ぼくの行方は不明になりそう

世界の行方とぼくの行方

官僚がシャブか

2019-05-29 | Weblog

経産省に続き厚労省のキャリア官僚が職場でシャブを使っていたと言って捕まった。

官僚って寝ないで仕事しろってよく言われるけど、シャブを使わなきゃならないほど忙しいとは気の毒だ。

そのシャブは当然ヤクザから買っているのだから、その経済活動そのものには一円も税金がかかっていない。

ヤクザのシノギの大きな部分は依然として「違法薬物」である。これが断然大きい。

警察庁は本気でヤクザを潰す気はあるのかなあ。反社会的勢力と言いながら、完全な壊滅を目指しているようには見えない。何でだろう。

どうせヤクザの取締もプッシャーの取締も完全にできないのだから、発想を転換したらどうなのか。

いまの「違法薬物」を思い切って国家管理の下に登録制として国が売ってしまえばいいのではないか。

タバコと塩をついこないだまで国が売っていたのだから、あながち無茶な話ではない。

アルコールも他の先進国に比べて異常にゆるい販売状況で、税金のことしか考えていないのだから、いまの政府には十分にその資格がある。

いまの末端価格の半値程度の値段で売っても、十分な利益が期待できるはずだ。

そうなれば、ヤクザやプッシャーからドラッグを買うバカはいなくなる。

そうして稼いだカネの一部で十分な依存症患者へのケアーへの財源ができるだけでなく、一般財源もかなり潤うのではないか。医療保険の税負担分の財源としてはかなりなものだと思うけど。

どうよ、この提案。ヤクザのシノギをごっそりいただき、反社会的勢力一掃のきっかけになるばかりではなく、財政的な余裕にもつながる一石二鳥の案ではないか。登録者には2月に1度ぐらいの面接を課して、人を傷つける可能性のあるものには依存症の治療を開始し、それ以外の者にはそのままジャンキーでいてもらえばそれはそれでいいのではないか。

どうせドラッグに手を出す人間は、ジャンキーになりたくてなっているのだから、その自由は保障されるべきだ。自殺の自由が保障されるように。


薬物と作品と

2019-04-22 | Weblog

いつもいつもくだらないことが繰り返される。
ピエール瀧のコカイン使用と、彼の出演作や楽曲に対する業界の反応だ。

確かにコカイン使用は日本でも世界のほとんどの国でも違法としてある。だが、それを使用したからと言って過去の作品群をすべて世間から遠ざけてしまうようなアホなことをしているのは日本のほかにはほとんど見ない。

違法薬物を売った場合には、当然重罪が適用されるべきだろう。しかしながら、自分が使った場合には、世界の潮流としては依存症の治療に力が注がれているのが現代社会の潮流である。
なぜなら、違法薬物を使った者は、自分を傷つけただけのことだからだ。
違法でない薬物の依存症だって、十分に罪なことなのだから、依存症という病気としては、彼もわれも同じことだろう。アルコール依存症・ニコチン依存症・ギャンブル依存症。すべて依存症という病気だ。

違法薬物の依存症患者が作った作品はすべて悪なのか?
これをちゃんと問うたのか?

日本でそれがまかり通るのであれば、ビートルズをはじめとするロック音楽やマイルス=デイビスなどのジャズ音楽、あのグレイトなボブマーリーなどのレゲイなど、日本で誰もが聴いている洋楽はほとんどすべて配信・販売ができなくなるはずじゃないか。
特にこの前のノーベル賞騒ぎで皆も思い出したボブ=デュランなんかは論外。この人はビートルズにマリファナを教えた張本人だし、長い間ヘロイン中毒だったことで有名だ。

文学作品だってほぼ全滅ではないか。あのジャンポール=サルトルなどはメスカリンの中毒者として有名であるが、彼の思想をそれだけで否定できるような人間がいるだろうか。

ランボーやボードレールも有名な中毒者だし、フロイトなどはコカインが単離されて売り出されたときには「夢の薬ができた」といってヘロイン中毒だった友人をコカイン中毒にしたほどである。
パイプが片時も手放せない作家はたくさんいたし、ヘミングウェイは完全なアルコール依存症だったことも有名だ。

これらの作品群は、詩や文学・哲学の分野で欠くことのできないものである。
そして、書店でも出版社も堂々と売っているし、我々も堂々と買うことができる。

これだけの前例があるのに、近々の違法薬物使用者が出演したり作ったりした作品だけ世間から取り去るようなまねがなぜできるのか、全く理解ができない。

本来、違法薬物を買った場合には確かにその個人はその罪を償わなければならない。
しかしながら、それと彼や彼女が関わった作品群をこの世からなくす権利は誰にもないはずだ。

