イスラエルソング

イスラエルの歌手、作曲家、作詞家の方々の訪問記。

イスラエルからの祈り  -pray for japan-

2011年03月26日 | Weblog
3月16日夜Israelの作曲家、ルーベン・スィロットキン氏から突然電話がありました。心配でたまらず電話してきたとのことでした。私は急のヘブライ語の電話に本当にあせりました。この震災はIsraelでもBreaking Newsでテレビで出ているとのことでした。




写真はルーベン・スィロットキン氏


シューリー・ナタンさんやナフミ・ハルツィヨン氏、エフィ・ネツェル氏をはじめ十数名のの音楽家からもE-mailが来ました。特に原発のことがBreaking Newsになっているそうです。




写真はナフミ・ハルツィヨン氏


写真はエフィ・ネツェル氏



その後ダリア・ハダールさんからは

「日本は危ないから、航空券を買ってIsraelに来て、家族ともにうちに非難しなさい!」

というE-mailが2回もありました。やはりIsraelでは放射線漏れのことが衝撃的に報道されてようでした。


写真はダリア・ハダールさん



「I pray for japan!」




イスラエルからも、皆さん本当に心配して、日本のために祈っています。本当にありがとうございます。


がんばれ日本!

イスラエルの歌 キネレット(シャム ハレイ ゴラン) 

2011年03月08日 | イスラエルの歌

歌詞は詩人ラヘル(1890―1931)の作品からです。
そしてナオミ・シェメルさんが作曲しました。
ラヘルはナオミさんは時期は違いますが、
キネレットに住み、同じ風景を見て過ごしました。
 


ナオミ・シェメルさんは言います。
「世界でいちばん美しいところ、
それは竪琴の形をしたキネレット(ガリラヤ湖)です。
この歌は詩人ラヘルの詩に、作曲したものです。



作詞者のラヘルは、19歳のときロシアよりイスラエルに帰還し、
ガリラヤ湖畔の開拓村に入植しました。
詩、絵など多くの才能に恵まれていた彼女ですが、
27歳のとき結核を患い、
やむなくテルアビブに隔離される事になりました。



キネレットから離れて住むことは、
彼女にとって辛いことでしたが、
それ以上に彼女が心を痛めたのは、
親しかった友人たちまでもが、彼女を助けず、
「シャローム」という言葉さえかけることなく、
彼女から離れていったことでした。



2番の歌詞には、その時の心情が書かれていて、
『たとえ私が衰え、かがんであるくようになり、
心がちぢに乱れるようなことがあっても、
あなた(キネレット)を裏切り、
若き日の純情を忘れることなどできるでしょうか?』



ここに歌われているように、
ラヘルはテルアビブで貧しさと孤独の中に過しましたが、
そんな中でも多くの詩を書き、キネレットを慕い続け、
若き日に過した日々を決して忘れませんでした」
ラヘルは1931年に亡くなり、
キネレットの湖畔の墓地に埋葬されました。






ナオミ・シェメルさんは最後に言いました。
「私はラヘルの詩の中で育ったようなものです。
この歌は私の心に近い歌なのです」。
     

イスラエルの歌「ラビ ナフマン」

2011年03月03日 | イスラエルの歌




スィムハー・ラズさんの自宅を訪ねました。


ラビ・ナフマンの研究家で、本も何冊か出版されている著名な方です。ナオミ・シェメルさんが、このスィムハー・ラズさんの著書「ラビ・ナフマン」の本を読んで感動して作曲したのが「シラット ハアサヴィーム」という歌です。



この日はヤッファヤルコニーが歌った「ラビ ナフマン」という歌について話してくださいました。


この歌に出てくるラビ・ナフマンは、ナフマン・ベンスィムハー(1772-1811)のことで、ハシディズムの創始者バアル・シェム・トヴ(ラビ・イスラエル・ベンエリエゼル)の曾孫にあたります。


現在、毎年3万人の人が彼の墓に詣でています。今まで彼のことは話題にもなりませんでしたが、この20年間くらいのことです。それはこの間、人々の心が精神的なものを求めるようになったからです。彼は39年の短い生涯でしたが、


「失望するな、落胆してはいけない、もし困難な時が来たらただ喜ばなければいけない」


との歌詞のとおり、どんなに困難な人生にあっても絶望せぬように、信仰をもちつづけ、歌と踊りで創造主なる神を賛美し、神と直接な交わりに入るために祈り続けることを説きました。