ずいぶん前に弟たちのことを調べたのですが、手元に資料がなく記憶ですが、ひとりは信長の配下にあって戦死したむねの記載があったと記憶しています。
 もうひとりの弟の森高次。鯰江と森はともに同族で、高次は鯰江を森にあらためています。高次の息子の森勘三郎高政はのちに毛利姓を名のります。中国の毛利輝元から賜姓されたのですが、江戸時代は豊後佐伯藩主として幕末までずっと続きます。ですから佐伯毛利も鯰江氏です。

 堀江朋子氏は浅野藩鯰江氏史料から、鯰江と三井は同一ではないかと記されています。確かに、三井氏は間違いなく鯰江氏です。三井は三井出羽守、三井備中守あるいは三井越後守などであり、彼らはみな鯰江氏です。
 三井備中守鯰江高久は西暦1500年ころに鯰江城を築き、そのときにはじめて鯰江氏を名のったと考えられます。鯰江城の落城は1573年。これ以降、「三井鯰江」氏は一体の呼称だったのが、伊勢松坂の三井氏と、全国に散った鯰江氏に分かれました。さらに鯰江氏は、森氏や毛利氏へと姓が変化もして行きました。鯰江氏のことは、これからも調べてみようかと思っています。

○参考『姓氏家系大辭典』第3巻 昭和38年 角川書店
 『三井財閥とその時代』堀江朋子著 2010年 図書新聞社
 『三井高利』中田易直著 昭和34年 吉川弘文館 人物叢書 
<2012年5月17日>
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幸福の歴史年表 前編 (19世紀まで)

2012-05-06 | Weblog
 この年表の作成は5月6日にはじめました。最初は確かA4版3~4枚ほどの分量だったと思います。しかしその後、思いつくままに加筆していましたら、ずいぶん長くなってしまいました。このまま書き足していくとその内、ブログの字数制限に達しそうです。それで本日、前編と後編に二分割することにしました。後編は5月29日付けで、20世紀以降です。あわせてご覧ください。

紀元前7世紀 古代ギリシャで貨幣ドラクマの流通がはじまり、世界史上はじめて完璧な貨幣経済に移行。それに伴って、科学や哲学や文学や民主主義が誕生する。詳しくはブログ「ふろむ京都」<お金の正体とは何か?>をご覧ください。

前5世紀ころ 老子「足るを知る」知足の哲学。
 釈尊「一切の行きとし生けるものは、幸せであれ」
 孔子 仁をもって生きることが人生である。仁とは利他のこころ、思いやり慈しみである。財産や高い地位は万人が求める。しかし人として正しい道を歩んだ結果でなければ、いったい何の価値があろうか。

前4世紀ころ 『旧約聖書』「コヘレトの言葉」(伝道の書)「神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから、長生きできず、影のようなもので、決して幸福にはなれない。」

前4世紀 ギリシヤの哲学者アリストテレス
 「幸福はみずから足れりとする人のものである」「人間の幸福は自己の優れた能力を自由自在に発揮するにある」 『ニコマコス倫理学』われわれが達成しうる最上の善は、みなそれは幸福だという。だが幸福とは何であるかと問うと、答えは異論ばかりになってしまう。幸福というものは一時のものではなく、生涯においてのものである。「至福なひと、幸福なひとをつくるものは、一朝夕や短時日ではない」「幸福は最も善く最もうるわしく最も快適なもの」「幸福こそ神与のものだとするのが至当であり、それは最善のものである」
 佐伯啓思『反・幸福論』アリストテレス主義。「善きもの」とは何かと自らに問い、そのための「徳」を積むことこそが「幸福」だ。果てしなく「自由」を求め、「利益」や「権利」を求めることではない。
 岩田靖夫『ギリシア哲学入門』「アリストテレスの倫理思想は、人間がどのように生きれば幸福になれるか、を探求した思想である。(しかし奴隷制など差別構造の社会では幸福思想のみならずギリシア思想には限界がある:筆者注)それを乗り越えるためには、おそらくは幸福概念のコペルニクス的転換が必要となるだろう。その転回とは、<自己実現が幸福である>という現代では常識となったギリシア起源の幸福感から<他者のために自己を献げる>(大なるものに自己を委ねる)ことが善であるというヘブライ起源の発想への転回である。」

