小島露観は、ザイン会員への文書やZ帝國オフィシャルサイトにて、「事実と真実は異なる」と述べております。随分前の文書ですが、今回はこれに反論することにいたしましょう。
小島はニュートン力学を例えに出しながら、次のように述べております。
>全ての研究──真理(実)探求──とは複数の事実の背後に隠れている真理(実)を探り求めることである。
ここだけ読めば全くその通り。反論の余地はありません。事実の集積から分かること、それが「真実」だと私も思うからです。
しかし、小島の文章はこう続きます。
>象がいる。数人の盲人が象に触っている。尻尾に触った盲人は、象とは豚の大きな物であると云うだろう。腹に触った盲人は、象とは壁のような物であると云うだろう。脚に触った者は象とは太い幹のようなものであると云うだろう。鼻に触った盲人は、象とは大蛇のような物であると云うだろう。それぞれ事実を述べているにも拘らず象の実体とは程遠い。象の真実には全く至ってないどころか、その言葉を聞いた者を過ったイメージを象に関して持つよう誤導することになる。部分的事実を伝えることは虚偽を伝えることなのである。
かなり滅茶苦茶な内容ですが、ここはキッチリと突っ込んでおきましょうか。
この例えは「象を触る者が盲人である」「盲人の言葉を聴いた者が、それを真に受けてしまう」という2つの前提によって成り立つ理屈です。
「象は壁」「象は太い幹」「象は大蛇」と述べたのは、あくまで盲人です。目が見える者には、そのままの象の姿が眼前に映し出されるに決まっています。
何故小島は敢えて「盲人」を引き合いに出したのでしょうか? それは勿論、彼に言わせれば私Riotが「小島の主張を否定してかかる『わからず屋の卑劣漢』だから」ですね。
しかし、私は果たして「盲人」を引き合いに出されるような狭い視野でザインを批判しているのでしょうか? 私はただの怒りの感情ではなく、数々の資料や証言に裏打ちされた事実をまとめ、それを根拠にザインを批判しているのですから、ここで「盲人」という言葉が出てくる自体ナンセンスというものです。
繰り返しますが、私は「事実の集積から、真実は導き出される」と考えております。私は、単なる怒り任せの思い込みではなく、私にとって都合の良い事実もそうでない事実も全て照らし合わせて、そのことから「ザインに理なし」と判断しているわけです。
しかし、小島露観を頂点とするザインは、教団にとって都合の悪い情報は全て「誹謗中傷」と決め付け、会員に「見るな」と通達しているわけです。果たして「盲人」なのはどちらでしょうか? 言うまでもなくザイン側ですよね。
自説がそれほど正しいと思うなら、会員に「情報統制」をかける必要はないはずです。会員には自説だけでなく、自説を批判する者の意見も読ませ、自らの頭で考えさせ選択させる。それが筋ではないでしょうか。
このことで、ザインは紛れもない「カルト」であることを小島露観自ら証明してしまいました。何故ならば、トップ(教祖)の意見を絶対のものとして受け入れなければならず、自説を批判する他の意見を目にすることを禁じられるのが、カルトの特質だからです。
ところで、こうして「複数の事実から真実を見出す」という小島露観の言い分は、非常に重要な示唆を私達に与えてくれています。
人生においては、様々な問題が発生します。私達はその重さに打ちのめされ、つい「自分にとって耳障りのいい甘い話」を信じ、耳を傾けがちです。そして、人を騙して利益を上げる者は、そういう心に付け込んで人に金を出させるのです。
ひとつの問題に対して複数の視点から物事を見る…というのは、そうした手合いに騙されなくするだけでなく、問題を深刻に捉えすぎないようにするために、必要なことなのです。
例えば、仕事でミスをした場合はどうでしょう。
●ショック…どうしようどうしよう(以下延々と続く) →当座のとりとめもない不安な感情
●ミスをしたものは仕方がない。気持ちを切り替えて次に臨むべきだ →第三者の客観的な判断
●原因は○○にある。次回は改めないと。 →原因の客観的な分析と反省
●上司はこのミスをどう捉えるか。何について注意されるだろうか。 →相手の出方の予測
●上司にこう怒られる。どうしよう。 →相手の行動予測から来る不安な感情
…などなど、ひとつの事実に対して、様々なものの見方、考え方、感じ方が成り立つことに気付くでしょう。
ところが、当座の「ショックな気持ち」に打ちのめされてしまい、そのことしか見えなくなってしまうと、事態に前向きに対処できなくなってしまうのです。
取り敢えずの感情ひとつに流されることなく、複数の視点からものを見て、そして判断することで人は前向きになれるし、何者にも騙されることなく、真実にも近づけると思うのです。そして「思い込み」「その場の感覚」は「真実」とはほど遠いものであるということも、併せて述べておきます。
