ゆるい遊び

誰もが自分を試している。誰もが挑戦者

今日は、久しぶりに、過去に私を執拗にいじめていた相手を再開しました。

目も合わせる必要もなく、お互いに話もしませんでしたが私には思うところがありました。

それは、人とは誰もが自分なりの挑戦をしているということです。

私は、その人に数年間毎日のように執拗ないじめを受けましたが、私にとっての挑戦とはいじめられることだったのだと思います。

今でも、いじめられるのは嫌ですし、いじめを未然に避けたい気持ちはあります。

しかし、いくら嫌がっても、避けようとも、いじめられる時はいじめられます。

他の方は分かりませんが、私の人生は、そういう人生でいいんだと思うのです。

もし、人生が神芝居だったならば、一人一役、役柄が決まっています。

いじめをする人はいじめをするような顔、声、服装、態度、目線、雰囲気、体格をしていないと役柄に合いません。

だから、いじめをすることはいけないと思うけど、避けられないいじめをするならこのように役柄のイメージ通りいじめをする人でなければいけません。

いじめをする人はいじめをする人らしくなければいけません。

それで、これもいじめはいけないことですが、いじめられるならば思いっきりいじめられた方がいいと思います。

中途半端にいじめられるとうじうじするか過去を引きずられます。

かくいう私もいじめられている時は相手を恨んだり、憎んだりしました。

けど、今思うのは、今日会った人が過去に私をいじめてくれたからこのように前向きに生きられる人生観(挑戦者)を与えてくれたんだと思います。

私は、子供の頃に親から虐待を受けました。

けど、うちの親は子供が可愛いばかりに中途半端な虐待でした。

これは虐待は肯定していません。

虐待は反対です。

けど、身に起こってしまったことなのでいつまでも過去に囚われずに生きたいね、というお話です。

ですので私が体験した虐待は中途半端だったのでいつまでも過去を引きずってうじうじしていたんですね。

しかし、今日会った人がトドメをさしてくれました。

トドメと言っても何かされた訳ではないです。

けど、今日会った人の暗い雰囲気などなどが私を前向きにしてくれた。

それは、人生の避けられない困難ならば、困難を受け切った方がお得だということ。

あの時、執拗にいじめを受けてよかった。

本気でいじめられたから人生って楽しいんだってわかった。

避けられないいじめならばいじめられる挑戦をする。

(もちろん、いじめは反対ですし、してはいけません。私個人は何十年といじめられてきたのでいじめは嫌ですがいじめは慣れっこなので少しくらいなら余裕がありますのでこのように考えられますが、いじめ、虐待、暴力、犯罪には然るべき行動と対応が必要です)

今日の言いたいことは、今日、再会した人は、嫌な仮面を被った仏様だった。

相手を嫌な人間にしていたのは自分だった。

加害者がいる訳ではなくて、自分が被害者になっていただけだった。

いじめをされたのではなくていじめという自分を進化させる材料をいただいただけだった。

このように思います。

一人一人、人生の挑戦課題は違いますが一人一人が挑戦者なのは間違いありません。


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