前3世紀 ギリシヤの哲学者メトロドロス
 「われわれのうちにある幸福の原因は、外界から生ずる幸福の原因よりも大きい。」

前1世紀 ローマの詩人ホラーティウス 「完全に幸福なものは何もない」 『歌集』わずかなもので暮らすことの出来るというのは幸いだ。…どうして、短い人生に多くを求めて、あくせくとわれらは時を過ごすのだ。 『書簡詩』何ものにも驚かないということこそ、人を幸福にし、幸福を保つ唯一の方策です。…困るのはいずれにしても、何かしら思いがけない出来事が起こるとショックで、そのために心が動揺する点です。

前1世紀 ローマの思想家マルクス・トゥッリウス・キケロ 『義務について』「わたしたちにもっともふさわしいものは、わたしたちにとってもっとも自然なものである。」「人間の本領は真実の探求と追求である。…われわれはなにかを見聞して知識を増やすことを熱望し、…万物を認識することが幸福に生きるために必要だ」「肉体の快楽は人間の優越性にふさわしくない…肉体に与える滋養と手入れは健康と体力を考えて行うべきであり、快楽を基準とすべきではない。」 『大カトー・老年について』徳と知の教師はいくら老いても有意な青年たちに囲まれ、師と慕われ幸せである。/快楽を求めることが、人間にとって最大の敵である。老年期にはそれが失せてくる。ありがたいことである。/旅路の残りが少なくなれば、路銀を余計に欲しがるなどという馬鹿げたこともなくなる。老人は充分幸せに生きられる。/死後、霊魂が完全に消滅してしまうなら、死なんかまったく無視できる。反対に霊魂が永遠に生きる場所に連れて行かれるなら、死はむしろ切望される。いずれにしろ死後、不幸になることはありえない。

前1世紀~ ローマの詩人オウィディウス『変身物語』 「死ぬまでは、だれも幸福ではない」

紀元後1世紀 「ヨハネによる福音書」キリスト教は決して不断の幸福を約束しない。しかし、世に勝つ平和を約束している。
 「マタイによる福音書」”幸い”「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。/悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。/柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。/義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。/憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。/心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。/平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。/義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。/わたしたちのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。」 

 ローマのストア派哲学者セネカ 「われわれはわれわれのものを他と比較しないで喜ぼう。自分以上の幸福を見て苦しむ者は、決して幸福になれない」

2世紀 ギリシアの風刺作家ルーキアーノス
 「まことの富は魂の内なる富ぞ、そのほかは益少なくわざわい多し。」

4~5世紀 キリスト教神学者アウグスティヌス 「幸福な生活」善を欲して欲するものを持つならば、そのひとは幸福である。しかし悪を欲するならば、それらを持っても不幸である。恵み深い神を所有するひとは幸福である。真理によって最高の限度にまで達した人は誰でも幸福だ。これが魂にとっては神を所有すること、すなわち神を享受することだ。

1260年 日蓮『立正安国論』「国土泰平天下安穏は、一人より万民に至るまで好む所なり、楽(ねが)う所なり」 日蓮は、個々人が内面において自己満足するだけでは不十分と考えていた。国土を客観的に改造することによって、人々がその中で幸福を実感できる理想社会を実現することが必要であるという立場をとっていた。(法然の教えとは異なって)人はこの世にあるうちにこそ苦悩から解放され、生の喜びを満喫しなければならない。(佐藤弘夫)
 『法華経』福徳の人「みずから身心をととのえ、心を統一し、戒めをたもち、禅定に入り、瞑想の境地にあり、怒ることなく、悪口を言うことなく…高慢になることなく、怠惰となることなく、聡明であり、しっかりとしていて質問されても怒らないで、生きものにたいして同情の心をもち、かれらにふさわしいことを説く人」サンスクリット原文和訳

14世紀 イタリアの詩人ペトラルカ「学ぶことよりほかには何の幸福も感じない。」

17世紀までのヨーロッパ
 多少悲観的な人生観や表情が好ましいとされていた。キリスト者は「喜びや悦楽を享受することなく、いくぶん悲哀を装い、禁欲に身をおく」者に、神は手を差し伸べた。大半のひとたちは、幸福が訪れると罪の意識に駆られた。罪深き人間にとって、悲しげな振る舞いのなかに慎みを示すことこそ、最たる方法であった。

