昨日体重が減り、引き続きミルクも殆ど飲まず、
消えそうなベガの命.....
今日は少しづつ注射器でお口に入れ、飲み込んだらまた入れ。
なんとか3cc位を飲んでもらって、その後、一応哺乳瓶を
口へ。殆どくわえてるだけです。
それを2時間~3時間おき位に続けました。
それでも、弱って行くベガに追いつけない...._| ̄|○
今日は夜、姪とその友達が遊びに来て、ベガたんも美女2人に少し会いました。
一番元気のない姿を見せてしまったけど、頑張ってる姿だもんね。
お姉さん達も、応援してくれてるよ。
姪達も帰り、子供も寝室に行き、ぼーっとしながら考えました。
これでいいのかな.....
ちっとも追いつけないのに、なんとかミルクのませようとして。
嫌がっても、注射器でたらして.....
本当にいいのかな。もうベガは休みたいのかもしれない(;_;)
なのに私は、苦しみばかり与えているのかもしれない。
父が亡くなった時の事を思い出しました。
脳腫瘍の手術をして、意識が戻らないまま、集中治療室で
5日間ぐらいすごしました。
当時高校生で春休み中の私は、ずっとついていました。
寝るのも病院の父のベッドの横のパイプ椅子に座ったまま。
父が目覚めるのを、ずっとずっと待っていました。
手術前に
「終わって目が覚めた時、誰もいなかったら嫌だな。恐いだろうな」って、
子供みたいに父が言っていて、私が居るから大丈夫って約束したからです。
あの頃の私の家庭は複雑で、父は女性と暮らしていました。
でも母とかち合うから、その女性も来られないし、
姉は、彼との付き合いを母に反対されて、家を出ていました。
姉は、点滴の針などがいっぱい刺さった父を見ていられないと、
殆ど病院に来られませんでした。
父と母はもう愛のない夫婦でした。
だから、私だけがずっと、父の側で過ごしました。
父の目が覚めるのを信じて、待っていました。
病院の先生は、落ち着いて静かで温かい先生でした。
仏教の勉強をしていて、いずれ病院を辞めて奥様とインドに行くと
おっしゃっていました。
母が私の身体を心配して、
「先生の言うことなら聞くと思うので、少し横になって休むように言ってください」
と言うと、
「彼女の気持ちを思うと、とてもそんな事は私には言えません。」
とおっしゃってくれた、そんな先生です。
手術後、呼吸も出来なくなり、人工呼吸器をつけていました。
やがて父が時々痙攣を起こすようになり、身体がむくみ出しました。
どんどんむくみも痙攣も酷くなって行った時、先生がおっしゃいました。
「このままむくみが酷くなって亡くなるより、今ならまだ綺麗なお顔
しているから、呼吸器をはずしてあげた方が良いかもしれないです。」
考えてみるようにと言われ、
「先生はどっちが良いと思いますか?」
とたずねました。
「昨日までは病室に入ると魂を感じたけれど、今日は感じられないのです。
呼吸器で生かされている状態です。
どんどんむくんで酷い姿になって心臓止まるのを待つよりは......」
考えました。悩みました。母は私が決めてよいと...
姉に相談しようと電話をしても、留守。当時携帯はありません。
17歳の私が一人でするには、重すぎる選択でした。
でも、先生の言うようにもう魂が旅立っているなら、
これ以上痙攣もむくみもない静かな死を選んであげるべきなのか。
結局、呼吸器をはずす選択をしました。
でも、それはあの時から今でもずっと、私の中で正しかったのかわからず、
苦しみの種です。
命とは、どんな状況でも生かす努力をするべきものなのでしょうか.....?
亡くなって欲しくないと言う気持ちは、残される者の我侭なのでしょうか?
生まれたからには、私達は生きなければいけない。
より良い自分になって行かなければいけない。
自分も回りも幸せにする為に、歩いて行かなければいけない。
でも、もうその命もつきかけて居る時、苦しみの中に居る魂を
奇跡を信じてまわりが引き伸そうとする事、それは.....
結論は私の中にまだありません。
でも、愛する者には生きていて欲しい。
奇跡にすがってでも、失いたくはない.....
と、何十年も結論のない私のしょってる苦しみと、
向かいあってしまいました。
ベガの事ではない話し、長々と書いてしまってごめんなさい。
今日の記録
体重 105g(昨日107g、保護時70g)
うんち 下痢便ではなかったけど、何回も。授乳のたびに少しずつ出ました。
消えそうなベガの命.....
