5月。
すっかり更新が遅れました。
花粉の猛威も去り、新緑の5月。みなさまいかがお過ごしですか。随分暖かくなってきましたね。
地元・北国では貴重な、陽の光をここ関東でぞんぶんに浴びて、日光のありがたさを日々、拝んでます。ふぃーるそーぐっど。
GWは地元に一週間くらい長いこと帰り、羽伸ばしてました。中学の同窓会とかあったりしてね。久々に会う面々と酌み交わす酒、酒、酒。とにかく、呑むしかないってくらいの再会の喜びと、昔話に花咲かせつつ、くだらない話に腹をかかえ、笑い、時の流れをひしひしと感じましたわ。本当、ブルーハーブばりに、「とうとうおまえが親か」ってな位の、いわゆる「時代は変わる。」ってやつです。ひとりひとりとの関係性が自分の足跡そのもの、軽いものも、重い繋がりも、全部自分の歴史。ありのままの自分で、それらひとつひとつと、再会し、回収。素材ひとつひとつが、今の自分の足取りの重みを確認させてくれる。忘れ物は至る所にあった。それらを拾い損ねてすらいた、青二才だった過去の自分に、思いを馳せる。
郷愁や憧れは、ただそうであることだけに価値がある。自分の郷愁への未練みたいなものを断ち切りたくて、そう言ったものの、やはり地元は特別だし、生まれ育った土地は、美しい。しかしその地元すら、変わっていくのが仕様がない現実というものだ。風景は変わっていくし、昔住んでいた家はもうないし、昔よくいったあの店ももうないし、つるんでいた仲間たちすらも変わっていく。なにものも変化というものは避けられない。そしてこちらの抱く憧れも、こちらが変わっていく以上、その中身は進化し、変化し続けている。憧れや郷愁は原理的にあまり叶えられることはなさそうだ。どちらも変化し続けているから。別に地元だけがそうじゃなくて、それは大体の対象においてそう言えるかもしれない。対象としての人間もそのひとつだ。私の中のあなたが、あなたの中のあなたかは、わからない。憧れっていうものは本質的にイマージナルなもの(想像的なもの)の世界の出来事で、こちらの内面にしか存在しない。逆にいえば、こちらの内面には主観的に確かに存在してもいる。でも実際の対象がその通りかはわかんない。むしろ微妙に異なって、ずれていっているのが常だ。でもその憧れは、自分の中のなにか根源的な起源を含んでいるのだろう。だから、こんなにエモい。エモいってのは、生きてる、ってことだからな。その感情には、値打ちがある。その感情は、あなたにしか持ち得ない。自分が自分であることの証左。生きてこう。うむ。
閑話休題。
そういえばアクトオブキリングっていう映画観てきたっけな。渋谷のイメージフォーラムにて。あれはいい映画だったな。みんなグロイイメージ勝手に持ってるけど、全然グロくないよ。むしろ、グロほとんどないよ。っていっとく。ほとんどロールプレイだかんな。人形相手だとか。インドネシアの政権クーデターと共産狩りの中で、100万人殺したといわれている虐殺の首謀者に、「あなたがやった虐殺を、もう一回映画として演じてみませんか?」っていうやつね。アメリカ人の監督の撮ったドキュメンタリー映画です。最初相手も「おーオッケーオッケー!俺たちのやったことを歴史に残せば、有名になれるもんね。やるやるー」つってノリノリで最初やり始めて。半分悪ふざけもいいところなんだけど、いざ録り始めたら、ガチで途中から色々思い出して具合悪くなってきちゃって、首謀者のアンワルさんって人だけ様子が違ってくるのな。それで最後…まぁ衝撃のシーンがあったわけなんですけれども。まあ見ていただくとして。評判は早くも今年度ナンバーワン級といわれているわけですが、「今後人為的に人の手で作った映画であれを越えることはもうできないだろう」と言われております。まったく同感であります。だってアレ、ノンフィクじゃん。無理だろ。あの嘔吐感、演技じゃ絶対できん。
あの映画はいろんな要素が複雑かつ多層的に入っているので、「どんな映画?」って聞かれても、うまく応えることができずにいた。もやもやしてた。なんだけど、ラジオ「タマフル」で宇多丸のムービーウォッチメンで評論を聞き、感嘆した。あの映画をあえて一言で言うなら、「悪の諸相」だ、と。おー!!!ですね。拍手でした。もやもやしてたのが一発でスッキリ。あの人、評論の天才だね。あれ見て、よく言語的にそれを切り出せたな、と。「悪」と一言でいっても、その悪にも色んなモードがあると。出てくるの全員悪人、まじで冗談になんないガチンコの悪人達なんだけど、確かにそれぞれがもつ悪の側面があって、その多様さが人間心理の実際であり、実際の現実。例えば開き直っちゃってる悪、周囲に流されふわふわしてる悪、本当は善なるものも持ってるけど今は悪、的な悪。とか。