ふろむ京都・播州山麓

京都の西山&播州山麓から、気ままな雑話をお送りします。長期間お休みしていましたが、復活近しか?

岡部伊都子先生

2008-05-31 | Weblog
 岡部先生にお会いしたことは二度しかないが、ひとを引きつける魅力的な方でした。今日31日は先生を偲ぶ会です。同志社・新島会館、3時より。わたしも間もなく寺町丸太町に出かけますが昨晩、沖縄から来られた方から先生の話をいろいろお聞きしました。地元の宮里テツさんが、沖縄の新聞に書かれた追悼文コピーもいただきました。

 かつて宮里さんの娘さんが京都の大学に進学し、下宿生活をはじめたそうです。33年前のことです。ところが娘さんは精神のバランスを崩してしまわれた。下宿の部屋に落ち着けず、夢見が悪い。部屋に悪霊が取り付いているのかと、母と娘は祈祷師に部屋の祓いを頼むことを決めたそうです。しかしこの話を聞いた岡部先生は、

 「あら、今どきそんな…地球の裏側ともお話できる時代に何を心配しているの。ほら私をみてごらん。こんな細い弱々しい体で大きな家にひとりで住んでいるでしょ。夜中に電話のベルがなると、出版社からならいいが…もし…と思うと、一気に力がこもりどう対処するかを考えるの。するとおちつくのですよ。科学の時代にユーレー、笑い話でしょホホ…、もっと強いこころで、いまがいちばん大事なとき…」

 宮里さんは、岡部先生の細い弱々しいきゃしゃな体に、芯の強い、ものに動じない強さがあるのが不思議でした。
 「わたしはひとり住まいでしょ。外出のときは、家の柱をなでて『いってきますよ、よろしくね』と声をかけて出かけるのです。帰宅したら同じように柱をなでて『いま帰りました。ありがとう』と礼をいうのです。すると、こころがおちつきますから…」
 テツさんはいまもずっと、柱をなでておられるそうです。(八重山毎日新聞 2008年5月17日掲載「岡部伊都子先生ありがとうー安らかにお眠りくださいー)

<2008年5月31日 先生を偲び>
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謎の道標

2008-05-25 | Weblog
 道端に立つささやかな道標なり石柱に、近ごろつい目が向いてしまう。先週に京都市史蹟「大原口道標」を紹介しましたが、わたしの癖は、何かに興味をもつとあれこれ時にはとことん、調べないと気が落ち着かぬという性癖。困った習性なのですが、友人は「いくつになっても、好奇心が旺盛ですなあ」。賞めているのか揶揄か茶化しているのか。
 「博学ですね」といってくれる友人もいますが、決してそうではないのです。本物の博学多識な先達にお会いしたときには、いつも頭をたれ敬服してしまうのですが、彼らはすでに有余るほどの知識をお持ちなのです。わたしなど、少ししか持ち合わせのない知識に、不満の気持ちがむらむらと巻き起こり、たいていは本をとことん調べ出す。よくいえば、無から有を取り出す作業にのめり込むわけです。
 調べた直後はたしかにいくらか多識になるようです。しかしその後が問題です。残念ながら記憶力がいい加減なので、どんどん忘れていく。つまりいつまでたっても、浅学非才なのです。