今日は少しづつ注射器でお口に入れ、飲み込んだらまた入れ。
なんとか3cc位を飲んでもらって、その後、一応哺乳瓶を
口へ。殆どくわえてるだけです。
それを2時間~3時間おき位に続けました。
それでも、弱って行くベガに追いつけない...._| ̄|○
今日は夜、姪とその友達が遊びに来て、ベガたんも美女2人に少し会いました。
一番元気のない姿を見せてしまったけど、頑張ってる姿だもんね。
お姉さん達も、応援してくれてるよ。
姪達も帰り、子供も寝室に行き、ぼーっとしながら考えました。
これでいいのかな.....
ちっとも追いつけないのに、なんとかミルクのませようとして。
嫌がっても、注射器でたらして.....
本当にいいのかな。もうベガは休みたいのかもしれない(;_;)
なのに私は、苦しみばかり与えているのかもしれない。
父が亡くなった時の事を思い出しました。
脳腫瘍の手術をして、意識が戻らないまま、集中治療室で
5日間ぐらいすごしました。
当時高校生で春休み中の私は、ずっとついていました。
寝るのも病院の父のベッドの横のパイプ椅子に座ったまま。
父が目覚めるのを、ずっとずっと待っていました。
手術前に
「終わって目が覚めた時、誰もいなかったら嫌だな。恐いだろうな」って、
子供みたいに父が言っていて、私が居るから大丈夫って約束したからです。
あの頃の私の家庭は複雑で、父は女性と暮らしていました。
でも母とかち合うから、その女性も来られないし、
姉は、彼との付き合いを母に反対されて、家を出ていました。
姉は、点滴の針などがいっぱい刺さった父を見ていられないと、
殆ど病院に来られませんでした。
父と母はもう愛のない夫婦でした。
だから、私だけがずっと、父の側で過ごしました。
父の目が覚めるのを信じて、待っていました。
病院の先生は、落ち着いて静かで温かい先生でした。
仏教の勉強をしていて、いずれ病院を辞めて奥様とインドに行くと
おっしゃっていました。
母が私の身体を心配して、
「先生の言うことなら聞くと思うので、少し横になって休むように言ってください」
と言うと、
「彼女の気持ちを思うと、とてもそんな事は私には言えません。」
とおっしゃってくれた、そんな先生です。
手術後、呼吸も出来なくなり、人工呼吸器をつけていました。
やがて父が時々痙攣を起こすようになり、身体がむくみ出しました。
どんどんむくみも痙攣も酷くなって行った時、先生がおっしゃいました。
「このままむくみが酷くなって亡くなるより、今ならまだ綺麗なお顔
しているから、呼吸器をはずしてあげた方が良いかもしれないです。」
考えてみるようにと言われ、
「先生はどっちが良いと思いますか?」
とたずねました。
「昨日までは病室に入ると魂を感じたけれど、今日は感じられないのです。
呼吸器で生かされている状態です。
どんどんむくんで酷い姿になって心臓止まるのを待つよりは......」
考えました。悩みました。母は私が決めてよいと...
姉に相談しようと電話をしても、留守。当時携帯はありません。
17歳の私が一人でするには、重すぎる選択でした。
でも、先生の言うようにもう魂が旅立っているなら、
これ以上痙攣もむくみもない静かな死を選んであげるべきなのか。
結局、呼吸器をはずす選択をしました。
でも、それはあの時から今でもずっと、私の中で正しかったのかわからず、
苦しみの種です。
命とは、どんな状況でも生かす努力をするべきものなのでしょうか.....?
亡くなって欲しくないと言う気持ちは、残される者の我侭なのでしょうか?
生まれたからには、私達は生きなければいけない。
より良い自分になって行かなければいけない。
自分も回りも幸せにする為に、歩いて行かなければいけない。
でも、もうその命もつきかけて居る時、苦しみの中に居る魂を
奇跡を信じてまわりが引き伸そうとする事、それは.....
結論は私の中にまだありません。
でも、愛する者には生きていて欲しい。
奇跡にすがってでも、失いたくはない.....
と、何十年も結論のない私のしょってる苦しみと、
向かいあってしまいました。
ベガの事ではない話し、長々と書いてしまってごめんなさい。
今日の記録
体重 105g(昨日107g、保護時70g)
うんち 下痢便ではなかったけど、何回も。授乳のたびに少しずつ出ました。