でアクトオブキリングに関しては、その最後の悪、自分の中の善と葛藤できる領域も持った悪、みたいなのがギリギリの極限状態で一瞬だけ、フィルムに収められるのですな。ギリギリですよ。その首謀者のアンワルさんって人だって。極限の精神状態。あれぜったいキツイぜ。フォローバック大丈夫?みたいな。まー見てる方もくるわな。みんなぐすん。。って涙ぐんでたぜ。俺も涙でたわ。キツくって。悪なのに、何万人も殺してるのに、少しだけ、共感…寸前のなにかが生まれるもの。人間性のかけら、というか。希望のようなもの。本当はやりたくねぇよ…みたいな。だよね。。みたいな。でもかたやその対極にいる真っ黒な、改心の余地ナシ、みたいな悪を生きてる人たちもしっかり描かれてるので、それもリアルだと思います。いい話だけじゃない。でもぜんぶ、どの悪のモードも、誰の中にだって、もしかしたら自分の中にだっておそらくあるものかもしれません。誰だって、いつでも、天使にも悪魔にも容易に転び得ます。それが人間だもの。○つおはそういってないけど。
そういう体験するために映画見にお金払ってますからね。映画ってのは、それによって得られる感情体験の対価として払ってるお金のことだと思います。僕、最後、空いた口が塞がらなかったんで。映画館でそういう体験できたことの対価、\1400。イエス。高いと取るか、安いと取るかは、あなた次第。アクトオブキリングは傑作なのでオススメです。
あの映画については追加取材があって、youtubeに上がってます。「アルジャジーラ アクトオブキリング」という題名で検索すると出てきます。アンワルさんもちょっと出てきます。ちなみに字幕ついてないですけど、アクトオブキリング自体も、youtubeに実はアップされてます。興味あるけど怖そうでみれないわ、ってひとはそっちで様子見するといいかもしれません。
映画の話が長くなりました。まぁそうそう書く場所もないので丁度よかったかもと思っております。あんまり書くことないわって最初思ってたんですけど、なんとか書けて安心しました。今月はこのくらいでいいよね?誰に言ってんだろう。来月も書けるかはやくも不安だぜ。ひと月って、けっこう、はやいんだね!
ま、暇つぶしにはいいかもと思って続けます。
今回も読んでくださった同じく暇を持てあましてる方と、物好きな方達に感謝申し上げます。
次は6月だー、わっほい!では、じゃーあねー。
よしあき
すっかり更新が遅れました。
花粉の猛威も去り、新緑の5月。みなさまいかがお過ごしですか。随分暖かくなってきましたね。
地元・北国では貴重な、陽の光をここ関東でぞんぶんに浴びて、日光のありがたさを日々、拝んでます。ふぃーるそーぐっど。
GWは地元に一週間くらい長いこと帰り、羽伸ばしてました。中学の同窓会とかあったりしてね。久々に会う面々と酌み交わす酒、酒、酒。とにかく、呑むしかないってくらいの再会の喜びと、昔話に花咲かせつつ、くだらない話に腹をかかえ、笑い、時の流れをひしひしと感じましたわ。本当、ブルーハーブばりに、「とうとうおまえが親か」ってな位の、いわゆる「時代は変わる。」ってやつです。ひとりひとりとの関係性が自分の足跡そのもの、軽いものも、重い繋がりも、全部自分の歴史。ありのままの自分で、それらひとつひとつと、再会し、回収。素材ひとつひとつが、今の自分の足取りの重みを確認させてくれる。忘れ物は至る所にあった。それらを拾い損ねてすらいた、青二才だった過去の自分に、思いを馳せる。
郷愁や憧れは、ただそうであることだけに価値がある。自分の郷愁への未練みたいなものを断ち切りたくて、そう言ったものの、やはり地元は特別だし、生まれ育った土地は、美しい。しかしその地元すら、変わっていくのが仕様がない現実というものだ。風景は変わっていくし、昔住んでいた家はもうないし、昔よくいったあの店ももうないし、つるんでいた仲間たちすらも変わっていく。なにものも変化というものは避けられない。そしてこちらの抱く憧れも、こちらが変わっていく以上、その中身は進化し、変化し続けている。憧れや郷愁は原理的にあまり叶えられることはなさそうだ。どちらも変化し続けているから。別に地元だけがそうじゃなくて、それは大体の対象においてそう言えるかもしれない。対象としての人間もそのひとつだ。私の中のあなたが、あなたの中のあなたかは、わからない。憧れっていうものは本質的にイマージナルなもの(想像的なもの)の世界の出来事で、こちらの内面にしか存在しない。逆にいえば、こちらの内面には主観的に確かに存在してもいる。でも実際の対象がその通りかはわかんない。むしろ微妙に異なって、ずれていっているのが常だ。でもその憧れは、自分の中のなにか根源的な起源を含んでいるのだろう。だから、こんなにエモい。エモいってのは、生きてる、ってことだからな。その感情には、値打ちがある。その感情は、あなたにしか持ち得ない。自分が自分であることの証左。生きてこう。うむ。