 ところで道標ですが、出雲路敬直著『京都の道標』というすばらしい本に出会いました。ミネルヴァ書房から1968年に出版されましたが品切れ本です。インターネットで古書を調べても見当たりません。図書館で借り、コンビニでコピーを取って読んでいますが、道標のしるべとして、興味ある方にはおすすめ本です。
 大原口道標について出雲路氏は「珍しいのは内裏(御所)が出てくること。わかりきった場所というので道標に表示されてないのが普通であるが、それ以外にも、ほかの道標に見られない珍しい地名があり、興味のつきない道標である」
 御所御苑はこの道標から目と鼻の先に位置しています。数百米向こうには、塀も木々も見えます。<内裏三丁>はなぜ表示されたのでしょうか。
 <坂本城三里>も不思議です。道標の建てられた慶応四年(1968)、滋賀の坂本に城はありません。織田信長の比叡山焼き討ちのあと、山をにらむ山麓の拠点として坂本城は築かれました。琵琶湖と京志賀街道・山中越え、水陸運の重要拠点として、坂本は古代から中世織豊期まで、地政学的にも要でした。
 城主は明智光秀ですが、山崎の合戦とともにこの名城も燃え尽きました。江戸期、湖南地域の城は膳所(ぜぜ)のみだったのです。なぜあえて三百年近くも前に消えてしまった坂本「城」を記したのでしょうか。不思議です。
 <六条三十五丁>も変です。どこかの社寺や地点なり、街道の方角案内などが、道標の役割のはずです。六条という通り名だけの表示は、今出川寺町のこの位置で、なぜ必要だったのでしょう。市内各地、ほかの道標には<大仏六条>と刻したものがいくつかあります。かつて有名だった方広寺大佛を示すのでしょうか。それにしても、六条とは横着な表示です。
 それから不思議なのが、刻まれた地点までの距離です。何丁、何里と記されていますが、一丁と一町は同じことで、六十間。一間は1.818メートルなので、一丁はほぼ109メートル。一里は三十六丁です。
 電卓で掛け算をして、丁里をメートルに直してみました。暇人だなあと、自分でも感心してしまいましたが、さらに現在の京都の地図に定規をあてて、直線距離をミリ単位で測ってみました。
 するとほとんどの道標の表示する距離が、地図の実測よりも短い。刻まれた二十二点の内、十八ケ所の数字が、地図直線距離よりも短いのです。不思議です。道は曲折していますから、直線よりももっと長く記されるべきだと思います。
 建立施主は石の三方下面に十九の名が並んでいます。すべて何々屋誰べえと記されていますので、全員が商人でしょう。彼らは建立を計画実行するに当たって、度々ミーティングを開いたはずです。その会合の席で、だれが何を発言し、取りまとめ役はおそらく丹波屋の市兵衛か安兵衛でしょうが、百出分裂するさまざまの意見をどのように収拾したのであろう。石材と石工の選定、書家は誰に、記載地名の確定、距離の測定と表示丁里数などなど。
 世話役のご苦労がしのばれます。また建立の時期が、何よりも大変なときでした。慶応四年です。幕末最晩年でした。京は激動のクーデター、聖戦の最中だったのです。
 興味つきない道標ですが、いつか謎解きの続編を披露したいと思う今日このごろ。
<2008年5月25日 石が語る声を聞く>

補記
 道標の本をかつて出版された出雲路敬直先生に、お会いしました。下御霊神社の宮司さんですが、お人柄も学者としてもすばらしい方です。道標の本は二冊出しておられますが、残念ながらどちらも出版社品切れで、入手が困難です。
 『京都の道標』ミネルヴァ書房・1968年刊
 『京のしるべ石』泰流社・1975年刊
 大原口道標についてご教示いただきました。まず「六条」は東西本願寺の意味。いまでも京都の年配者は本願寺のことを「六条さん」というそうです。
 それから「坂本城」は「坂本越」。城と越の字は、くずすとよく似ています。実物をあとで見てみましたが、わたしにはどちらにも読めます。坂本越とは「山中越え」。北白川から山中[やまなか]の集落を抜け、比叡山を越えて近江志賀・坂本に向かう旧道です。
 「内裏」については、いまの京都御苑はもと公家町で、御所禁裏はそのなかにあった。だからあえて表記したのだろうとのご意見でした。
 いずれにしろ、道標本の復刊をどこかの出版社にお願いしたい。先生もわたしも想いは同じです。
<2008年7月11日 感謝>



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日立の樹

2008-05-18 | Weblog
 「この木 何の木?」と、テレビコマーシャルの大木のことを昨日、書きました。文を読んだ犬塚さんから早速、メッセージをいただきました。彼女はさすがにお詳しい。ご本人の了解なしで転載させていただきます。

 <木の名前は知らないのですが、ブームの元歌をカバーして「この~木、なんの木~」と歌っているのは、「インスピ」と言うバンドの、リードボーカルの奥村君と言う友人の息子さんです。「インスピ」はまだ彼らが全員阪大の大学院生だった頃デビューしたアカペラグループで、当時は日本一偏差値の高いグループだと、FM等で取り上げられました。澄んだこの歌声を聴くと、1週間の疲れが飛んですっきりするから不思議。一時は日立グループ企業の電話の待ちうけもこれでした。(奥村君お父様からの情報)>

 また見たいコマーシャルだなあと思い、日立のホームページが気になり、念のため探してみました。何んと、「日立の樹オンライン」<Hitachinoki Online>発見です。そのものずばり、映像も歌も、見そして聞くことができるのです。驚きました。

