発見の記録

もふ太郎の投資記録

「土曜日の夜の虐殺(Saturday Night Massacre)」 ?

2017年04月03日 22時26分41秒 | 日記

 トランプ政権最大の問題点とは、いつまでたっても行政執行体制が整わず内政・外交ともに停滞してしまうことです。最近になってようやくそう認識されるようになりました。

 当初はトランプ大統領に政治経験がないため、なかなか各省庁の幹部候補に「適材」を見つけられないからと思われていましたが、最近になって「どうも身内と側近だけによる完全密室政治を標榜している」となってきました。

 トランプ政権では、ホワイトハウス幹部も各省庁長官も「身内と(自称を含む)側近だらけ」で、数少ないまともな長官であるマティス国防長官、ティラーソン国務長官は、いまだに希望する副長官や次官クラスの選任を認められていません。

 さすがに「米国内でも反発がでてくるだろう」と思っていたら、FBIのコミー長官が3月20日の下院情報特別委員会の証言で「トランプ氏の選挙陣営とロシアの関係について、昨年7月から捜査している」と明らかにしてしまいました。

 このコミー長官といえば、昨年11月の大統領選直前になってヒラリー・クリントン候補の国務長官時代の私用メール問題を再捜査すると公表し、数日後には捜査終結としましたが、クリントン敗戦に少なからずの影響を与えたはずです。

 FBIも大統領指揮下にある行政機関ですが、コミー長官は「その功績?」でトランプ政権でも続投となっていました。ところがコミー長官はここで「私がヒラリー・クリントンの私用メールの再捜査を指示したが、同時にトランプ選挙陣営とロシアとの関係も捜査しており、昨年の大統領選において特定の候補(トランプのこと)に有利となるよう働きかけたわけではない」と言っていることになります。

 すでにトランプ政権を巡る微妙な風向きの変化を感じ取っているようです。そして今度は上院情報特別委員会が米大統領選へのロシア介入疑惑に関し、トランプ大統領の長女・イバンカさんの夫であるクシュナー大統領上級顧問を含む約20人を召喚して調査することになりました。

 これをニクソン政権時の「ウォーターゲート」になぞらえて「ロシアゲート」と呼んでいますが、もちろん現段階ではそこから「ウォーターゲート」のような大事件に進展し、トランプ大統領がニクソン大統領(当時)のように辞任に追い込まれることはありません。

 ただトランプ大統領の身内であるはずの共和党が上下院とも多数を占める連邦議会が、「ちょっといい加減にしたら?」と警告を与えていることになります。まだまだ先は長いようですが、それが「トランプ降ろし?」の最初の兆候かもしれません。

 ところで「暗殺以外に」大統領を罷免する憲法上唯一の方法が弾劾裁判で、過去に第17代のアンドリュー・ジョンソン大統領と第42代のビル・クリントン大統領の2例がありますが、どちらも無罪評決となっています。

 第37代のニクソン大統領は「ウォーターゲート事件」を巡る弾劾裁判で有罪(つまり罷免)が確定的となったため、裁判直前に辞任しています。ところがそこに至るまでの「息詰まる攻防」はあまり知られていません。ひょっとしたら「ロシアゲート」も同じような攻防となる可能性もないわけではないため、参考のため簡単に解説しておきます。

 ウォーターゲート事件とは、1972年6月に首都ワシントンの民主党本部への侵入盗聴事件(再選を控えた共和党のニクソン大統領が対立する民主党の選挙戦略を探らせた)から始まり、徐々に大事件となり再選を果たしたニクソン大統領が1974年8月に辞任に追い込まれたものです。

 当初はホワイトハウスとは全く関係のない「コソ泥」の侵入事件とされていましたが、徐々にホワイトハウス関係者が背後にいることが明らかになり騒ぎが大きくなります。

 ニクソン大統領は「立場上」事件の調査を命じ、1973年6月にリチャードソン司法長官がアーチボルド・コックスを特別検察官に任命します。まもなくコックスはホワイトハウス執務室内の会話を録音したテープがあることを知り、そのテープの提出をホワイトハウスに求めますが拒否されたためワシントン連邦地裁に訴えます。

 ワシントン連邦地裁もコックスの要求を支持しますがニクソンは大統領権限で拒否したため、コックスは連邦高裁に持ち込み再び支持されます。そこでニクソンは連邦最高裁へ上告する代わりに野党・民主党の重鎮・ステニス上院議員の「聞き取り調査報告書」でお茶を濁そうとしますが、コックスがこれも拒否します。

 そこでニクソンはリチャードソン司法長官に圧力をかけてコックスを解任しようとしますが、リチャードソンはこれを拒否して辞職、ニクソンはさらに司法副長官に同じ圧力をかけ再度拒否されると今度は解任してしまいます。

 司法長官も副長官も上院での任命公聴会で特別検察官の職務に干渉しないと宣誓していたからで、ニクソンはそう宣誓していない訟務長官を司法長官代理に任命して、やっとコックスを解任します。それが1973年10月20日の土曜日の夜だったため、「土曜日の夜の虐殺(Saturday Night Massacre)」と呼ばれています。

 その直後にニクソンは、特別検察官、司法長官、司法副長官の執務室を封鎖し、関係書類もすべて司法長官代理の支配下に置きましたが、その強引な手法が全米の批判を浴び、やがて辞任に追い込まれてしまいました。

 同じような「虐殺(Massacre)」が、また近いうちに見られるかもしれませんね。とは?