罰として何かしたのであれば、契約条項に違法薬物に関わった場合には印税その他の支払いを停止する条項を入れておけばよいことで、勝手に映画の公開を中止したり、いままで売っていたものを回収したりした費用を損害賠償として請求することはお門違いである。それは、配給中止を決めた会社や回収を支持した会社が自分でかぶるべき損失だろう。

さあ、どうする。洋楽の棚を空っぽにしますか。文学史から不朽の名作を削りますか。思想史を勝手に書き換えますか。
いま行われていることがいかに馬鹿げたことかが、これでわかるだろう。


しくしく

2017-07-22 | Weblog


あーあ。すんごいなあ。
こんなのがインディーズじゃあなくってメジャーなタイトルに収録されるって、どうなっているんだかとんと理解不可能だ。
夢破れて死にたいとか、ただのガキでしょ。
っつーか、そんなこと未だに恥ずかし気もなく歌詞にするって、ドンだけ恥知らずっつーかガキっつうか。

嗤うしかないっしょ。こんな奴。
それにしてもおっとろしいやっちゃなあ。幽霊船を買っちまったらしいぜ。
そうしたらまあだまされたのかもしれんけど、工夫つうもんをしたらええんとチャウ?
せっかくの幽霊船じゃ、これで大もうけせんと、どないすんねん。なっかなかの掘り出しもんちゃいますか? だまされたのならだまして元とりなはれ。
泣き言いうとってもなんも始まらん言うことは分かっとるんやろ。
下らんことでめそめそしないで銭儲けでも考えなはれ、って、そうかあ、そのためにこんなおもろい歌詞書いて大衆に売り付けて銭儲けしようと企んだんやなあ。
さすがや、この東国嫌いは。

酷薄 掟十箇条

2017-07-21 | Weblog

1 相手を笑かす
2 自慢される人間になる
3 キミだけを見つめる
4 キミを信じぬく
5 出会いの日を忘れてはならない
6 料理をうまくなる
7 感謝・正直・素直
8 常にキミを思い描く
9 嫉妬しない
10 喧嘩をしたら歌を聴く

いったい何の宗教だろう。かなり恐ろしいしい、かなりキている。
第2条の自慢される人間になるという掟はいったい何を目指しているのだろうか。金持ちを目指すのか。それとも、美容整形をして他人より容姿が整っているということを自慢できるような人間になれとの掟なのか。いずれにしてもぼくには理解できない条項だ。
あと1条も意味が分からない。この掟は酷薄な掟であるだけだから、無理に人を笑かさなければならないというものも、どうも拷問的な話である。相手の虫の居所が悪かろうと、相手が悲哀に沈んでいようと、相手の気持ちを全く推し量ることなく常に笑かさなければならないのだ。はた迷惑甚だしいし、実践する方もあまり気持ちがいいものではないだろう。芸人であれば、笑いたいと思って劇場なり寄席なりに来てくれた客を笑わせるのだからこれはいい。かえって笑わせてくれないとなれば、正直芸人として失格である。
しかしながら、一般の人々にたいして、常に笑いを強要するとなるとこれはほとんど犯罪的である。こんな掟を考え付くだけでも、この掟を作った人間の酷薄さがよくわかるというものだ。
3.4.5.6.7.8についは、まあこの宗教らしいものの主催者、仮に教祖と呼んでおくが、その教祖に対する絶対服従を誓わせるものとして、かなり陳腐ではあるが、陳腐であるからこそ強力なマインドコントロールの道具として必要不可欠な条項である。
9もマインドコントロールの道具として不可欠なものだ。この酷薄な掟を作った者は、自分だけは好き勝手し放題したいけど、服従させているものには不自由を強いるというのはやはり普通に行われている。
この教祖は、ここに集まってきた妙齢のご婦人たちを次々に我が物としていくが、ご婦人たちには自分以外のものに対して貞節を守りなさいという勝手な掟はよくあるものである。
おそらくこの教祖は経験が少なく、あっちの方の魅力もあまりないのではないか。そのためにほかの男たちと自分とを比べられたくないし、また自分の心が弱いので、一度手に入れたご婦人を他の男にとられることを考えると夜も眠れないという屑なのだろう。よくいる手合いである。