1662年 フランスの思想家ブレーズ・パスカル死去 遺稿集『パンセ』 「人間は幸福になりたいと思う。幸福になりたいとのほかはなにも思わない。また、そう思わずにはいられない。」「わたしたちは、真理と幸福とをねがい求めずにはいられない。」「人間の関心のすべては、幸福をつかみたいということにつきる。ところが、人間は、当然幸福を保持する値打ちがあることを示すにたるだけの資格を持つことができそうにない。なぜなら、人間は、人間的な幻想を抱いているだけのことで、幸福をしっかり保持して行く力がないからである。」「世間の一般の人々は、財産とか外面的なしあわせとかに幸福があるように思っている。あるいは、せいぜい、気ばらしに幸福があるように思っている。哲学者たちは、そういうことがみな、空しいことであると教え、かれらがめいめい幸福のありそうに思ったところに幸福があるとした。(しかし虚栄心という錨が人間の心の底深くに居座っている)「うぬぼれを持ち、人からもてはやされたいとねがうほどである。哲学者までが、そうなりたいとねがう。…今、こんなことを書いているわたしも、たぶん同じ望みを抱いているのだろう。そして、おそらく、これを読んでくださっているかたがたも……」「神を知ることなしに、さいわいがないことは確かである。神に近づくにつれて、幸福になることも、神を確実に知ることが幸福の究極だということも確かである。また、神から遠ざかるにつれて不幸になることも」

17世紀 中国明の洪自誠『菜根譚』
 「身分不相応な幸運や正当な理由のない授かりものなどというものは、天が人を釣り上げる甘い餌であるか、さもなければ人の世の落し穴である。」

17世紀から18世紀 啓蒙主義の時代
 聖書や神学などの権威ではなく、人間の理性によって、世界を理解しようとする啓蒙思想の運動が、幸福の価値観を大きくかえた。イギリスの詩人アレクサンダー・ポープ(1688~1774)は「おお幸福よ。我らの存在の究極の目的よ」とうたいあげた。
 幸福の価値観や表現がキリスト教から解き放たれ、大衆は「幸福と自立への陶酔」を大きな課題とした。300年ほど前のヨーロッパ、幸福の意味は劇的に変化したのである。
 「幸福は必要不可欠なもの」という認識は、あくまで近代に誕生したものと、わたしたちは理解しなければならない。ピーターN・スターンズ(ジョージ・メイソン大学教授)は「およそ250年前、西洋文化に、少なくとも幸福にまつわるレトリックに重要な変化が生じた。」

18世紀 歯科学
 歯科技術が飛躍的に進歩した。その結果、やっとこの時代のひとたちは、口を大きく開いて笑うことができるようになった。レオナルド・ダ・ビンチ(1452~1519)「モナリザ」のあいまいな微笑は、歯抜けや虫歯を見せぬためという。

1755年 ジャン=ジャック・ルソー『人間不平等起源論』
 他人には憐れみ(ピティエ)を持って、できるだけ他人の不幸を少なくして、自分の幸福を築け。

1759年 フランスの哲学者作家ヴォルテール『カンディード』
 楽園のような故郷を追われた貴族の青年カンディードは、苦難と災厄に満ちた世界各国を放浪する。幸福はどこにも見当たらず、奇縁でつながった仲間とともに片田舎にささやかな居を構える。近くに住む貧しい農夫はいった。わずかばかりの土地を「子どもたちと耕しております。労働はわたしたちから三つの大きな不幸、つまり退屈と不品行と貧乏を遠ざけてくれますからね」。彼らは農民として生きることに、やっと平安を見出した。

