白い家のある風景

モダニズム・アールデコ 趣味の(仕事の)建築デザイン周辺を逍遥します

秘境へのあこがれ1

2010-11-03 | 旅行
 
暗い杉林の中を細い道が続いている。急な斜面を横切り、道は等高線に沿って何度もカーブを曲がる。木立の切れ間から時折谷間が覗けるが、谷が深すぎて谷底に流れているはずの川は見えない。ただ対岸の同じような杉林が見えるだけである。この先に本当に人が住んでいるのだろうか。聞こえるのは野鳥の声ばかりである。
 と、突然前方の視界が開け、急峻な斜面にへばりつくような段々畑と屋根に石を並べた背の低い民家が現れた。その向こうにはアルプスの峰々が雪を戴き連なる。暗い林から、いきなり明るい集落風景が展開し、桃源郷に来たような感動が湧き上がる。斜面の下の谷底ははるか下でまったく見えない。

 子供の頃読んだ本には、しばしば桃源郷のような美しい架空の村が描かれていたものだ。そのせいかシャングリ・ラのような隠れ里に対する憧れを持つようになり、私の場合そこから登山への興味が生まれたともいえる。子供の本といえば「秘密の花園」という小説は、タイトルからして魅力的で、小説の出だし部分もミステリアスですばらしいのだけど、だんだんNHKの朝のテレビ小説的展開になってゆくのでがっかりしたことがある。
 でも「秘密の花園」に行きたくて、テントを背負って日本アルプスや奥秩父などの奥へ出掛けたものだ。
 期待はずれの「隠れ里」はいくつもあって、まあそれは勝手に期待する方の責任だし、そもそも秘境を売りにした観光地など自家撞着というべきもので最初から期待しても無駄なわけだ。先に書いた赤沢集落の場合は「秘境」などと自称もしてないのだから、期待はずれでもしようがない。

 ところが、日本列島でも期待以上の秘境というも存在する。いやしていた、と過去形で書くべきなのだけど、冒頭で書いた光景は実際に、南信州遠山郷下栗というところで経験したことだ。といっても、それは15年ほど前のこと。今はすっかり人口に膾炙してしまって、秘境度は大幅ダウンしている。それでも、日本離れしたダイナミックな風景は特筆ものだが。

 下栗を最初に知ったのは、30年以上前のこと。高校の図書館に「天竜川」というタイトルの信濃毎日新聞社発行の写真集があり、何気なくページをめくっていたら、雲海の上に家並みがあり、その向こうにアルプスが連なっているという、まるで夢のような写真が目に飛び込んできた。
 一体ここはどこだ。日本列島にこんなところがあるのか。あるなら是非行ってみたい。下栗とはどこだ、と持っていた南アルプスのガイドブックを見ると、遠山川沿いの森林軌道をたどる聖岳大沢岳への登山ルートの脇の斜面に下栗、屋敷、小野、大野という四つの集落の名が書かれている。しかし、ここに行くには延々と歩いていくしかないし、登山のついでに寄るには、ちょっと遠回り過ぎる。泊まるところもあるのかどうか。
 そうこうするうちに15年ほどが過ぎてしまった。とある日、オフロードバイク愛好家向けに林道ツーリングについて書かれたガイドブックに、下栗を通る林道について書かれているのを発見。下栗分校の廃校後に村営ロッジが建っているもわかり、にわかに下栗への憧れが再燃した。
 ついに6月のある日、友人を誘って彼のぼろ車にテントなどビバークの支度を積み込み下栗に向かい出発したのだ。
 (つづく)

赤沢集落

2010-10-24 | 建築・住宅
 山梨県にある重要伝統的建造物保存地区の赤沢集落を訪れた。身延山から七面山への尾根道をたどり、途中でで北に下ると赤沢だ。というか、本来の行きかたは野呂川をさかのぼって行くのだが、今回は逆コースをたどった。
 
