名詞の顔と言う意味ではなく、動詞です。直面する、向き合う、という意味です。
前々回に「死」について書きました。
やはり、作品を創るということはその作品の持つ社会的なテーマや問題点と向き合うことになります。
また、どうしてもその芸術家の見方を表明するというか、立ち位置をいやおうなしにさらすことにもなります。
若干、先々週のブログで死に関して書くことに躊躇がありました。やはり賛否両論ある問題だからです。
それでも書いたのは、既に作品を発表しているから。
もちろん前回のものは演劇というよりは朗読でしたが、それでもなお観終わった後、重い気分になった方もいらっしゃると思います。
それはそのまま作品の力でもありますし、演劇と言うものの副作用でもあります。
演劇はよく鏡に例えられます。社会を写すものとして。
また、観た人が自分自身を写す鏡にもなるかもしれません。
それは現実の社会と地続きでつながっていますし、批評し比喩し風刺するものです。
どんなにファンタジックなものであってもSFであっても、優れた作品は人間をそして人生を描いています。
そして創り手のことも映し出します。
もちろん現代の多くの作家たちと同様、説教くさいもの、何か信仰や信条や善悪やその他の何かを押し付けようというつもりはありません。
特別に伝えたいメッセージやテーマもありません。
それでも創り手には信念があり、その世界観というものがあります。
それがないと、作品は創れません。その言葉は、身振りは、演技は、ただの空虚なものになってしまいます。
ぼくが思うに芸術作品とは、その芸術家のものの見方、もう少し正確に言うと「その人に見えている世界の見え方」というものが反映されたものだと思います。
観客はそれに出会うことで、新たな自分を発見したり、今までの自分について考えたりしていくことができるのかもしれません。
でもこれは、芸術作品に限ったことではなく、およそコミュニケーションというもの、もっと言うと人と人との出会いこそは、この世界観のぶつかり合いであり、もっと正確に言えば「見え方の交換」ではないかと思います。
これを巧く交換できない場合は、コミュニケーション不全となり、真には出会えないのかな、と。
これは教えている場でも成立していることだな、と思います。
そしてぼくはやはり、こうして世界に向けて作品を創っている、という事実と向き合わないといけないのだと思っています。
ブログで演劇に対する考えを表明していくこともそうですし、ある種の芸能人として顔をさらして作品を世に出していくという覚悟もまたそうです。
世界に起こるいろんな出来事に対しても向き合わないといけません。
「まるで身動きも出来ない」という態度しか取れない場合についてさえも、そのことをさらけ出すしかありません。
問題を指摘するだけで、解決策を提示できない、そんな無力ぶりをさらすかもしれませんが、それでもなお演劇を僕は創り続けるのです。
ひょっとして、ここに書いたものを読んだり、ぼくの作品を観たりして、必ずしも元気になったり、勇気付けられたり、ということにはならないお客さんがいらっしゃると思いますが、お一人お一人がこの世界に対しての自分の見方や態度について少しでも(すみません、本当におこがましいとも思うのですが)考えるきっかけになっていれば幸いです。
だからツイッターをやったりして簡単に言葉を発することには少し苦手意識というか、怖さがあっていまだに出来ません。
MIXIもマイフレンドリストだったかが出たときに、逆に怖くなってあまり日記を書かなくなってしまいました。
だって、良く知っている人たちに向けて書くのなら、わざわざネットを使わなくてもよいから。
まあ、一番向き合わないといけないのは、この夏、依頼されている子供たちと作るお芝居かも。
聖書を題材にして、未就学児を含む子供たちと創らんとならんのです。
ああー、子供、嫌いだったんだけどな・・・。論理が通じない、というかわからないから。小学生のときから嫌いでした。
コーディネーターとして小学生のWSをやって、今度は実際に自分もやるはめに・・・。
人生って向き合わないといけないことの連続ですね。
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