今日9月29日は、年始から272日目、年末まであと93日。
画像は1954年、MLBワールドシリーズ第一戦8回表のウィリー・メイズの守備、
『ザ・キャッチ』。
紀元前480年
サラミスの海戦が行われる(20日説あり)。
ペルシア戦争最中、ギリシアのサラミス島近海で、ギリシア艦隊とペルシア艦隊の
間で行われた海戦。ヘロドトスの『歴史』(第8巻)に詳しい。
この海戦でギリシア艦隊が勝利をおさめ、ペルシア戦争は新たな局面を迎えること
になる。
440年
レオ1世がローマ教皇に即位。
(390年‐461年11月10日)
ローマ教皇(在位:440年9月29日 – 461年11月10日)。大教皇。
カトリック教会、正教会、聖公会などで聖人。
正教会ではロマの「パパ」聖レオと呼ばれる。カトリック教会では教会博士の一人。
390年、ピサ近郊で生まれた。若い頃の経歴はあまり詳しく分かっていない。
史書によれば聡明かつ雄弁な人物で、440年に教皇として即位した後は地方
教会の改革や教皇権の強化などに務めた。
教義論争でも異端説を弾圧し、正統論を確立した。
またローマの世俗上の行政における功績もよく知られる。
この頃のイタリアではフン族の首長・アッティラが侵攻してきていたが、レオ
1世はアッティラと会見して平和的解決を図った。
中世ハンガリーの年代記によると、教皇はアッティラへ、もしも平和裏にローマ
から去るならば、彼の後継者の一人が「聖なる王冠」を受け取るであろうと約束
している。その結果、452年にアッティラはローマから撤退している。
(実際は、フン族の陣営に疫病と飢餓が発生していたと見られている)
ヨーロッパでは、ローマ教皇の忠告を守らなかったアッティラに神の天罰が下り
死亡、残された部下は天罰を恐れ、ローマ教皇の忠告を守り、夕日を背にして
生まれ故郷の東方に帰っていった、という非常に有名な伝承が残っている。
この事件をキリスト教が布教活動に利用し、ヨーロッパでその後1,000年近く
続く、王や諸侯よりも強大なキリスト教の権威が生まれるきっかけになった。
また、455年にヴァンダル族の王ガイセリックの軍勢がローマに侵攻してきた
ときも、その責任者と会見することで虐殺やローマの破壊をしないよう要請し、
平和的な解決に努めている。また、この教皇は、副助祭に至るまで、聖職者
のあらゆる結婚を禁じた。 461年、72歳で死去した。
レオ1世が即位した頃の欧州では、ゲルマン民族の大移動による紛争時代で
あったが、レオ1世は常に平和的な解決を図り、武力による解決を好まなかった。
このため、レオ1世は「大教皇」と称されている。
1011年
ノルマン・コンクエスト。
デーン人により包囲されていたカンタベリーの総主教だったエルフィア
が捕らえられる。
ノルマン・コンクエストとは、11世紀にノルマンディー公ギヨーム2世に
よって行われたウェセックス朝イングランド王国に対する軍事遠征。
デーン人は、現在のデンマークおよびスウェーデンのスコーネ地方に居住
した北方系ゲルマン人(ノルマン人)の一派。
現在のデンマーク人の祖先にあたる。ヴァイキング時代にイングランド
および西ヨーロッパ一帯に侵攻した。
カンタベリーは、イギリス南東部のケント州に位置するシティ・オブ・カンタベリー
の旧市街。カンタベリー大聖堂の門前町として形成され、中世からイングランド
南部の代表的な巡礼地として栄えてきた。
イングランドで最も人気の高い観光地の一つ
総主教とは、カンタベリー大聖堂を主教座とするイギリス刻協会の大主教
であり、イギリスにおける人臣としては宮中席次第1位である。
(第2位は大法官、第3位はヨーク大主教)
1227年
神聖ローマ帝国フリードリヒ2世が十字軍不参加を理由に教皇グレゴリ
ウス9世により破門される。
