江戸城築城で知られる室町時代の武将・太田道灌。太田道灌といえば、山吹の里のエピソードが思い出されます。
江戸時代中期に成立した逸話集『常山紀談』の載っている話です。著者は徂徠学派の儒学者である湯浅常山。備前岡山藩の池田氏に仕えた人物です。
早稲田大学の情報センターから甘泉園公園のあたりがエピソードに出てくるかつての山吹の里だったとして、戸塚町の都電・面影橋駅ちかくに「山吹の里」の碑が建てられています。
太田道灌が鷹狩りに行って雨にふられ(高田馬場にほんとうに鷹がいたんですかね)、野の一軒家にたち寄って蓑(みの)を借りようとしました。すると、若い女が黙って山吹の花を一枝さしだします。「蓑はありません」の意味だったのですが、道灌にはそれが分からない。 後になって〈七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき〉という古歌によっていたことに気づいて自身の無学を恥じ、以後、和歌の道にいそしんだというエピソードです。「実の一つだに」「蓑(みの)一つだに」が掛詞になっているわけですね。
エピソードの虚実はおくとして、太田道灌という人物は、江戸城で歌合(うたあわせ)の会を主催したり、隅田川船上で詩歌の会を開いたりして、武将としてのみならず文化人としても広く知られた人物でした。
太田道灌の一首引用しましょう。道灌の歌集『慕景集』におさめられている作です。
急がずはぬれざらましを旅人のあとよりはるる野路の村雨
これだけを読むと、秋の道を急ぐ旅人をうたった作と読めます。「急がなければ濡れなかっただろうに。旅人が過ぎて行った後から晴れてゆく野道に降るにわか雨よ」。
やや教訓めいてはいますが、なにやら急ぎ足で前方だけを見つめて、前のめりに急ぎ行く男の姿が、大空を高速で飛ぶ雲をバックに目に浮かびます。なかなかの歌といっていいでしょう。
ところが『慕景集』を見ると次のような意味の詞書がつけられています。意訳して引用しましょう。
「細川勝元が、唐の詩人・韓愈(かんゆ)の「短慮不成功」という詩の言葉の意味を手紙で質問してきた。それに答えたのが、この歌」。
つまり一首は全体が比喩になっているのですね。表の意味としては秋の旅人をうたいつつ、じつは「急(せ)いては事をし損ずる」「待てば海路の日和あり」に近い裏の意味を表現しているわけです。なかなかのアイディアで、道灌という人物の作歌力がなみなみでなかったことがよく分かります。
戦国時代の武将たちが、手紙でこんな風雅なやりとりをしていたのも驚きです。相手が太田道灌だからこそだったのでしょう。
太田道灌の歌としては、次のような作がよく知られています。
露おかぬ方もありけり夕立の空よりひろき武蔵野の原
わが庵(いほ)は松原つづき海近く不二(ふじ)の高嶺を軒端(のきば)にぞ見る
前者、高層ビルだらけの現在の東京を知る私たちにはイメージしにくいのですが、関東平野の広々とした感じを表現した作として見事です。下句、調べもいいし、イメージも大きく、かつ豪快です。
後者は江戸城の静勝軒での作。当時は東京湾がぐっと入り込んで、現在の皇居のところが松原ですぐ近くが海だったのです。内容とマッチした下句の軽やかなリズムが持ち味の一首です。
武将としての太田道灌は、早く太田家の家督を継いで江戸城を築城、さらに岩槻、河越にも築城して武蔵・相模という広大な地域の実力者となります。
一方、扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家臣として、主君の扇谷上杉定正につかえていたのですが、山内上杉家の内紛にかかわり、江古田沼袋原の合戦、武蔵村山出陣等、三十余度の多きにわたって関東の野に戦いました。多くの合戦にかかわった武将だったのです。まったくもって風雅を生きた文化人ではなかったのです。
太田道灌が多くの合戦を制したことで、扇谷上杉家を山内上杉家に匹敵するまでに引き上げました。しかしそのことがかえって彼に不運をもたらします。このあたりが戦国時代ならではの論理で、権力がぶつかり合っていた現場の感じなのでしょうね。
扇谷上杉家の勢力増大を怖れた讒言により、相模国糟屋(現・神奈川県伊勢原市)の主君扇谷上杉定正邸に誘い出され、殺害されたとされています。まことに不本意な最後だったのでした。