1759年 英国の文学者サミュエル・ジョンソン『幸福の探求ーアビシニアの王子ラセラスの物語』
 桃源郷「幸いの谷」で退屈な毎日を過ごす王子ラセラスは妹の王女とともに、本当の幸福を探すために出奔する。しかしどこにも幸福は見当たらず落胆し、結局はもといた幸いの谷に帰ることを決意する。
 ジョンソンはこの作品を亡くなった母の葬儀費に当てるために、わずか1週間で書き上げた。本人も認める通り、ヴォルテール『カンディード』を下敷きにしている。また『青い鳥』のメーテルリンクは、この「ラセラスの物語」からヒントを得ている。

1760年代~1830年代 産業革命がイギリスではじまる。

1764年 英国の詩人作家オリヴァー・ゴールドスミス詩集『旅人行』
 「いつでもどこでも、頼りになるのはおのれ独りだ、おのれの幸(さち)はおのれが築くのだ、おのれが見つけるのだ。」

1776年 アダム・スミス『国富論』 経済の進展とそれに伴う仕事の分業化によって、自分の理解力を働かせたり、発明や発見する力を働かせたりする「努力を払う習慣を失い、およそ創造物としての人間がなり下がれる限りのバカになり無知にもなる。彼は精神が遅鈍になるから、何か筋の通った会話に興をわかせたり、それに加わることができなくなるばかりか、どのような寛大で高尚な、または優しい感情をもつこともできなくなり、したがってまた、私生活の義務についてさえ、その多くのものについてどのような正当な判断も下せなくなる。」

1776年 アメリカ合衆国独立宣言
 すべてのひとびとに「幸福を求める権利」が認められた。「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信じる。」 1946年日本国憲法第13条には「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」とある。

1781年 ベンサム「功利の哲学」
 イギリスの哲学経済学者ジェレミー・ベンサム(1748~1832)は、行為がどの程度の幸せを生むかによって、その行為の有用性を評価するという「功利の哲学」を発表した。すなわち、最大多数の最大幸福「個々人の幸福の総和が社会全体の幸福であり、したがって社会全体の幸福を最大化すべきである」。ベンサムのいう「幸福」とは「功利であり「快楽」のようです。

18世紀 フランスの著述家シャンフォールは「幸福は容易に得られるものではない。幸福をわれわれのうちに見いだすのは至難であり、他の場所に見いだすのは不可能である。」

1789年~1799年 フランス革命 89年に人権宣言を採択。

18世紀末 笑うアメリカ人
 アメリカでは幸福の追求が、あたかも革命のごとき勢いで広がった。幸福になることが、政治の大テーマになった。そしてひとびとは笑うことを幸福の象徴とし、驚くほどよく「笑うアメリカ人」が正当化され、現代までアメリカ人は世界一よく笑う。笑いはステレオタイプ化しているが。
 心理学者の芋阪直行は「笑いには脳の快楽中枢に近い部位がからんでいる。脳には欲求が満たされたり、満たされそうになると快感を覚える報酬系がある。笑いはこの報酬系が働いている。」

19世紀 労働と家庭と幸福
 中産階級の登場により、労働についての倫理観は「仕事は幸福の源である」という主張につながった。そして家庭はあらたな責任を負うことになった。妻や母親は家庭の雰囲気を暗くしないように努め、働き手の夫に報い、優秀な子どもを育てることが求められた。(ピーターN.スタンーズ)

