私は誰か、と探求していきますと、たどり着くところは真我です。
真我に常在すると今まで意味や実在がなくなり形と名前が残ります。
その形や名前も真我だったとわかります。
いえ、わかるを超えて直観します。
直観するとは私は誰かがわかるということです。
あんなに求めていたのは物や愛ではなくて真我だったと直観します。
私を知る瞬間というのは恍惚した気分ですが、すぐにそれもなくなります。
しだいにに日常に戻るんですね。
怒りもするし、イライラもします。
性欲もあるし、食欲もあります。
今までと違うのは、怒っても、イライラしてもそれでいいんだと思えることです。
性欲に振り回されることも減るし、食欲もありますがいつも通りです。
もとより、私を知るとは感謝の極地なので日常で感謝をするというのは、私を知っているということでもあります。
かんたんにいうと感謝している瞬間は誰もが私は誰か、を知っているということです。
そんなにむずかしい、きびしい修行をすることもないです。
歴代の私を知った人は、ときには乳粥を恵んでもらって私を知りましたし、鳥が飛んでいるのを見て私を知った人もいます。
私を知るとは、予想もつかないときに、予想もつかない方法で、予想もしないように私を知ることになるのです。
私を知るのは一瞬です。
まさに一瞬、この瞬間とは私のことだったと直観します。
過去も未来もありません。
私は、存在であり、私は、あります。
しかし、そんなことを直観しなくても、日常で感謝をしていれば私を知っていることになるでしょう。