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Ciao from Asmara!

ここはエリトリアの首都アスマラ。イタリアとアラブとアフリカが混ざった不思議な街。在アフリカ歴8年のユニセフ職員の日記。

今夜は停電…

2006-03-12 05:28:11 | エリトリア
今日は、なんと夜4時間ぐらい停電でした…。まあ、ここは途上国だし停電ぐらい当たり前ではと思われる方、実は、アスマラの電力供給はまれにみるぐらい安定しているので、4時間というのはちと長かったです。

困ったのが食事で、自宅はガスコンロでなくて電気なので、9時過ぎまで待ってから、キャンプ・非常用のバーナーを出してきて、飯ごうすいさんのようにご飯を炊き、お湯を沸かしました。それで、久しぶりに日本から持ってきたレトルトのカレーを食べましたよ。うーむ、自宅でキャンプ状態です。

そもそも、本当に経済状況が悪いといわれている割には、電気だけでなく、アスマラにおける他の公共インフラサービスは安定しています。ゴミの収集も週1回ちゃんとやってくるし、上水道供給も、ナイロビより安定していると言われていますから。

もちろん、エリトリア全体を見れば、電気供給の時間制限がある町は普通です。また、上水道が家の中の蛇口にくること自体、エリトリアではとてもとても特別なこと。アスマラでも多くの人はプロパンガスを使いますが、供給は非常に限定されています。

一番大変なのは、ガソリンで、一時期(2004年9月)は完全に市場からなくなり、その後配給制度導入、ようやく去年の今頃から普通に買えるようにはなりましたが、なんと、リッターあたり約350円!これは、間違いなく世界一高いはず。

発電所は石油を使う火力方式なので、電力供給にもじわじわと影響が出てきているのかもしれません。蝋燭をもっと補充しておかなければ。

恵みの雨

2006-03-11 04:09:13 | エリトリア
今日は、なんと約4ヶ月ぶりに雨が降りました!2月28日の話で触れましたが、全く雨が降らない乾季の終わりといえばそうなのですが、今日の雨は、午後からずーっとという感じでかなり本格的でした。

なんでも、この時期の雨が今年の農業にはとても大切なようで、街中皆大喜びです。

昨年は4-5年ぶりぐらいにこの春の雨が十分に降ったようで、秋の収穫はかなり良かったのです。現在、北部ケニアから、エチオピア、ソマリア、ジプチにかけてのアフリカの角地域は厳しい旱魃で、飢饉を避けるための食糧援助を早急に実施するため、国連は緊急援助アピールを出していますが、エリトリアだけは一応対象外になっています。

一応、と書いたのは、たとえ昨年の収穫が良かったにせよ、国土の多くでの食料自体は依然厳しく、乳幼児の栄養失調率が世界でワースト5に入っている事実は変わらないからです。何度も触れていますが、自主独立がモットーのエリトリアは、外国からの食糧援助に頼るのを潔しとしないため、2006年は国連の緊急援助アピールは必要ない決定したのです。

もちろん、食糧援助が完全の止まっているわけではないですが、大幅に減らされているには変わりありません。今まで、食料の配給に関わっていたNGOの活動を制限したり、倉庫の管理ができてないなど、ある意味で状況は以前より厳しくなっているのですがね。

ともあれ、大切なこの時期の雨。もっともっと降って欲しいです。大量に降ると、我が家の前の砂利道は写真のように川になってしまうのですが…。

チャイナ、チャイナ!