 赤沢はもともと、身延山、七面山への信仰登山のベースキャンプになる宿場町だったので、今も古い木造の旅館が残っている。しかし今も営業を続けているのは一軒だけだ。
 確かに古い建物は複数残っているが、集落全体の景観としては今ひとつという感じで、ここの限ったことではないが電柱電線などもうるさい。休日だったので観光客も結構多く、想像していたより「秘境」イメージは少なく、やや期待はずれだった。
 もっとも、身延山の尾根道では白装束の団体とすれ違ったりもしたし、杉林を抜け集落を見下ろせるあたりから石畳の道が続いているのを見たときは、いにしえの旅人になったような気分を味わえた。

 私の場合は、古い建物そのものというより、集落全体の景観の美しさや、隠れ里的ミステリアスな場所であることの方が重要なのだが、そういう意味で魅力的な場所は、日本列島では本当に少なくなってしまったらしい。と言っても私の「探検」した範囲などたかが知れているのだけど。

巡礼者たち 





消え行く復興小学校

2010-10-20 | 建築・住宅
 いろいろマスコミでも取り上げられたにもかかわらず、明石小学校の校舎は壊されてしまった。他の先進国ではありえないことだろう。(あ、日本国は先進国ではありませんでした、失礼)
 それにしても古いものや歴史を大事にしないことは驚くばかり。そのくせ伝統だのなんだのと言って自慢する井戸のなかの蛙の王様ぶり。ノーベル賞を日本人が受賞したとか言って喜んでいるらしいが、自分がやったことでもないし親戚でもないのに、なにを喜んだり自慢してるのだろう。それより、自分達の町にあるこうした優れた遺産を大切にすることこそ、自分の行為として誇れることなのに。
 まあそういう古いものを大切にしない、歴史を教えないという教育を学校や家庭でしているからだろう。それで得をする人がいるからだろう。
 写真の常盤小学校は幸い保存される方向らしいが、この先どうなるか分かったものではない。

常盤小学校2

幼稚園の設計

2010-09-15 | 建築・住宅

 私は幼稚園の設計というのは2回ほど経験したが、なかなか楽しい仕事だった。いろいろ制約はあるのだけれど、やはり子供が使う施設なだけに、なんとなく夢がある。
 最初に設計した幼稚園は、かなりシックな「おとな」のデザインにしたので、先生達から「もっと可愛く」と要望されてしまった。写真のように床に人工芝のうようなカーペットを敷かれてしまったのだけど、もとはもっと落ち着いたモノトーンの床だった。
 こども自身より、先生達がとても子供っぽい感性をしてるのが意外だったのだが、考えてみれば子供相手に一緒に遊ぶような仕事をしているわけで、子供のような感性とバイタリティが必要なわけだ。
 そういうわけで、ところどころにパステルカラーの色をつけたのだけど、ちょっと嫌だなと思ったのは、写真のように幼稚園用の既製の家具が、どぎつい色をしていること。子供は「中間色」は認識しにくいから、とも言われたが、本当だろうか。ロッカーなども建物に合わせて造ればいいのだが、予算というものがありますからね。

 ともかく、また幼稚園を設計する機会があったらいいな、と楽しみにしている。

 

 


復興小学校

2010-08-22 | 建築・住宅

 復興小学校という言葉をご存知だろうか。関東大震災後復興のために建てられた小学校の校舎のことで、ほとんどは戦争を生き延びたが、その後多くは建替えられてしまっている。この写真は、現存する復興小学校のひとつ常盤小学校の入り口だ。 変わった形の窓は、当時ヨーロッパで流行していた「表現派」の影響と言われる。表現派は文字どおり建築家個人の表現性をを重視したので、本来建築家ごとにデザインのスタイルは違うわけで、表現派のスタイルというのも少しおかしい気もするのだが。
 理屈はともかく、この部分を見てもこの建物のデザインに力が入っているのがわかるし、事実すばらしい建物なのだ。先日見学する機会が在り、その魅力を再認識した。

 

 ところが、この常盤小学校に勝るとも劣らない優れたデザインの復興小学校である明石小学校が取り壊しの危機に瀕している。耐震性も全く問題なく、地元住民、PTA、建築史研究者など多くの人が保存を望んでいるのに、中央区は税金を使ってこの世界遺産級の文化財を壊そうとしている。これは犯罪ではないのか。
 関心のある方は是非、保存を望む会のホームページをご覧になっていただきたい。