東京絵の具

日本国内の旅行地を掲載しています。

東京都と伊豆諸島

2011年03月23日 | 東京都
日本地図を見ていると、静岡県に近いのに東京都になっている伊豆諸島を、
不思議に思う時がありました。そこで伊豆諸島の歴史について調べてみました。

伊豆諸島とは、大島、神津島、利島、新島、八丈島、御蔵島、三宅島からなる
伊豆七島と、その他の島々を指す。相模湾の南にある群島で、元々は伊豆国(静岡県)に
属していた。江戸時代は、島流しの刑を受けた罪人が送られる処刑の島となり、幕府の
直轄地であった。その為、島の管理は幕府の代官が行っていた。

当時の島々には、畑や水田に適した耕地がなく、山地や荒地が大部分を占めていた。
そこで幕府は米に代わる年貢として、塩や絹を納めさせていたが、やがて流通の技術が
発達して、わざわざ島から取り寄せるメリットがなくなって来た。そこで幕府は年貢を
代金納に変えた。この通貨を得る為に、島民は椿油、魚介類、木材を本土で売る様になる。

ある時期に不漁が続き、商人に借金をしないと生活が成り立たなくなり、借金の代わりに
商人が申し出た条件は、島で取れる海産物の売買権を譲り渡すと言うものであった。
そして、これらの島の取引を独占的に取り扱う業者が生まれ「島問屋」と呼ばれた。
島問屋に安く買い取られても文句の言えない状況に陥り生活が貧窮していき、
そこで幕府は、現在の中央区湊付近に「島方会所」と呼ばれる伊豆諸島の生産物を
取り扱う取引所を設けた。この目的は、島問屋との不利な取引から島々を守る為であった。
しかし、島問屋との束縛を脱したが、今度は島方会所の規制に縛られるようになり、
生活は前よりも厳しい状況に追い込まれていった。

やがて明治維新が起こり、明治新政府が伊豆諸島を管理するようになったが、島方会所は
直ぐに廃止されなかった。廃藩置県後の1876年、一時的に静岡県に配属されていた伊豆諸島は
1878年(明治11年)01月11日、東京府に移管される事になった。島々ではこの日付を記念して、
「一一一一一の日」として記念している。これは島民の東京への帰属意識の高さを表している。

例え不利な取引を強制されていたとしても、長年の結びつきによって、
伊豆諸島の中央政府への愛着は強かったのである。

この記事についてブログを書く
« 世界旅行博 2010 | トップ | 関東の賃貸不動産 »