閑話休題。
そういえばアクトオブキリングっていう映画観てきたっけな。渋谷のイメージフォーラムにて。あれはいい映画だったな。みんなグロイイメージ勝手に持ってるけど、全然グロくないよ。むしろ、グロほとんどないよ。っていっとく。ほとんどロールプレイだかんな。人形相手だとか。インドネシアの政権クーデターと共産狩りの中で、100万人殺したといわれている虐殺の首謀者に、「あなたがやった虐殺を、もう一回映画として演じてみませんか?」っていうやつね。アメリカ人の監督の撮ったドキュメンタリー映画です。最初相手も「おーオッケーオッケー!俺たちのやったことを歴史に残せば、有名になれるもんね。やるやるー」つってノリノリで最初やり始めて。半分悪ふざけもいいところなんだけど、いざ録り始めたら、ガチで途中から色々思い出して具合悪くなってきちゃって、首謀者のアンワルさんって人だけ様子が違ってくるのな。それで最後…まぁ衝撃のシーンがあったわけなんですけれども。まあ見ていただくとして。評判は早くも今年度ナンバーワン級といわれているわけですが、「今後人為的に人の手で作った映画であれを越えることはもうできないだろう」と言われております。まったく同感であります。だってアレ、ノンフィクじゃん。無理だろ。あの嘔吐感、演技じゃ絶対できん。
あの映画はいろんな要素が複雑かつ多層的に入っているので、「どんな映画?」って聞かれても、うまく応えることができずにいた。もやもやしてた。なんだけど、ラジオ「タマフル」で宇多丸のムービーウォッチメンで評論を聞き、感嘆した。あの映画をあえて一言で言うなら、「悪の諸相」だ、と。おー!!!ですね。拍手でした。もやもやしてたのが一発でスッキリ。あの人、評論の天才だね。あれ見て、よく言語的にそれを切り出せたな、と。「悪」と一言でいっても、その悪にも色んなモードがあると。出てくるの全員悪人、まじで冗談になんないガチンコの悪人達なんだけど、確かにそれぞれがもつ悪の側面があって、その多様さが人間心理の実際であり、実際の現実。例えば開き直っちゃってる悪、周囲に流されふわふわしてる悪、本当は善なるものも持ってるけど今は悪、的な悪。とか。でアクトオブキリングに関しては、その最後の悪、自分の中の善と葛藤できる領域も持った悪、みたいなのがギリギリの極限状態で一瞬だけ、フィルムに収められるのですな。ギリギリですよ。その首謀者のアンワルさんって人だって。極限の精神状態。あれぜったいキツイぜ。フォローバック大丈夫?みたいな。まー見てる方もくるわな。みんなぐすん。。って涙ぐんでたぜ。俺も涙でたわ。キツくって。悪なのに、何万人も殺してるのに、少しだけ、共感…寸前のなにかが生まれるもの。人間性のかけら、というか。希望のようなもの。本当はやりたくねぇよ…みたいな。だよね。。みたいな。でもかたやその対極にいる真っ黒な、改心の余地ナシ、みたいな悪を生きてる人たちもしっかり描かれてるので、それもリアルだと思います。いい話だけじゃない。でもぜんぶ、どの悪のモードも、誰の中にだって、もしかしたら自分の中にだっておそらくあるものかもしれません。誰だって、いつでも、天使にも悪魔にも容易に転び得ます。それが人間だもの。○つおはそういってないけど。
そういう体験するために映画見にお金払ってますからね。映画ってのは、それによって得られる感情体験の対価として払ってるお金のことだと思います。僕、最後、空いた口が塞がらなかったんで。映画館でそういう体験できたことの対価、\1400。イエス。高いと取るか、安いと取るかは、あなた次第。アクトオブキリングは傑作なのでオススメです。
あの映画については追加取材があって、youtubeに上がってます。「アルジャジーラ アクトオブキリング」という題名で検索すると出てきます。アンワルさんもちょっと出てきます。ちなみに字幕ついてないですけど、アクトオブキリング自体も、youtubeに実はアップされてます。興味あるけど怖そうでみれないわ、ってひとはそっちで様子見するといいかもしれません。
映画の話が長くなりました。まぁそうそう書く場所もないので丁度よかったかもと思っております。あんまり書くことないわって最初思ってたんですけど、なんとか書けて安心しました。今月はこのくらいでいいよね?誰に言ってんだろう。来月も書けるかはやくも不安だぜ。ひと月って、けっこう、はやいんだね!
ま、暇つぶしにはいいかもと思って続けます。
今回も読んでくださった同じく暇を持てあましてる方と、物好きな方達に感謝申し上げます。
次は6月だー、わっほい!では、じゃーあねー。
よしあき