2006-03-06 04:14:07 | エリトリア
アフリカとか、中南米に行かれたことのある方はよく分かると思うのですが、どこにいってもチャイナって言われますよね(ラ米の場合は、チーナ)。エリトリアでもそのままです。

まったくもって、どこに行っても、誰からもチャイナ、チャイナ…。遠く離れたところにある子ども達なども、僕の姿を見つけるやいなや、チャイナの大合唱(今日の写真の子ども達も)! 最初の頃は、こちらもムキになって、「ノー、ジャパン!!」と言い返していたのですが、もう面倒で、最近など笑顔でこちらも手を振る余裕があります。

基本的に、エリトリアでは外国人は3分類しかなく、白人はすべてイタリアン、黄色人種はチャイナ、面白いことにエリトリア、エチオピア以外の黒人はアフリカンです。確かに、エリトリア、エチオピアの人は、スリムで背が高く、顔のほりが深くアラブ的なので、いわゆる黒人とは違うのですが、自分たちをアフリカンと思っていないのは興味深いです。

したがって、僕がチャイナであることは仕方ないのですが、最近凄いのが、白人のこともチャイナになっているよう。ベルギー人女性、米国人男性の友人、最近どこにいってもチャイナと言われる、とこぼしていましたから。

エリトリアあるといわれている石油の利権に絡んで中国人は増えているとは思っていましたが、ここまでくると、いやはや恐るべしチャイナ。

とはいえ、去年面白いことがありました。ちょうど、中国での反日デモが佳境の時で、こちらの一つしかないTVニュースでも報道されていたころ、フィールドに出て、いつも通り、チャイナと呼ばれました。「No,No from Japan」と答えると、なんと帰ってきた反応が、「I am sorry…」これには笑えましたよ。さすがに、その頃は、チャイナとジャパンは違うということが多くの人に分かっていたようです。

もちろん、今となってはまた一緒になってしまいましたが…。

アスマラへの航空路線

2006-03-05 06:23:38 | エリトリア
今日は、エリトリアに入っている航空路線について。そもそもエリトリアという国自体小さいですし、政府も孤立化政策を自ら進めている感じなので、アスマラへの航空アクセスは基本的に悪いです。

アスマラから直接飛べる都市は、アフリカだと、エジプトのカイロ、スーダンのハルツーム、そして、お隣はジブチのみ。中東も、サウジアラビアのジェッダと、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイ、そして、イエメンのサーナだけ。欧州では、旧宗主国イタリアのローマとミラノ、ドイツのフランクフルト、そして、オランダはアムステルダム。これだけです。

お隣のエチオピアのアジスアベバはアフリカのハブ空港なので、そこにさえ飛べれば話は早いのですが、もちろん現在の政治状況では国連平和維持軍UNMEEの飛行機しか飛んでいません。以前、UNMEE以外の人も空きがあれば乗れたのですが、今は不可能。

特に酷いのが、他のアフリカ諸国に行こうとする場合。例えば、ユニセフの東南部地域事務所あるケニアはナイロビまでは、なんと、エジプトのカイロ、もしくは、UAEのドバイを経由する便しかありません! 

しかも、どちらの場合も週2便のみ。週に1回、お隣のスーダンはハルツーム経由というのもありますが、これが良いのは行きのみ…。帰りは、やはりカイロかドバイを経る必要あり。

僕も使ったことのあるカイロ経由の場合、なんとナイロビに向かう時は、カイロでの乗り継ぎ時間が16時間ぐらいあるため、トータルで24時間ぐらいかかります!!! 帰ってくる時の乗り継ぎは良いけど、それでも10時間ぐらい。

同じカイロ経由で東京なり大阪(どちらもカイロからの直行便あり)に飛ぶ場合と比べて、トータルの所要時間は24時間ぐらいとあまり変わりません。普通ではありませんよ、これは。

実は、去年の4月ごろまでは、英国航空(BA)はケニアベースのリージョナルエアーという子会社が週4便、ハルツーム、もしくは、ジブチ経由でナイロビ、アスマラ間を飛んでいたのですが、ある日その子会社が突然無くなってしまい、あっけなく路線は廃止されました。これだと、4時間半ぐらいだったのですが。