フリードリヒ2世は、その後、破門されたまま自ら十字軍を興し、さらに
武力によらずエルサレムを期限付きとはいえ、奪還した。
が、破門されたフリードリヒに対して教皇派及び他の一派は冷たかった。
1222年、エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌの一行がシチリア王国のブリンディジ
に上陸、フリードリヒはブリエンヌの元に使節団を派遣し、彼とともにローマに向かう。
ローマでは東方のイスラム教徒への対策が議論され、議論の中でフリードリヒとブリ
エンヌの娘ヨランド(イザベル)の結婚、結婚後2年以内にフリードリヒが十字軍に
参加する取り決めが交わされる。
1225年11月9日にフリードリヒは成人したヨランドと再婚し(最初の妻コンスタン
ツェは1222年にに死没)、同時にブリエンヌにエルサレム王位とヨランドが有する
権利を譲渡させた。
1227年にホノリウス3世が没した時にもフリードリヒの遠征はいまだ実行に移され
ず、教皇グレゴリウス9世は破門をちらつかせ、1228年にフリードリヒは40,000
の軍を率いてエルサレムに向かうも、道中で軍内に疫病が流行、フリードリヒ自身
も病に罹ったため聖地の土を踏まず帰国。
この時にフリードリヒはサレルノ大学の衛生学に触れ、中世ヨーロッパでは稀な毎
日入浴する衛生観を身に付けた。
しかし、グレゴリウス9世は教会権力への脅威となっていたシチリアの力を抑えるため、
仮病と判断しフリードリヒを破門する。
フリードリヒは破門が解除されないまま第6回十字軍を起こして再びエルサレムに
向かい、道中でキプロス王国の政争に介入した。
教皇庁は破門されたフリードリヒが率いる十字軍に批判的であり、現地の将兵は
フリードリヒへの協力を拒否した。一方、エルサレムを統治するアイユーブ朝のスル
ターン・アル=カーミルは、アラビア語を介してイスラム文化に深い関心を抱く、これ
までに聖地を侵略したフランク人たちとは大きく異なるフリードリヒに興味を抱いた。
フリードリヒとアル=カーミルは書簡のやり取りによって互いの学識を交換し合い、
エルサレム返還の交渉も進められた。フリードリヒは血を流すこともなく、1229年
2月11日にアル=カーミルとの間にヤッファ条約を締結し、10年間の期限付きで
キリスト教徒にエルサレムが返還された。
両方の勢力は宗教的寛容を約束し、また以下の条件が課せられた。
- キリスト教徒への聖墳墓教会の返還
- イスラム教徒による岩のドームとアル=アクサ―・モスクの保有
- 軍事施設の建設の禁止
しかし、現地の騎士修道会の中でエルサレムの返還を喜んだのはチュートン騎士団
だけであり、聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団は不快感を示した。
エルサレムに入城したフリードリヒはエルサレム王としての戴冠を望むが、彼に同行
した司祭たちは破門されたフリードリヒへの戴冠を拒み、1229年3月18日に聖墳
墓教会でフリードリヒは自らの手で戴冠した。
現地の冷淡な反応を嘆いたフリードリヒは後をチュートン騎士団に任せてシチリアに
帰国する。帰国に際してアッコに移動したフリードリヒは、数日にわたって敵対する
テンプル騎士団の本部を包囲、5月1日にフリードリヒは包囲を解いて密かに帰国
し、アッコの住民の一部がフリードリヒの一行に罵声を浴びせた。
このフリードリヒ2世の経歴は、大変趣深い。いずれもっと深く掘り下げてみた
いと思うが、ひとまず、フリードリヒ2世が興した第6回十字軍について。
※第6回十字軍※
(1228年 – 1229年)
神聖ローマ皇帝兼シチリア王フリードリヒ2世が破門されたまま遠征した十字軍
で、戦闘はほとんど行わず、交渉によりエルサレムを取り戻すことに成功した。