1819年 ゲーテは『西東詩集』 「昔も今も、人と生れて最大の幸福は 人柄に帰する」

1826年 ドイツの教育学者フリードリッヒ・フレーベル『人間の教育』
 「知恵を求めることは、人間の最高の目的であり、人間の自己決定の最高の行為である。」

1851年 ドイツの哲学者ショーペンハウアー『幸福について』
 原書は随想集『筆のすさびと落穂拾い』に収載の「処世術箴言」。日本では訳書はだいたい『幸福について』と題される。新潮文庫や岩波文庫など。
 年金生活者は労働から解放され、時間の自由を得ている。自己の意識と自己の個性を楽しむ絶好の立場にいる。ところが大多数のひとたちは余暇を活かすことができず、退屈しか得ることができないでいる。彼らはみな不幸である。
 「われわれ人間の本質の基礎、したがってわれわれの幸福の基礎をなすものは、われわれの動物的な自然性である。だからわれわれの福祉にとっては健康がいちばん大事で、健康に次いでは生存を維持する手段が大事である。…名誉とか栄光とか位階とか名声とかは、いかに重きを置く人があるにせよ、こうした本質的に大事な財宝とは比肩しうべくもなし、またそうしたものの補いにもならない。」
 「有り余る富は、われわれの幸福にはほとんど何の寄与するところもない。金もちに不幸な思いをしている人が多いのはそのためである。」
 「幸・不幸に関しては、あらゆる点において、想像力に制限を加えるがよい。したがって何よりもまず空中楼閣を築かぬがよい。空中楼閣は建てる端から溜息とともに取りこわさなければならない性質のものだから、犠牲が大きすぎるきらいがある。」
 「何かをすること、できることなら何かを仕上げること、せめて何か覚えるということは、人間の幸福には欠くことができない。人間の能力は使用されることを求めてやまず、人間は使用の成果を何らかの形で見たがるものである。けれどもこの点で最大の満足を得られるのは、何かを仕上げること、作ることである。籠を編むもよし、書物を著わすもよい。…閑暇に憩うのはむつかしいことである。」
 「幸福の追求からは不断の幻滅が生じ、不断の幻滅からは不満が生ずる。夢に見た漠然とした幸福の面影が、気まぐれな姿をとって目先に去来し、われわれはこの面影の正体を求めるが、得られるよしもない。」
 「どこかに特別な幸福が宿っているだろうとか…さらに大きな幸福があろうとかいうような妄想はもういだかない。」

1859年~ ロシアの作家フョードル・ドストエフスキー 『スチェパンチコヴォ村とその住人』幸福は徳行の中にこそ含まれているものである。『白痴』疑いもなくコロンブスが幸福だったのは決してアメリカを発見し終わったときではなく、実にアメリカを発見せんとしつつあったときなのだ。…実のところ彼が発見したものがなんであるかをも知らずに(インドであると信じながら)死んでしまった。問題は生き方にあるのだ。『悪霊』人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないからだ。ただそれだけの理由である。…人間には、幸福のほかに同じだけの不幸がつねに必要である。『未成年』幸福な人間はつねに善良である。『カラマーゾフの兄弟』心の正しい者はすべて、聖者と言われる者は全て、殉教者はすべて、それこそ一人残らず幸福な人たちであったのです。

19世紀後半 離婚と天国
 アメリカの離婚率が急上昇した。原因は夫婦の幸福への期待が、現実の家庭生活とかみ合わないことによる。
 またキリスト教宗教観の変化に伴い、天国は亡くなった近親者たちとの喜びの再会を果たせる幸福の地であるとする考えが定着した。この天国観は死後の恐怖や悲しみを軽減し、多くの安心と共感を生みだした。

1867年 ドイツの哲学者フォイエルバッハ『幸福主義』。幸福は主観的なものである。「私の幸福は私の個性から引きはなされることができない。私の幸福は単に私自身の幸福にすぎず、あなたの幸福ではない。」

1867年~ カール・マルクス『資本論』全3部。
 毛沢東は「『プロレタリアートは全人類を解放することなしに自らを解放しえない』というマルクスの教えを実行する」とよく語った。宮沢賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは幸福はあり得ない」。釈尊は「一切の行きとし生けるものは、幸せであれ」

1886年 トルストイ『人生論』
 「生活とは幸福への願いである。幸福への願いが生活である。……ところが思慮のない一般大衆は人間の幸福は動物的自我の幸福の中にあると思っている。」

1888年 イギリスの詩人オスカー・ワイルド『幸福な王子そのほか』

1891年~ スイスの哲学者カール・ヒルティ『幸福論』
 「幸福こそは、人間の生活目標なのだ。人はどんなことをしてもぜひ幸福になりたいと思う。最も厳格なストア主義でも、他の人々が幸福とみとめるものを断念することによって、彼の流儀で幸福を得ようとするのだし、極端に世をのがれようとするのだし、極端に世をのがれようとするキリスト者でさえ、別の生活のうちに幸福を求めるのに過ぎぬ。また厭世家も結局、かれのひそかな誇りのなかに幸福を感じ、仏教徒は無、すなわち無意識のうちに幸福を置くのである。」「享楽は、たとえそれが最高にして最良のものであっても、働きの合間にただ少量だけ用いる薬味であり、気分転換であるべきで、これを過度に用いる者はみな、自分を欺いて結局ひどい目に会うのである。」「人生において本当に堪えがたいのは、悪天候の連続ではなく、かえって雲のない日の連続である。」
 「利己心より目ざめ 永遠を把握し 愛に導かれて 地上のものを手段と解し これを支配する。これのみが世にありうる幸福の状態である。」(ゲルツァー)