それで、今日の写真は、カイロでの16時間ある待ち時間中に行ったピラミッド! ナイロビ出張前に呑気にラクダに乗って観光してきました。

マッサワのイスラム建築

2006-03-04 18:37:07 | エリトリア
アスマラの近代建築のことは既に書きましたが、今日は、紅海に面した港町マッサワ(Massawa)のイスラム建築の話を。

マッサワは、人口は5万人ぐらいで、街の規模としてはエリトリアで3番目から4番目。しかし、港町としての重要性と、その独特の歴史からユニークな場所です。紅海の島々に出かけるときの拠点でもありますし。年間平均気温は30度、湿気がとても高くて、まるで年中、日本の夏のよう。

10世紀ごろから、エリトリアにおけるイスラムの影響が強くなってくることは、以前歴史の話を書いた時(2月1日)に触れましたが、マッサワがそのエントリーポイントになっていたようです。天然の良好であることや、紅海がインド洋に繋がるという戦略的な位置から、今まで、ポルトガル人、アラブ人、エジプト人、トルコ人、イタリア人、イギリス人に直接、間接的に支配されてきた歴史がありますから。

よって、現在も残っている建築物からも、さまざまな国の影響が見られますが、一番強いのはマッサワを300年ばかり支配したオスマントルコ。たぶん、最盛期のオスマントルコ帝国の一番南端あたりだったのでしょう。

写真にある、この木のベランダ。なんとも渋いと思いませんか。なんでも、マッサワは一時期、「紅海の真珠」と讃えられた美しい街なのですよ。

残念なのは、解放独立闘争時代にエチオピアからの激しい空爆を受け、今も町中いたるところにその破壊の傷跡が残っていること。真珠の面影はなく、多くの貴重な建築物も無残な姿でほっておかれています。

一人当たりGDPが150ドルぐらいという、世界最貧国の一つエリトリアでは、他にやらなければならないことが山積されていますから仕方ないのでしょうか。

ジャカランダの季節

2006-02-28 05:40:25 | エリトリア
だんだんと暖かくなってきて春の陽気です。なんといってもここは高地ですから、赤道からそんなに離れていないですが、冬は結構冷えます。霜が降りるときもありますから。

アスマラでは、9月から3月ごろまでは完全に乾季でまず雨は降りません。4月から6月には少し降水量あり。この時期の雨が農業にはとても重要なよう。いわゆる雨季は7、8月で、毎日かなり降ります。日中曇っていることも多く、昼なども冷え込み、地元に人は、この時期を冬と言ったりもします。とはいえ、一番寒い時期は12月から2月、一番暑いのは4、5月頃です。

今日の写真にありますように、今の時期はこの紫のジャカランダが見もの。ジャカランダ、原産は南米のようですがアフリカでは結構ポピュラー。強い風が吹くと簡単に散ってしまうので、さながら紫の桜のよう?

もちろん、このジャカランダ、アスマラではそんなに街一面というわけではなく、また一般的にエリトリア人は特に関心ないよう。以前住んでいた、南アフリカの首都プレトリア(現在の名前はツワーネ?)は別名ジャカランダシティーといわれていて、ジャカランダのトンネル道があったり、それはそれは見事でした。日本からのツアー客が来るぐらいでしたから。

この写真は、実は去年連れ合いが撮ったものです。まだ息子が5ヶ月児だった時。懐かしーい。

解放独立闘争について

2006-02-26 05:41:29 | エリトリア
歴史や、Faytingaの話を書いた時にエリトリアの解放独立闘争については触れましたね。今日はそのことをもう少し詳しく。

結局は形だけだった連邦制時代の後、強制的にエチオピアの一州とされたのが1961年。最後のエチオピア皇帝、ハイレセラシエ1世は、一部のエリトリア人を懐柔するため、都市部に学校やら病院を建てたりはしたよう。しかし、エリトリア人に対するあらゆる差別弾圧はエスカレートし、少数のエリトリア人は武器も持って解放闘争を始めます。

