今日9月27日は、年始から270日目、年末まであと95日。
画像は1945年、 ダグラス・マッカーサー元帥と昭和天皇。
1275年
元寇(建治元年9月7日)。
元使の杜世忠ら5名が竜口で斬首される。
元寇の直接の開戦事由。
1529年
オスマン帝国軍による第一次ウィーン包囲がはじまる。
スレイマン1世率いるオスマン帝国軍が、2ヶ月近くにわたって神聖ローマ帝国
の皇帝にしてハプスブルグ家の当主、オーストリア太公であるカール5世の
本拠地ウィーンを取り囲んだ包囲戦。
オーストリア軍の頑強な抵抗によりウィーンの陥落だけは免れた。
ここに至るまでの当時の国際関係は非常に複雑であり、この戦い自体は1494年
から続けられていたイタリア戦争の一環として、そのハイライトとして行われた戦い
である。また、ドイツ国内での宗教改革も複雑に絡んでいた。
歴史的に見れば、この包囲戦の結果、オスマン帝国のバルカン半島の領有が
確定し、その支配は17世紀終わりまで続く。
ハンガリー王国はその領土の大部分を削られ、その国土の回復は1699年まで
待たねばならなかった。
またイスラームの脅威を広くヨーロッパ全土に知らしめることにもなった。
ウィーン包囲は失敗に終わったものの、ハンガリー王も兼ねる事になったハプス
ブルク家にとってすぐに反攻しハンガリー領を奪い返すことは出来なかった。
ウィーン包囲から1年後の1530年にイスタンブールにフェルディナントの使節
が来訪、オスマン帝国との交渉は決裂したがすぐに戦端は開かれず、1532年
になって両軍はハンガリー国境で対峙した。
しかし小競り合いに終始した後はスレイマン1世もフェルディナントも妥協を考え
るようになり、1533年に和睦が成立、サポヤイのハンガリー王位が認められ
ハンガリーは分割された。
ハンガリーが元の領土を復活させるのは1683年の第二次ウィーン包囲に失敗
した後、オーストリア軍、ハンガリー軍、ポーランド軍などが反攻し(大トルコ戦争)、
オスマン軍を打ち破った後の1699年カルロヴィッツ条約の成立を待たなければ
ならなかった。
オスマン帝国はその後も攻勢を続け、カール5世は1538年のプレヴェザの海戦
でオスマン帝国海軍に敗退し、ヨーロッパ世界は地中海の制海権を失ってしまう。
何よりも、オスマンの脅威をヨーロッパ全土に対して広く植え付けた事は大きい。
実際に、ヨーロッパのうちバルカン諸国では、オスマン帝国による支配が19世紀
まで続くことになる。
また、2度にわたるウィーン包囲は、国力・政治力の差が結果の違いに表れた。
第一次包囲戦ではハプスブルク家の抵抗により長引いた包囲戦に加え、冬将軍
が到来していたためスレイマン1世は撤退を厳命し、粛々と去っていった。
しかし第二次包囲戦では大宰相の勇み足と無謀さが災いし、ヨーロッパ諸国の
参戦を招き、帝国の衰退をもたらした。
第一次包囲戦は、戦略的にオスマン帝国の勝利をもたらし、スレイマン1世に
よるオスマンの世紀を紡ぎ出したのである。
1540年
イエズス会がローマ教皇パウルス3世から修道会として正式に認可をうける。
カトリック教会の男子修道会。
1534年にイグナティウス・デ・ロヨラを中心として、フランシスコ・ザビ
エル、ピエール・ファーブルら7人によって創設され、1540年にローマ
教皇パウルス3世により承認された。
草創期から世界各地への宣教に積極的に取り組み、日本に初めてカトリック
をもたらした。
なおイエズスは、中世ラテン語による Iesus(イエス・キリスト)の古くから
のカトリックの日本語表記である。
会の略称はS.J.であり、中国や古くの日本では「イエス」の漢訳が耶穌であること
から耶穌会(やそかい)やジェズイット (Jesuit) 教団とも呼ばれた。
16世紀の宗教改革の時代に、フランス・モンマルトルの礼拝堂で、イグナティウ
ス・デ・ロヨラとその学友によって「エルサレムへの巡礼」や「清貧と貞節」等の
誓いが立てられたのが、その始まりである。
イエズス会は「神の軍隊」、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれ、軍隊
的な規律で知られる。
このような軍隊的な会風は、創立者の1人で・初代総長のイグナティウス・デ・
ロヨラが、修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊で過ごしたことと深い
関係がある。
現代では六大陸の112か国で活動する2万人の会員がいる。
これはカトリック教会の男子修道会としては最大規模のものである。
イエズス会の主な活動は高等教育と研究活動といった教育活動であり、宣教事業
や社会正義事業と並んで活動の三本柱となっている。
1590年
ローマ教皇ウルバヌス7世が即位からわずか13日で死去。
史上最短の在位期間。
1777年
アメリカ独立戦争。
前日に首都フィラデルフィアが英軍のウィリアム・ハウに占領されたため、
首都をランカスターに移動。翌日、ヨークに再移動。
1791年
アドリアン・デュポールの提案により国民議会がユダヤ人の解放を採択。
1821年
スペインがメキシコの独立を承認。
1854年
