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The 理科ロマンスカー

人生を振り返りつつ見過ごしては禍根を残すであろう事柄に着目。
日本の正義・倫理・規範・疑惑等々婉曲的に発信。

授業づくり教科書・・・教職49年間の戯言

2020-11-22 08:59:31 | 日記
その4。学習指導要領との付き合い方は。

学習指導要領は教育基本法の教育の目的や目標達成のため、学校教育法に基づき国が定める教育課程の基準であるので、それらを踏まえて作成されていて、よって法的な拘束力を持っているといえる。

加えて、学習指導要領は時代の要請を受けて10年に一度内容改訂されるが、教育の基本はいつの時代も「知・徳・体の涵養」であり、表現はその時代を反映していても、それは不易であり変わらないと捉えたい。(出口治明立命館アジア太平洋大学学長によると「およそ1万2千年間人間の脳の進化はない」(哲学と宗教全史より)

「流行」の部分である変更点は、児童生徒が活躍する将来の社会を見据えての育成すべき人間像についての力点や重点、並びに指導内容面での加除や学年移動などであるが、骨格の基礎基本は「何が起きても自分の頭で物事を根底から考え、自分の言葉で意見を言える能力を育てる」(究極方向目標)ことには変わりない。

であるので、「流行」の部分を理解して教育に当たりたい。流行の部分を捉えるために文科省発行の「解説〇〇編」を熟読したいが、わかり易く親切な表現とは決して言えない。具体場面を描いて記述されているか、或いは数多くの指導のフィルターを通されているか、はなはだ疑問を抱くところに出合うこともある。記述内容のボリュームも立派になった。

腑に落ちないところは、教科書(資料性が一段と高まっている)から変更の精神や理念を読み取るか、わかり易く解説してある書籍を探し納得するか、研修会を利用するか、日々の指導で試行実践を重ねて掴むか、いろいろと挑戦したい。いずれにしても、自分なりに理解し、納得して指導に当たることである。

授業改善の重点は3つである。下図を参照されたい。
⑴ 資質・能力の3つの柱
⑵ 学び方の3つの柱
⑶ 教科固有の見方考え方の柱


小学校教育でもオンライン授業をなじませたい。発達段階を考慮し4年生以下では可能な範囲で実施。

2020-11-21 08:44:44 | 日記
教育の基本は対面による授業。

孫(小学3年)の放課後の過ごし方はクラスの友達や同級生たちと近くの公園や広場で、サッカーやドッジボールや鬼ごっこや基地遊びなどを汗だくになっての毎日。ある時は公園にある池でザリガニ釣りをするという具合。雨天や遊びの頭数が揃わない日は友達とリモートでゲームをする。身体を動かす遊びの種類は変わっても、古今東西身体を動かす遊びは子どもの心身の成長には欠かせない。ゲーム遊びは数年前の子どもは家か公園などで群がって楽しんでいたが、今はそれぞれの家でマイクロホン付きヘッドホーンを頭からかぶりリモートでゲーム機と向かい合う。
 
このことは電子機器を使うほんの一例であるが、コロナ禍で小学校でも設備と端末機が整っている学校はリモートでオンライン授業を実施し、次善の策で学力確保を乗り切っていた。設備が未設置の学校は、紙ベースによる課題を与える形をとっていたところが多い。コロナ禍で一躍オンライン授業が小学校から大学まで脚光を集めるのに至ったのはご存じの通り。

ところで、小学校教育は発達段階から見て全身で学ぶ教育が最適である。全身を学ぶセンサーとして身体を使って心身を成長させる。すなわち、読んだり、書いたり、見たり、聞いたり、話したり、したり(調べる、飼育栽培する、実験する、技をまねる、身体を動かす、歌う、演奏する、描く、作る等々)、そして考え・工夫し、友達と交流を繰り返しながら学びを広め深めて、その過程で先生の適切な指導・助言・指示を受けながら成長・発達・上達していく。その際、言語の書き順や計算の仕方、器具・道具などの扱い方などの基本は確実に指導し理解させることと、それらを日常的に使う場を設け、繰り返し練習させて定着を図り身に付けていくことが重要になる。

コロナ禍におけるオンライン授業の試行が、文科省が唱えるギガスクール構想とリンクする形で各校に受け入れられることが期待できる。これらの導入によって、ブラック学校と揶揄され、トイレに行く暇さえ取れないほど多忙極める日常の先生方に若干のゆとりが生まれることは、子どもたちにとっても大変有難いことになる。

その先生方の若干のゆとりの内容として、ソフトの出来栄えの影響が大であるが、漢字の書き順や計算練習の場、器具・道具の操作や調べ学習などの場に先生の代替えとして活用できる。さらに試行や研究を重ね活用範囲が広まり、子ども個々の資質や能力の特性の把握とともに、個別最適化された指導法にも寄与できることを確信する。

ここで忘れてはいけないことであるが、プラトンの時代より教えることの基本は対話が重んじられ、「問答」が中心になるということである。時代がわかっても対面授業が基本になることには変わりない。


消費税の値上げの話、噓でしょ?。

2020-09-11 12:36:20 | 日記
「行政改革を徹底した上で消費税の値上げ」を公約したとの報道。「行政改革」のみでは経済が上向きしない。コロナ禍でこれだけ冷え切っている経済をまずは立て直すことが必須。短絡的に消費税増税に頼るのはマクロ経済の知見を全く持ち合わせていないことの証左。あるいは財務省に言われていることを考察、検証せずに思考停止に陥ってオーム返にいっているのか?。
 
