私は、いじめや虐待、犯罪、国難そういうものは避けれるならば避けた方がいいと思います。
しかし、避けられない困難ならばどうするか?
それは、避けられない困難を諦めることだと思います。
避けられない困難なのだから仕方ないです。
いじめ初期のいじめから逃げたいとか避けたいという気持ちの時は、ますます困難はやってきます。
ところが、いざいじめ(困難)を受け入れますと困難は困難ではなくなります。
なんでかというと現実に挑戦(受け身ではなくて能動的とも言えます)しているからです。
でも、だからと言って辛くないかと言いますと違います。
辛い時もあります。
いじめは辛いものですから辛くて当たり前です。
ですので辛ければいじめが順調にいっているということです。
何度も書きますが私はいじめは反対です。
ここでは避けられるいじめ(困難)なら避けた方がいいですが避けられないいじめ(困難)の話をしています。
辛くないいじめはないです。
けど、いじめ(困難)を受け入れますと現実の見方が変わります。
パワハラする上司には、あんなに怒鳴って元気がいいなあ、とか思えます。
さらに言いますとこのくらいのことで怒鳴るなんて日常生活はストレスばかりで大変だろうな、この怒鳴りは日常生活のストレスの一部で本人のストレスはとんでもないことになっているだろう、私で少しでもストレスを発散していただいて喜んでいただければ幸いだな。
これは何も上司だけじゃなくていじめにも言えると思います。
私生活でのストレス発散する相手として私たちが獲物になっている可能性があります。
なので私の話すのは常識的は対応はしますが、心中では相手に対して慈悲をかける。
常識的な対応とは、犯罪であれば警察などです。
困難は起こってしまいました。
ならば、もう、ジタバタせずに諦める。
とは言っても渦中の時の心中というは辛いものです。
しかし、長い目で見ればこの辛い気持ちが私たちの抜け目なさを作ったり、心の思いやりを育んでいるのかもしれません。
いじめは点ですが、人生は点と点の繋がった線です。
その時の困難(いじめ)という点だけでは全ては語れません。
もし現在自死を選択しているのであれば点で判断せずに人生(寿命)が終わる時の線で判断することも参考に。
今は困難とはいじめと言っていますが、個人個人の困難は違います。
臨機応変に自分の現実に当てはめていただければ幸いです。