背景として、第5回十字軍が失敗に終わり、原因の一つとして、教皇ホノリウス
3世との交渉により1220年に皇帝に戴冠し、十字軍遠征を誓いながら出発しな
かったフリードリヒ2世が非難された。
ホノリウス3世も破門をちらつかせて、新たな十字軍の遠征を迫った。
しかし、元々宗教的に寛容なシチリア王国に育ったフリードリヒ2世は十字軍に
は熱狂せず、十字軍をイタリア政策における教皇との交渉材料として認識して
おり、地中海からパレスチナに神聖ローマ帝国=シチリア王国の勢力を拡大す
ることを目的としていた。
1225年にはエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌの要請に応え、その娘でエルサ
レム女王であるイザベル2世と結婚し、エルサレム王位を得た。
しかし、さらに2年間の引き延ばしを行い、1227年に出発してブリンディシュま
で行ったが、疫病が流行して多くの将兵が命を落とし、従軍していたテューリン
ゲン方伯ルートヴィヒ4世も死亡したため引き返してしまった。
同年に友好的だったホノリウス3世が亡くなり、新たに教皇となったグレゴリウ
ス9世は強硬派として知られており、この延期を誓約違反としてフリードリヒ2世
を破門にした。
フリードリヒ2世は破門を解くべく教皇と交渉を行ったが成功せず、遂に1228年
6月に破門のまま十字軍に出発。しかし破門された皇帝による十字軍に抵抗を
感じて、帰国する者も多かった。
9月7日にアッコンに到着したが、ここでも聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団は
従わず、現地諸侯も協力に消極的だった。
しかしフリードリヒ2世には、かねてからアイユーブ朝とのコネクションが有り、
出立前には既に予備交渉が行われていた。
スルタンのアル=カーミルは当時シリアの兄弟達と争っており、同盟を条件に
エルサレムを返還する意向だった。
ちょうどこの時期に、対立していた兄弟の1人であるダマスカスの領主が亡くなり、
有利な状況になったアル=カーミルとの交渉は難航した。
しかし、アル=カーミルはモンゴル帝国の脅威を感じており、ダマスカスも簡単に
陥落しなかったため、1229年2月にエルサレム(岩のドームを除く)、ナザレ、
シドン、ヤッファ、ベイルートを割譲する条件で10年間の休戦条約を締結した。
平和裡にエルサレムの奪回に成功したが、キリスト教徒側における評価は低かった。
「イスラム側がこれほど弱気なら戦闘で勝利すれば、旧エルサレム王国領全てを取り
戻せたかも知れない」、
「最初から馴れ合いであり、十字軍の目的はイスラム教徒と戦うことである」、
「城壁もないエルサレム(1217年にイスラム側により破壊されている)といくつかの都市を
返還されても、これを維持するのは難しい」と言った批判が行われた。
特にローマ教会側は破門皇帝の業績を認めなかった。
3月にフリードリヒ2世はエルサレムに入城し、戴冠式を行ったが、エルサレム総司教
や聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団の総長は出席しなかった。
イザベル2世は前年、コンラートを生んだ後に亡くなっているため、王としての正統
性も疑わしく、現地諸侯の反応も芳しくなかった。わずかにドイツ騎士団総長などが
出席する中で、自らの手でエルサレム王に戴冠した。
間もなく、イタリアにおいて教皇は破門皇帝に対する十字軍を宣言。
軍隊を帝国に侵攻させたため、フリードリヒ2世はアッコンなどに代官をおいて5月
に帰国の途についた。
第6回十字軍は、第1回とならんでエルサレムの奪還という成果にも関わらず、
教会から十字軍と認められることもなく、むしろ十字軍を起こされて終了という皮肉
