ザンパノ日記

ザンパノシアター制作日誌

不穏から平穏へ 「ヒアアフター」

2011-03-03 | 雑記。

期待度が高いだけに、本作では期待を裏切られたという声を何度か耳にする。私の場合、何故か「映画」への思い入れとは別に、いつも新鮮な気持ちでイーストウッド作品を観れてしまう為に(?)今回も心地良い。私はいつも新鮮な気持ちで「Malpaso」を見つめる。

表立った今回のテーマ(死後の世界などのスピリチュアルなもの)は、実にデリケートな議題だけに、最終的な結論までに至ってはいない。これもイーストウッド作品的と言えば的。撮る人が撮れば、物議をかもしかねない作品にもなりえるわけで、そこらへんイーストウッドの手にかかればということかもしれない。

冒頭の津波シーンを観るだけでも一見の価値があります。安定したカメラポジションで、じっくりと見せていたのは印象的でした。いつも以上に全編を通じて、平易なカットであることが、この物語には肝心であり、より物語性を浮き彫りにしているように見えます。

主人公3人の群像劇とされていますが、私はそう見ませんでした。そうは見えなかったところに、例えば、言い方を変えれば、群像劇に定型は無いけれど、三人が重なる時間が短い、もしくはドラマチックでは無いところに、物足りなさを感じて、この映画の評価がわかれるところではあると思います。

この映画のアウトラインは、死と直面した三人の心の行方を追ったものですが、私にはマット・ディモン扮する霊媒師の再生の物語と見えました。彼の立場に立たなければ、この映画の本質を理解することは出来ても、この物語の感動には辿り着けないと考えられます。

津波のシーン以降、物語は停滞し、地味に進行します。そして、それぞれの環境が変わる(変えようとする)あたりで、映画は実に平穏な時間を取り戻すのです。料理教室に通うとしても、実際のところは、人と人のつながり(パートナー)を求める彼にとって、女に出した手紙は、ただのファンレターであるはずもなく、紛れも無くラブレターであるのは、拡大解釈ではないと思っています。ラストシーンを観れば、それは一目瞭然で、彼の主観がおそらくここで初めて挿入されるのでありますが、おそらくその明るいイメージは、環境を変える為に一歩外へ出たところで、すでに始まっていたのだと想像します。

ですから、この映画が面白い(逆に物足りない)のは、彼らが外へ飛び出した時点で、もう何も起きないことにあるのです。強いて言うなら、あとはもう出会うことだけです。変な映画だなとも思えます。それだけに、私には魅力的に映るわけです。

今まで死後の世界のイメージしか想起することが出来なかった彼の頭の中に、初めて描いた未来のイメージ、それがヒアアフターであるわけで、本作の隠れ主題であると言えます。

私が多く感動した点はここらへんにあって、孤独な男が、少し未来に希望を見出したところが、それが男女の関係にあるところが、妙に現実感があって、引き込まれました。

実は「グラントリノ」より感動したのは、この男の孤独への共感の深さがあるからこそです。今回は老人ではなく、霊媒師ではあるけれど、マット・ディモンは、比較的若くはあるが仕事にあぶれた、筋肉質ではあるけれど世間的に地味な、いたって普通の男を演じています。

家族に理解されない。積極的に理解を求めることもない。今風に言えば出会いを求めている。食事はいつも一人…計4回ほど出てくる食事シーンは妙に説得力があります。狭いキッチン、壁際に座り、小さなテーブル、おそらく自分が作ったであろうイタリアンをすする。

食事シーンは勇気がいるのです。生理的なものであるからこそ、カッコつけたらリアルは感じられない。ある意味ベッドシーンより難しい。イーストウッドはいつも通り普通に撮りました。

映画とは幾つもの解釈があっていいし、それぞれの見方があっていいというのは周知の事実。また、その人の経験や、観る時の気分や体調に大きく左右されるものであるのもまた事実。と予防線を張ったところで、私は、この映画のラストシーンを観たあとに、あっけにとられ、自分の解釈の下、エンディングロール中よくもまあ泣いたものでした。感動とは、そこにあるものではなく、自分の中で生成されるものなのですよ。改めてそんなことも感じました。


最新の画像もっと見る