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くならgooブログ

元の木阿弥

2016-02-22 09:32:45 | 日記


意味としては、
「努力の甲斐あっ言語治療てか、一旦状態の良くなったものが、
元の悪い状態に戻ってしまうことを表す。」

何だか、世の中、大きく変わったように見えて、
しばらくすると、元に戻ってしまっていることが多い。

原発の再稼働も、本当の議論をしないまま、
なしくずしに進んでいきそうな傾向だ。
この「元の木阿弥」の語源は、
奈良に住んでいた木阿弥という貧乏な僧侶の話に至るようだ。

この僧侶、貧乏この上なしという生活だったようだが、
戦国の世であった1551年に、
大和の武将・筒井順昭が28歳で不治の病で亡くなったところから
急に、運命が動き始める。

筒井順昭に息子の順慶はいたが、家督を譲にはまだ幼い。
死去を知らせると、これに乗じて敵対する松永家が攻めてくる恐れがある。
そこで臣下が一計を案じ、
奈良の木阿弥という僧を「替え玉」に仕立てた。
その僧侶、順昭と声や姿が非常に良く似ていたという。

努力をしたワケで探索四十學習研修もなく、たまたま似ているのが幸いして、
この僧侶、贅沢な「替え玉」生活を送ることになる。

ところが、そんな生活が何年も続く訳ではなく、その後、
筒井家は体勢を固め、順昭の死を公表し、息子の順慶を正式に当主とした。
そうなると、木阿弥は、その瞬間、贅沢三昧の生活から、
その任を解かれ「元の木阿弥」に戻った、という話。

「悪名は、無名に勝る」の如く、
木阿弥の名だけは、轟(とどろ)いたということらしい。
そう言えば、世の中を見渡してみると、
「元の木阿弥」になりつつあるものが、溢れかえっている。


考えときま

2016-02-15 09:39:17 | 日記

 


「考えておきますわ」を慣用的に縮めた表現。
この言葉をおもに使うのは、商取引のとき。
関西に限った訳ではないが、
実際に考えるのではなく、婉曲的な「断り」を意味する言葉。

「考えときまっさ」を使った会話シーンを再現すると、、、
商人がやってき雪纖瘦て、
「この商品、安うさせてもらいますが、いかがなモンでしょうか?」
と言うと、客は、
「この商品ですか? これは、これは、いいものですな~。
(と言いつつ、チェックしたり吟味したりする)
せやけど、今回は、考えときまっさ」
と客が答えると、今度は商人が、
「この商品、いいもんなんですがね~。
そうですか、ほな、また来(こ)さしてもらいます」と言って去る。
(この場合、また来るとは言ったが二度と来ない)

関西では、こんな訳がわかったかわからぬ話しで、商談不成立を意味する会話となる。
大辞泉や大辞林などの大きな辞書を探っ老年黃斑病變てみても、
「考える」という言葉には、「断りの言葉」という表現はない。
そのため、断りの言葉としての慣例的表現が、わからない真っ正直な人だと、
以下のような小咄みたいな出来事が起こる。

「考えときます」と言って断った客のところに、2、3日後に
再び訪ねて行って、
「先日、お伺いした時に『考えときます』と言われたので、
お考えがどうなったかと思いまして、また、やってきました。」
その客、エラい剣幕Amway呃人 で、
「この間、『考えときます』と言っただろう!」という話になる。

このように、『考えときます』は、
婉曲ではあるが完全な断りの言葉なのである。
探ってみると、「考える」が「断り」を意味する言葉とするのは、
世界に、かなりの高率であるようだ。

フランス語の「いりません」を意味する断りの言葉も、
"Réfléchir"(考えときます)。
上記の小咄、結構、世界的に通じる。