この解放闘争、最初はイスラム教徒が中心となっていたエリトリア解放前線(ELF: Eritrean Liberation Front)が優勢だったよう。しかし、後に現在の政権になる、エリトリア人民解放前線(EPLF: Eritrean People’s Liberation Front)が主な担い手でした。

とは言っても、これらの前線はゲリラ部隊。独立間際の時ですら、4万人に満たない規模。対する相手はなんといっても人口比で20倍、軍の規模も15倍以上という大国エチオピア。1974年に共産クーデターが起きるまでは、米国から、その後は、ソ連からの膨大な最新兵器を含む軍事支援を受けていた南アを除いてアフリカ最大最強の軍隊をもつ国。

どうやって戦い抜いたのでしょうか? 簡単な答えは見つかりませんが、一つ言えるのはEPLF兵士の士気の高さと、総力戦を指導する卓越した技能があったこと。

EPLFは単なるゲリラ部隊ではなく、壮大な草の根社会主義の実験でもありました。男性も女性も、キリスト教徒もイスラム教徒も、ティグリニア族もクナマ族も、とにかく徹底した平等意識に基づいた教育をEPLFから受けながら、皆エリトリア人兵士として戦ったとのこと。また、彼ら、彼女達は戦時でない時は、一般民衆に対して医療サービス供給したり、農業技術支援をしたりしていたようです。

毛沢東思想の影響を受けているので、一時期は中国からの支援があったようです。しかし、74年以降91年の独立までは、海外にいる亡命エリトリア人同胞からの支援以外は、まさに国際的にも孤立無援の状態。とにかく自分たちのことは自分たちでやる!という強烈なエリトリア人の自立心は、こういった背景から育まれてきたのでしょうね。

この独立解放闘争に関心を寄せた外国人は何人かいたようですが、有名なのが自らもEPLFに同行して長くを過ごしたアメリカ人のDan Connell。彼の著書、「Against all odds」には、かのノーム・チョムスキーが、”An inspiring story of courage, dedication, achievement and hope with important lessons to teach” と書評を寄せています。

今日の写真にあるよう、エリトリア中あらゆるところに、こういった戦争絵画があります。どれも、リーダー(現在の大統領)を強調した構図ではなく、普通の兵士が普通に描かれているのが印象的です。

レジ袋の話

2006-02-24 16:41:51 | エリトリア
スーパー等でレジでもらえるビニール袋、日本でも有料化するかどうかで話題になっていますね。エリトリアでは、なんと、このレジ袋、有料化どころか廃止されてしまいました!

エリトリアには、そもそも日本でいうようなスーパーのような店自体なく、まあ、個人商店(雑貨屋、八百屋)に毛が生えた程度のものしかありません。

それでも、1年ぐらい前までは、買い物をするとちゃんとレジ袋くれました。エリトリア国内では、そういったものを特別に生産するところはなく、中国、オマーン、イタリアといった国から、そもまま持ってきたであろうビニール袋が使われていました。

ところが、ある日突然、政府が新しい法律を導入!その日から、各商店でレジ袋を渡すことどころか、以前どこかで貰ったレジ袋を、町中で使用することも禁止されてしまいました。

一応理由は、環境問題を考慮してとのこと。なんでも、捨てられたビニール袋を家畜が誤って食べてトラブルが起きているとの話もありました。

急といえば急だし、なにもいきなり全面禁止しなくても…、との声もありましたが、やるといえばすぐ実行というのがエリトリアスタイル。あっという間に、アスマラ市内からレジ袋は消えました。

そもそも、リサイクル精神の塊のようなエリトリア人。食糧援助の小麦等が入っていた各国政府から届けられた大きな袋ですら再利用して、個人用の買い物袋を作るお国柄。僕も、USAとか、From People of Japanとかが書かれてあっる買い物袋もっていますし、みなレジ袋などなくてもあまり困らないかに思えました。

しかし、やはり細かい規制もアスマラのみか。今日の写真は、紅海近くのとある町の雑貨屋で昨年末撮ったもの。なんと、堂々とレジ袋が売られているではないですか!! 