アメリカ船籍の蒸気船アークティックが大西洋上で沈没、321人が死亡。
1884年
ハンガリー国立歌劇場が一般公開される。
ハンガリーの首都ブダペストにあるネオルネッサンス建築の歌劇場。
1858年創設。工事の後1884年の今日、一般公開された。
グスタフ・マーラーが音楽監督を務め、黄金時代を築いた。
以後、エルネー・ドホナーニやフェレンツ・フリッチャイ、オットー・クレンペラー、
ヤーノシュ・フェレンチクらが歴代音楽監督として名を連ね、リヒャルト・シュトラウス、
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ヘルベルト・フォン・カラヤンなどの巨匠達も
客演指揮を行っている。
初演された主な作品に、バルトークのバレエ「かかし王子」(1917年)、歌劇
「青ひげ公の城」(1918年)や、コダーイの歌劇「ハーリ・ヤーノシュ」(1926年)
がある。
歌劇場の専属オーケストラはブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団の名称で
知られている。なお、同じくフリッチャイやフェレンチクが音楽監督であった
ハンガリー国立交響楽団(現ハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団)は、
この歌劇場のオーケストラとは別団体である。
1903年
Old97の事故が発生する。
かつて運行していたサザン鉄道の列車Old 97による鉄道事故である。
Old 97の公式な呼称はファスト・メールであり、郵便車でもあった。
同列車は1902年12月(ケーシー・ジョーンズの死から2年後)に運行
を始めた。
※ケーシー・ジョーンズ※
1863年3月14日‐1900年4月30日。
アメリカ合衆国・テネシー州ジャクソン出身で、イリノイ・セントラル鉄道 (IC) に
所属した蒸気機関車の機関士。
幼少時代にケンタッキー州の町ケイス (Cayce) 近くに住んでいたことがあり、
このときに "Cayce" というニックネームを貰ったが、本人がこれを "Casey"
(ケイシー)と綴るようになった。
1900年4月30日、霧と雨の降るミシシッピー州ボーンで、立ち往生していた貨物列車に
彼の運転する旅客列車「キャノンボール・エクスプレス号」が衝突し、彼一人だけが
命を落とした。
大勢の命を救うために列車を止めようとした劇的な死は、友人でもあった ICの黒人掃除
夫であるウォーレス・サンダースが歌ったバラードによって、現代でも人々の心に
ヒーローとして息づいている。
※※
列車はワシントンD.C.発ジョージア州アトランタ行きであった。
1903年9月27日、バージニア州モンローからノースカロライナ州スペンサーへ向かう途中
にバージニア州ダンビル付近のスティルハウス・トレッスル橋で脱線事故を起こした。
1905年
アルベルト・アインシュタインによる、E=mc2の式が記載された特殊相対性理論の
第2論文『物体の慣性はその物体のエネルギーに依存するか?』が科学雑誌
『Annalen der Physik』に掲載される。
1908年
フォード・モーターのピケット工場でT型フォードの第1号車が製造される。
1916年
エチオピア皇帝イヤス5世が、その政策を問題視した首都の正教会の
大主教の発議により、エチオピア正教会からの破門と共に戴冠式を
行わないまま退位させられ幽閉される。
帝位はザウディトゥへ継承されることに。
1917年
日本女性で初めて自動車免許を栃木県の女性が取得。
1922年
1920年に復位したギリシャ王コンスタンティノス1世が軍隊のクーデターにより
王位を追われる。
1930年
ボビー・ジョーンズが史上初めてゴルフのグランド・スラムを達成。
1937年
バリトラの最後の1頭が射殺され、絶滅。
1938年
クルーズ客船「クィーン・エリザベス号」がグラスゴーで進水。
1940年
第二次世界大戦:。日独伊三国同盟締結。
1945年
ダグラス・マッカーサー元帥が昭和天皇と会見。
1949年
中華人民共和国の国旗が制定。
1950年
伊東律会見報道事件。
朝日新聞が潜伏中の日本共産党幹部・伊藤律との会見に成功したと報道
するが、後に捏造記事と発覚。
1956年
X-2が13回目の飛行を行い搭乗していたミルバーン・アプトが2,178マイル毎時
(マッハ3.3)を記録する。
しかし帰途に操縦不能となり、機体から脱出カプセルは分離したものの、アプトは
カプセルからの脱出が間に合わずに死亡。
※X-2※
X-29はアメリカ合衆国のグラマン社によって2機が製作された実験用航空機(実験機)
である。X-ブレーンズのひとつ。前進翼をはじめとする多くの新技術を実証した。
※※
1957年
国鉄が小田急3000形電車(SE)を借用して東海道本線で高速度試験を実施し、
145km/hの当時の狭軌g世界記録を達成。
1964年
ウォーレン委員会がケネディ大統領暗殺事件の報告書を公表。
1971年
昭和天皇・皇后がヨーロッパ7か国訪問に出発。天皇の外国訪問は史上初。
1977年
横浜市の住宅地にアメリカ海兵隊の戦術偵察機RF-4Bが墜落、9人死傷。