 コマーシャルにつかわれた大木「日立の樹」は歴代四本。いちばん有名なのが、枝を大きく横に張った「モンキーポッド」という名の木、学名はサマネア・サマン。樹齢130年、樹高は25メートル、幅は40メートルもあるそうです。俗称は、アメリカンネム、サマンの木。愛称は、やっぱり「日立の木」でしょう。
 大地に根を張っている場所は、ハワイ州オアフ島のモアナルア・ガーデンパーク。わたしの前の記述は間違っていました。さりげなく直しておきます。
 またコマーシャルソングも、日立のホームページで聞けますし、歌詞を読むこともできます。これも思い違いをしていました。「♪名前も知らない木ですが、名前も知らない木になるでしょう」と思い込んでいたのが、正しくは「名前も知らない木ですから・・・」。
 人間の記憶は、というかわたしの覚えは実にいい加減なものですね。反省しきり、赤面のいたりです。わからないことは、まずインターネットから、というのが教訓かもしれません。歌詞も修正しておきます。
 興味ある方は「日立の樹オンライン」をご覧ください。いずれにしろ、はてなマークがだいぶ解けました。犬塚さん、本当にありがとう。
<2008年5月18日 赤面のため、はじめての一日二報>





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京の道標 <道しるべ石>

2008-05-18 | Weblog
 洛中を歩いていると、よく石造の標識に出くわす。京には道標だけでも、五百柱ほど、うち江戸時代の建立は百本ほどもあるそうだ。何んとか寺社とか、某旧居跡、何々藩邸跡などの石標まで数えあげれば、新作もいれて石標の数は、千や二千本どころではないだろう。
 出町の枡形商店街の西はずれ、寺町通をすこし北に行ったところ、クロネコヤマト集配所の前、歩道を塞ぐかのように屹立する石が立つ。高さはわたしの背丈ほどもある。四面のうち、正面南には「西半町」とだけ彫ってある。
 町名の標示はめずらしい。洛中には町が多すぎて、覚え切れない。地元民でも自町の名をいわない。通り名で住所をいう。その方がわかりやすいのである。
 ところで西半町、はじめてみたとき、「にしなかまち」か「さいはんちょう」かと思った。府立植物園の西ぎわ、賀茂川べりを「半木の道」という。<なからぎ>と読む。遅咲き枝垂桜並木の名所だが、ほっこりする散歩道である。
 石標の近くに住む知人に聞いてみた。「西半町はどう読むの?」。しかし相手はすこし驚き「そんな町名、聞いたことがありません」。その一帯は表町(おもてちょう)だという。
 あまりに不思議なので、標識の四面を確認してみた。すると西面、車道の側に「幸神社」とある。ふだん車の走る車道は歩かない。そのために気づかなかったのである。
 幸神社は現代では「さいわい」で、危除縁結の社とされているが、もとは「さいのかみしゃ」で、<さい><さえ>の社。京の北東、賀茂川べりの境、境界を祀る意味である。「さいの神」神社まで、「西に半町」すなわち一町あるいは一丁の半分、約50メートルという標示であった。
 発見や気づきの喜びはあったが、自分のあまりの早合点うかつさには、毎度のことながらほとほと感心してしまう。

 ところでこの石柱のすこし南、今出川通と寺町通の交差点信号横に、立派な道標がある。京都市登録史蹟「大原口道標」という。一面幅40センチほど、高さはわたしの身長近くもあるが、字の彫りも深く、鮮明で達筆である。驚くことは、慶応四年四月建立。この年(1868)九月、年号は明治にかわる。江戸期最後の悼尾を飾る名標であろう。長々しい刻字をご紹介するが、丁は町とおなじで、約109メートル。「り」は里。なお正確には、二十は廿、三十は卅と刻されている。ちなみにここの町名は、大原口町という。

東 下かも 五丁   比ゑい山 三り   <下鴨・比叡山>
  吉田 十二丁   黒谷 十五丁
  真如堂 十四丁  坂本城 三り
南 かう堂 九丁   六角堂 十九丁   <革堂>
  六条 三十五丁   祇園 二十二丁
  清水 二十九丁  三条大橋 十七丁
西 内裏 三丁    北野 二十五丁
  金閣寺 三十丁  御室 一り十丁
  あたご 三り              <愛宕>
北 上御霊 七丁   上加茂 三十丁
  くらま 二り半   大徳寺 二十三丁  <鞍馬>
  今宮 二十六丁  

 地面に接するように施主、商人ばかり十九名の名前も彫りこまれている。幕末維新の動乱の最中、面々はどのような話し合いのなかで、この道標建立を誓い合ったのであろうか。
 それにしても石に刻まれた字は、永久ではないが後世まで残る。さてパソコンに打ち込まれた字面はいかが?
<2008年5月18日 キーボードを石に見立て打つ朝>
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この木 何の木?