雲の上にある街

2006-02-21 04:15:17 | エリトリア
アスマラを含むエリトリアの高原地帯は標高が2000m以上あると以前書きましたが、アスマラの標高は海抜約2400m。お隣エチオピアの首都アジスアベバと並んで、アフリカで一番高地にある首都です。

なんと世界中の首都の中でも、ラパス(ボリビア)、キト(エクアドル)、ボゴタ(コロンビア)の南米3都市についで確か4番目の高さのよう。

やはり高山病っぽい症状もでます。僕はあんまり深刻な影響は感じないですが、まあ、お酒を飲むと酔いやすいし、眠気が頻繁にきますね。

大変だったのは、この高地で妊娠生活を過ごした、そもそも低血圧の連れ合いで、酸素が足りないと常に文句を言っていました…。

しかし、アスマラの人はこういった環境で生まれ育っているため、産婦人科のお医者さんも含めてあまり理解してくれた感じではないですね。原因はほかにあるのでは?と逆に疑われ、心電図とかもとられていたし。

そういえば、うちのドラ息子もアスマラで幼少期の肺を鍛えて末は長距離ランナーか? と期待もしたのですが、日本で今やすっかり普通になっていることでしょう。

面白いのは、ケニアのナイロビ(標高約1800m)に何年か生活されていたある日本人の話。帰国後は、学校での長距離走は断トツ1位を保っていたお子さん、特に訓練をしなかったら半年で普通になってしまったそうです。

今日の写真は、まさにアスマラが雲の上にあることがわかるかと思います。普段は、雲がアスマラまではなかなか上がってこられないので、紺碧の青空が広がっていますが、たまに、強く風に押された雲が街にかかってきます。

ぐんぐんと地平線から雲が湧き出てくるように見えるので面白いですよ。

紅海の話(その2)

2006-02-19 04:35:15 | エリトリア
週末モードで今日も紅海の話の続きです。昨日書いた、島で野宿をした時のご飯ですが(クリスマスディナー!)、これは釣ったばかりの魚で作ったスープでした。

ブイヤベースと言いたいところですが、まあ、そんな大したものではなく単なるごった煮スープ。でも、取れたてのたくさんの魚をバンバン鍋にいれて豪勢に作ったので美味しかったですよ。

たくさんの魚を釣ったのですが、これが今日の写真にあるように、なんと釣り竿も使わない原始的手法。船頭さんに、出来れば釣りをトライしたいけど、釣りセットよろしくと頼んでいたら、そろそろやるかと言って出してきたのは、ただの釣り針の釣り糸!

これだけ?と驚く間もなく、あまったパンがなんかを針につけて船から糸を垂らすと、もう5分ぐらいで引きがきました。簡単に小さめの熱帯魚を吊り上げると、これまた、簡単にそれを解体、餌セットのできあがり。

2回目からは、この餌を使って、また面白いほど釣れるは釣れるは!日も暮れてしまったので、30分もしかなかったけど、いろいろな種類の魚が6-7匹は釣れました。多くは、オコゼのようなグロテスク系でしたが、これまたダシを取るには最適。

なんと、今週末はEUの友人達がなんと紅海ツアーに行っているのです…。なんでも、今は少しまともな大きめの船があり、しかもイタリア人シェフも同伴!うー、行きたかったなー。

紅海の話(その1)

2006-02-18 18:36:33 | エリトリア
今日は紅海について書きます。そもそも、紅海は水温が高く、またそこに流れ込む大きな川がないことより透明度が高いことで有名。ナポレオンフィッシュ等の熱帯魚の宝庫で知る人ぞ知るダイビングの好スポットです。

連れ合いが中米はパナマにいた時に、カリブ海に行ってその綺麗さに感動しましたが、エリトリア沿岸の紅海の特徴は、珊瑚礁の凄さプラスあらゆる魚がとにかく沢山いることです。ダイビングをしたわけではないのですが、シュノーケル程度でも熱帯魚がこちらにぶつかってくる状態でした。

