「夕餉はまだかなぁ」洋泉がそう言うと、答えるかのように理能の腹が鳴った。
「キミも腹が減ったか…」
「え、えぇ」
「今朝は、いつ参内した?」
「開門時に」
「それからずっと今までか。それは腹も減るな」
大内裏の正門は日の出に開く。開門に合わせて官人たちが出勤してくるのだ。そしてたいていは、日が一番高くなる昼過ぎに帰宅する。蔵人所も開門した時に出勤してくるのだが、午後から開かれる参議 . . . 本文を読む
洋泉が杯をあけて、話し出す。
「ところで、潤連タイショウ。後宮のほうの情報はどうだい? 今日はそれを話しに来たんだろう。」
「そうでした。いや、なんだかんだと渡り歩いてみましたが、どうも皆、噂に過ぎぬというようなことで、本当に『見た』という者がいないのですよ。私は噂に過ぎぬと思いますね。事実、忍び込んだ者がいたとしても、それはまぁ、帝のお命を狙う危険な人物ではなくて、女人の元に忍び込んでいる . . . 本文を読む
満開の桜の花はどれも散りはじめ、木によってはもう半分も花を落としてしまっているものもある。渡る鷺も残らず南へ行ってしまった。
帝の寝所がある清冷殿(せいれいでん)では、比較的位の高い若い公達が、毎晩警護のために交替で宿直(とのい)する。理能(まさとう)や洋泉(ようぜい)もしかりである。宿直所で、若い公達が数人、特になにもせず夜明かしするのだ。
宿直以外にも、理能は、朝日が昇って大内裏の開門 . . . 本文を読む
公展(きみのぶ)は、直衣の胸元をあけてくつろいだ様子で夕餉をとっていた。東風の方(あいのかた)も部屋にいたが、理能(まさとう)がこちらに来ると女房から先触れがあり、東風の方の前に几帳を立て、その後ろに隠れた。新しい膳と酒が用意され、まもなく、理能がやってきた。
「遅くなりまして、申し訳ございません」
理能は、座るとすぐに頭を下げた。
「待ってましたよ」
公展が、杯に口を近づけながらそう言 . . . 本文を読む
蔵人所(くろうどどころ)は、校書殿(こうしょでん)と呼ばれる書物の保管庫の北西の隅に設けられている。理能(まさとう)以下、実務にあたる蔵人たちは、たいてい蔵人所にいて、機密文書の作成したり、帝と太政官の会議である参議を開く準備をしたりする。校書殿の反対側すなわち東南には、右の近衛陣座があり普段は空き部屋で、洋泉(ようぜい)はこちらで時間をつぶしていることが多かった。
別当は参内すると、たいてい . . . 本文を読む
校書殿を出た頭の弁(とうのべん)理能(まさとう)と頭の中将(とうのちゅうじょう)洋泉(ようぜい)は、右手に笏を持ちゆっくりと帝の御座す清冷殿(せいれいでん)へ向かって歩いていた。洋泉が、小声で理能に話しかける。
「しかし、なんだなぁ、別当殿を通さず、帝が御直々に私たちを呼ばれるとはいったいどうしたものかなぁ。別当殿が帰られたのを見計らったかのようなタイミングじゃないか?」
「えぇ。」
「私 . . . 本文を読む
東三条(とうのさんじょう)邸と言えば、貴族たちの間でもよく知られた豪奢な邸である。東西二つの町からなっており、西側の町の寝殿に左大臣・萩原公展(はぎはらの きみのぶ)が暮らし、その西の町の東の対には夫人の東風(あい)の方が住まう"風の対"がある。寝殿を挟んで西の対の南側に三女の楸子(しゅうし)、四女の桃子(とうし)がいる。
東の町の寝殿は、長女の承杏殿の女御(じょうきょうでんのにょうご)がお宿 . . . 本文を読む
この甘島(ましま)の国の政、文化、全ての中心、帝の御座す都、平杏(へいあん)は春の盛りである。
「散りはじめたのですねぇ…。」
骨ばった細面に笑っているような細い目をして、黒くつややかな髪をきっちり結い上げ烏帽子をかぶった男は、目の前の書き物に舞い落ちてきた桜の花びらに、筆の手を止めた。
「頭の弁(とうのべん)、一段落着いたら、由野山(よしのやま)へでも出向いて遅い花見の宴をしようじゃな . . . 本文を読む