カサカサの感想ハダで備忘を保てるか

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神社の穢れと女性の生理

2014-07-31 02:38:53 | 研究と教育
twitterのタイムラインに次のようなツイートが流れてきた。

「神道でいう「穢れ」=「気枯れ」なので、一部で言われてる女性が生理の時は神社に入るべからずというのは「汚いから来るな」じゃなく、「生理大変な時に無理しなくていいよ、元気な時にまたおいで」という事なんだよってもっと有名であって欲しいなぁ。」

これはおそらく、神社における女性の生理に関する禁忌(タブー)は女性蔑視ではないんだよ、ということを主張しようとしていると思われるが、本質的には違うように思う。

「穢れ」は「気枯れ」ではなく、基本的に「穢れ」以外の何ものでもない。

信仰とそれに伴う儀礼の空間では清浄であることが求められる。それゆえに、その清浄を保つためには、信仰の対象である神が穢れを忌み嫌うという思考のもとにタブーが設定される。

古代から『延喜式』に載せる六月、十二月晦日の大祓の祝詞に、天つ罪として「生け剥ぎ」「逆剥ぎ」というものがある。これは『古事記』『日本書紀』の神話の中にも、スサノヲが乱暴をして天照大神が岩戸隠れをする「天の岩戸神話」でも、そのスサノヲの暴虐行為の中に生け剥ぎ、逆剥ぎにした天の斑駒(あめのふちこま)を機織屋の屋根を穿って放り投げたとある。

生け剥ぎや逆剥ぎはおそらく、生きた動物(四足獣)の生革を剥ぐ行為であろうと考えられる。そこには血が伴い、穢れた不浄のものとして忌み嫌われる対象であったことが考えられる。それゆえに、天照大神は岩戸にこもり、祝詞では天つ罪とされた。

古代に出された法令でも、山城国の賀茂川上流で狩った鹿を解体すると血が流れて不浄なのでやめよ、といったものが出されていた。

生きたもの、あるいは死後まもなくの流れる血液は、日常にあまり見るものではなく、生々しいものであるため、不浄なものとして観念されたのであろう。

したがって、生理のときの女性が神社の境内や神域に入ることは、これらの観念からくる伝統的な発想であって、ジェンダー論のような次元で考えると少し筋が違ってくる。
生理の女性に限らず、道端でつまづいて転んで膝から血がにじんでいる中年の男性が神社に入ることも重大な禁忌違反である。

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