(横浜米軍機墜落事件)
日本航空クアラルンプール墜落事故。
1983年
リチャード・ストールマンがGNUプロジェクトの創設を発表。
フリーソフトウェアマス・コラボレーションプロジェクトという事。
プロジェクトは1983年の今日にMITのリチャード・ストールマンにより発表。
このプロジェクトの狙いは、ユーザーが自由にソフトウェアを実行し、(コピーや
配布により)共有し、研究し、そして修正するための権利に基づいたソフトウェア
を開発し提供することにより、ユーザーにそのような自由な権利を与えた上でコン
ピュータやコンピューティングデバイスの制御をユーザーに与えることにある。
GNUのソフトウェアはこれらの自由な権利を(そのライセンスによって)法的に保障
しているため、フリーソフトウェアである。
なおフリーソフトウェアの「フリー」という言葉は常に自由な権利を指し示すために
必要なため使われている。
コンピュータの全てのソフトウェアが、(使用、共有、研究、修正を行うための)自由
な権利を全てユーザーに付与することを確保するためには、ソフトウェアの中で最も
基本的かつ重要な部分である(ユーティリティプログラムを数多く含む)オペレーティ
ングシステムをフリーソフトウェアとすることが必要となった。
GNU宣言によると、GNUプロジェクトの創立目標はフリーオペレーティングシステムを
設立し、さらに可能であれば、「フリーでないソフトウェアを全く使わないでも済むよ
うUNIXシステムに通常付属する有益なもの全て」も構築することであった。
ストールマンはこのオペレーティングシステムをGNU("GNU's not Unix"を意味する再帰
的頭字語)と呼ぶことに決め、その設計をプロプライエタリオペレーティングシステムで
あるUNIXの設計に基づくようにした。
GNUの開発は1984年1月に開始された。
1991年、リーナス・トーバルズによりGNUプロジェクトとは関係のないプロジェクトで
開発されたLinuxカーネルが発表され、1992年12月にGNU General Public Licenseの
バージョン2に基づき利用できるようにした。
LinuxカーネルはGNUプロジェクトによって既に開発されていた、オペレーティングシス
テムのユーティリティと組み合わされ最初のフリーソフトウェアオペレーティングシス
テムとして認められた。
このフリーソフトウェアオペレーティングシステムはLinuxやGNU/Linuxとして
知られている。
GNUプロジェクトは現在、ソフトウェア開発、意識改革、政治的キャンペーンや、新しい
題材の共有などを行っている。
1989年
横浜ベイブリッジ開通。
ソニーがアメリカのコロンビア・ピクチャーズを買収。
1993年
スフミ虐殺がアブハジアで行われる。
スフミ虐殺は、1993年の今日、アブハジア戦争の過程でスフミが分離主義者
の手に落ちた最中とその後に発生した。この事件は、主にアブハズ分離主義者
と北コーカサス同盟者の民兵部隊によって、スフミでグルジア民間人に対して
実行された。それは分離主義者によって実行された暴力的な民族浄化キャンペ
ーンの一環となった。
1996年
アフガニスタン紛争。
ターリバーンがアフガニスタンの首都カーブルを占領。
2004年
大阪近鉄バファローズがこの日のオリックス・ブルーウェーブ戦を持って
一軍の公式戦全日程を終了。
事実上、この試合を最後に55年間の歴史に幕を閉じる。
2007年
ミャンマーのヤンゴンで、抗議デモの鎮圧を撮影中の日本人カメラマン長井
健司がミャンマー軍兵士に至近距離から銃撃され死亡。
2014年
長野県と岐阜県の県境に位置する御嶽山が噴火。(2014年の御嶽山噴火)
2017年
LIGOとVirgoの共同チームが重力波GW170814のシグナルの検出を発表。
GW170814は、2017年8月14日にLIGOとVirgo干渉計が検出した2つのブラック
ホールの融合に由来する重力波である
2020年
2020年ナゴルノ・カラバフ紛争が開始。
または第2次ナゴルノ・カラバフ戦争(紛争)は、コーカサス地方のアゼルバイ
ジャンとアルメニアの係争地となっているアルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ
共和国)を巡り、2020年に起きた軍事衝突である。
1カ月半の戦闘行為と数回にわたる停戦合意を経て、アゼルバイジャンが事実
上勝利した。
アルツァフ共和国は領土の大部分をアゼルバイジャンに返還し、実効支配
地域は旧ナゴルノ・カラバフ自治州の領域のみとなったが、帰属の決定に
ついては将来に棚上げされた。
停戦合意とそれを遵守させるためのロシア連邦軍監視部隊の駐留後も、
断続的な武力衝突や、アルメニア本土とアルツァフ共和国を結ぶラチン回廊
の封鎖が起きている。
2022年
故安倍晋三国葬儀が執り行われる。
2023年、今日。
温泉より帰還。豆腐にまではなっていないが、深い疲労感の中にいる。
疲労は深いが、不快ではない。
食い過ぎた。
土瓶蒸しは、禁断の果実である。
あれをいただいてしまったら、人生の全てはどうでもよくなる。