理由としては、なにせエリトリアは過去50年間ほとんど戦争状態だったので、まあ、漁業なり、海洋、観光開発がまともに行われる状況でなかったことがあります。それから、最近は、海産物の加工品工場とかも作られているようですが、もともとエリトリアの人はあまり魚を食べませんし…。

この写真は、2003年のクリスマスの頃に、とある島に旅行したときのものです。いわゆる観光施設などもちろんないのでビーチで野宿でした。

激しく揺れる船、ビーチに吹きすさぶ風により顔面砂だらけになっての寝袋での睡眠、リュックに侵入してパンを食い漁るヤドカリ軍団…、となかなかワイルドではありましたが楽しかったですよ。もちろん、連れ合いが妊娠する前のことです!

なんでも、現在のエリトリアにおける国連セキュリティーフェーズ(1月24日のブログをご参照ください)では、アスマラの外に私用で出かけることも認められてないので、紅海へふらっと遊びにいくことも出来ません。

明日から、1泊2日出張でマサッワ(港町)の方まで行く予定だったのですが、これもキャンセルになってしまいました。あーあ、残念。

コプト教徒の食事制限

2006-02-16 05:05:39 | エリトリア
2月6日のエリトリアの宗教に関する話で、コプト教(キリスト正教会)は全体の35%ほどと書きましたが、ここアスマラでは、彼らは6割以上を占める多数派です。

宗教に関する断食と言えば、イスラム教徒の10月から11月頃にかけて行われるラマダンが有名ですが、実はコプト教にもあります。豚肉を常時食べないのはムスリムの人と同じですし、年何回かにかけての細かい食事制限があります。

その中でも、イースター(これもカソリック、プロテスタントと違い2週間早い)の70日前にあたるだいたい今頃から4月のイースター明けまでが、特に重要な食規制の時期。この間は、とにかく、肉、魚、卵、乳製品は一切口にしてはいけないよう。ラマダンの場合は、夜になればなんでも食べられるようですが、このコプト教の食事制限は昼も夜もありません。まあ、イースターが明ければ、お肉で盛大にお祝いをするようですが。

若い人などは、70日前から始めなくて食事制限の期間は短くしたりするようですが、基本的には皆真面目に戒律を守っています。お蔭様で、普段は品薄な牛乳とか買いやすくなりますがね!

去年撮ったこの写真、バスの上に載せられている羊は多分イースター明けのお祭り用でしょう…。いやー、イースター明けの時は、町中あちこちで大量の羊や牛が、調理される時を今か今かと待っていて独特の雰囲気です。皆、家でするので、鳴き声が家の近所からも聞こえてきます。集合住宅に住んでいる友達曰く、現場は凄まじいらしい!!

エリトリア料理

2006-02-13 03:10:34 | エリトリア
今日は、エリトリアの伝統的な食べ物についてです。

エチオピア料理をご存知の方、基本的には同じです。テフというエチオピア、エリトリアでしか栽培されていない穀物を発酵させて作ったインジェラというパンケーキを、これまたこの辺でしか使われないいろいろなスパイスを唐辛子、そして肉類と絡めたソースに絡めて食べます。草で編んだ立派な簡易テーブルのようなものにお皿が載っていて、その上でパンケーキとソースを混ぜて手で食べます。

この写真にある、愛嬌のある刺繍。まさに、こうやって食べるのです。

特徴と言えば、インジェラが発酵して作られているためかなり酸っぱいのと、多くのソース類はとにかく辛いこと。僕など、この微妙な組み合わせがお気に入りなのですが、抵抗のある人は結構います。さすがに、毎日これが続くと、僕も結構つらくなってきますが…。

それから、驚いたのはこちらでは新鮮な肉が手に入ると生で食べるのです!完全に生のものは、ちょっと怖くて試していないですが、半生の牛肉を唐辛子で絡めたものは結構いけました。お腹も大丈夫でしたよ?!