江戸時代中期に成立した逸話集『常山紀談』の載っている話です。著者は徂徠学派の儒学者である湯浅常山。備前岡山藩の池田氏に仕えた人物です。
早稲田大学の情報センターから甘泉園公園のあたりがエピソードに出てくるかつての山吹の里だったとして、戸塚町の都電・面影橋駅ちかくに「山吹の里」の碑が建てられています。
太田道灌が鷹狩りに行って雨にふられ(高田馬場にほんとうに鷹がいたんですかね)、野の一軒家にたち寄って蓑(みの)を借りようとしました。すると、若い女が黙って山吹の花を一枝さしだします。「蓑はありません」の意味だったのですが、道灌にはそれが分からない。 後になって〈七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき〉という古歌によっていたことに気づいて自身の無学を恥じ、以後、和歌の道にいそしんだというエピソードです。「実の一つだに」「蓑(みの)一つだに」が掛詞になっているわけですね。
エピソードの虚実はおくとして、太田道灌という人物は、江戸城で歌合(うたあわせ)の会を主催したり、隅田川船上で詩歌の会を開いたりして、武将としてのみならず文化人としても広く知られた人物でした。
太田道灌の一首引用しましょう。道灌の歌集『慕景集』におさめられている作です。
急がずはぬれざらましを旅人のあとよりはるる野路の村雨
これだけを読むと、秋の道を急ぐ旅人をうたった作と読めます。「急がなければ濡れなかっただろうに。旅人が過ぎて行った後から晴れてゆく野道に降るにわか雨よ」。
やや教訓めいてはいますが、なにやら急ぎ足で前方だけを見つめて、前のめりに急ぎ行く男の姿が、大空を高速で飛ぶ雲をバックに目に浮かびます。なかなかの歌といっていいでしょう。
ところが『慕景集』を見ると次のような意味の詞書がつけられています。意訳して引用しましょう。
「細川勝元が、唐の詩人・韓愈(かんゆ)の「短慮不成功」という詩の言葉の意味を手紙で質問してきた。それに答えたのが、この歌」。
つまり一首は全体が比喩になっているのですね。表の意味としては秋の旅人をうたいつつ、じつは「急(せ)いては事をし損ずる」「待てば海路の日和あり」に近い裏の意味を表現しているわけです。なかなかのアイディアで、道灌という人物の作歌力がなみなみでなかったことがよく分かります。
戦国時代の武将たちが、手紙でこんな風雅なやりとりをしていたのも驚きです。相手が太田道灌だからこそだったのでしょう。
太田道灌の歌としては、次のような作がよく知られています。
露おかぬ方もありけり夕立の空よりひろき武蔵野の原
わが庵(いほ)は松原つづき海近く不二(ふじ)の高嶺を軒端(のきば)にぞ見る
前者、高層ビルだらけの現在の東京を知る私たちにはイメージしにくいのですが、関東平野の広々とした感じを表現した作として見事です。下句、調べもいいし、イメージも大きく、かつ豪快です。
後者は江戸城の静勝軒での作。当時は東京湾がぐっと入り込んで、現在の皇居のところが松原ですぐ近くが海だったのです。内容とマッチした下句の軽やかなリズムが持ち味の一首です。
武将としての太田道灌は、早く太田家の家督を継いで江戸城を築城、さらに岩槻、河越にも築城して武蔵・相模という広大な地域の実力者となります。
一方、扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家臣として、主君の扇谷上杉定正につかえていたのですが、山内上杉家の内紛にかかわり、江古田沼袋原の合戦、武蔵村山出陣等、三十余度の多きにわたって関東の野に戦いました。多くの合戦にかかわった武将だったのです。まったくもって風雅を生きた文化人ではなかったのです。
太田道灌が多くの合戦を制したことで、扇谷上杉家を山内上杉家に匹敵するまでに引き上げました。しかしそのことがかえって彼に不運をもたらします。このあたりが戦国時代ならではの論理で、権力がぶつかり合っていた現場の感じなのでしょうね。
扇谷上杉家の勢力増大を怖れた讒言により、相模国糟屋(現・神奈川県伊勢原市)の主君扇谷上杉定正邸に誘い出され、殺害されたとされています。まことに不本意な最後だったのでした。
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