2008-05-17 | Weblog
 木の花は、ほとんどが散ってしまった。かろうじていまも盛りなのが、まずヤマボウシ。米国産のハナミズキ(アメリカヤマボウシ)ではなく、国産白花の山法師である。それから、桐(きり)と山の藤、ナンジャモンジャことヒトツバタゴなどであろうか。
 ところで、樹は花のあるうちはいいのだが、葉だけになってしまうと、わたしなど木の名がほとんどわからない。たとえばハナミズキ。つい先日まで白と桃色のきれいな花もどきで街路や庭を飾っていたのだが、いまになってみるとどの木がハナミズキなのか? 葉をみてもよくはわからず、樹肌の魚麟文様をみてはじめて、ああ、この木だったのかと合点したりする。この季節、素人が樹名を判定することはむずかしい。

 かつて巨木のTVコマーシャルが、よく放映されていた。スポンサーは日立だったかと記憶するが、歌も好きだ。
♪ この木 何の木 気になる木 名前も知らない木ですから 名前も知ら~ない 木に なるでしょう
 あの木はたしか、ハワイのどこかの植物園の大樹だと思うが、わずか一本の大木に<単樹千鳥を養う>とでもいおうか、野鳥だけではなく、リスもムササビも、たくさんの野生の小動物たちが集い、住まい憩う。緑の宿のようであった。

 木の名といえば、命名の最高傑作は「ナンジャモンジャノキ」ではなかろうか。よくもこのようなケッタイな名をつけたものだと感心する。今日も白い小花たちの満開に出会ったが、それらも数日で葉だけになりそうな気配であった。
 ナンジャモンジャの正式な名は「ヒトツバタゴ」だが、関東弁「何じょう物じゃ」から来たそうである。さしずめ大阪弁なら「何ちゅうもんじゃ?」であろうか。意味は、「名前のわからぬケッタイな」木ということである。
 よくもこのようなふざけた名をつけたものだと思うが、この木「ヒトツバタゴ」はもともとが、国内では中部地方木曽川域と対馬くらいにしか自生しなかった木だという。江戸期に、いまの明治神宮外苑あたりにはじめて移植された。そしてこの木の白い小花が大満開になったとき、江戸っ子たちは驚嘆した。「なんじゃもんじゃ?」。このときからヒトツバタゴは、ナンジャモンジャに変身してしまったのである。
 このような毒にも薬にもならぬ話、いくら続けても「何んぼのもんじゃ!」と軽蔑されそうだが、若葉は茶の代用品になる。中国では結構、有名な茶である。いちど葉を摘んで、茶化して飲んでみよう。もしうまければ、銘茶「なんじゃもんじゃ」と命名して売り出そうかと、まずは獲らぬ狸の皮算用の今日このごろ。
 ところで、日立コマーシャルの木の名は、いったい何であろう? 気になる木である。
<2008年5月17日 単樹養千鳥>
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大佛次郎の名文

2008-05-12 | Weblog
 川端康成『古都』からはじまって、京ことばの真下五一に行き当たり、そして最近のこと、わたしは大佛次郎にたどり着いてしまった。
 小説「古都」を朝日新聞に連載中、川端が新村出に送った文がある。<「古都受賞」にこたへて>。受賞とは、新村が連載「古都」を賞賛したことのようだ。川端は、こう書いている。

 「もっとも困ったのは、京ことばであります。ご存じのやうに、京都といっても、ところによつて多少ことばがちがふやうで、私には書き分けられませんし、今はむかしながらの京ことばを話す人が減って来てゐるやうであります。(大阪も同じことでせう。)私などにたいしては京ことばで話してくれません。結局、いたし方なく、いい加減な、つまり私の京ことばで書いてをります。その結果會話が單調におちいり、生彩を失ひます。原稿を見せましたら、直してくれる人はあつても、私の方にその時間のゆとりがありません。本になります時は、校正刷りを見てもらふつもりでをります。また「朝日新聞」の讀者は、北海道から九州までありますので、京ことばの参考書などによつて、あまり特別な單語を使ひますと、わかりにくいかとも思ひます。祇園あたりの舞妓さんなどは、京ことばで話してくれますが、これは祇園ことばでありませう。…」

