何千回と前を通っていながら意識してなかったのだが、奥沢駅前の電気店をよく見るとラウンドコーナー・アールデコと呼ばれるスタイルの看板建築だった。割と最近きれいに塗装されたようだが、マンション建設の知らせが貼ってあった。また古い時代の名残が街角から消えていく。
何千回と前を通っていながら意識してなかったのだが、奥沢駅前の電気店をよく見るとラウンドコーナー・アールデコと呼ばれるスタイルの看板建築だった。割と最近きれいに塗装されたようだが、マンション建設の知らせが貼ってあった。また古い時代の名残が街角から消えていく。
90戸が入る20階建ての大型マンションで、ひとつの住戸のインテリアをデザインする機会があった。リフォームならともかく、新築中に特定の住戸だけ仕様を変えるというのは普通ないことだけど、特別な事情があって実現できた。
オーナーの要望は、趣味的な用途に使う古民家のような落ち着いた空間をデザインして欲しいということだった。本来は標準化された規格品を組み立てるだけのような大型マンションで、施工会社にいろいろ無理を言って(と言っても普通の建築では当たり前の設計をしただけだが)、まあオーナーにも満足してもらえる程度のインテリアが仕上がった。
こういう場合、「民芸調」みたいになってしまうのだけど、それはなるべく避けて、和風とか民家風ということにこだわらずに、日本列島本土の古民家にあるような要素を少し使って、あっさりアレンジする程度にしてみた。
和風といえば、最近マスコミというか、特に国営放送局あたりが和風とか日本文化みたいなことを盛んに強調して言うのが不快なのなのだが、日本独自の文化なんてものは本当は存在しないはず。ピート=シーガーというおじいさんが「すべてはMIXしてる」という歌を歌っていたっけ。デザインも文化も国境はなくて、あるのは地域性だけ、それもすべてグラデーションでつながってる。それさえも拡大してみればいろいろな色が混ざってるんだ。大体日本って言うが、地域によって驚くほど違う。いろいろな地方に暮らしてみるとそれは判る。
建築家も老化して創造力がなくなってくると、伝統文化みたいなことを言い出すらしい。伝統という言葉のよくないことは、「権威」を持つこと。「伝承」という言葉なら害はあまりないのでは。「伝承文化」は先人の知恵だしね。これは友人の自称民俗派右翼(「民族」でないところがミソ)が言っていたことでもある。
まあ話は逸れたけど、いまの建築がいかに工業製品の組合せだけで造られているか、ということと、高級そうなマンションでもいかに徹底してコストダウンしているのか、を実感したお仕事でした。
今、上野でふたつのデューラーに関する展覧会が開かれている。国立西洋美術館での「アドルフ・デューラー-版画・素描展」と芸大美術館の「黙示録-デューラー/ルドン」展で、私は日曜日に双方を鑑賞してきた。
前日にテレビでも紹介されたので、さぞ混雑しているだろうと覚悟して行ったのだが、意外にも来場者は少なめで、比較的ゆっくり鑑賞できた。
私がデューラーを知ったのは高校生のころで、(中学校の教科書などに出ていたかもしれないが意識してなかった)それは英国のPENTANGLEというバンドのCRUEL SISTERという レコードアルバムを買ったからだ。このジャケットにデューラーの「男風呂」と「海の怪物」が使われていた。
PENTANGLEのレコードはその時初めて購入したのだけど、そのきっかけは、当時ある本で松山猛氏が「加藤和彦がPENTANGLE のBERT JANSCHはいいと言っていた」と書いていたから。加藤和彦氏の好む音楽とはどんなものかと思ったのだ。
レコード店でジャケットを見て、まず魅せられた。当時はアナログ版だからジャケットの印象は今以上に強く、盤に針を落としてみると、ジャケットにふさわしい静謐で精緻な音楽が流れて来て、すっかりPENTANGLEにはまってしまった。
音楽自体もすばらしかったが、このデューラーの版画がアルバムのトータルなイメージを強く印象付けており、デューラーに対してもまた興味を持つようなった。
今回の展覧会には、この2点の版画も出展されており、もちろん代表作といわれる、メランコリアなどの作品も見ることが出来、精緻なデッサン力や500年前とは思えない版画の技術の素晴らしさを感じることが出来た。また背景に描かれている当時の建築や風俗が興味深かった。
ふたつの展覧会ともに、リーズナブル?な価格の図録も販売されていたが、それ以外に絵葉書などは販売されておらず、ちょっと残念な気がした。意外な来場者の少なさといい、デューラーは東京(日本?)ではそれほど人気がないらしい。ちょっと硬すぎるということなのだろうか。白樺派が好んだというフォーゲラーなど世紀末の版画のような、ロマンチックなものならもっと一般に受けるのかもしれない。まあ、私はどちらも好きですけど。
