おはようがんす
13日は小正月でお飾りをかえる日だ
昔は小正月とお盆には二日ずつ「藪入り」と言う休日があって奉公人が実家へ帰れる日であった
今も其の風習があって遠くの親戚がお客に来る家がある我が家も一代前はそうであったが、今は遠い昔の話に成った
小正月は養蚕の盛んな地区では今も繭玉を造って豊産の祈願をする、紀元前に野蚕から始まった養蚕は紀元200年くらいには日本でも確立されて
平安時代には税としておさめられていたというはなしだ、昔農学校に行っている頃学んだ
其の養蚕は桑以外食べない蚕を飼育することは難しく,豊凶がまちまちであった、そのために豊産祈願の農家のお祀り信仰が始まり、衣笠様、
や秋葉様、と言った神様が信仰されて来た、当家にもそうした神様の石碑がある
そうして養蚕の良し悪しがその家の経済に大きな影響を与えるようになり信仰に益益拍車がかかり、こうした繭玉作りが発生したと思う
爾来どれほどの時が経ちどれほどの歴史があるのかしれないが、今もこうして根強く残っている風習がある
そして養蚕をする為の大きな家も必要で養蚕農家造りと言う大型建物がまだ各地に残っている,中三階建て。或いは鳥居合掌建てと言った
100坪以上~150坪上と言った家が当地区にもある、当家も114坪ある中三階で維持が大変だ
其れでもそれだけの建物を造って養蚕さんができるという事はそれなりの収益があったのだろう
なにはともあれ身上賭けの事業だから、信仰も半端ない物であったろうと想像できる
其の残骸が今に伝わり、当家でも米一斗(十升)15Kg)を製粉して作った、若い者が作るようになってから色を付けてカラフルになった
本当は色を付けてはいけないのだが、伝統を守ってくれる若い者たちに隠居の糞爺が何も言えないのが現状だ
奥の間の大木飾りだこれが賑やかにできるときほど養蚕が当たると言われている、木の根元に神台を置き重ね餅を進ぜて朝晩16日の朝迄
お食事を奉献する、この中に本当の繭の形をした繭玉が16個ある、「重碌}と言い禄高が高くなる様に言う語呂合わせの祈願なのだ
丸餅の小さなものも16個つける、同じ意味合いだ
お正月様の御棚にも三枝進ぜる
恵比寿、大国様や竈神様、井戸神様の奉献である
自宅用の神神棚
そして大黒柱につける、湯沢様のお飾りである
ここは戦国時代に箕輪城が武田方に敗れ敗残兵が上杉領へ逃げ込んだと言う、三国峠を超えて越後の湯沢温泉村へ仮住まいをさせて戴いたと言う
この折、入会権のない人たちは新年の松飾の松の枝が取れないために、翠であればよいという事で樫のえだで正月飾りを作ったと言う
その後6年ほどで情勢が変わり帰郷で来たのでその時の苦難を忘れないために一か所は樫のえだでお飾りをするようにしたと言う伝承だ
此処には養蚕以外の農作物の豊作を祈願して、胡瓜、隠元、茄子、南瓜、里芋。鶏、等の形の繭玉を進ぜる習わしだ
小国柱には米が沢山取れる様に。米の束を縛る荒縄の玉を進ぜ其処に繭玉と米にみたてた「掻き花」を作り穂が重くなり豊作を表すように
竹ひごを作って枝垂れるようにして縄玉に挿して飾る、末広がりの八個を豊作祈願する
こうして家の中の内飾りが終えると、外飾りをする、衣笠様を始め通常の在宅の神々とすべての建物に奉献する
蒸かした繭玉を表面だけ乾かしてから枝に挿す
繭玉同士が張り付かない様に暫時乾かす
門の外を始めに外厠まで十棟に飾る、翌朝此の門に飾ってあるうちの一枝をどうそじんさまで焼いて家族が食べる
もう一枝は無縁仏や貧困の者たちに呉れる為に置く
庭の小高い丘の上には庭の神様や土の神様をお祀りするために繭玉と「粟穂、稗穂」と言う掻き花を作って奉献する
米が不作でも粟や稗と言った雑穀が豊作なら生きて行けると言う飢饉に対する二段構えの対策のために祈願する
此花は接骨木の徒長枝を使って作る
因みに米の穂の掻き花は水草の徒長枝で作り、他の神々に進ぜる掻き花は,三椏空木、という木で花掻きをするこの花掻きの話は何時か又しよう
小正月のお飾りもこうしてあわただしく一日かかりで終える
年中行事も半分はたのしみで半分は信仰でしている、平和だなあ
そんじゃあまたはなすべえ
遊童子
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