 併せてその理由を少子高齢化のせいにするのは、今までどれだけ少子高齢化を是正するための法案を作ったか。施策を実行したか。本気で取り組んでいる姿を国民は確認できない。要するに無策で営々と過ごし、この世におよんで少子高齢化のせいにして消費税値上げは、あまりにも短絡的で経済音痴を晒しているようにもの。
 
 消費増税に頼らない幾つかを上げる。今必要な施策は、もちろんコロナ防御が優先であるが、経済を好転させるためには国民一人一人の可処分所得を上げる方策である。そのためには、国内で完結できる(開発、部品、製造、販路)産業を国が主導して取りまとめ、いくつかの産業は国内で完結できるようにすること。5G分野やコンピュータ関係、バイオ再生・治療医療、知的財産関係等々、2年間で整備することである。工場の跡地にマンションやショッピングセンターが建つことが目立っているが、これらは生産にかかわらない。国内での生産力を増強することが経済好転の起爆剤になる。その間真逆な「消費税減税」は瀕死の経済のつなぎとしての知恵になる。

 今回のコロナ禍で明らかになったことは、七百人もの国会議員がいても、コロナ対応やコロナ防御などの施策や防御アイデアや実務などでかかわっていたのは僅か。人口減に入っているので国会議員、地方議員の6割から7割人員削減法案づくり。かなりの財源が浮くし、効率的になる。一方、行政の効率化は、人間の手足になるAIやIT機器を導入活用して成果は2から3倍になる。



授業づくり教科書その3・・・教職49年間の戯言

2020-08-27 18:10:42 | 日記
その3。「タテ」と「ヨコ」で整理し捉える。構造化のすすめ。
 個々の考えや知識、事実を整理すると全体像を掴め理解を深めることができる。その際の物差として「タテとヨコ」を置きたい。「タテ」は時間軸、「ヨコ」は空間軸。なぜ「タテとヨコ」で捉えるかというと、宇宙の構造が時間と空間とで一体となっているからである。

 いま世界的に蔓延している新型コロナウイルスの解明やその対処についても「時間軸と空間(世界)軸」で事実を集約し共通項を見出して全体像を捉え、治療を見出す過程にある。

 授業をこれに当てはめてみると、「タテの時間軸」は45分間とか50分間の単位時間で、方向として目的や目標があり、「ヨコの空間軸」は学ぶ内容と学習者の思考や活動の広がりや深まりが想定される。

 授業構想や指導案作成時で「タテとヨコ」で整理するとカオスから脱却でき単純明快になる。「タテ」は目的や目標達成に応じた分割した時間での学習者に対応した妥当な指導過程等。「ヨコ」は学習者の発達段階に応じた指導内容の分析と予想される思考や活動の具体的な中身や姿・態度等である。

 「タテとヨコ」軸で作られた案で実践のフィルターを通すことによって、よかったところや具合の悪いところ、修正や改善、見直しが必要なところに気づき、「タテとヨコ」が実際にあったものに再編成できる。ここで「タテとヨコ」に「事実」が加わり、より確かになる。この繰り返しで学習者に沿ったより精緻な指導が行われる事になる。このことは教職にはある一定期間の臨床キャリアが必要であるといわれる所以である。

 ちなみに「タテ」に該当する観点には、目的・目標の分析、問題解決の過程、内容を捉える過程、指導言の内容等。
「ヨコ」は内容の分析、教科書・教材・教具の最適化、場の構成、学習者の思考・活動の予測、情報機器のあり方等々。


授業づくり教科書その2・・・教職49年間の戯言

2020-08-25 10:03:05 | 日記
その2。人間はみな違う。もちろん子どももそう。

 近くに住む孫(4歳と1歳の男児)が頻繁に我が家に顔を出す。上の子は味覚が敏感のようで好き嫌いが目立ち食も細い。食事時は母親が追いかけて食べ物を口に運ぶときもあるが、欲しないものは少し含んでそのまま吐き出す。下の子は与えるものは何でも食べ、食べ物以外も自分で掴んで口に運ぶことがあり、その時は口から吐き出させるのが大変である。腕や足はパンパンで体重は標準。

 言葉は上の子は早くにしゃべりだし、教えた言葉はオーム返しに見事であり、それも口を大きく開けたり横に広げたりして発音する。下の子は今1歳と6カ月。まだ、片言程度である。

 歩き始めまでは、クロール型に腕を動かし見事なハイハイであったのが上の子。下の子は座ったまま腰を前に動かしての前進がしばらく続いた後、片脚付きのハイハイを経て二足歩行に至る。ちなみに長男の孫(男児)はハイハイなしで歩き出した。

 冷蔵庫(旧型)ドアーに磁石を付けたり取ったりすること。電気器具の釦を押したり、リモコンを操作してテレビを付けたり消したりすることは兄弟ともに好んでする。これらの成長の事例(食べ物、言葉、歩行、興味)により個性があることに改めて気づかされる。

 このことを学校の教室に在籍する子どもたちに当てはめてみると、顔が違う、考え方が異なる、能力に幅がある、技能の巧緻性がある、嗜好がある、置かれて状況がある、環境がさまざまである、遊びが違う、得手があるなどなどを認識できる。それぞれに個性がある。輝く宝がある。そのことを念頭においた教育を実践することの必要性を痛感する。