大野は道の果てにあった。石置き屋根の平屋が6,7戸斜面のひな壇にへばりついている。実際に住んでいるのは当時4軒だけだと聞いた 人の気配もなく、ただ鳥の声だけが静けさを強調していた。ここは車が通れる道路が出来たのはわずか数年前とのことで、確かにガードレールも真新しい。道が出来たら人がいなくなったのだ。振り返えると、遠山川の深いV字峡が続き、その谷へなだれ落ちる急な斜面に小野、屋敷、下栗の集落の家々が見える。日本列島でも、ここよりも到達しにくいと言う意味では「秘境度」の高い土地はまだまだあるだろうが、これほど雄大な風景を持つところはほとんどないだろう。
それから遠山川、天竜川に沿った遠山郷から浜松への旅は、川を道連れに延々と続く山道を行く2日間のドライブとなった。大野、下栗に劣らない「秘境」風景が続いた。車での旅にもかかわらず、江戸時代の旅人になったような気分の2日間だった。旅を終えても、日本列島の本州でありながら、外国に行ったよう不思議な感覚が残った。
その後、幾度となく遠山、下栗を訪れた。民俗学を研究している地元の人とも知り合いになり、遠山の各集落で12月におこなわれている霜月祭りも見に行った。夜通し湯釜の周りで面をつけて舞われる「湯たて神楽」は、まさに異次元の空間をつくりだしていた。しかし、その遠山も例のトンネルが出来てから大きく変貌した。下栗も観光パンフレットに載り、観光施設まで出来た。霜月祭りも観光ツアーで観光客が見に来るようになった。秘境遠山郷は消滅した。私の桃源郷は永遠に失われた。
飯田市で国道からわかれ上村方面に向かうと、道は天竜川を渡り、喬木村の河岸段丘を登り、さらに伊那山脈へと分け入ってゆく。のどかな農村風景がひろがる丘陵地帯を過ぎると、やがて両側のがけが迫った谷筋の道になる。人家もなくなり道は細まり、この先に本当に人が住んでいるのかと心細くなった。
それでも深くなる谷あいの道を進んでいくと、突然半ば土砂に埋もれたダム湖が現れ、さらに行くと、トンネルの掘削工事現場が見えてきた。造りかけのループ橋が錆色の橋げたを醜くさらしている。どうやら三遠南信道なる自動車道を建設していて、それがこの山奥を通るらしい。そこを過ぎると道は本当につづら折れの山道となり、どんどん高度かせぐ。片側は崖で大きな石がいくつも道端に落ちている。落石注意の標識があるが、注意しろといわれてもどうしようもない。
いささか山道にうんざりし掛けたとき、道は峠の直下にたどり着き、狭いトンネルが現れた。ここまで対向車には一台も出会っていない。トンネルを抜けると、急に視界が開け峠の向こう側が見えた。この下が遠山郷だ。急峻な斜面の上に人家が見える。これだけでもかなりの「秘境度」だ。ここでもう来てよかったという感動が押し寄せてきた。
またつづら折れの道を延々下ってゆくと、遠山郷上村の中心地上町(かみまち)に出る。遠山谷は今でこそ秘境の名にふさわしい場所だが、鉄道が発達する以前は、諏訪から浜松まで中央構造線の谷を行く幹線道路「秋葉街道」が通り、上町はその宿場町だったのだ。しかし、今は古びた洋品屋、食料品屋などの商店が数件と、まだ営業しているのかわからない宿屋が数件といった寂しい100mあまりの通りが在るだけの町だ。つげ義春のイラストのまま「四つ目屋」という旅館があるのを発見したが、感慨にふける間もなく車は「町」を通りを抜け、下栗に向かう。
ここからまた杉林の中の暗い山道を登ってゆくのだが、道を間違えたかと不安になってきた頃、前回書いたように突然視界が開け、あの桃源郷が現れたのだ。
こうしてかつて図書館書架の間で垣間見て、密かにあこがれ続けていた下栗は、その期待を裏切らず、すばらしい景観で我々を迎えてくれたのだ。うっかりすると転がり落ちそうな急斜面の耕作地の間をどんどん登っていくと、道はかつての分校の跡で終わっていた。そこには村営の「下栗ロッジ」があり、そこから見下ろす下栗集落はまさに斜面にへばりついて広がっている。谷底の遠山川ははるか下で、なぜか対岸の同じような標高のところにぽつんと一軒家が見える。谷の上流は上河内岳、聖岳、兎岳といった3000mの嶺が連なっている。 こんなところが日本列島にあったのか。いや本当にあったのだ。
しかしこの下栗の更に奥にも、屋敷、小野、大野という集落があるはずだ。下栗ロッジの管理人氏に大野の様子を聞くが何もないですよ、というだけ。しかしともかく最奥の集落大野を訪れるべく、我々は細い崖沿いの道に車を進めた。