もっとも不可解なのが第10条である。いったいこの条項は何なのかわからない。
喧嘩をするな、というのはわかる。しかし、喧嘩をしたら歌を聞けというのは聞いたことがない。歌というものは洗脳には実に有効なものであるから、たまにガス抜きとして喧嘩をさせたうえで、洗脳教育用の歌謡などを聞かせることになっているのかもしれない。
そうだとすると結構斬新な発想ではある。

ただ、やっぱりこんな掟を見ていると反吐が出そうになるのはぼくだけなのだろうか。

性教育とくだらぬ詩

2017-07-21 | Weblog

しょうもないものがたくさん出回っている。
特にJ-POPと言われるものの質が論外の低品質だ。
何でだろうか。

いいものは世の中にたくさんある。ぼくは万葉集がそんなにいいとは思えないが和歌の中にはすばらしいものがたくさんある。
別にぼくらは学者でもないし、当時の貴族でもないから、古今和歌集をほぼすべて暗記した上でその後の歌を堪能するなんてバカなことをする必要はさらさらない。和歌そのものを読んで、おもしろいとかつまらないとか無責任にいっていればいい。
どんなに国文学上で評価が高かろうと、低かろうと、ぼくらはその歌そのものを楽しめばいいのだから気が楽だし、その歌自体を滅茶苦茶な解釈で楽しんだりしてもいいはずだ。落語の竜田川のように。

それなのに和歌や短歌には見向きもせず、しょうもないポップスを聴いて喜んでいる輩が一体どれだけいるのだろう。はっきり言ってあんなもの詩でも何でもない。適当に言葉を連ねただけのものだ。
音がいいとかビートがいいとか声が好きとか言うのなら分かるのだが、詩に共感できるという輩には心から脱帽する。どうやったら共感できるのか、本気で教えてほしい。
子供というか、幼稚というか。
君とぼくがセックスして楽しい時間を共有して、そしていつかいなくなるって話以外ほとんど見つからないが、こんなものに共感なんてどうやったらできるのだろう。こんなものはただの恋愛ごっこであって、愛なんてものからもっとも遠いものだし、恋愛という遊びの世界に生きるのであれば、真剣に失恋するなんて無粋の骨頂で、反吐が出そうだ。

若者だけのものでなく、人は死ぬまで恋愛をし続けることを運命づけられている。
これは繁殖期を持たない生物として進化し続けた代償でもあり、獲得した特性でもある。
だからこそ、失恋のたんびにに傷ついて死にたくなっていたら、命がいくつあっても足りないし、この人が運命の人だ、なんて相手がそうゴロゴロ転がっているはずもない。
そも、恋愛というものは遊びに近いもので、粋にこなしてこそのものだ。
その辺が分からぬ輩がやれ生きるの死ぬのって無粋なことを言い出すし、別れ話が出ればすぐに痴情がもつれて人殺しや自殺に発展する。

大人たちはティーンエイジャーにそのあたりのことをしっかりと教えなければいけないと思うが何でそういうことを何も教えないのか不思議で仕方がない。

性教育で、セックスすれば子供ができるし、人数が多くなれば性病になって不妊になる可能性が高くなるからあんまり不特定多数の人間とのセックスはよくありません、なんてくだらないことを教えるヒマがあったら、人間というのは恋愛をしなければ生きていけないぐらいの生物で、いろいろな相手とセックスすることは結構自然なことですよ、ただし、嫉妬の感情や恋愛感情というものは本物だし、相手を思いやる感情は大切だから、同時に複数の人間と付き合うことは避けようね、ということぐらいを教えるのが正しいのじゃあないかしら。
現に、明治政府ができる前までの日本の社会はほぼそういう社会だったし、既婚者になっても、盆踊りの晩だけは好きな相手と合意ができれば村社会公認の中、互いの身体を重ねることすらできたのだ。ただし、合意があると言うことが重要で、いかなる社会においても強姦は常に罪だった。

だからこその性教育ではないのか。
いくら好きな相手でもしたくないときはある。女性には絶対にある。そのとき、男は怒ってはいけないし、拒絶されたわけでもない、ということを教えておかないと、女の子たちがかわいそうだ。
そういうことを全く知らないで、ただ好きだからセックスすると言うことになって、浮気した、されたなんてことで痴情がもつれて不幸になっていく子供たちが哀れでならない。
人生に対する知識があまりになさ過ぎるから、あんなにくだらない歌詞に共感なんかして本物の音楽を聴くことすらかなわないとしたら、今の子たちは本当に不幸だ。