ひろし君の読書や旅日記

昨日より今日が少しは面白くなるかな て思って

太宰治がいた,甲府の小路

2019-01-01 17:22:47 | 旅日記
     「昭和・甲府の新天地」の続き
昨年の1月に書いた「昭和・甲府の新天地」では、甲府駅北口の方に残された新天地と云う寂れた飲み屋街を紹介しました。その最後の方に太宰が通った「喜久乃湯」の事を書きましたが、今回は太宰治が歩いたその辺の事を書きます。
「新天地」から歩いて3分位の所にお風呂屋さん「喜久乃湯」が、今でも営業をしています。この喜久乃湯は、太宰治が甲府に新居を構えた時によく利用していた事で知られています。
      甲府にいた太宰
では何故、太宰治が甲府にいたのでしょうか?この辺の事を書くだけで、多分一つの章が必要になってなってしまうと思いますので省略させて頂きます。ただ、時間の流れとしては昭和12年6月に初代と離婚し昭和13年9月には井伏鱒二などの紹介で甲府市の石原美知子と見合いをしています。そして、翌年の1月には石原美知子と結婚式を挙げています。
太宰治が甲府に住んでいたのは、この前後の時期になります。御坂峠の天下茶屋から降りて来て住んだのが、現在の住所で甲府市朝日5丁目にあった寿館と云う下宿屋さんでした。この建物は今わ有りませんが、其のそばにある清運寺は今もあります。
     結婚して住んだのは直ぐそば
美知子と結婚して二人で住んだのは、寿館から北の方に5~6分行った所に有った借家です。この借家は現在はありません。この借家の有ったそばに、「太宰治僑居跡」と云う石柱が道沿いに立っています。でも二人が住んでいた借家は、この石柱の裏にある建物の奥です。この借家から2~3分歩いた所に有る「御崎神社」を、太宰はよく散歩していたそうです。この神社の裏側に行くと、何故か相撲の土俵があります。創作の後の午後に行ったのが、借家から歩いて2~3分の所に有る「喜久乃湯」です。お風呂屋の建物や脱衣室に、太宰の事が書かれた物が有ります。町中のお風呂屋ですから、気楽に利用でき山登りの帰りに使う若い人もよく見かけます。
     昭和14年の8月には東京に行ってしまいます。
でも、甲府での生活は昭和14年の8月で終わります。二人は、東京・三鷹の方に転居してしまいます。ですから、太宰が甲府の町を歩いたのは本当に短い期間といえます。昭和20年になって東京への空襲が激しくなると4月から甲府に疎開してきます。でも、7月に今度は甲府で大空襲に見舞われます。地元の人に空襲の事を聞くと、喜久乃湯の有る辺りから南の方の甲府中心街などは大部分の家屋が焼け落ちてしまったといいます。この空襲の後、太宰達はまた甲府を離れてしまいます。
まあ、甲府に来たらそんな昔の事を想いながら、甲府駅北口から「新天地」・「喜久乃湯」・「御崎神社」などを巡りながら小路を歩くのはいかがですか?

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