な結末となった。
フリードリヒに敵対する形となっていたグレゴリウス9世だが、その経歴を見ると
決して暗愚で腹黒い人物とは思えず、法学者としてかなり有能であった事で知ら
れている。異端尋問の制度を整備したのはこの人だった。
この件、後でさらに深堀りしてみたい。
1331年
元弘の変。
倒幕計画が発覚した後醍醐天皇が神器とともに奈良・笠置山に逃れる。
1364年
百年戦争。オーレの戦い。
イングランドが支援するジャン4世によりフランスが支援するシャルル・
ド・ブロワが敗死し、ブルターニュ継承戦争が終結。
※終結と見なすか否かについては、一考を要する。
1399年
従弟のヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)ら貴族層のクー
デターによってイングランド王リチャード2世が王位から追放される。
1642年
セダンがフランス王国の支配下に入る。
※セダン※
ムーズ川に面した、フランス北東部のグラン・テスト地域圏アルデンヌ県の
コミューン。
→※※コミューンとは、
フランスにおける基礎自治体、すなわち地方自治体の最小単位である。
元来はフランス語で「共通」「共同」「共有」「多数」「平凡」「庶民」等を意味す
る語で、英語のコモン (common) にあたる。
日本の市町村にあたるが、フランスには日本のような行政上の市、町、村
の区別はない。地図上に「都市」も「村」も存在しない。
人口80万人のマルセイユも、200人程度のカマンベールもコミューンである。
そのため、通例、日本の自治体の規模と翻訳者の主観に合わせて「マルセイ
ユ市」、「カマンベール村」のように恣意的に翻訳される。
コミューンには、議会(conseil municipal)と市長(maire)が置かれる。
議会の議員は住民の直接選挙で選ばれる。市長は議員の中から互選され、
議会の議長と執行機関の長を兼ねる。
フランスには3万8千のコミューンがあり、人口規模は様々である。
例えばコルビエールのように人口が26人のコミューンもあり、ロッシュフル
シャの人口は1人である。この点はイタリアにおけるコムーネと共通している。
コミューンの平均人口は約1500人で、約9割が人口2000人未満である。
フランスの県や地域圏とは異なりコミューンの歴史は古く、住民の宣誓共同体
という形態では中世の11-12世紀の頃にさかのぼるものもある。
ただし、現在の多くの自治体については、特にその管轄範囲の起源をめぐっては、
カトリック教会の地方組織として整備された教区(パロワスparoisse)が基礎と
なっていることが多い。
制度的には、フランス革命を経た後、教区の範囲が現在のコミューンの範囲とされ、
19世紀には議会と首長の公選制が導入されている。
コミューンは、小規模な共同社会を意味することもあり、1970年代のベトナム反戦
運動や公民権運動の時代には、新しい価値観、生き方を模索して、こうした共同生
活を営むものもアメリカでは少なくなかった。しばしば、マンソン・ファミリーや人民
寺院のような宗教的的な小教団のかたちを採ったり、語源の共通性から想像でき
るように共産主義的意味合いを持つことがあった。
中華人民共和国で1958年から1983年頃まで農村に存在した人民公社も、
中国語でコミューンの意味の公社に人民を付けたものである。
※セダン(続き)※
・BBC制作の『レ・ミゼラブル』(全8話)は、この地で、ロケーションも行われた。
・セダンは、1560年から1642年までフランスから独立していたスダン公国の首都だった。
・普仏戦争におけるセダンの戦いの戦場。
プロイセン軍の陽動作戦にはまり、フランス皇帝ナポレオン3世が包囲され捕虜となった地
として知られる。
・第二次世界大戦でも激戦地となった。