 文を直してくれるひととは、真下五一のことである。しかし新聞連載中、川端は書きだめができず、毎日締切時間に追われ、真下による事前の目通し修正が不可能であった。結局は、単行本刊行のおりに、京ことばは真下が直した。

 この新村あての文の末尾には、<大佛次郎氏の名文「京都の誘惑」>と川端は書いている。早速、大佛の文を図書館で読んでみたが、期待が強すぎたせいであろうか。確かにいい文ではあるが、川端が絶賛するようなものであるかどうか、わたしには判断できなかった。
 ただ川端は「古都」を、<わたしの京都の小説の序の口であり、いつか京の人をひどく怒らせるものを書くことがあるかもしれない。大佛の名文も同様に、序章である>と記している。大佛次郎「京都の誘惑」の序を紹介してみよう。

 「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が書いた随筆に、祇園の裏町を通ったら、置屋の木戸があいて、うちかけを着た花魁(おいらん)がかむろを伴って立ち現れたのを夜の闇の中に見た話が出ている。明治年代の夜のことだが、墨で塗り潰したような暗い道路に提灯の影がさしたと思うと、その光の中に異様な髪かたちに櫛笄(くしこうがい)を挿し、金銀の縫取りのあるうちかけを被(き)て高下駄をはいた姿なので、きららかな衣装の女が背丈も大きく見える。これが闇の夜を背にぬっと現われて、ゆっくり運ぶ下駄の音と共に、道を遠ざかって行くのである。…明治の夜の闇の中に[ハーンは]、旧幕時代の日本から残る亡霊を見たような思いだったであろう。…」

 大佛次郎に抜粋された、この小泉八雲随筆の全文を読みたく、パソコンであれこれ検索してみたが、どの本に載っているのか、みつからない。図書館で、いつか小泉八雲全集でみつけようと、持ち前の癖で思ってしまうが。
 ところが不思議なことに、八雲全集ではなく、庭や花木を書いたアンソロジーを読んでいて、大佛次郎のすばらしい名文に出会った。随筆「樹を植える」である。<『日本の名随筆別巻14『園芸』所収・作品社・1992年刊>

 「・・・もっと人が木を植える習慣が出来たら、この世は更に楽しいものに成るように思う。更に私は、人が死んだら墓碑として好きだった木を植えるようにしたら、とまで考える。石塔ではなく、木は成長するし繁って行く。死んだ人に代わって生きて行くのである。木が枯れるのは何十年か先であろう。花の咲く木を選んだりしたら、墓地がこれまでとは違い、如何ばかりか明るくなることだろうか。
 赤ん坊が生まれた限り、必ず、一本の樹を親たちが植える。人それぞれのトオテム・ポールのように、そんなことにも空想は及ぶ。場所は都市がその為に地面を提供するのである。恋人同士は、あなたの木は何ですかと尋ねることも出来れば、恋人の木の下へ連れ立って憩いに行くことも出来る。そんな風にする習慣が出来たら墓地のみならず、人間の住む土地が、どれほど美しく変貌することであろうか?
 小さい[自宅の]庭を眺めながら、私はこんなことを考えた。悪くない夢のようである。・・・」

 一本の植樹のことは、すばらしい夢であろう。川端から寄り道して、人生の木、誕生と埋葬、二本の樹に出会ったようである。わたしに孫がいつか生まれたら、木を植えてやろう。何の苗木がいいか。早速に明日から思案してみることにした。
 それにしても、わたしの文章は引用ばかり。友人の指摘、「自らの感性で、オリジナルを書きなさい」という忠告にこたえる実践が、ままならない。