 トランプ政権最大の問題点とは、いつまでたっても行政執行体制が整わず内政・外交ともに停滞してしまうことです。最近になってようやくそう認識されるようになりました。

 当初はトランプ大統領に政治経験がないため、なかなか各省庁の幹部候補に「適材」を見つけられないからと思われていましたが、最近になって「どうも身内と側近だけによる完全密室政治を標榜している」となってきました。

 トランプ政権では、ホワイトハウス幹部も各省庁長官も「身内と(自称を含む)側近だらけ」で、数少ないまともな長官であるマティス国防長官、ティラーソン国務長官は、いまだに希望する副長官や次官クラスの選任を認められていません。

 さすがに「米国内でも反発がでてくるだろう」と思っていたら、FBIのコミー長官が3月20日の下院情報特別委員会の証言で「トランプ氏の選挙陣営とロシアの関係について、昨年7月から捜査している」と明らかにしてしまいました。

 このコミー長官といえば、昨年11月の大統領選直前になってヒラリー・クリントン候補の国務長官時代の私用メール問題を再捜査すると公表し、数日後には捜査終結としましたが、クリントン敗戦に少なからずの影響を与えたはずです。

 FBIも大統領指揮下にある行政機関ですが、コミー長官は「その功績?」でトランプ政権でも続投となっていました。ところがコミー長官はここで「私がヒラリー・クリントンの私用メールの再捜査を指示したが、同時にトランプ選挙陣営とロシアとの関係も捜査しており、昨年の大統領選において特定の候補(トランプのこと)に有利となるよう働きかけたわけではない」と言っていることになります。

 すでにトランプ政権を巡る微妙な風向きの変化を感じ取っているようです。そして今度は上院情報特別委員会が米大統領選へのロシア介入疑惑に関し、トランプ大統領の長女・イバンカさんの夫であるクシュナー大統領上級顧問を含む約20人を召喚して調査することになりました。

 これをニクソン政権時の「ウォーターゲート」になぞらえて「ロシアゲート」と呼んでいますが、もちろん現段階ではそこから「ウォーターゲート」のような大事件に進展し、トランプ大統領がニクソン大統領(当時)のように辞任に追い込まれることはありません。

 ただトランプ大統領の身内であるはずの共和党が上下院とも多数を占める連邦議会が、「ちょっといい加減にしたら?」と警告を与えていることになります。まだまだ先は長いようですが、それが「トランプ降ろし?」の最初の兆候かもしれません。

 ところで「暗殺以外に」大統領を罷免する憲法上唯一の方法が弾劾裁判で、過去に第17代のアンドリュー・ジョンソン大統領と第42代のビル・クリントン大統領の2例がありますが、どちらも無罪評決となっています。

 第37代のニクソン大統領は「ウォーターゲート事件」を巡る弾劾裁判で有罪(つまり罷免)が確定的となったため、裁判直前に辞任しています。ところがそこに至るまでの「息詰まる攻防」はあまり知られていません。ひょっとしたら「ロシアゲート」も同じような攻防となる可能性もないわけではないため、参考のため簡単に解説しておきます。

 ウォーターゲート事件とは、1972年6月に首都ワシントンの民主党本部への侵入盗聴事件(再選を控えた共和党のニクソン大統領が対立する民主党の選挙戦略を探らせた)から始まり、徐々に大事件となり再選を果たしたニクソン大統領が1974年8月に辞任に追い込まれたものです。

 当初はホワイトハウスとは全く関係のない「コソ泥」の侵入事件とされていましたが、徐々にホワイトハウス関係者が背後にいることが明らかになり騒ぎが大きくなります。

 ニクソン大統領は「立場上」事件の調査を命じ、1973年6月にリチャードソン司法長官がアーチボルド・コックスを特別検察官に任命します。まもなくコックスはホワイトハウス執務室内の会話を録音したテープがあることを知り、そのテープの提出をホワイトハウスに求めますが拒否されたためワシントン連邦地裁に訴えます。

 ワシントン連邦地裁もコックスの要求を支持しますがニクソンは大統領権限で拒否したため、コックスは連邦高裁に持ち込み再び支持されます。そこでニクソンは連邦最高裁へ上告する代わりに野党・民主党の重鎮・ステニス上院議員の「聞き取り調査報告書」でお茶を濁そうとしますが、コックスがこれも拒否します。

 そこでニクソンはリチャードソン司法長官に圧力をかけてコックスを解任しようとしますが、リチャードソンはこれを拒否して辞職、ニクソンはさらに司法副長官に同じ圧力をかけ再度拒否されると今度は解任してしまいます。

 司法長官も副長官も上院での任命公聴会で特別検察官の職務に干渉しないと宣誓していたからで、ニクソンはそう宣誓していない訟務長官を司法長官代理に任命して、やっとコックスを解任します。それが1973年10月20日の土曜日の夜だったため、「土曜日の夜の虐殺(Saturday Night Massacre)」と呼ばれています。

 その直後にニクソンは、特別検察官、司法長官、司法副長官の執務室を封鎖し、関係書類もすべて司法長官代理の支配下に置きましたが、その強引な手法が全米の批判を浴び、やがて辞任に追い込まれてしまいました。

 同じような「虐殺(Massacre)」が、また近いうちに見られるかもしれませんね。