ナチス・ドイツ西部戦線電撃戦の舞台である。1940年5月、ベルギーからアルデンヌ県にかけて
広がる森林地帯を抜けて奇襲してきた精鋭のドイツ戦車部隊と、二線級のフランス歩兵部隊が
ムーズ川の渡河を賭けて戦闘。
しかし、わずか2日の戦闘で陥落。 5月15日にはドイツ軍の渡河を許してしまった
(以後、連合国軍は快速のドイツ機甲部隊に包囲され、大敗北となった)。
※
1717年
グアテマラ地震が発生。
モーメント・マグニチュード推計で7.4、メルカリ震度およそIX(破壊的)。
当時中央アメリカ植民地の首都だったアンティグア・グアテマラの建築の多くを
破壊した。寺院や教会含む3,000以上の建物が破壊された。
地震の被害が大きくて当局が首都を自然災害の影響をより受けにくい集落に
移転することを検討したほどだった。
その後も1773年グアテマラ地震など地震が続いたため、アンティグア・グアテ
マラは合計で3回移転された。1776年、スペイン当局はようやくより安全な
場所への遷都を命じ、現グアテマラ首都のグアテマラシティの場所にあたる
バジェ・デ・ラ・エルミタ(Valle de la Ermita)への遷都を決定した。
1829年
イギリスの首都警察スコットランドヤードが発足。
1833年
イサベル2世(前の日記で出てきた)がスペイン女王に即位。
1848年
ハンガリー革命。パーコズドの戦い。
1848年革命の一つ。ハプスブルグ朝の下にあるオーストリア帝国からハンガリー王国が
独立しようとした革命。
コシュート・ラヨシュやセーチェーニ・イシュトヴァーン、ペテーティ・シャーンドル、
ユゼフ・ベム等を含むこの革命の参加者はハンガリーの歴史にに於いて国家的な英雄と
みなされている。また、この革命が始まった3月15日ははハンガリーで国民の祝日と
なっている。
1855年
フィリピンのイロイロ港がスペインによって貿易のため開港される。
1864年
リスボン条約が署名されスペインとポルトガルの国境線が定められる。
1902年
ニューヨーク・ブロードウェイに初の商業ミュージカル劇場が開場。
1911年
伊土戦争勃発。
1911年から1912年10月の間にイタリア王国とオスマン帝国の間で戦われた戦争。
イタリア王国軍の勝利に終わり、敗北したオスマン帝国からローザンヌ講和会議
でトリポリタニア、フェザーン、キレナイカを獲得。
占領統治にあたってイタリア王国政府は三つの植民地州をリビア州として一括的
に統治する事とした。イタリア=トルコ戦争とも。
1918年
原敬が第19代内閣総理大臣に就任し、原内閣が成立。
(今年の巨人の体制よりはるかに良かったと思うよ、うん)
1920年
大リーグ・ブラック・ソックス事件の裁判で、8選手が八百長を認める証言。
翌年、無罪判決が出るが、球界永久追放となる。
1927年
ベーブ・ルースがシーズン60号ホームランを打ち、当時のメジャーリーグ
記録を更新。
1932年
チャコ戦争。ボケロンの戦いが終了。
1932年から1938年にかけてボリビアとパラグアイの間で行なわれた戦争。
グラン・チャコ戦争とも。
両国の未確定国境地帯であったグラン・チャコに石油の埋蔵があるという仮説
を受けて、その地域の国境を確定させ、また国土拡大の為にボリビアの先制
攻撃で始まったが、戦闘はパラグアイが優勢となった。
周辺国とアメリカの仲介によるブエノスアイレス講和条約で戦争は終結した。
パラグアイはグラン・チャコ全域の支配権を得て領土を拡張し、一方でボリビア
はパラグアイ川への河川交通アクセス権を得て、硝石戦争以来の水運を確保
した。しかし、この戦争で両国は疲弊し、軍部の革命などに繋がった。
1941年
ナチスによるバビ・ヤールでの虐殺が起こる。
1941年9月19日、45日間にわたるキーウ包囲戦の後、ドイツ軍第29軍団がキーウ市に入城、
