ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

読み直し近代短歌史3  おのがじし(個性と独自性の尊重) 佐佐木信綱

2016年04月12日 | 評論
  佐佐木信綱は明治5(1872)年生まれ、樋口一葉と同い年です。二人は幼い頃に出会い、長じてからも萩の舎で会っています。萩の舎というのは、一葉が短歌を学んだ中島歌子主宰の短歌塾です。
 一葉は24年の短い生涯でしたが、4000首もの短歌を残しているのはご存じのとおり。一葉の死後、生前に交流があった信綱の手で『一葉歌集』が刊行されています。

 こんな話をすると、信綱は大昔の人と思われるかもしれませんが、私の大学院生のときまで健在でした。毎年夏休みと冬休みには熱海の信綱の家をたずね、夜はいっしょに酒を飲んだりしたものです。
 昭和38年(1963)に92歳で他界するまで、ずっと元気で、70代以後に当たる戦後だけでも30冊ほどの本を出しています。
 ライフワークの万葉集関係の仕事では、『評釈万葉集』七冊、『万葉集年表大成』『万葉集辞典』等、重要な著作を戦後に刊行しています。それほど大昔の人ではありません。

 信綱は、父・弘綱が本居宣長の系統の幕末の歌人・国学者だったので、子供のときから作歌をはじめました。数え年6歳のときの短歌が残っています。
 そんな事情もあって早く短歌史に登場します。明治22年、18歳の年に「長歌改良論余論」を「読売新聞」に発表、そのころから雑誌「歌学」「国民の友」、森鴎外が発行していた雑誌「しがらみ草紙」などに作品、評論を寄稿します。明治30年には、落合直文、与謝野鉄幹、正岡子規らと「新詩会」を起こします。
 二十代で歌壇に出た信綱は、近代短歌史の曲がり角だった明治20年代終わりから30年代のはじめにかけて、独特な立ち位置にいました。

 明治27年5月に発表された与謝野鉄幹の評論「亡国の音」をきっかけに、いわゆる「短歌革新運動」が起こり、歌壇が「新派」と「旧派」に分けられます。
 題詠中心の古典和歌を否定して新時代にふさわしい短歌を提唱する若い歌人たちは、伝統派の歌人たちを否定的に「旧派」と呼んだわけですね。
 つまり、明治20年代終わりから30年代はじめにかけては、短歌革新運動の過渡の時代でした。
 新派の側に立つ正岡子規の「歌詠みに与ふる書」が発表されるのは明治32年のことです。新派の優勢を決定づけた与謝野晶子の歌集『みだれ髪』が刊行されたのは明治34年のことでした。

 そんな過渡の時代に、信綱は「新派」にも「旧派」にも太い人脈をもっていました。その人脈を背景にして、歌壇で最初の結社雑誌を創刊します。
 明治29年に雑誌「いささ川」を創刊、7号まで刊行し、同31年(1898)2月に短歌結社雑誌「心の花」を創刊します。
 落合直文の「あさ香社」が雑誌を持たなかったので、この「心の花」が短歌史上最初の結社雑誌ということになります。ちなみに与謝野鉄幹の「明星」はこの2年後、明治33年の創刊です。「心の花」創刊の年、信綱はまだ27歳でした。

 佐佐木信綱の近代短歌史上ではたした役割は、「個性と独自性の尊重」を結社の方針にかかげて、門人たちを指導し、多様な個性、独自の作風の歌人を世に出したことにあります。
 信綱は「心の花」を拠点に、新しいタイプの歌人たちを世に送り出してゆきます。キーワードは「おのがじし」。人それぞれ、独自に、といった意味です。
 
 今では、個性の尊重などということは当然のことのようですが、古典の時代はそうではありませんでした。「虫めづる姫君」でも分かるように、個性の独走は忌避されるべきであり、独自性へのこだわりは社会性をもちえませんでした。
 個性と独自性の尊重は、近代化のなかで見えてきたまったく新しい「個」のありようの発見であり、作歌の基盤の提示だったのです。

 後に「ひろく、深く、おのがじしに」が「心の花」の結社運営の理念となるのですが、中心となる「おのがじし」という語は、早く「心の花」創刊号の信綱の文章「われらの希望と疑問」に登場します。 
 「短歌の形他にすぐれておのがじしの思をのぶるにたよりよかりしかば……」。短歌形式は各自それぞれがそれぞれの心情を表現するのにふさわしいので、といった意味です。 

 短歌は「おのがしし」であるべしとした信綱です。古典歌人でも、彼が発掘紹介した歌人はみな個性的な歌人、独自の世界を持つ歌人たちでした。
 万葉集では、明治以前はほとんど評価されることがなかった山上憶良、高橋虫麻呂の二歌人を高く評価しました。「貧窮問答歌」等、時事的社会詠がある山上憶良、浦島太郎の長歌などがある伝説歌人としての高橋虫麻呂。二人にはじめて光を当てたのは信綱でした。現在では、二人とも万葉集の有力歌人とされているのはご存じ通りです。

 江戸時代の歌人では、顕微鏡やフラスコなど、新しい題材を積極的にうたった大隈言道、勤王の女流歌人・野村望東尼などを世に広く紹介しています。
 その他、あまり注目されることのなかった「歌謡」の分野で、『琴歌譜』『承徳本古歌謡』『梁塵秘抄』等を発見紹介しています。
 これら信綱が発見紹介した古典歌謡が、近代短歌史に大きな影響を及ぼしたことはよく知られています。たとえば、斎藤茂吉、北原白秋らが、はじめて紹介された『梁塵秘抄』の歌謡の影響下にある歌を発表しています。

 「心の花」では、多くの個性的な歌人、独自の世界をもつ歌人を世に送り出しました。
 東京音大のピアノの教授だった橘糸重。独特の「われ」の照らし方をした片山廣子。口語、オノマトペに新しい短歌の可能性を開いた木下利玄。西行、戦国時代和歌の研究でも知られる川田順、片山廣子のよきライバルだった柳原白蓮。
 そして、昭和初期にシュールリアリズムを大胆に取り入れた歌集『植物祭』で歌壇に衝撃を与えた前川佐美雄……。いずれも「おのがじし」に自分独自の個性的な世界を構築した歌人たちでした。
 
 戦後、昭和二十年代、塚本邦雄の登場によって「前衛短歌」の時代がはじまります。その塚本邦雄は前川佐美雄の門下で、佐美雄の雑誌「日本歌人」を出発点にしています。さらに言えば、前衛短歌の主要歌人だった前登志夫、山中智恵子の二人もまた、佐美雄の門人でした。
 近代短歌史における個性と独自性の尊重が、戦後の前衛短歌の淵源をなしたと見ることができるのです。
 
 紙幅がないので紹介できませんが、口語短歌の分野でも、木下利玄だけではなく、「心の花」から出た歌人が多くいます。信綱が他界する前年に生まれた俵万智も、「おのがじし」の流れをくむ「心の花」の歌人の一人なのです。
 
 佐佐木信綱の初期の短歌を引用しておきましょう。
幼きなきは幼きどちのものがたり葡萄のかげに月かたぶきぬ 『思草』
ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲 『新月』
われを捨ててかけらひいにし魂よけだものの群にまぎれ入りけむ 『常磐木』
白雲は空に浮かべり谷川の石みな石のおのづからなる 『鶯』




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