<2008年5月12日 記念植樹>
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京の四季

2008-05-11 | Weblog
 「春は花…」にはじまってこの季節、刻々と移ろっていく京を、例年にも増して楽しむことができた。視点とこころ構えの軸を、ほんの少しずらすだけで、ものの見え方がかわるのも不思議である。歩いていても、車中から、窓外であろうと、時間の進みを花と若葉と光風が教えてくれたようだ。
 例によって本もよく読んだ。いや読むというより、「観る」という方が正しいかもしれぬ。花や木、庭の本をよくみたが、いずれも写真が多い。文字は斜めに、写真を楽しむことが多かった。
 わたしの読書は実に横着な方法をとる。一見は速読風だが、キーワードを追って、休日には一日十冊くらい目を通すこともある。索引のついた本など実に便利で、一日に二十冊でも読破(?)したりする。まるで検索エンジンのような、ずるい調本術であろうか。
 最近では、邦光史郎さんの「京の四季」が、印象に残った。昭和19年に京都に移り住んだ彼は、この終戦前年の冬から数年間の思い出を記しておられる。抄録のために、若干書き替えたことの許しを乞う。

 燃料も食料もない戦時中、昭和19年冬の京は、雪空がつづいて、ずい分寒かった。自動車など見たくてもない頃で、駅前には人力車が客待ちをしていた。
 カーキ色をした国民服にゲートルを巻いた男と、紺絣のモンペに防空頭巾姿の女が、口数もすくなく、肩を落として影のように歩いて行った四条通に、「蒸し芋あり枡」の貼り紙を目にするようになったのは、終戦の年の冬だった。

 翌21年の夏、四条大橋を通ると、橋の上にゴザを敷いて、夕涼みがてらゴロ寝している人が多かった。戦災に遭わなかった京都には、いろいろな人が集まってきた。碧い目のGIもいれば、夜の女も多く、京都駅前、三条、四条堀川と闇市があって、そこでは配給では見たこともない銀シャリに一切れか二切れ肉の入ったカレーライスを売っていた。
 恐ろしいインフレ時代で、月給が百円、タバコが十本十円というので、まともに働いている人はすくなく、復員帰りの軍服姿で、どこへ行くのにもよく歩いたものだった。

 そして22年の春四月、鞍馬の宿で、ゆっくりと山の端に上る夕月を眺めつつ、一夜を過ごしたことがある。宿で食事をつくってもらうために、米を紙袋に詰めて持って行かなくてはならない頃のことなので、飲み物も果実も何もなかった。けれどもただ話しをしているだけでたのしく、この広い世界の中で、自分たちだけが存在しているのだと思えた。
 鞍馬の山に、ゆっくり春の月が昇っていった。物音をたてることさえ憚られるような夜のことだった。

 <六十年ほど昔の京の四季はこんな風だった。花はどこにも登場しない。花のことはその数年後に、やっと記述される。>

 桜は満開の時もよいが、散りかけがよい。疏水いちめんに散り敷いた花びら模様がゆっくり流れて行くのである。吹き抜けていく春風に誘われて舞い上る花吹雪の中を歩いて行く人影は、どれもみな春色に酔っているような足取りだった。
 京都人は、花づくりの好きな人が多く、どんな露地でも花にみたされている。春は、猫も鼠を捕ることを忘れるという。そんな春を、現代は忘れているのではないだろうか。

[邦光史郎編『京都千年(1)「四季と風土」』講談社/1984年刊参照]

<2008年5月11日 「ナンジャモンジャの木」別名ヒトツバタゴ・満開散り初めの日>
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五輪と銀輪

2008-05-09 | Weblog
 中国の北京に、六年前にはじめて行った。そのころすでに、オリンピックの準備で街には熱気がみなぎっていた。都市計画は、オリンピックを照準に着々と進んでいた。昔ながらの街並みは取り払われ、世界の大都会にふさわしい最新の都会に変身するという。インフラもどんどん構築されていた。
 かつて昭和39年(1964)東京オリンピックのときも、新幹線や高速道路がつくられた。東京の街も大変身してしまった。そして、翌年は不況であった。
 北京五輪は政治問題が大きくからまり、混沌としているようだが「平和の祭典」とは何だろう。経済と政治がつねにオリンピックを利用する。そのような構図は、残念だ。
 話しがまた硬くなってしまったが、北京にはじめて訪れたとき、名物の五輪ならぬ銀輪、すなわち自転車の大洪水をみるのが楽しみだった。天安門広場の大通りがいちばんの銀輪名所と期待したが、しかしそれほどでもなかった。
 広場に行き着いた時間が通勤帯よりすこし遅かったためか、予想に反して自転車の氾濫はみられなかった。