キーウ占領は1943年11月6日まで続いた。
9月28日、キーウ市内にロシア語、ウクライナ語、ドイツ語によるビラが張り出され、
キーウ市内および周辺の全ユダヤ人に対して、翌29日午前8時に墓地近くのメルニコフ通り
とドクテリフスキー通りの交差点への出頭が命じられた。
出頭せず他所で発見されたユダヤ人、およびユダヤ人の住居に侵入する者、その所有品を
横領する者は銃殺されることが通告された。
これに応じて3万人を越えるユダヤ系キーウ市民が墓地近くに集合した。
アインザッツグルッペ隊長報告などによれば、ユダヤ人たちは列車に乗せられて強制移住
させられるものと考えていたようである。
目撃者の証言によれば、ユダヤ人たちは服を脱ぐように指示され、ウクライナ警察の誘導
に従って、順番に手荷物、貴重品、コート、靴、上着、下着などをそれぞれ指定の場所に
置かされた。抵抗すれば殴られ、最終的に10人ずつの集団でバビ・ヤール峡谷のへりに
立たされ、銃殺された。
人数が多く、またアインザッツグルッペの組織力のために、人々が事態に気付いた
時には既に遅かったという。
兵士たちは夕方には峡谷の壁を切り崩して死体を埋めた。
著名なホロコースト証言者エリー・ヴィーゼルによる証言
“殺戮が終わってから数ヶ月間、血の間欠泉が大地から噴き上げ続けたという”
アインザッツグルッペの報告書によれば、9月29日と30日の2日間にバビ・ヤールにて
3万3771人が機関銃の射撃によって組織的に銃殺された
1943年
ゾルゲ事件。東京地裁がリヒャルト・ゾルゲや尾崎秀実らに死刑判決。
1954年
欧州原子核研究機構(CERN)が発足。
MLBワールドシリーズ第一戦8回表の守備で、ウィリー・メイズが『ザ・キャッチ』の好捕。
1957年
ソ連チェリャビンスク州の放射性廃棄物タンクで爆発事故がおこったが、1989年まで事実は
ふせられた。(ウラル核惨事)
1971年
第二水俣病訴訟で新潟地裁は昭和電工に賠償金の支払いを命じる判決を出す。
1972年
日中共同声明に調印。
日本と中華人民共和国の国交が成立(日中国交正常化)。
大平正芳外相が、日本と中華民国(台湾)との間の条約は失効と表明。
1979年
フランシスコ・マシアス・ンゲマが甥のテオドロ・オビアン・ンゲマ率いる
クーデターで処刑される。
1984年
韓国の豪雨被害に北朝鮮が援助物資を贈り、受け渡しが板門店で行なわれる。
( -10月4日)
1988年
1986年のチャレンジャー号爆発事故以来凍結されていたスペースシャトル計画が、
STS-26の「ディスカバリー」の打ち上げで再開される。
1989年
横綱千代の富士が国民栄誉賞を授与される。
1991年
1991年ハイチクーデターが発生。
1999年
下関通り魔殺人事件。
2007年
セラフィールドにあるコールダ―ホール原子力発電所の4つの冷却塔が
爆破解体される。
→セラフィールド
英国の原子力発電施設で現在稼動停止中。
※コールダ―ホール原子力発電所※
英国北西部カンブリア州にあった原子力発電所で、現在廃炉が進められ
ている。1956年10月17日に運転開始した最初期の原子力発電所で、
1981年セラフィールドに改名された後、2003年3月31日に原子炉の
運転を終了した。
2008年
サブプライムローン問題。
米下院で緊急経済安定化法が否決。
ダウ平均株価が史上最大の下落幅となる777.68ドル安を記録。
2023年、今日。
やはり飯は、納豆に卵、縮緬雑魚、大葉、梅しそ、黒ゴマ、パセリ、とろろ、黒酢、
焼きのりで食うのが一番うまい。
梅しそではなくキムチでいただく事もあるが、これもうまいのだが味が全部キムチに
持っていかれるので、単調になりがちである。
でも明日は、キムチでいただこうと思う。