以前公開された最初のマトリックスで、登場人物の間で次のような会話があったように記憶している(一言一句、正確ではありません、あしからず)。
「これは現実なのか?」
「現実?現実とは何だ?すべては脳が見せるイメージにすぎない」
なかなか奥深い言葉である。脳は絶えず外界から五感を通じて入ってくる情報を分析加工し、自分をそして世界を形作っているのである。そんな馬鹿なと思われるかも知れないが、外界からの刺激を一切遮断した環境におかれると、人間は自分と自分以外の境界を正確に認識する事ができなくなり、意識と身体がずれるという感じや、自分と世界が一体となったなどという不思議な感覚さえも体感できる。宗教のはじまりは、このような体験が関係している事も多いのである。
人間の脳より遙かに計算能力が高いスーパーコンピュータであろうとも、たとえばある人物の怒った顔、笑った顔、あるいは泣いた顔などを見せて、これらはその時々に応じて見られる同一人物の異なった一面に過ぎないのだ等と判断させることは至難の業なのである。私達の頭の中に収まっている脳は、そんな驚異的な作業をいとも容易くやってしまうのである。
学生時代、大学のすぐ近くに小さなコーヒーショップがあった。10人ぐらいしか入ることができない小さなコーヒーショップはいつも学生達で賑わっていた。みんなのお目当ては、カウンターの中にいるちょっと年上のお姉さん。決してとびきりの美人という訳ではなかったが、その人の笑顔や雰囲気は学生達の心を強く惹きつけた。かく言う私もその中の一人だったのである。
気の小さい私は、たとえ偶然その店で彼女と二人きりになるという幸運に恵まれた時でさえ、堂々と彼女に話しかけることなど出来ず、カウンターに置かれたサイフォン越しに彼女の姿を見ては、ただため息をつくばかりという情けない奴であった。サイフォンの向こうに見える彼女の姿はぐにゃりと曲がっていたにもかかわらず、私の脳はちゃんとそれをあこがれの人であると的確に判断していた訳である。
それだけのすごい能力を持った脳のあちこちを必死で探し回れば、あるいはどこか隅っこにちっぽけな「勇気」が隠れているのを見つけられたのかもしれないなどと、今になって懐かしく思い出すのである。
サイフォンの 向こうで歪んだ 君も好き
ああ、僕って詩人。
「これは現実なのか?」
「現実?現実とは何だ?すべては脳が見せるイメージにすぎない」
なかなか奥深い言葉である。脳は絶えず外界から五感を通じて入ってくる情報を分析加工し、自分をそして世界を形作っているのである。そんな馬鹿なと思われるかも知れないが、外界からの刺激を一切遮断した環境におかれると、人間は自分と自分以外の境界を正確に認識する事ができなくなり、意識と身体がずれるという感じや、自分と世界が一体となったなどという不思議な感覚さえも体感できる。宗教のはじまりは、このような体験が関係している事も多いのである。
人間の脳より遙かに計算能力が高いスーパーコンピュータであろうとも、たとえばある人物の怒った顔、笑った顔、あるいは泣いた顔などを見せて、これらはその時々に応じて見られる同一人物の異なった一面に過ぎないのだ等と判断させることは至難の業なのである。私達の頭の中に収まっている脳は、そんな驚異的な作業をいとも容易くやってしまうのである。
学生時代、大学のすぐ近くに小さなコーヒーショップがあった。10人ぐらいしか入ることができない小さなコーヒーショップはいつも学生達で賑わっていた。みんなのお目当ては、カウンターの中にいるちょっと年上のお姉さん。決してとびきりの美人という訳ではなかったが、その人の笑顔や雰囲気は学生達の心を強く惹きつけた。かく言う私もその中の一人だったのである。
気の小さい私は、たとえ偶然その店で彼女と二人きりになるという幸運に恵まれた時でさえ、堂々と彼女に話しかけることなど出来ず、カウンターに置かれたサイフォン越しに彼女の姿を見ては、ただため息をつくばかりという情けない奴であった。サイフォンの向こうに見える彼女の姿はぐにゃりと曲がっていたにもかかわらず、私の脳はちゃんとそれをあこがれの人であると的確に判断していた訳である。
それだけのすごい能力を持った脳のあちこちを必死で探し回れば、あるいはどこか隅っこにちっぽけな「勇気」が隠れているのを見つけられたのかもしれないなどと、今になって懐かしく思い出すのである。
サイフォンの 向こうで歪んだ 君も好き
ああ、僕って詩人。