抜き書き④ロナルド・ブリトン/信念と想像

2013年09月17日 | 抜き書き

“誤解を恐れつつも原初対象からの理解を求める欲望がある場合、分析において意見の一致を求め不一致の壊滅を求める執拗で死に物狂いの欲求ーーもっと強くいえば、意見の不一致の壊滅ーーがある。私は、誤解に対する不安から起こる、全ての分析に当てはまる一般法則があると思うようになった。すなわち、意見の一致の欲求は理解への期待に反比例するということである。理解への期待が高い場合、意見の違いは耐えられる。理解への期待がかなり高い場合、違いはかなり耐えられる。理解への期待が全くない場合、意見の一致の欲求は絶対的である。分析において、意見の一致の欲求が絶対的で最高に感じられる場合、その一致は服従か暴虐でしか達成できない。その場合、理解ではなく屈服が要求される。これは患者が奴隷のように服従するか、暴君のように支配するかによって達成される。患者によっては両方の方法を使うものもいる。”(R.プリトン「信念と想像」P74)


ポストクライニアンはやっぱ面白いんだよね。

9月16日(月)のつぶやき

2013年09月17日 | つぶやき

「善人を演じるならば、彼の中の悪人を探せ。悪人を演じるならば、彼の中の善人を探せ」スタニスラフスキイ

ヨシアキさんがリツイート | 25 RT

スタニスラフスキーの俳優修行って本がおもしろいよ。下手な心理の本読むより心理学的で。



抜き書き③ジョン・シュタイナー/「こころの退避」(2)

2013年09月17日 | 抜き書き

“患者が自分のために考えようとするように元気づけられるのは、しばしば分析家が、患者に対して自分の願望に従い新しい方向性から状況を考えてほしいという分析家自身の欲求を放棄するときだけである。”(ジョン・シュタイナー/こころの退避p87)


“後の論文の中で、マネーカイルは(1971)、分析の目的を次のように概念化することを考えている。つまり「患者が内的にはすでに知っていることを発見していくことに対する情緒的な妨害を理解して、乗り越えることを援助することである」。”(ジョン・シュタイナー/こころの退避p131)



抜き書き②ジョン・シュタイナー/「こころの退避」(1)

2013年09月17日 | 抜き書き

「各々の個人は自分を他者の中に見ること、すなわち自分を他人に投影し、他者を自分自身として体験することだけでは簡単に自己意識のある主体になれるわけではない。各々の個人は他者が「彼を認識することによって彼自身に【彼を返してやる】」ことをしない限りは自分自身の外に(自分自身から疎外されて)いなければならないように運命づけられているのだ。一人の独立した(それでいて相互依存的な)人として認識されている「他人」によって認識してもらうことがなければ、人はだんだんと(自己省察的に)人間なるものになっていけないのである。自分の外にいること(たとえば投影同一化の主体の中にいること)は、存在することの単なる潜在型にすぎない。他者によって自分を「返して」もらうことは元の状態に自分が戻ることではない。むしろそれは初めて(変形され、より十全に人間的になり、自己省察的な)主体としての自分自身を創り出すことなのである。認識することと認識されることの間主体的な弁証法は、個人の主体性を創り出す基礎となるのである」(ジョン・シュタイナー/「こころの退避」より)


「抑うつポジションにおける重要なポイントは、対象に対する支配をあきらめる課題に直面しなければならないときに生じてくる。それより早期の傾向は、対象を所有し現実を否認することを目的としているが、もし抑うつポジションが徹底操作されて、対象が独立した存在であることを認められるべきものであるならば、これは逆転(訳注:つまり、対象を手放し、現実を受け入れること)されねばならない」(ジョン・シュタイナー/こころの退避p46)


これらの状況の重要な特徴は、患者は将来について頭がいっぱいであるということである。彼の現在の苦しみはマゾキスティックに耐えられているが、彼は、将来は正義が行われ彼が復讐するであろうという希望の中に生きている。憎しみと不正の除去の希望が、現在の現実に対する防衛となり、それは特に喪失体験に対する防衛である。そしてその結果として、それは喪の過程と発達を妨害するのである。(ジョン・シュタイナー/こころの退避 p105)


シュタイナーの「こころの退避」は完全な名著なので絶対読んでください。偏頗なナルキシズムはぶちぬかれますから。(笑)

抜き書き①-ラカン-

2013年09月17日 | 抜き書き
今後、著作からの引用、抜き書きは【抜き書き】カテゴリーにまとめることにする。

“愛は想像的なものの水準で起こる現象であり、象徴的なものの全くの従属化、自我理想の働きの一種の無効化や混乱を起こす現象です。愛は完全化への扉をふたたび開いてくれるのです。巷間でいわれているように、愛している時には人は狂っているのです。 愛においては、人が愛しているのは自分自身の自我、想像的次元で実現された自分自身の自我です。” (ラカン、フロイトの技法論p228)


“欲望が象徴的なものによって自らを再認することを学ぶ以前には、欲望は他者の中にしか見られないのです。もともと、つまりランガージュ以前には、欲望は鏡像段階という想像的関係の次元でのみ、つまり他者へと投射され疎外された形でのみ存在しているのです。欲望が引き起こす緊張はこの時期には出口をもちません。言い換えればこの緊張は、ヘーゲルがいうように、他者の破壊という以外の出口をもたないのです。このような関係の中では、主体の欲望が確認されるのは競争によって、つまり欲望の向かう対象に関する他者との絶対的な競合によってだけです。そして私達が、主体におけるこの原始的疎外に接近するたびに、最も根源的な攻撃性がみてきます。つまり他者が主体の欲望を担っている限り、その他者を消し去りたいという欲望が現れるのです。”(ラカン/フロイトの技法論・下)


“攻撃性とは攻撃のことだ、と考えられていますが、この二つは絶対に一緒にしてはなりません。攻撃性が攻撃に変わるのは、極限においてであり、普段は潜在的なものに留まっています。しかし攻撃は命にかかわる現実とはなんの関係もなく、ただ想像的な関係に結び付いた存在を賭けた行為なのです。”(ラカン/フロイトの技法論より)