ソース類も種類がインドのカレーのようにいろいろあり、豆のソース類はかなりヘルシーな感じ。そもそもインジェラも発酵食なので健康には良いはず。

正直なところ、旧宗主国イギリスの影響のせいか食文化が限りなく貧困な南部アフリカ(もちろん、モザンビークは除く!)と比べると、エリトリア料理は多種多様で感動しました。

アスマラの近代建築(その3)

2006-02-11 20:05:12 | エリトリア
1月29日のブログでアスマラは普通の建物が面白いと書きましたが、今日はそのことを少し。

この写真の集合住宅。この道路に沿ったカーブの感じが、僕自身特に気に入っています。まあ、どうであれ戦前の建物ですから、上階の方は水圧が異常に弱かったり、水漏れがするとか日々の生活の面ではいろいろと問題はあるようですが。

実は、昨年G8サミットや、ライブ8がらみでアフリカがいろいろと盛り上がった時に、BBCがいろいろなアフリカ特集を組んで、その中の一つにアフリカの貴重な建築物という特番がありました。

番組自体は1時間弱でしたが、なんとアスマラの紹介はそのうち3分の1! 12、3世紀に造られたエチオピアの岩を掘りぬいて作られたラリベラ教会郡(2002年にエチオピアに旅行に行った時に見ましたけど、これも凄い)やら、マリにある泥で出来た世界最大のモスクやらの有名な世界遺産もカバーされていましたが、番組のメインはアスマラだったのです。

特に、番組でも焦点があてられていたのが、普通のシブーイ建物。ある住宅など、階段が、下から見るとカタツムリの渦のようにデザインされていて、レポーターをしていた新進気鋭のイギリス人建築家も感嘆していました。

昨日の夜、UNHCR(国連高等難民弁務官事務所)の副代表を務める友人の家で、彼の誕生日パーティーが今朝方まであったのですが、その家がまた素晴らしかったです。もちろん、彼自身がダイニングテーブルを、以前勤務していたシエラレオネ時代に、自分でマホガニーを調達して作ったりするマニアックなところがあるので、インテリアのセンスが格別だという部分もありますがね。

このジョナサンハウスでのパーティーの話はまた今度!

エリトリアの地図

2006-02-07 05:29:19 | エリトリア
これまた舟越君のリクエストに答えて、エリトリアにおけるアスマラの位置を示した地図です。2月1日の地理歴史紹介でも触れた古代遺跡のあるメテラもちゃんと載っています。

そうですね、やはり知らない土地、国のことを考えるときはまずは地図ですね。大学時代の専攻が人文地理と共通する連れ合いにも、地図による説明がないとブログの読者に親切でないと厳しいコメントをもらいました…。

し、しかし、この地図、Lonely PlanetのURLから拝借しましたが、くれぐれもエチオピアとの国境線は画定していないのでご注意を。地政学という言葉が極めてリアリティーを持つここエリトリアでは、ともかく地図が街中の書店で買えないのですから!

Google Mapに、エリトリアの衛星写真はあっても地図がないのはそういう理由かも。とにかく、国境線は依然未画定なので正確な地図はまだ作れません、というのが公式なスタンスだと思います。

残念ながら、このLonely Planetの地図では立体感がわかりづらいですが、ともかく上は3000メートル以上、下は海抜下まで、日本の3分の1程度と小さい国土のわりに高低差が激しく、移動は結構大変。

そうそう、紅海に点々と散ばる島々の数は350ばかり。これが、ともかく超キレイ!何と言っても、世界有数のダイビングスポットの紅海、特に、エリトリア沿岸は、ずっーと戦争状態で観光やら漁業という状況でなかったので、ともかく潜ると魚が顔にぶつかってくるぐらい沢山います。

これはまた後日詳細を触れますので、お楽しみに!