小島はニュートン力学を例えに出しながら、次のように述べております。
>全ての研究──真理(実)探求──とは複数の事実の背後に隠れている真理(実)を探り求めることである。
ここだけ読めば全くその通り。反論の余地はありません。事実の集積から分かること、それが「真実」だと私も思うからです。
しかし、小島の文章はこう続きます。
>象がいる。数人の盲人が象に触っている。尻尾に触った盲人は、象とは豚の大きな物であると云うだろう。腹に触った盲人は、象とは壁のような物であると云うだろう。脚に触った者は象とは太い幹のようなものであると云うだろう。鼻に触った盲人は、象とは大蛇のような物であると云うだろう。それぞれ事実を述べているにも拘らず象の実体とは程遠い。象の真実には全く至ってないどころか、その言葉を聞いた者を過ったイメージを象に関して持つよう誤導することになる。部分的事実を伝えることは虚偽を伝えることなのである。
かなり滅茶苦茶な内容ですが、ここはキッチリと突っ込んでおきましょうか。
この例えは「象を触る者が盲人である」「盲人の言葉を聴いた者が、それを真に受けてしまう」という2つの前提によって成り立つ理屈です。
「象は壁」「象は太い幹」「象は大蛇」と述べたのは、あくまで盲人です。目が見える者には、そのままの象の姿が眼前に映し出されるに決まっています。
何故小島は敢えて「盲人」を引き合いに出したのでしょうか? それは勿論、彼に言わせれば私Riotが「小島の主張を否定してかかる『わからず屋の卑劣漢』だから」ですね。
しかし、私は果たして「盲人」を引き合いに出されるような狭い視野でザインを批判しているのでしょうか? 私はただの怒りの感情ではなく、数々の資料や証言に裏打ちされた事実をまとめ、それを根拠にザインを批判しているのですから、ここで「盲人」という言葉が出てくる自体ナンセンスというものです。
繰り返しますが、私は「事実の集積から、真実は導き出される」と考えております。私は、単なる怒り任せの思い込みではなく、私にとって都合の良い事実もそうでない事実も全て照らし合わせて、そのことから「ザインに理なし」と判断しているわけです。
しかし、小島露観を頂点とするザインは、教団にとって都合の悪い情報は全て「誹謗中傷」と決め付け、会員に「見るな」と通達しているわけです。果たして「盲人」なのはどちらでしょうか? 言うまでもなくザイン側ですよね。
自説がそれほど正しいと思うなら、会員に「情報統制」をかける必要はないはずです。会員には自説だけでなく、自説を批判する者の意見も読ませ、自らの頭で考えさせ選択させる。それが筋ではないでしょうか。
このことで、ザインは紛れもない「カルト」であることを小島露観自ら証明してしまいました。何故ならば、トップ(教祖)の意見を絶対のものとして受け入れなければならず、自説を批判する他の意見を目にすることを禁じられるのが、カルトの特質だからです。
ところで、こうして「複数の事実から真実を見出す」という小島露観の言い分は、非常に重要な示唆を私達に与えてくれています。
人生においては、様々な問題が発生します。私達はその重さに打ちのめされ、つい「自分にとって耳障りのいい甘い話」を信じ、耳を傾けがちです。そして、人を騙して利益を上げる者は、そういう心に付け込んで人に金を出させるのです。
ひとつの問題に対して複数の視点から物事を見る…というのは、そうした手合いに騙されなくするだけでなく、問題を深刻に捉えすぎないようにするために、必要なことなのです。
例えば、仕事でミスをした場合はどうでしょう。
●ショック…どうしようどうしよう(以下延々と続く) →当座のとりとめもない不安な感情
●ミスをしたものは仕方がない。気持ちを切り替えて次に臨むべきだ →第三者の客観的な判断
●原因は○○にある。次回は改めないと。 →原因の客観的な分析と反省
●上司はこのミスをどう捉えるか。何について注意されるだろうか。 →相手の出方の予測
●上司にこう怒られる。どうしよう。 →相手の行動予測から来る不安な感情
…などなど、ひとつの事実に対して、様々なものの見方、考え方、感じ方が成り立つことに気付くでしょう。
ところが、当座の「ショックな気持ち」に打ちのめされてしまい、そのことしか見えなくなってしまうと、事態に前向きに対処できなくなってしまうのです。
取り敢えずの感情ひとつに流されることなく、複数の視点からものを見て、そして判断することで人は前向きになれるし、何者にも騙されることなく、真実にも近づけると思うのです。そして「思い込み」「その場の感覚」は「真実」とはほど遠いものであるということも、併せて述べておきます。