1898年 明治民法施行。離婚届出制になったため以降、1963年まで離婚率は毎年低下。

1900年 徳富蘆花『自然と人生』
 家は十坪、庭はただの三坪だが「庭狭きも碧空(へきくう)仰ぐ可(べ)く、歩して永遠を思ふに足る。」

<2012年5月6日初回 その後改訂>
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天国と地獄

2012-05-03 | Weblog
 親友の前川さん、もう10年余り前に亡くなりました。元気だったころ、彼がよく話してくれたテーマがあります。極楽と地獄です。
 「死んでしもうたら誰も帰って来まへんなあ。なんでやと思う?」
 わたしはまだ向こうに行ったことがない。あるいは行ったときの記憶がありません。「分かりませんねえ」
 彼の返事は「極楽に行った連中は住み心地がよくて、もう帰りたいとは思わへん。地獄に行くと終身刑の刑務所なんで、いくら帰りたいいうても出してもらえへん。そやから誰も帰ってこんのや」
 本当でしょうか。彼はこうも語りました。「向こうで極楽へ行こうが、地獄に缶詰されても、ちょっと抜け出してあっちの様子を知らせに来るから楽しみにしててな」
 しかし死後10年たっても、いまだに手紙もメールも声も姿もありません。あまりに住み心地がよいので忘れてしまったのでしょうか。

 ザ・フォーク・クルセダーズの名曲に「帰ってきたヨッパライ」があります。レコードは1967年に出ましたが、はじめて聞いたときには腹を抱えて笑ったものです。
「♪天国よいとこ一度はおいで 酒はうまいし ねえちゃんはきれいだ ウッハ―ウッハーウハッハ」。天国人にはアル中やメタボやセクハラが多いと、どこかで聞いたことがあるのですが本当かもしれません。病院やトラブルの多い極楽とは、感心できませんね。神も仏もありません。
 
 絵本『じごくのそうべえ』は全世界的な大傑作です。1978年初版ですが今年のはじめに何と123刷り。当然ミリオンセラーですが、著者の田島征彦さんは「この本の印税のおかげで家族全員が無事に、これまで暮らすことができました」といっておられた。この世で地獄が極楽に進化した最たる例かもしれません。
 ストーリーをご存じの方も多いと思いますが、軽業師そうべえと同期3人の死者たちは、閻魔大王の気まぐれのために地獄に落とされる。しかし彼らは協力しあってエンマさんや鬼さんたちをギャフンといわせる。降参した地獄の主は無敵の4人組を現世に追放する。帰ってきたヨッパライ同様にみなが生き返るわけです。

 20年ほども前のことですが、わが家の3人息子たちが幼稚園から小学生のころでした。絵本『じごくのそうべえ』をプレゼントしたところ座右の書になってしまいました。そして10歳にもならぬ子どもたちがいいました。
 「死んでもこわくない。地獄に一度行ってみたいな」
 田島さんにお会いしたときにお礼をいったことがあります。「おかげさんでわが家の息子3兄弟が悟りの境地に達しました。この本は子どもの死生観を一変させるたいへんな名作ですね。宗教の『そうべえ教』を立ち上げて世界中の人々を不幸から救いませんか?」
 田島さんは笑っておられましたが、それにしても新境地に子どもたちが達しても、その父親は救いようがありませんね。

 なお続編の『そうべえ ごくらくへゆく』、これも傑作です。いずれも童心社発行。極楽で騒いでいる「そうべえ」たちは阿弥陀さんに説教されます。「極楽へ来たら、静かにせんならん。花の上で座ってなされ。極楽の掟に従がわんけりゃあかん。極楽にはいろいろ規則がある。規則をちゃんと守ってもらわんならんのじゃ」。ご一読ください。
<2012年5月3日>
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