 日本を代表する銀輪都市は、おそらく京都であろう。京大など大世帯の大学に行くと驚くが、駐輪場や広い庭には自転車の列は絨緞のようである。よくぞこれだけ、と感心してしまう。
 京都盆地は三方を山に囲まれているが、そのなかはほぼ平らな地である。北から南へ、ゆるやかな傾斜こそあるが、洛中を移動するには、銀輪がいちばんであろう。ガソリンもいらずエコノミーでエコロジー。駐禁の心配も、ゼロではないがすくない。
 神戸のように山が海に迫る傾斜の急な地では、自転車は普及しない。海を見おろす山の手に子どものころに住んでいた知人など、危険だとの理由で自転車を親に買ってもらえず、いまだに乗ることができない。
 京の歩道は銀輪天国である。歩くわたしたちを、彼らはかなりのスピードで追い越していく。まるでアクロバットのように、右左曲折しながら猛スピードで追い抜く。危険きわまりない。
 先日など、市バスから降り三歩踏み出し、右に向いたら、大学生らしき女性の操る自転車が、わたしに向かってハイスピードで突っ込んできた。瞬間わたしは、両腕を伸ばし相手のハンドルを全力で握り押しとどめた。彼女の前輪は、なんとわたしの股間でとまっている。わたしの運動神経がもうすこし鈍ければ、また彼女のブレーキ操作がすこし遅れていたら、見ず知らずの男女ふたりは、間違いなく正面衝突していた。彼女の顔か鼻は、わたしの胸倉に激突していたであろう。また前輪はわたしの急所を直撃し、たぶん両玉は重症を負ったはずである。そして体は後方に吹き跳んだでいたであろう。
 いま思い出してもぞっとするが、その女性はひとことの詫びもなく、わたしを睨みつけるばかりであった。一体どちらが悪いのか。両者の眼には火花が散ったのだが、わたしは一瞬、身をひき下半身に眼をやった。その隙に、彼女は逃亡した。追いかけるのも大人気ない。わたしはこらえて沈黙したが、京の住人のあまりの酷情に、ため息をついてしまった。
 そして数日後、知人が自転車に撥ね飛ばされた。ご高齢だが、かつてスポーツで鍛えたなかなかの偉丈夫である。横断歩道の信号が青にかわり、一歩踏み出したところへ、全速力の銀輪が激突した。体は三メートルほども飛んだそうだ。軽い打撲傷ですんだのが不幸中の幸いであった。
 京はおそろしい。くれぐれも銀輪にはご注意あれ。また五輪の安楽を祈る今日このごろ。
<2008年5月9日 輪を大切に>
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捨て鳥

2008-05-04 | Weblog
 捨て子の風習というものが、かつてあった。冷酷にも本当にわが子を捨ててしまうひとも時にはあるが、たいていが捨てるふりをするのである。
 「七歳までは神のうち」と昔から信じられていた。数え七歳になるまでは、子どもは人間としての人格を持たぬものとされていた。七五三の宮詣ではその名残であろう。

 ♪ 通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神さまの細道じゃ ちょっと通してくだしゃんせ ご用のないもの通しゃせぬ この子の七つのお祝いに お札をおさめにまいります 行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも通りゃんせ 通りゃんせ

 童謡「とおりゃんせ」は、実は怖い唄である。七歳にいままさになろうとするとき、子どもが無事に神の域から人間界に達することができるかどうか。それとも細道を踏み外して、彼岸すなわちあの世、神界にもどってしまうか。生死をかけた、彼岸此岸の境界の唄であるようだ。
 いずれにしろ、子を捨てるふりをして、夫婦が大切な赤児を橋なり辻にそっと置く。それを事前に打ち合わせておいた親戚なり、近所の信頼できる爺やに拾ってもらう。この行為によって、児は一度あの世に戻り、ふたたび現世に戻る。そして人間界で、丈夫に育つと信じられていた。「おすて」「捨て丸」「捨て松」などの幼名は、ここから来ているという。かつてわざとする捨て子の風習が、ほんの明治大正のころまで、あったのである。
 わたしの下の妹は、本気で橋の下で拾われてきたと信じていた。幼い彼女は泣きながらわたしに詰問したことがある。おそらく妹は古い風習の名残をどこかで聞きかじり、何かの話題から「捨て子」という親の愛情のことばを深く知ることなく、誤解してしまったのであろう。

