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原子炉の初等理論

2011-03-15 22:01:06 | 日記
武田充司 著



冷静になること。

そして、とにかく炉心を冷やし続けること。

 


□ あの事故が起きたのは1986年の4月26日の未明(現地時間)ですから、あれからもう23年も経ちました。
今では、事故のこともだいぶ忘れられてしまったようです。なにしろ、あの年に生れた人が、順調に行けばもう大学を卒業しているのですから、忘れられたというより、知らない人が大勢いるような時代になってきました。
しかし、僕は依然として、あの事故の後始末にかかわっているので、今でもあの事故は僕の現実なのです。世間の人から見れば、過去に生きる化石老人のようなものかも知れませんが、先日も、ロンドンに行き、G20サミット直前の騒々しいロンドンの街並みを横目に、チェルノブイリの瓦礫をすっぽり覆う巨大な格納建屋(新シェルター)建設工事の問題点を議論してきました。
 
 あの事故が起ったとき、僕は東海村で、東海第一(沸騰水型炉)と第二(黒鉛減速ガス冷却型炉)という2つの異なるタイプの原子力発電所の所長を兼務していました。事故の知らせが届いてからというもの、地元や近隣の市町村に説明して歩くことに何ヶ月も忙殺されましたが、思えば、それがこの事故との関わりの始まりでした。
 
 冷戦時代のソ連は、米国に対抗して、自国の原子力技術を衛星諸国に広めることに熱心でした。スターリンは原子力による社会主義世界(the Atomic Powered Communism)の建設を夢見ていたようです。その成果(?)のひとつが今日の北朝鮮の核問題です。しかし、チェルノブイリ型(RBMK型)原発は衛星諸国には輸出されず、自国内だけに建設されました。ところが、1991年にソ連邦が解体してしまうと、ウクライナとリトアニアという、ソ連時代はソ連の一部であった地域が独立国となって、それぞれ、チェルノブイリとイグナリナという2つのRBMK型原発を所有することになってしまったのです。
 
 チェルノブイリ事故以来、ソ連型の原子炉の安全性に疑問を感じていた西側諸国は、ソ連が崩壊すると早速、1992年のミュンヘン・サミットにおけるG7合意という形で、東側にある原子力施設の安全性向上に取り組むことを確認したのです。そして、この国際協力事業遂行のための資金を西側諸国から集めるために、ロンドンの欧州開発復興銀行(EBRD)にNSA(Nuclear Safety Account)という口座が開設されたのです。
 
 日本もG7の仲間としてNSAに資金を拠出し、東欧圏における支援活動をはじめました。こうした国際協力の一環として、僕がリトアニアの支援に入ったのは1995年ですが、それから10年近くリトアニアとのお付き合いをしました。特に、1997年からは、リトアニア政府が設置した原子力安全諮問会議のメンバーとして西側諸国の専門家と一緒にイグナリナ原発の安全性向上にかかわりましたが、2004年にリトアニアがEUに加盟したのを機に卒業しました。その間、リトアニア政府は非常に協力的で、真摯な態度で原子力発電所の安全性向上に取り組みましたので、このプロジェクトは成功し、資金を出したG7諸国も、金の出し甲斐があったのではないかと思っています。

 一方、チェルノブイリ問題は、リトアニアのイグナリナ原発より遥かに深刻で複雑な国際問題でした。事故直後に放射性物質を封じ込めるために造られた石棺(今はシェルターと呼ばれていますが)は急造の不完全な施設でしたから、老朽化が進んで心配な状況になっていました。そこで、1995年末に、ウクライナ政府とG7およびEUとの間で覚書が交わされ、西側の資金によってこの問題を根本的に解決することになり、欧州復興開発銀行(EBRD)にチェルノブイリ・シェルター基金(Chernobyl Shelter Fund)が設立されました。そして、世界中の国々から資金が集められ、1997年から新しいシェルターを建設する国際プロジェクトが始まりました。その翌年、この前代未聞の複雑な事業が遭遇するであろう困難な技術問題解決のための助言機関として、国際的な技術顧問団が編成されたのですが、僕はその時から、この顧問団の一員として、チェルノブイリ問題にかかわることになりました。

 先ず、準備段階として、現在の老朽化して不安定になっているシェルターを安定化させる作業が必要でした。これが結構難しい作業でしたが、やっと最近完了しました。一方、これと並行して進めていた新シェルターの設計と業者選定も、国際協力事業ならではの複雑で困難な問題に遭遇しました。予定通りならこのプロジェクトは、今頃は終っているので、僕も解放されているはずなのですが、次々と現れる厄介な問題のおかげで、工程はどんどん遅れ、今やっと新シェルター着工という段取りになったのです。したがって、このまま進めば、完成は2012年末かそれ以降になるでしょう。この予想外の遅延によって、我々顧問団メンバーも皆それなりに歳をとってしまい、僕も当初の心つもりであった75歳までという歳を過ぎ、1日2日の会議のために東京・ロンドン往復を繰り返すのも億劫になってきましたが、もう少しだから最後まで責務を果たそうと思っています。
 現時点で、安定化作業も含めた最終的な費用総額は約1500億円と推定され、当初からの事業期間は大幅に延び、約15年となりますが、あのチェルノブイリの瓦礫を安全に封じ込める恒久的な施設(新シェルター)の完成を目指して、23ヶ国の資金拠出国と数ヶ国の随意寄付国が資金を提供し続けてくれています。わが国もG7のメンバーとして、既に50億円ほど拠出しています。工程の遅延や予算の膨張などで、各国からは厳しい目が向けられていますが、何とか早く当初の目的を達成しようと関係者は頑張っています。

 チェルノブイリといえば、その悲惨な犠牲者や瓦礫と化した発電所を覆う不完全な石棺のことばかりが報道され、その後営々と続けられてきた国際協力による様々な回復事業の実態などは、殆ど世間に知られていないので、この機会に一筆啓上した次第です。4月15日の朝日新聞朝刊の記事に触発されて少し長くなりました。お許し下さい。最後に、こうした国際プロジェクトの難しさに対する世間の理解と忍耐をお願いしたいものです。
 詳しいことは日本原子力学会誌の2008年2月号に掲載された僕の解説記事「チェルノブイリ新シェルター・プロジェクトの概要」を見てください。また、リトアニアのイグナリナ原発支援問題については、同学会誌の2000年12月号に僕の書いた解説記事「リトアニア共和国イグナリナ発電所1号機の閉鎖をめぐって」があります。
http://denkikei1955.seesaa.net/article/117665228.html  より抜粋

□軽水炉(けいすいろ)は、減速材に軽水(普通の水)を用いる原子炉である。

水は安価で大量に入手でき、高速中性子の減速能力が大きく、冷却材を兼ねることも出来る。しかし、中性子吸収量が大きいため、運転に必要な余剰反応度を確保するには、濃縮ウランを燃料とする必要がある。

アメリカで開発され、現在、世界の80%以上のシェアを占めている(原子炉基数ベース、1999年現在)。2007年現在、日本で商用稼動している原子力発電所は全て軽水炉。



そしてきちんと自分で理解すること。
東電さんばかり非難できない。日本を信じたい。