 本日の片瀬五郎は、早朝に覚醒してしまった。ためかずいぶん真面目になっている。昨晩、寝るのが早すぎた。おかげで早朝四時前に眼が覚めてしまい、このような寝言を書いている。
 きっかけは、きのうの昼間に幼い鳥を一羽、拾ったからである。外出しようとして玄関を出たところ、軒下に子鳥が一羽、落ちていた。十姉妹である。ジュウシマツであって十人姉妹やお粗松などではないが。
 どこかの鳥籠から逃げたのかなと最初は思ったのだが、おそらく捨てられたのであろう。まだ飛ぶ力の弱い幼い鳥である。
 近ごろ鳥インフルエンザの話題がぶり返している。十和田湖の白鳥から強烈なウイルスが見つかったらしい。テレビでアナウンサーがいっていた。「弱った鳥を見つけても決して手を触れないように」
 わたしは触れるどころか「まあ、可愛い」と、早速にホームセンターでいちばん安い鳥カゴを買ってきた。
 「一羽だけではさみしいでしょう」と、ペットショップでヒナをもう一羽、買い求めてしまった。ジュウシマツのような安価な鳥は売っておらず、これでいいかと白文鳥の赤ちゃんにした。この赤児は実にヒトなつこい。口を大きく開けて、ピョンピョンとわたし目指して跳びはねて来る。実に可愛い。
 ところでペットショップの店員が、根掘り葉掘り質問した。幼鳥を拾ったいきさつ、鳥の健康状態……。「ベランダで飼わないほうがいいですよ。イタチが来たり、ほかの野鳥からのインフルエンザ感染も心配ですし」
 店内を見渡しても、犬猫やハムスター、そして熱帯魚などは数多い。ところが飼鳥は少ない。やはりいまどき、鳥を買ったり、また拾うような変人は減ってしまったのであろうか。
 カゴの鳥はこの早朝からもう鳴きだした。そろそろ、相手をしてやらねば。
<2008年5月4日 朝四時過ぎの寝言>
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御所カラス伝説

2008-05-03 | Weblog
 いつのことだったか、ずいぶん前の話です。京都御苑を北から南に突っ切って、丸太町通まで歩いたときのこと。御所の塀のうえで、すこし太めのカラスが「カア」と鳴いたのが印象に残っている。飛翔不足とグルメ過多であろうか。わたしも思わずじぶんの腹をなでてしまった。運動の不足と、アルコール過多であろう。
 丸太町通と烏丸通の交差点に交番がある。そのすぐ近くで修学旅行の女学生、たしか四人連れが「ケラケラ」と大声で笑っている。どこの学校でも、旅行で京に来た高校生は、みな少人数で市内を徘徊している。あたらしい発見もあり楽しかろうが、このときの彼女たちの笑いは、常軌を逸していた。箸が転んだというていどの軽々しい喜びようではないのである。
 乙女たちのなかでもわたしの体型に似た若干太めの生徒がいちばんうれしそうにこう言った。
 「カラスが丸々、太るやて!」
 「ガハハ」
 「ゲラゲラゲラ」
 ほかの仲間たちはみな、腹を抱えんばかりに人目もはばからずに、大声で笑う。
 彼女たちの学校は、女子高なのであろう。もしも共学校で男女混成のグループなら、このような話題を持ち出すことは困難である。異性だと太めが傷つく。やはり旅は同性ばかりがいちばんだ。

 しかしカラスがどこにいる? 見渡しても「カァ」とも聞こえない。疑問符だらけのわたしは、恥も外聞もなく聞いてみた。
 「太いカラス? どこにいる?」
 乙女たちは揃ってまた笑い出した。そして交差点横の標識を指差した。
 <烏丸丸太町>
 烏丸通と丸太町通の交差点だから、京都ではそう呼ぶ。四条河原町なども同様である。
 「えっ!」、わたしは絶句した。
 <カラス、まるまるふとるまち>
 カラスが丸々と太る町、なのである。
 そのように読み取り解釈した女性の眼力には驚嘆敬服してしまった。こころのなかで、賛嘆の拍手を送ったほどである。
 烏をトリではなく、カラスと読んだのも立派だと感心したが、標識にはルビが振ってあった。
 <KARASUMA MARUTAMATI>
 国際観光都市京都ならではの笑話エピソードであろうか。いずれにしろ、旅の恥はかき捨てとはよくいったもの。今回は、旅人の恥の書き捨て文とでもしておこう。
<2008年5月3日 課題は運動と酒の過不足>
コメント (2)
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